あやしの国のミロ



 1.


 辺りは一面の、草原の緑だった。

「何だ……ここは」
 スコーピオンのミロは低い声で、誰にともなく呟いた。
 作り物の綿菓子を思わせる雲がぺたりと浮かんだ青い空には、飛ぶ鳥の影ひとつ見当たらない。虫の声もない静寂の中、妙にのっぺりとした植物だけが、音も立てずにさめざめと揺れている。
 ──なぜオレはこんなところにいるのだろう。
 ミロは訝しげに眉根を寄せる。見たところ辺りに異状はないが、背筋にはわずかな寒気が走る。草原の中なのに静かすぎるのだ。生き物の気配がまったく無い。
 ミロはゆっくりと緊張しながら、いついかなる変化にも対応できるように身構えた。
 その時である。
 不意に数十歩ほど先の草むらが、大きな音を立ててざわりと揺れた。
 ──誰だ!?
 考えるよりも速く、ミロは身を伏せた。幸いにも高く伸びた植物のおかげで、姿を隠すのは比較的たやすい。
 無造作に草をかき分けながら、足音はゆっくりと近づいてくる。

 だが、そうやってミロの視界に飛び込んできたのは、意外にも。
 日頃からよく見知った顔だったのである。

 ──なんだ、氷河ではないか。
 ミロは思わず息をつく。そうしてフッと薄い笑みを浮かべた。氷河相手に全力で警戒態勢をとっていた自分がいささか滑稽に思えたためでもあるが、しかし何よりも怪しげな場所で知己の顔を見かけ、安心したのも正直なところ。
 苦笑しながら緊張を解き、相手に声をかけるため、ミロはいそいそと腰を浮かせた。
 が。
 安心もつかの間。

 よく見ると、草むらの向こうの氷河の頭からは、真っ白な毛に覆われたウサギの両耳が、にょっきりとキュートに生えていたのだった。

 な、なにい……!?
 ミロがドン引きしているうちに、氷河……いやウサギ耳を生やした氷河似のその生物は、クールな佇まいで懐をごそごそと探りはじめた。そしておもむろに取り出したるは、長い鎖が付いた金のロザリオ……ではなくて、懐中時計。
 まるで母親の形見を眺めるかのように、その懐中時計をウットリと見つめ、ウサギ耳の氷河は長く長くその場に立ち尽くした。十数歩の距離をおいて中腰の姿勢のまま固まっていたミロは、その光景をなすすべもなく凝視した。
 こ、これは……いったい何なんだ……。

 えもいわれぬ寒々しい数刻が過ぎた。さっさとこの場に背を向けて全力で立ち去りたい衝動に、必死でミロは耐え抜いた。とりあえずあの生物が何なのか、確認だけは、しなければならない。見たところ顔だけは氷河に似ているが、まさかあのような薄気味悪いモノが氷河であろうはずがない。下手をすると氷河の顔を形態模写した、新手の冥闘士か何かかもしれない。アテナと聖域に脅威をもたらす、新たな敵が出現したのかもしれない。
 やがてウサギはゆっくりと顔を上げた。そして密かにミロが見守る中、長く息をつき声を震わせて、ヒゲをそよがせながらウサギは言った。
「マーマ……ナセグダー……」
 ガハッ。
 ミロは心の中で吐血した。このロシア語、そしてマーマ発言。まさかこのウサギは本当に、氷河であるというのだろうか。
 目下のショックが大きすぎるあまり、「ウサギがしゃべっている!」という事態に対しては、まったく驚く余裕すらないミロである。
「マーマ……マーマ……(中略)……むっ、いかん。しまった。これでは遅刻だ。あちらさんは激怒するだろうが……まあいいか」
 マーマについて熱く独りごちているうちに、なんだかウサギは遅刻の危機に瀕してしまったらしかった。しかしその割にはダイヤモンドダストのひとかけらほども焦っていない。いやそれどころかこのウサギ、確信に満ちたまなざしで遠いお空の彼方を見つめ、きっぱりと平然と言い切ってのけた。
「いついかなる時でも常にクールに。それが我が師の教訓だ!」
 そんなバカな!いや、ていうか、急げよ!
 あまりのウサギの焦っていなさに、悠然と歩き出すその後姿を思わず見送ってしまったミロだった。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。ミロはようやくハッと我に返る。茫然としているうちにウサギ……いや氷河の姿を、すっかり見失ってしまったようだ。
 慌てて四方を見回すが、そこには妙に作り物めいた草原が、音もなく揺らめいているだけである。虫もいない。鳥もいない。踏みわけた草の匂いすらない。なんだかあの太陽の光の具合も、さっきからおかしいような気がする。
 ミロは焦った。この不気味な場所に独りで取り残されるのだけはごめんだ。敵だろうが味方だろうが便所コオロギだろうが、ともかくも今は、生き物が恋しい。
 とりあえずさっきのウサギ……いや、氷河を探そう。
 かくしてミロは知己の姿を追って、足早にその場を立ち去ったのだった。

 紙っぽい質感の草をかきわけながら、ミロは自分自身に言い聞かせる。うむ、そうだ。きっとあれは氷河だ。たぶん何か、やんどころない事情があって、あんな格好をしているのに違いない。今はヤツと合流することが先決だ。この場所がいったい何なのか、ここから抜け出すにはどうすれば良いのか、考えねばならんことは山ほどあるが、ともかくも話はそれからだ。
 ムリヤリ納得しながら進んでゆくと、さっそく生垣の向こうに大きなウサギ耳が揺れている。よし、おちつけ。オレよ、あわてるな。今度こそ声をかけるんだ。勇気を出して一歩を踏み出そう。
 そうして一歩を踏み出した次の瞬間、ミロは再び硬直した。
 生垣の向こうに佇む氷河の足元──そこにはどっからどう見ても異様としかいえない、正体不明の穴があいている。直径はアルデバランが余裕で横になれるくらい。深さは目視で測れないほど。自然状態であいた穴とは到底思えない。
 ──ウサギ穴。
 大きさは相当ありえないことになっているが、それはどこか巨大なウサギ穴に似ている、とミロは思った。そうだ、ウサギの前に穴があるんなら、それはウサギ穴に決まってるじゃないか。
 だがそのウサギ穴よりもさらに異様な雰囲気を漂わせているのは他でもない氷河自身だという事実に、ここに来てミロも目を向けないわけにはいかなかった。ガーベラの花を一輪くわえ、ふわふわのウサギ耳をぴくぴくと動かしながら、氷河は穴の底をひたと凝視している。どこか憂いを含んだ顔で。気のせいじゃなければ、なんかウサギみたいに目の色が赤い。
「マーマ……今いくよ……」
 そうして氷河、いや氷河似のウサギは、そのままシベリアの海にダイビングするかのように、真っ暗なウサギ穴の中に飛びこんで消えた。
「バ、バカな!?」
 ミロは愕然として駆け寄った。穴は巨大な冥界への入口のように、どこまでもどこまでも垂直に落ちている。目を凝らしても、底が見えない。
 ──今あいつ、この中に飛び込んだのか?命綱も持たずにいきなり?
 いくらミロが比類なき勇壮を誇る黄金聖闘士とはいっても、さすがにこんなあやしげな穴にまっすぐ飛びこむのは躊躇する。何よりあの生き物が本当に氷河なのかどうか、さっきからどんどん不安になっていく。
 い、いや、しかし。ミロは無理やり自分を納得させる。さっきから「マーマ、マーマ」と、ヤツは発言しつづけているではないか。あれは氷河だ。氷河の行動パターンだ。おまけに「我が師」とも言っていた。
 それに、とミロは考える。いやむしろ脳裏に渦巻くこの考えを正当化したいがために、先ほどからどう考えても無理のありすぎる怪しげなウサギのことを、何とか氷河だと思いこもうとしている節もあるのだが、ともかくもミロは、考える。
 ──この穴を通ってあいつについて行けば、このわけのわからん場所から抜け出せるかもしれん!
 そうとなれば道はひとつ、ヤツの後を追いかけるのみ!ミロは勢いづいて、結局のところ己の出したかった結論を出した。
 いささか妙な所もないわけじゃないが、これ以上の問答は無用!もはや恐れている場合ではない!行くぞ!
 かくして勇敢にもミロはそのまま身を躍らせて、ウサギの後を追ったのだった。

 やめときゃよかったのに、ねえ……。


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Written by T'ika /2004.4月〜(Rewritten by T'ika/〜2022.4月)