2.


 飛びこんだ穴はどこまでも深く、地球の底まで続くかのようだった。妙に心地よい温かい風が足元からふうわりと吹き上げてきて、うっかり緩みかけた緊張を、ミロは慌てて引き締めなおす。
 ──気をつけろ。何がどこから出てくるかわからないぞ。
 注意力を極限にまで引きあげ、上下左右を油断なく見回す。しかし今のこの穴の中の状況においては、もはやミロのその試みは健気を通り越し、お笑いの領域にすら達していた。
 そう、いくら両目を凝らしてみても、薄暗い縦穴の四方には、敵が潜んでいそうな割れ目ひとつ無い。それどころか穴の周囲は延々と、きらびやかなアンティークの戸棚で埋めつくされていたのである。そしてその戸棚に飾られた展示品の数々は、場の緊迫感を崩壊させるに留まらず、あくまでも頑張りつづけるミロの努力を小馬鹿にしているとしか思えない、ありうべからざる様相を呈しつつあった。
 例えばこちらの棚に見えるのは、『馬になります』と題された何者かの自伝。その隣に置かれた薄い本の表紙には、『やったね初台詞!』というタイトルが窺える。あちらの棚にはギリシア文字で「アテナ」という署名入り封印を施された、極上ワインのボトル群。向こうの棚には「キミ、勝敗は常に顔で決まるのだよ」という煽り文句と共にモヒカン刈りの男が大写しになった、正体不明の選挙ポスター。
 ……いや、落ち着け。オレを油断させようとする敵の策略かもしれないではないか。
 ミロはぶるぶると首を振って、切れかけた集中力を再び繋ごうとした。しかし、人を愚弄するのもいい加減にしろと叫び出したくなるほど非常識な展示物の数々のせいで、今や先刻の緊迫感は見る影もなく崩れ去ってしまっていた。そして『神よ私は美しい』と金箔文字で題された巨大なフルカラーヌード写真集が視界にまともに飛びこんでくるにあたって、もはやミロは周囲の様子を窺うことをを完全に放棄した。
 ──もういい!敵の存在など、眼を閉じていてもわかる!要は怪しげな小宇宙や気配が無いかどうかに気を配ってさえいれば良いのだ!
 かくしてミロは、眼を閉じ腕組みをして眉間にしわを寄せながら、常人には耐えがたいそのウサギ穴の中を、どこまでも無言のまま落ちていったのだった。

 もっとも。
 気の毒なミロのイライラは、それでおさまったわけではない。それどころか彼のフラストレーションは、ますます増幅するばかりであった。と言うのも、ミロの忍耐力を削りとっていく苛立ちの源は、実はもうひとつあったのである。
 ──さっきから遅すぎるんだよ、この野郎!
 仮にも黄金聖闘士なのである。別に幼い子供を守るようなスピードで、ノロノロダラダラと過保護に落下させてくれなくてもいいのである。というかむしろこのような馬鹿げた空間は、一刻も早く終わりにして欲しいのである。
 ──ええい、うっとうしい!さっさと普通に下まで落としてくれ!
 ただでさえせっかちな気質のミロにとって、今の状況はまるで果てしなく続く拷問であった。けれどもこのウサギ穴が終わるまでは、どうにも対処のしようがないことも事実で。
 結局のところ、ミロはこれ以上なくイライラしながらも、ただひたすらに脳内スカーレットニードルの数を数えつづけることによって、永劫とも思えるその時間をどうにか耐え忍んだのであった。

 やがて──ようやく。はるか足下に光が射した。閉じた瞳にその明るさを感じながら、ミロはすがすがしい気分で深呼吸する。これでようやく行動できる。鬼が出ようが蛇が出ようが、仮にも聖域の誇る黄金聖闘士──軽々しく隙を突かれるつもりは、まったくなかった。
 こうしてミロは再び緊張の糸を張り巡らせながら、幾分の高揚感をもって、明るい光の中へと降りていったのだった。

 その、出た先は。



「……畜生!」
 骨董品のような凝った装飾のランプに、小洒落たガラスで作られた、かわいらしい三本足のミニテーブル。
 昔の絵本に出てくるような瀟洒な家具に囲まれて、ミロは罵りの言葉を吐き捨てた。永遠とも思える落下の果てに、ようやく開けた場所に出られたと思ったのに。いったいどうしてあのウサギ穴がこんなヘンテコな、ファンシーな小部屋につながっているんだ。というか、ここはどこなんだ。どうして周囲には人影ひとつ見当たらないんだ。あの氷河ウサギも同じ穴を落ちたはずではないのか。姿かたちさえ見当たらないとはどういうことだ。やはりアレは氷河などではなかったんじゃないか。ああこの穴を抜ければどこか外の世界に出られると思ったのに。いやこんな罠に引っかかってしまったオレもオレだ。軽挙妄動も甚だしい。こんなことがムウやらシャカやら他の黄金聖闘士に知られたら、いったい何と言われるか。
 ──いや、というか。
 しばらく罵り倒した後にふと我に返ったミロは、本来ならばまず最初に気づいていなければならない事実にようやく思い至り、愕然とした。
 ──出口が、無い。

 慌ててよくよく探してみると、部屋の一角にはネズミ穴と見紛うほどの極小サイズの扉がひとつ、どうにかこうにか付いていた。しかし妖精や小人の類ならばともかく、ミロのサイズでは拳を握れば片手すらつっかえる始末。どう見ても普通の人間が通り抜けることは不可能。まさしく、嘆きの壁。
 ……どう、しようか。
 しばし呆然として立ち尽くしたミロは、半ば途方に暮れながら、再び部屋の中を見回した。その時、ふと一点に眼が止まる。ガラス張りの三本足のテーブルの上。さっき見た時に、あんなものは置いてあっただろうか。
 そう、そのテーブルの上で輝いていたのは、美しい模様の紙ナプキンが添えられた、たいそう可愛らしい小皿であった。小皿の上にはホイップクリームとハーブで綺麗に飾られて、なにやら美味しそうなモノが乗っている。ケーキだろうか。そう言えば、腹が減ったな。
 もちろん、このような怪しさ極まる謎の部屋に突如現れた物体をそのまま食する無謀さは、いくらミロでもさすがに無い。しかし、もしかしたらば万が一、安全な食べ物である可能性もなくはない。とにかくまずはよく見てみようと近づいて屈みこみ、ミロはその格好のまま標本と化した。
 そう、まるでおとぎ話に出てくる魔法のような、ファンシーな装いのその皿の上には。
 どう見てもアルデバランの姿をしたモノが、首に大きなピンクのリボンをかけて、どっかと仁王立ちしていたのだった。

「────?!?!」
 あまりにもあまりな事態に、ミロが状況を把握することすらできないまま絶句していると、皿の上のモノはいきなりしゃべりだした。他でもない、アルデバランの声で。
「この部屋から出たいのならば、ミロよ!このオレを食ってみろ!!」
 ──もっとも、それがおまえにできればの話だがな。ワハハハハ!!
 豪快に笑いながら、アルデバランの形をした手のひらサイズの小人さんは──いや、これを小人さんと呼んでいいのかどうかもちょっとよくわからないが、ともかくその、モノは、居合いのような気迫を漲らせて両の腕を組んだ。どこかで見たことのある、その構え。
 ……今、オレの目の前で、いったい何が起こっているのだろうか。
 ただひたすらに呆然としながら、ミロは麻痺した心の片隅でぼんやりとそう思った。

「さあミロよ、このオレを食うがいい!でないとおまえは永遠にこの部屋から出ることはできんぞ!」
 いつになく元気の無いミロとは対照的に、目の前のその、……モノは、何だかひたすら活気に満ちている。
「いや……ちょっと待て……おまえ、ここでいったい何を……」
 げんなりと言いかけながら、ミロはその可愛らしいお皿の上を、改めてまじまじと凝視した。
 手の平サイズのファンシーなアルデバラン。
 これは……かなり、どうも……。
 頭痛と眩暈を必死でこらえるミロを尻目に、皿上のアルデバラン型の物体は、大音声で再度のたまった。
「どうした!オレを食わんのか!そのサイズでは、おまえは永遠にこの部屋から出ることはできんぞ!」
「いや、待て。ちょっと待て。そもそも何でおまえ、」
 言いかけて、ミロは口をつぐんだ。皿の上のその……モノは、よく見るとすばらしく素敵な風合いで、フカフカしているように見受けられた。
 なるほど、これは、ケーキ……ということなのだな……。
 ぼんやりと考えかけて、ミロは激しく首を振った。いや、いかん。何だそれは。アルデバランがケーキだなどと、そんな馬鹿な話があってたまるか。状況のあり得なさに釣られて、こちらの思考回路までおかしくなってきた。ええい、オレよ、しっかりしろ。断じて騙されたりなどするものか。
 しかし、やはりテーブルの上のその物体は──アルデバランの形状をしてアルデバランの声でしゃべるその物体は、これ以上なくどうしようもなくケーキなのだった。何故だかわからないが、ミロにはそれがわかるのだ。考えてみれば皿だってあからさまにケーキ皿だし、デザート用のフォークだって添えられているし、状況証拠はこの上なくケーキではないか。
 ──いやいや待て。ならばなぜ、ケーキがしゃべるのだ。というかなぜケーキがアルデバランの形をしているのだ。いや違う、アルデバランがケーキの格好をしているのか。いや、そもそもケーキの格好とは、やろうと思ってできるたぐいのものなのだろうか。
 双児宮の迷路もかくやと思われるほどに混乱しはじめたミロだったが、思考の袋小路から彼を救いあげてくれたのは、他でもない諸悪の根源たる皿上の、アルデバランの格好をしたケーキ(?)だった。うつろな眼差しで突っ立っているばかりのミロに対して、そのケーキ(……)は、明らかにむっとした様子で突っかかってきたのである。
「おいミロ!おまえまさか、このオレが食えんとでも言うのか!」
「ま、待て!やめろ何をするアルデ……いや何というべきか……ともかく待て!」
 動転するミロの額を、冷や汗がひとすじ伝い落ちる。皿の上のアルデバラン(?)の全身からは、見る見るうちに攻撃的なオーラが立ち昇りはじめた。そして周囲には他でもない、タウラスのアルデバランがグレートホーンを撃つ瞬間の、あの居合い切りのような小宇宙が漂いだしたのである。
 ミロは後ずさった。怖い。なんだか分からないが、ものすごく怖い。黄金聖闘士としてこんな感情を認めるのはものすごく癪だが、この光景ははっきりいって、尋常じゃなく怖い。可愛いケーキ皿の上でリボンとクリームに包まれたミニチュアサイズのアルデバランが、恐るべき強大な小宇宙を放ちながら、グレートホーンの構えをとっている。しかもその鋭い眼光は他でもない、ひたりと自分の方に向けられていて。
「わ、悪いが!今は!腹が減っていないのだ!」
 やっとのことでそれだけ叫ぶと、ミロはきびすを返してテーブルに背を向けた。そうして部屋の反対側に向かって一目散に、なりふり構わず逃げ出した。
「待て!黄金聖闘士ともあろうものが、敵に後ろを見せるのかミロ!」
 背後からかなり立腹した様子のアルデバランの声がする。冗談ではない。既にこれだけ酷い目にあっているというのに、何ゆえオレはこれ以上の誹謗中傷を受けなければならないんだ。理不尽だ。不条理だ。あんまりだ。
 ここに来てようやく、自らの状況に対して客観的な憤りを覚えはじめたミロは、ぶつけどころのない怒りに激昂しつつも、背後のケーキ皿から逃れるために、部屋の反対側へと必死で走った。

 ──と、その時。
 何かをまたぎ越した足元から尋常ではないおぞ気を感じて、ミロは思わず立ち止まった。ほとんど恐怖といっていいような感情に打ちのめされながら、恐る恐る背後を振り返る。
 そこにあったのは、お洒落なラベルとリボンを首から下げた、可愛らしい小さなガラス瓶。
 ミロは反射的に両手で目を覆った。そうして迷うことなく正面に向き直ると、一息にそこから駆け去った。背後のガラス瓶の中からは、どこかで聞いたような声色で「惰弱な!」というセリフが響きわたってくる。
「おのれミロよ、このオレが飲めないというのか!見損なったぞ!このフェニックス最大の……」
 ──冗談じゃない!
 ほとんど憤怒相のごとき表情で、ミロは心中絶叫した。
 ──誰に何と言われようが、液状の一輝なんぞ目撃してたまるか!

 とまあこういうわけで、聖域の誇る黄金聖闘士スコーピオンのミロはそのまま一息に部屋の突き当たりまで走り抜けると、その足元に取り付けられていた小さな扉を完全に無視して眼前の壁をぶち壊し、半ば逆ギレ状態で部屋の外へと駆け去ったのだった。
 しかし幸か不幸か、その先に待ち受けるものを、未だ彼は知らない……


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Written by T'ika /〜2004年6月(Rewritten by T'ika/〜2022.4月)