4. 何度も目を拭い、鼻をかみながら、ミロは森の小道を飛ぶように歩いた。先刻の毒液の臭いがあまりにも強烈すぎたせいだろう、頭蓋骨の内側が猛烈に痛む。 ──いったい彼らに何があったのだろう。 ほとんど絶望的な心境で、ミロは虚ろに考えた。というかそもそもアレは、何だったのか。実は俺の知りあいの見目形をした、妖怪か何かだったのではなかろうか。おくるみの中から這い出してきた巨大蟹の映像が、いきなり脳裏にフラッシュバックして、ミロは背筋をぶるりと震わせる。 ──まさかオレはこの先一生、マトモな人間に出会えぬまま終わってしまうのではなかろうか。 不意に脳裏をよぎった考えに、思わず顔面が蒼白になる。決してありえない話では無い。巨大なウサギ耳をアタマにくっつけて、理解不能な言動をする氷河。アルデバランの形状をして口をきき、グレートホーンを撃つケーキ。どう見ても液体しか入っていないはずのガラス瓶の中から、漏れ聞こえてきた一輝の声。 ──いったい次は、何が来るのか。 恐怖心から思わず両眼を閉じた、その瞬間。 どこからか微かな笑い声が聞こえた気がして、ミロは凍りついたように立ち止まった。 息を殺して五感を凝らす。確かにもう一度、笑い声。道の向こう側か──いや、もっと近い。 冷や汗を浮かべながら、ミロは必死に周囲を見まわす。ほんのすぐ近くでもう一度、笑い声──どこか聞き覚えのあるような。 血走った眼を凝らしながら懸命に考えていた、その時。 ──はっ。 ミロは気づいた。気づいてしまった。そして頭上をはたと仰ぎ見た。みごとに育った大枝が、アーチのように小道の上に伸びている──その枝の中ほどに、何かいる。 「ホッ」 明らかに聞き覚えのある、笑い声。そしてその意味を考える間もなく、視界にソレは飛びこんできた。 猫、みたいに身体を丸めて、頭には粗末なスゲ笠をかぶり。長いおヒゲに大きなお目々の、干からびたような小さな老人が、ひとり。 「ホッホッホッ」 老人はひとしきり声を立てて笑った後に、やがて微妙に表情を変えると、彫像と化したミロをゆっくりと見て、今度は声も出さずに静かに笑った。 ──にやにや、と。 バ、バカな……。 ミロは愕然とその場に立ち尽くした。たとえようもない無力感と脱力感が、彼の全身を激しく打った。 にやにや笑いをする老師。 その光景はどう見ても、そうとしか言いようがなかった。 「……こ、これは、どうも、ご無沙汰しております。何か、私に御用でしょうか」 悪夢のような眼前の光景になすすべもなく立ち尽くしたまま、ミロは半ば条件反射的に口を動かした。強大な敵を前に対抗手段が見つからなかったら、何はともあれ、しゃべりまくって時間を稼げ。聖闘士としての豊富な実戦体験から体得したノウハウが、思考停止の肉体をかろうじて動かしている。 ──にやにや。 老師の形状をしたその生き物は、ただ、笑みの形に口を広げた。 ミロは激しい眩暈を覚えた。不本意ながらも相手の姿が老師に見える以上、一応の礼儀は尽くさねばならぬと、どうにかそちらに顔を向けつづけてはいるのだが、これでは到底、長くもつまい。ミロは必死で目の焦点をぼかして虚ろにすることを試みた。しかし見たくないものを意識すればするほど、かえって視界に焼きついてしまうのが人間の悲しさ。ミロはふと、老人の尖った耳が猫のようにピクピクと動いていることに気づいてしまった。 「………ええと、老師、とお呼びするので正解でしょうか」 もはやヤケクソのようなセリフだが、ミロを責めることは誰にもできまい。彼は今、着衣の人面猫としか表現しようのない生物を前に、自我を崩壊させずにいるだけで精一杯なのである。 「ホッ、そんな呼び名ではない。わしの名前は、チェシャ猫じゃ」 「チェシャ猫、ですか……」 老人──いや、今となっては人と呼んでいいのかどうかも激しく微妙だが、とにかく眼前のその生物が前足で顔を洗っているのを視界の隅でうっかり認識してしまいながら、ミロは力なく呟いた。 「そうじゃ」 言って再びにやにやと笑うと、「チェシャ猫」と名乗った老師似の生き物は、真っ黒に潤んだ大きな瞳で、正面からじいっとミロを覗きこんだ。だんだんと頭痛がしてきたミロは、何とか意識をそらそうとして、心の中で必死に叫んだ。 ──なるほど!つまりこれはそういう妖怪なのだな!オレの知っている老師とは正真正銘、別の生命体に違いない!そうだ、そうに決まっている!本人だって違うと言っているんだし! しかし、ミロの頭上でちょこねんと枝に座しているその生き物の、苔むした乾物のごとき外見や、まるで枝と同化しているかのような侘び・寂びの極致ともいえる佇まいからは、紛れもない、五老峰で風雨にさらされ二世紀半を生きてきたあの老人の気配と小宇宙が、ものすごく濃厚に漂ってくるのだった。というか、いくら自分を誤魔化そうとしても無駄である。あんな骨董品のような存在感を醸し出せる生物が、この地上に何人もいるわけがないのだ。そうだ、良く考えてみれば老師の耳はもともと猫みたいに尖っていたし、背筋も丸く、ヒゲだって生やしていたわけで── だめだ。 ミロは思った。無理だ。限界だ。耐えられない。 ちらちらと黄信号のともり始めた視界の隅では、チェシャ老師がじいっとこちらを見つめて、無言のままもう一度、にやにやと笑った。 しっかりするのだオレよ。もはや余計なことは一切考えまい。気を取り直して必要な情報だけを探るのだ。 開き直って己に言い聞かせながら、ミロはどうにか姿勢を正した。そして勇気をふりしぼり、口を開いた。 「ええと、お尋ねしたいことがあるのですが、老──」 しかしそこまで言いかけて、ミロは早くも口をつぐんだ。先刻のアフロディーテの例から考えるに、ここで「老師」と呼ぼうものなら、目の前のチェシャ老師がいたく気分を害するだろうことは明白である。しかし老師の顔と姿と声と気配をしているモノに対して、まがりなりにも「チェチャ猫さん」と呼ぼうだなんて、想像しただけで口が腐って落ちそうだ。というか今すでに視神経が腐って落ちそうだ。 「……貴方にお伺いしたいことがあります」 何とか相手の名前を呼ばずに済むように、ミロは質問文を修正した。 「なんじゃの」 チェシャ老師は黒目がちの大きな瞳で、ひたとミロを見据えた。……はっきり言って、これは、ホラーだ。 口元を引きつらせながらも、ミロは懸命に質問文に集中した。 「ギリシアの聖域にたどり着くにはどの道を行けばよいか、ご存知でしたらぜひとも教えを乞いたいのですが」 「ホッ、ひとつだけ言っておこう。ただまっすぐ、前のみに進むのじゃ」 即答で返ってきた明快な言葉に、ミロの顔はパッと明るくなる。 「な、なんと!まっすぐ前のみに進めばよいのですか!」 「そうじゃ。前のみに進むのじゃ。決して横や後ろに飛んではならん」 つ、ついに……!ミロは感激に打ち震えた。ついに、初めて、オレの疑問に答えてくれる人がいた!さすがは老師!五老峰の生き字引だ! 狂喜乱舞せんばかりのミロの様子に、チェシャ老師はもう一度、にやにやと笑う。だが、ふと何気なく視界に入ってきたそのにやにや笑いは、ミロの心にひとかけらの不安を呼び起こした。何とはなしに、先ほどの答えの後半部分が、いたく切実に気になりはじめる。──横や後ろに飛んではならないって、どういう意味だよ。 考えれば考えるほど、ミロの不安の黒雲は膨れあがっていった。普通は「横道に入ってはいけない」とか「回り道をしてはならない」とか、そういう言い方をするもんではなかろうか。これではまるで──まるでジャミールに行く人間に対して毎回決まって老師がくれる、あのお定まりのアドバイスそのままなのでは……。 ミロはぞっと青ざめる。今のアドバイスは本当に、聖域に行くためのものだったんだよな……? 「あの、横や後ろに飛んではいけないとは、どういう意味ですか……?」 「ホッホッホッ」 「あの──」 「ホッホッホッ」 「あの……?」 「ホッホッホッ」 「横や後ろに飛ぶと、どうなるんですか!」 「ホッホッホッ」 「老師!」 「わしの名前はチェシャ猫じゃ!」 ──お、おかしい! ミロはあとずさった。やっぱりダメだ!なんかヘンだ! その時である。チェシャ老師の体に異変が起こった。ピリピリと乾いた音を立てながら体の輪郭が一気に崩れたかと思うと、卵の殻がむけるかのように紫色の皮膚がひび割れ、端から次々にめくれあがっていく。 ──な、なにい!? ミロは愕然として色を失った。こ、これはまさか、シオン教皇から話だけは聞いていたあの衝撃体験こと「生身の人間が脱皮していく様子を強制的に目撃させられてしまう恐怖」なのでは!? しかしミロは、ある意味シオンよりもはるかに不幸であった。チェシャ老師の皮膚がすべて剥がれ落ちた、そのあとには。 ──無。 そこには何も、無かったのである。 それは怪しさ極まる、不思議な世界。こうしてミロの不運の連続記録は、またもや更新されたのだった。「にやにや笑いをする老師」に加えて、「脱皮とともに体が透明になっていってしまう老師」という恐怖映像までをも、同時に目撃してしまうことによって。 ちなみに全ての皮膚が剥がれ落ちたあとには、何も無い空間に、老師のにやにや笑いだけがしばらく残っていたという……。 |
Written by T'ika /〜2004.12.30(Rewritten by T'ika/〜2022.4月)