3. 「冗談じゃない!」 ぶつけどころのない怒りに駆り立てられて、ミロは走った。後ろどころか左右もろくに見ないまま、ただひたすらに、一直線に。 こんな馬鹿なことがあっていいものか。このオレがいったい何をしたというのだ。 考えれば考えるほど、ますます腹が立ってくる。そして一瞬でも気を抜くと、脳裏には先刻のケーキ(ケーキなのだとミロは無理やり思いこむことにした)の姿が、鮮やかにフラッシュバックするのだった。ミロはそのたびに悪態をつきながら、思いっきり顔をしかめて頭を振った。 その時である。何かわからないものに思いっきり足を取られ、ミロは足元の地面に顔から突っこんだ。 「うおっ!」 派手な音を立てて数回転してからようやく停止したミロは、この期に及んでようやく我に返る。 「むう、ここは……」 迷いこんだのは、森の中だった。 「……またか。いい加減、いつになったらマトモな道に出られるんだ」 ミロは眉を顰めて辺りを見回した。一体全体どういうわけで、あのビクトリア調のファンシーな小部屋の外が、いきなりこんな大自然なのか。相変わらず、周囲には人影ひとつ見当たらない。 げんなりとしながら手元に視線を落とせば、剥き出しの腕にはあちこち引っかき傷ができている。さらに衣服のそこかしこには、カギ裂きやら染みやらトゲやらバカやらがくっついており、ただでさえ質素な修行服を一層みすぼらしく見せていた。 かぶりを振って、ため息ひとつ。ミロはバシバシと平手で自分の頬を叩く。とにかく今は早急に、ここから抜け出さねばならん。どんなヤツでも構わないから、会話が通用するまともな人間を早く探そう。そして聖域への帰り道を探すのだ。 こうしてミロは何とか己を叱咤激励しながら、深い森の藪をかきわけかきわけ、光の多い方角へと進んで行った。 それは緑影も深き獣道だったが、落ち着いて周りを見てみると、最初の草原のような嫌な感覚はとりあえず無かった。小鳥のさえずりに、虫の息づかい。飛び立つ羽音。辺りは生命の気配に満ちている。 すさんだ心が少しずつ和らいでいくのを自覚しながら、その時ふと、ミロは思い至る。果物が実って、動物もいる。水も汲めるし、薪も取れる。ということは、この森の近くにはかなりの確率で、人の住処があるのではないか。 そういえば木々がまばらになってきた気もするし、地面だってどんどん歩きやすくなっているように思える。これはきっと遠からず、開けた場所に出るに違いない。 さてそうなると、ミロの心は俄然、明るさを取り戻してきた。元来、悩んでも仕方ないことはウジウジと悩まない主義である。きっとそのうち、何とかなるに違いない。 そしてミロのその期待は、程なく現実のものとなるのだった。 「やった!人間の家がある!」 喜びと安堵のあまり思わず叫んで、ミロは視界に飛びこんできたその家を、救世主を拝むかのように、しばらく見上げた。 ささやかながらも良く手入れされた小さな前庭。煙突からは昼餉の支度中なのだろう、もくもくと煙が吐き出されている。赤い屋根とベージュの外壁は木々の緑に鮮やかに映えて、いかにものどかな森の一軒家、という風情であった。 はやる気持ちをどうにか抑え、ミロは勝手口の方に回っていった。これでようやく普通の人間と話せるはずだ。運が良ければここがどこなのか、どうしたら元の場所に帰れるのか、早速にも判明するかもしれない。 ──と、その時。 扉の前に立ったミロの鋭敏な聴覚は、建物の奥から漏れ聞こえてくる、何やら騒音と思しき気配を捕らえた。 「…………?」 軽く眉をひそめ、しばし息を凝らす。どうやら家の中では金属音やら金切り声やらの酷い雑音が、断続的に響き渡っているようだった。時には皿か何かが凄まじい勢いで割れる音もする。ミロは自分の中で、不安の念が黒雲のように沸き起こるのを感じた。 ……何やら凄まじくお取りこみ中、みたいだな。 引き返そうか、帰ろうか。いや、しかし。 他に当てなど、何ひとつ無いのだ。悪夢のような体験を二度も経て、やっとのことで人家を見つけられたのではないか。せめてここが何という場所なのかくらいは、教えてもらっても良いはずだ。 ミロは深呼吸をしてドアを三回、強めにノックした。だがいくら待っても返事は無い。 「留守……なわけはないんだしな」 仕方がないので施錠されていなかった扉をそうっと開けて、ミロはほんの少しだけ、家の中を覗きこんだ。 その瞬間。 ──ガシャン!! 覗いたミロの顔面めがけて、天秤座の円盾ほどはあろうかという大皿が飛んできた。 「うおっ!?」 鍛え抜かれた反射神経でとっさにそれを避けたのは流石、いかに着ている服がぼろぼろであろうと、先程からひどい目にばかりあっていようと、聖域の誇る黄金聖闘士スコーピオンのミロである。 「おい、何事だ!?」 中の騒音に負けじと大声で叫んで、ミロはつかんだ扉を勢いよく開け放った。 そして中に踏み入って、鋭い眼光で油断なく見渡すこと、しばし。 ミロの脳は己が見たものについての理解を、しばらくの間、完全に拒否した。 勝手口は、広い台所につながっていた。呆然と立ち尽くすミロの鼻先を掠めて、そこではありとあらゆるものが飛び交っていた。皿、鍋、包丁、椅子、テーブル、柱時計。辺りには濁った色の煙がもうもうと立ちこめ、化学兵器禁止条約で指定された危険物が何十種類も混ざったような、ひと嗅ぎでそのヤバさを確信できるような破壊的な臭いが、鼻腔を強烈に刺激する。鼓膜を破るような人の怒鳴り声。それから絶え間ない派手なくしゃみと、赤ん坊の号泣。 家の中はさながら阿鼻叫喚の様相を呈していた。 そしてその混沌のど真ん中で仁王立ちして、泣きわめく赤ん坊をどついている人物は、どう見ても、豪奢なロングドレスを身にまとった魚座のアフロディーテにしか見えないのである。 「何の用だ!このクソ忙しい時に!」 まるでどこぞの十九世紀の貴婦人のような格好をしたアフロディーテは、長々と床まで届くビロードのスカートの裾をかっさばくと、ハヤブサのような鋭い動きで、据わりきった目をギン!とミロの方に向けた。 ──見なかったことにさせて欲しい。 大喧騒の中で虚無感さえ覚えながら、つかまった視線をそらす気力すらなく、ミロは切実に、そう思った。 「アフロディーテよ……おまえ、ここで、何をしているのだ」 もはやほとんど義務感に近いような動機から、致し方なくミロは問いかけた。 「公爵夫人と呼べ!」 話しかけられたアフロディーテは、長手袋で肘まで覆われた右腕を鋭く動かすと、物凄い勢いでミロを指差した。その指の先にはしっかりと赤い薔薇が握られている。ミロは眩暈と立ちくらみを感じた。 「……わかった。わかったから、その薔薇を下ろしてくれ」 しかしアフロディーテはミロの力無い言葉などどこ吹く風で、いきなり右手を閃かせた。 「ロイヤル・デモン・ローズ!」 「うわあああ!?」 部屋中を舞い散る赤薔薇の洪水。ミロは反射的に口元を覆った。こんな毒薔薇の花粉なんぞ吸ってしまっては大変だ。慌てて身を伏せ、視線だけで素早く相手の様子を伺う。 しかし。 予想に反してアフロディーテはミロの方には目もくれず、赤ん坊をぶんぶん振り回しながら、その整った柳眉を跳ね上げていた。 「さっさと眠れ!眠ってしまえ!バカ!」 赤ん坊の入っていると思われるおくるみを烈しく振り回し、アフロディーテはやたらに叫んだ。ミロは思わずあんぐりと口を開けた。いったい何をやっているんだあいつは! 「おい、アフロディーテ!」 ミロは我を忘れて呼びかけた。 「うるさい、邪魔をするな!この私がせっかく寝かしつけているのに!」 アフロディーテはほとんど当たり散らすようにして叫んだ。ちょっと待て!ミロは心中で激しく突っ込む。まさかその薔薇は、赤ん坊を眠りこませるために撃っているのか?バカな!それでは赤ん坊が死んでしまうではないか! 「アフロディーテ!」 「それから!」 冷や汗を浮かべつつ腰を浮かせたミロに対して、アフロディーテは傲然と言い放った。 「公爵夫人と呼べ!」 ミロは絶句して立ちすくんだ。いったいアフロディーテに何があったというのだ。言動の意味がまったくわからん。いや、そもそも服装の意味がまったくわからん。 なんかもう何もかもがこの上なく面倒くさくなってきて、いっそのこと本当に全てを見なかったことにして、このままお外で待っていようかとミロが考えはじめた、その時である。 「うおっ!?」 突如アフロディーテが叫んで、素早い動きで身を伏せた。すると間髪入れず、何やら重たい質感の長い長い物体が金属質の鋭い音を立て、アフロディーテの頭の数ミリ先を掠めたかと思うと、背後の食器棚に突き刺さった。 ガシャン! 食器棚の中から物凄い音が響いた。ミロは思わず首をすくめる。 「料理女!気をつけないか!」 アフロディーテが怒ったように叫んだ。その小脇には、謎の攻撃に貫かれる一寸手前で危うく助かった(というかぶんぶん振り回すのをアフロディーテにようやく止めてもらった)赤ん坊が、おくるみに包まれたまま、しっかりと逆さまに抱えられている。 いや、気をつけるのはお前だろう。 内心で律儀にツッコミを入れながら、煙の充満した部屋の中、ミロは謎の攻撃の発生源に視線をやった。 そうして、再び絶句した。 煙の濁りが一段と濃い、土間の奥にあるのは大きなかまど。そしてそこにくべられた大鍋を長い木のへらでかき混ぜているのは、どう見てもエプロンドレスを身にまとったアンドロメダの青銅聖闘士、瞬だったのである。 「しゅ、瞬……?」 ミロは恐る恐る呼びかける。いったいどういう事情があって、あんなマトモそうな奴が、こんなワケのわからんエプロンドレスを。 しかも良く見ると、瞬の顔は明らかに不機嫌そうなのである。いつも温和な彼のそんな表情など見たこともなかったミロは、二言目をかけるのを思わず躊躇する。……もういっそこのまま帰ってしまおうか。 しかしここでミロは、はたと思い至った。待てよ。もしや瞬は、あのとち狂ったアフロディーテに、無理矢理あんな格好をさせられているのではなかろうか。 考えれば考えるほど、ミロは自分の考えが正しいような気がしてきた。そりゃあ、いくら瞬だってあんな格好をさせられたら怒るに決まっている。あの不機嫌そうな顔だって絶対にそのせいに違いない。つまりこれこそ、あの瞬がマトモだという証拠なのではないか。 希望を持ったミロは、いそいそと腰を上げかける。 しかし。 「────!!」 ミロは反射的に飛びすさった。瞬がいきなり手元のチェーンを取り上げ、思いっきりアフロディーテの方めがけて投げつけたのである。 「うおっ!」 煙の中、アフロディーテの悲鳴が再び聞こえる。その時ミロは、ふと気づく。なんだか部屋にたちこめる煙の量が、さっきよりも増えているような気がする。しかもその煙は見るからに危険そうな色と香りを、ますます強烈に放ちだしている。 ──いったい何なのだ、この刺激臭は。 この期に及んでようやく疑問に思ったミロは、恐る恐る首を伸ばして、瞬の手元の鍋を覗きこんだ。煙の発生源がその鍋であることは、もはや火を見るよりも明らかだった。 そして次の瞬間。ミロは思わず、うめき声を漏らした。 巨大な鍋のなかでドロドロと煮えていたのは、凶悪な黒赤色の液体だった。赤と黒と白の大量の毒薔薇の花びらが、何の肉だかよく分からないぶつ切りのモノと一緒に、ゆっくりと回転しながら熱されている。 慄然としているミロの様子など、どこ吹く風。瞬は傍らに置いてあった「AXIA」というラベル付きのバケツを担ぎ上げると、その内容物を大鍋の中に、バケツごと叩きこんだ。瞬く間にコショウとデモンローズの香りが混ざり合い、部屋の内部を濃厚に染め上げる。よく見れば床には空っぽのバケツが、既に五つ六つほど転がっている。 「な、何をしている!何だこれは!おい、瞬!瞬!?」 鼻と口を両手で覆い隠したミロの額を、冷や汗が伝い落ちる。ヤバイ。ヤバすぎる。もはやヤバイのはアフロディーテなのか鍋の中身なのか瞬なのか、判別も付かないほどにヤバイ。 その時、動揺のあまり思考回路がショート寸前になりかけたミロに向かって、アフロディーテが怒鳴り散らした。 「おい、そこのおまえ!さっきからうるさいな!そんなに文句があるんなら、自分で面倒を見たらいいだろう!ほら!」 「はあ!?」 まったく意味のわかっていない気の毒な客人が素っ頓狂な声を上げている間に、スカートの裾をたくし上げてずかずかと近づいて来たアフロディーテは、小脇に抱えていた赤ん坊のおくるみを、いきなり乱暴なしぐさでミロに押しつけた。 「は!?お、おい、ちょっと待て!オレはいらんぞ!断じていらん!」 あまりの事態に、焦りまくるミロ。しかし彼の悲痛な叫びを完全に無視して、アフロディーテはくるりときびすを返す。 「では、せいぜい頑張ってくれ!私もそいつの寝かしつけにはいい加減うんざりしていたのでな!」 「おい待て!待ってくれアフロディーテ!」 プライドも何もかも投げ捨てて、ミロは半泣きで悲鳴を上げた。だがますます濃度を増す煙の中に、アフロディーテの姿は掻き消え、全く見えない。ミロは途方に暮れて、抱えたおくるみの中を覗きこんだ。 そして次の瞬間、ミロは再び凍りついた。 視界のど真ん中にまともに飛びこんできたのは、どこかで見たような良く知った顔。ふかふかの生地に何重もくるまれた赤ん坊のふてぶてしい面構えは、遠目からは全然判らなかったのだが──そう、その赤ん坊は。 何とまあ、顔だけデスマスクだったのである。 「────!!」 声にならない悲鳴を上げて、ミロはおくるみを投げ捨てた。 「ひどい!!」 煙の奥から、瞬の怒ったような声が聞こえる。 ──ひどいのはどっちだ!! ミロは、八つ当たりのような反論の弁を、無声でぱくぱくと怒鳴り散らした。 「ロイヤル・デモン・ローズ!!」 そうこうしているうちに煙の向こうでは再びアフロディーテの赤薔薇が舞い、周囲の景色が真紅色に染まっていく。 「冗談じゃない!!」 ミロは絶叫し、そして有毒な煙を吸いこんでゴホゴホとむせた。本当に、冗談じゃないぞ!何だこの家は!何なんだ!もうアフロディーテのことなんか知るか!赤ん坊のことなんか知るか!絶対にこのままここに置いて行く!誰が何と言おうと置いて行くぞ! 悲壮なほどの決意をもって、ともかくもミロは、きびすを返した。しかし歩き出したところで一度だけ、チラリと振り返ってしまったのが運の尽き。結局のところ、ミロは目撃してしまったのである。先刻の赤ん坊がちょうど巨大なカニに変化して、おくるみの中からワシャワシャと這い出していく瞬間を。 「ロイヤル・デモン・ローズ!!」 絶句するミロを尻目に、またもやアフロディーテの声が響き渡る。煙と薔薇のせいで視界もかすみがちな混乱の中、周囲ではほとんどひっきりなしにガチャンと何かが割れる音がしていた。 臨界点、とはこのことであろう。その時ついにアンドロメダの聖闘士の大音声が、四方の空気を切り裂いた。 「い、い、か、げ、ん、に、し、て、よ、ね!」 そして、次の瞬間。呆然と立ち尽くすミロの視界に映ったのは、あの怪しげな毒薔薇の大鍋を両手に掲げ、今にもぶちまけんばかりの構えを取っている、ブチ切れた瞬の仁王姿だったのである。 「僕をここまで追いつめた、あなたのせいだぞ公爵夫人!」 煙の中、とどろき渡る瞬の大音声。そうして辺りには、耳を聾するほどの轟音が響きわたり。 完全なるカオスと化した部屋の中、黄金聖闘士ミロの鋭敏な感覚器官は、大鍋がひっくり返る凄まじい破壊音と、床中にぶちまけられた猛毒スープの刺激臭によって、刹那の間、完全に麻痺した。 ──いいかげんにしてほしいのはこっちのほうだ!! 混乱の中、心ではそうわめき散らしながらも、あまりのことに口パクでしか叫ぶことのできないミロだった。 こうしてミロは、ほうほうの体で、森の一軒家から脱出することになる。だが残念なことに彼の受難は、今後ともまだまだ続いていくのである。(合掌) |