5.


木曜日――送って行った…


 「…で、どうするんだ、これ…」
 朝食を済ませた後、誰からともなくこういう言葉が出てきたのも不思議はない。ちなみに教皇命令で全員歯をみがいている。
 「フッ、もちろん決まっているではないか。」
 その教皇が、落ち着き払って答えた。
 「警察が、きっと何とかしてくれる…。」
 はかりしれない大きな何かが、音を立てて引いていった。平安の女流作家清少納言がもしこの場にいたら、「すさまじきもの」の段は、もう1ページ長くなっていただろう。思わず見ると、教皇は遠い目をしている。
 「だ…大丈夫か、教皇は…」
 「う…うむ、もうお年だからな…」
 恐る恐る、童虎が後ろから肩を軽く指で突いてみる。…と、いきなり教皇の上身が大きく傾き、そのまま頭からアドノスの持って来ていた実験器具のただ中に倒れこんでしまった。
 「うっ…うわあああ!?」
 「シ…シオンっ!!――何するんですか老師!!」
 「だ、だってだってだって」
 「お、おい!三角フラスコの破片で頭切ってるぞ!血が…」
 「違うぞアイオリア!これは枝付きフラスコだ!」
 「そんな事どうでもいいでしょう!静かにして下さい!!」
 「誰か…誰か、救急車を呼びたまえ…あっついでに警察も!」
 カノンが慌てて表へ駆け出す。…だがしかし、彼の前にずらりと並んでいたものがあった。
 「パ、パトカー…?何故…いつの間に…?」
 一歩前に踏み出すカノン。すると、一斉に警察官たちは後ずさりした。な…何なんだ…!カノンは困惑する。
 「あ、あの…一体何の御用でしょうか?」質問がまぬけになってしまったが、まあ仕方ないといえば仕方ない。
 「こ…ここで銃撃戦をやっていたゲリラとは、お前のことか…?」スピーカーから怯えた声が流れた。
 「はぁ…?」
 何のことはない。ど派手に家をぶち壊した挙げ句、日が暮れるまで乱闘騒ぎを演じていたのだ。近所の住民がとっくに警察に通報していたのである。



 「こちらの方の傷は、たいしたことありませんよ。応急処置がしっかりしていたようですね。」
 急いで呼ばれた救急車の救急隊員さんの温かいお言葉に、ムウはひとまずほっとした。そして、そりゃそうだろうな、と思う。幼少時からシオン直々に徹底的に叩き込んでくれた医学の知識だもの…そう、あの時のスパルタ教育は、思い出すだけで背筋に震えが来る…。
 「ただちょっと過労気味ですね…」
 「…と、言いますと?」
 「こんなにぐっすり眠りこけているケガ人は初めてです。」
 「……。」
 思わずへたりこみそうになる。では何か。シオンは疲れがたまっていて徹夜に耐えきれず、立ったまま眠りに落ちて、勝手に倒れて勝手にケガしただけだったというわけか。
 「…全く、人騒がせと言おうか、何と言おうか…」
 隣で童虎もあきれ顔である。
 その向こうでは警官が、ほとほと困り果てたという顔で、徹夜明けのハイな聖闘士達の相手をしていた。
 「ですから、証拠が不十分ですからねえ…」
 「何ィ!ふざけるな!この王水のポリバケツを見ればわかるだろう!こいつは、俺達に脅迫かけて、あまつさえ命までも奪おうとしたんだぞ!」
 「ですから、命を奪おうとしたかどうかわかりませ…」
 「馬鹿を言うな!迫り来るこいつと1度でも対面してみろ!あんただって絶対に生命の危険を感じるから!」
 「そうだ!とにかく私は家屋破壊に精神的セクハラ、殺人未遂に安眠妨害を、断固主張してやる!」
 「…ですから、それだけでは証拠不充分で逮捕できないんですよ…。現行犯でもないですからねえ…」
 「もう何でもいいから、警察に拘留しておいてくれ!我々はもはや耐えきれん…!」
 「…君、鎮静剤を。」
 警察官は、冷静な声で医師に言い渡した。やって来た医師は、しかしながら鎮静剤を打つ代わりに、聖闘士達に頭から冷水を浴びせかけるようなセリフを吐いた。
 「あちらの方の傷はたいしたことないんですが…こちらのアドノスさんとかいう方は全治6ヶ月、縫合10針、骨折12ヶ所で…はばかりながらこれは過剰防衛と拉致・監禁の現行犯で逆逮捕できる状況かと…」
 どざざざざざざ(血の気が引く音)。
 「ば、ばかな…。いくら冷静さを失っていたからといって、黄金聖闘士たる我々が力加減を誤るなど…」
 「しかし、事実ですから。さあ、どうします?別に手錠を引きちぎって逃げてもかまいませんが、そんなことをすれば全国に指名手配してやりますよ。何せ、1人で1国の軍隊滅ぼせる程の極悪人の逃亡ですから…」
 すっかり強気になった巡査部長が言い放った。
 「直属の黄金聖闘士が全員犯罪者に成り果てたとしたら、アテナはさぞやご立腹なさるでしょうねえ…」
 はっ。全員の脳裏を同じ思いが駆け巡った。すなわち…
 …アテナのおしおき。
 こんな恐ろしいものが、この世に二つとあるだろうか、いやない(反語)。何をされるかわかったもんじゃない。恐らく、自分達の魂は粉々に砕け散り、未来永劫2度と転生することもないだろう…
 「…ミスター・ポリスマン、貴方の要求を聞きましょうか。」
 硬い声で言ったのはサガである。
 「喧嘩両成敗、情状酌量…ってなわけで、何もなかったことにしませんか?」
 にこやかに、しかし有無を言わせぬ口調で、巡査部長は提案の形を取った命令を下した。聖域に携わる人間とは、つわものである…。
 しかし、後にこの巡査部長と救急隊医師の間でなされた会話を聞いたら、聖闘士たちは憤死したかもしれない。
 「あの科学者、そんなに重傷だったのかね…?」
 「いいえ。全身青アザ程度でしたよ。」
 「…だろうと思ったよ。何せこうでもしない限り、ウチの絶対規則は守れそうにないからね。」
 ギリシアの警察の間で密かに暗黙の了解となっている絶対規則――

 ――普通の生活が送りたかったら、聖闘士がらみの事件には関わるな。


 …ともかくも、地上最強の黄金聖闘士達は、アドノスを乗せた救急車や、長蛇の列を作ったパトカーの群の後から、アドノスが所持していた荷車だの、化学薬品だの、実験器具だの、その他この一件に関わる資料のいっさいがっさいを持たされて、アテネ市街まで走らされることとなった。後にカミュはこの時の心境を次のような言葉で語っている。
 「畜生…何が悲しくて、家壊された上にアドノスの護送みたいな事をやらされねばならんというのだ…」



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