6.


 金曜日――糸巻きもせず…


 その翌日の事だった。カミュ宅――半ば崩壊している――を、あのアドノスが訪ねてきたのは。
 おりしも、再び氷河が遊びに…いや、今度は家の修復作業にかり出されて来ている時であった。
 「…カミュ。表に全身包帯まいた人が来てますけど…。」
 瞬間、カミュの体感温度は絶対零度にまで下がった。
 ――バカな…。あれだけの大ケガをして、昨日の今日でもう歩けるなんて…やはり奴め、人間じゃない!!
 カミュはもちろんあの救急隊医師の言葉を素直に信じているから、アドノスの姿は彼の恐怖を倍増させた。実際は、全身の青アザが時間と共に紫や黄色に変化して、二目と見られぬ姿になってしまったため、医療スタッフが無理矢理包帯で隠しただけなのだが…。
 「何の用だ!そこで止まらぬと貴様の命の保証はできぬぞ!!」
 カミュ…セリフはカッコいいんだけど、その、洋服ダンスの上でちっちゃくなって言われると…。ほら、氷河君も怯えてるじゃないですか。
 「…直談判に来たのさ…」
 包帯で表情がわからず、目だけが異様な光を放っている。それが、アドノスの得体の知れない気味悪さに磨きをかけている。カミュの顔は血の気を失って真っ白である。
 「ひとおつ、4日前の砂糖のタダ券…あれは、私が拾ってあげたんだよ…1割を拾い主に包んでくれなきゃ、だめじゃないか…。ふたあつ、私の実験器具が…かわいいかわいいビーカーやシャーレや上皿てんびんちゃんたちが、君たちのせいで全員死んでしまったね…このオトシマエ、どうつけてくれるのかな…。みいっつ、この私をこんなに醜い姿にしてしまったことに対するおわびの気持ち…菓子折り一つ届けずに何をしているのかな…。よおっつ…」
 カミュは無論しまいまで聞いてはいなかった。かろうじて意識を取り戻し、天井にあいた穴から迷わず逃げ出した。
 「どこへ行く…私の話は終わってないよ〜」
 語尾を震わせながらアドノスが追った。途切れ途切れに奇怪な高笑いが大気を揺るがす。
 …氷河がようやく自我を回復したのは、それから1時間後のことだった。



 ――カミュは走った。黄金聖闘士になってからというもの、こんなに死に物狂いで何かから逃げ回ったというのは始めてだった。そして、走りながら何度も後ろを振り返る。そこにはしかし、依然として、両腕を後方になびかせて走るアドノスの、極端に前方へ突き出た顔が、バケモノの笑いを笑っていた。
 道行く人々はことごとくギョッとして飛びすさる。子供と老人は例外なく泣き出した。
 「ママー!怖い!!」
 「世も末じゃ…!!」
 この時、この黙示録的光景を目撃した人々の中には、たまたま駄菓子屋で水あめを買っていたDさん(仮名――自称18才、無職)も含まれていたのだが、彼は長い硬直状態の後、無辺世界を見つめて、「カミュ…許せ…」そう言って、何も見なかったことにしたらしい。
 また、自宅でシオンの看病をしていたムウは、表で花に水をやっていたはずの貴鬼が錯乱状態で家の中に飛びこんできて、「ム、ムウ様…!!」それだけ言ったきり激しく泣きじゃくり出したのを見て、普段のあの優雅な微笑みを引きつらせた。第六感が異様に発達している超能力者は、こういう事に関して人一倍感受性が強いのである。ムウは外の状態をほぼ正確に直感した。しかし、立ち上がって扉の所まで歩いていった彼は、そのまま錠を下ろし、かんぬきをかけ、ガムテープで目張りまでして、崩れるようにしゃがみ込んだ。
 「…すみません、カミュ…。私は、私は――!」



 ――どのくらい走ったのだろうか…目まいがする…どこかに、どこかに安全な場所はないか…どこかに…そうだ…われわれ聖闘士には、昔から安住の地があったはずだ…逃げなくては…せめてそこにたどりつくまで、倒れてはならない…!
 …アクエリアスのカミュは、グラード財団聖域支部城戸邸に、転がり込むように落ちのびて、そのまま意識を失った。城戸沙織嬢の側近、辰巳徳丸が彼を発見した時、彼はうわ言のように繰り返していたという。
 「まだ…まだ糸巻きすら終わってないのに…ああ…!新聞が止められてアドノスが来る…!」
 ――辰巳はあまりの事に度を失ってわめき散らした。
 「お嬢様ァ!!おっおっお嬢様ァ!!」
 「何事ですか、騒々しい。屋敷内では静かにと言っているのがわからないの…!?」
 「あひっ…すみません!し、しかしお嬢様…」
 「まあ、それは…カミュではありませんか?どうしたのです、そんなにボロキレのようになって…」
 断っておくが、沙織に悪意はない。
 「そ、それが私にも――」
 その時、城戸邸のホールに奇声――いや、声と呼べるかどうかすら怪しいが――が響き渡った。それは、「びよよよよ〜ん」としか表現できない笑い声だった。
 「何者です!」
 さすが沙織さん、動揺してない。
 「私の名はアドノス今世紀最大の科学者ァ〜〜〜」
 地声からして特異なこの男だが、今回急激な運動と、それから唇にまで巻きついているぶ厚い包帯のため、これまでになくくぐもったような、オブラートでもかけたような、そしてそれにビブラートでもかけたような、壊れたラッパの…いや、敢えて例えれば、宇宙人の演歌を洞穴で聞いているような、そんな声になってしまっていた。はっとしたお嬢さんが真上を見上げると、どこから登ったのか、きらびやかな城戸邸のシャンデリアの端に足をかけ、逆さまにぶらさがっている包帯男とまともに目が合った。
 「――――っ!!」
 その時である。
 「ペガサス流星拳――!!」
 無数の星の軌跡が、一直線に、侵入者の元に――えっ?そう、侵入者の元に…つまり、重さ500kgのシャンデリアの元に…吸い込まれるように…消えてった…。
 「沙織さん!もう心配いらないぜ!最近十二宮を騒がしてるっていう狂人科学者は、俺が倒したぜ!…あれ?沙織さん…?辰巳も…カミュも…おーい、みんなどこ行ったんだあ…?」
 …階段の手すりにすっくと立っている星矢の眼下には、もうもうと立つ土煙と、先刻までシャンデリアだったものの残骸が無残な姿で転がっているだけだった。



 余談だが、アクエリアスのカミュは五感すべて機能していない、完全な失神状態のまま、シャンデリアが落下してきたまさにその瞬間はね起きて、我が身を呈してアテナの体をかばったと言う。まさに六感を超えた七感、セブンセンシズのなせる技だろう…。救出された城戸沙織嬢は全くの無傷だったというから恐ろしい。

 ――カミュ…わ…わかっている…
 ――僕たちはせめて…
 ――貴方の魂を引き継ごう…
 ――そして忘れない…
 ――この時代に気絶して尚アテナを守り通そうとした黄金の聖闘士がいたことを…

 後にこの話を聞いた星矢、瞬、紫龍、氷河は滝のような感涙にむせび、こう呟いたと言う。
 …って星矢、あんたのせいなんだけど…。



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