4.


 水曜日――ともだちが来て…


 この日もカミュはバイトの続きをする気にはなれなかった。どうも今週は精神状態がよろしくない。ふう、とため息をついて、来訪者たちに飲み物を入れる。
 「悪いな。そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」
 言葉の内容とはうらはらに、さも嬉しそうな様子でミロが言う。
 「最近あまりいいもん食ってないからな…こんな濃いコーヒーを飲むのは久しぶりだ」
 「…いくらなんでも私とて、来客に出涸らしのコーヒー豆を使うほど非常識ではないのでな」
 カミュは再びのため息をつきながら言った。アイオロスはすまなさそうにグリーンティーのカップを受け取る。
 「申し訳ないな、私は別に古いお茶の葉で出してもらってもよかったのだが」
 「いえ、そんな滅相も無い」
 「いや、私は構わないぞ。清貧暮らしも修行の一環と思えば、何の苦にもならないのだし」
 言って、アイオロスはさわやかな笑顔を浮かべる。アイオリアも真面目な顔で和した。
 「ああ、その通りだ、カミュ。それに緑茶は健康に良いのだからな。うちはいつも、1回分のお茶っ葉を12回は出して飲むぞ」
 「じ、12回……。」傍らで思わず遠い目をするカノン。彼はサガからアドノスの話を聞いて、興味本位でやってきたのである。
 「おい、何を驚いている、カノン。」敏感に反応して詰め寄ったのはミロである。
 「まさか…まさかお前のところでは、毎回毎回新しいお茶の葉をそのたびに使っていると言うのではあるまいな!?」
 カノンは眉間を押さえて呻いた。
 「そんなわけがあるか。うちだって清貧暮らしは同じだ。…ただ12回というのに驚いただけだ」
 「フッ」
 涼しげに笑ったのはアフロディーテである。
 「私は自分の家でも薔薇を育てているからな、紅茶はいつも新品のローズティーを飲んでいるぞ」
 「自家栽培か…それは羨ましい限りだな。しかしどうも催眠効果がありそうな気がするのは俺だけだろうか」
 ミロの言葉にアフロディーテは颯爽とのたまった。
 「なんの!そんなものは10杯も飲めば慣れるぞ!君たちも飲んでみればいい。特別に15杯分で小麦半袋に負けてやろう!」
 「……!!」
 アフロディーテの言葉に、それが冗談なのか本気なのか判定することができないまま、黄金聖闘士たちは絶句した。しかし、彼のことだから本当にデモンローズでお茶を入れているかもしれない…。問いただす勇気も無いまま心の中に冷や汗をかきながら、彼らは丁寧に神妙に、アフロディーテの申し出を辞退したのだった。


 やがて、カプチーノの泡を掻き回しながら、サガが切り出した。「…そろそろ…。」
 「わかっている…」とは、教皇。彼は昨夜からひどい頭痛に悩まされていた。
 「…ああ…言いたくない!思い出したくない!」各々が口々にそう嘆息するが、嘆いていても事態は変わらない。
 「ときにムウ、アドノスによって破損されたインディアン座、望遠鏡座、コンパス座、顕微鏡座の聖衣は治りそうか?」
 「…三体はどうにかなりそうですが…インディアン座の聖衣は大半がとけて損失していますので、大幅に形を変えねばならないでしょう。」
 「またか…まあよい、お前のデザインセンスに期待しよう。夜食は作ってやるからな…。」
 「また完徹ですか…」
 はああ…、と、一同を暗い雰囲気が支配する。虚しい。天下の黄金聖闘士が結集してなされる会話にしては、あまりにも虚しすぎる。
 「そして、あのマッドサイエンティストに対する傾向と対策だが…。」
 「どうしようもないと思う。」
 「まさか非武装の庶民に必殺技ぶちかますわけにもいかんしなあ…」
 「ああいうのは非武装の庶民って言うのか?」
 と、先程から口を閉ざしていたシャカが提案した。
 「どうかな。いっそ…アテナの力であれを真人間に戻す…というのは。」
 一瞬、一同の顔に希望の光が差した。――アテナ…!まさしく、困った時の助け船(=何でもありの世界)!!
 …しかし、それも数秒でさめてしまった。皆の気持ちを童虎が沈痛な面持ちで代弁した。
 「シャカよ…戻ると思うか?あれが…。」
 「…確かに想像もつきませんが…。しかし老師、お言葉ですがサガの悪人格ですら、アテナの盾の光の前で浄化され、善に立ち戻ったではありませんか。私の見たあのマッドサイエンティストからは、少なくとも邪悪のにおいはしませんが…。」
 「サガの場合は相反する形質のうちの1つがアテナのそれと一致していたがために、感化され、転換もした。だがよく考えてみろ。今回、問題は善悪ではない…正常か狂気かだ…。そしてシャカよ、あの城戸沙織嬢が、普通の人間として、世間一般で言うマトモなひとだと思うのか…?」
 本日数度目の沈黙が下りた。やがてシャカが口を開く。
 「私に…答えろと言うのですか…?それはあまりに残酷なお達しというもの…」
 「思わないんだな…。」
 「…………。」
 まさしく死に至る病とはこのことである。嘆きの壁が目の前だ。
 「何か遺恨の原因がある様子でしたが…あの分ではそれを何とかしたとしても矛先を収めてくれそうにはありませんし…。」
 カミュの気分はさながら針のむしろの上、といった感じだった。寝不足も身にしみる。ええい、今になって何て取り返しのつかないことをしてしまったんだろう…皆にこんなに迷惑かけて…。カミュはこぶしを握りしめる。まったく、氷河にでかい事を言える立場ではないな。男子たるもの、このくらいの度胸と勇気がなくてどうする…!
 「みんな…聞いてもらいたいことがあるのだ…。」
 真剣そのもの、といったカミュの口調に、皆は彼の顔を見やった。それからその口から語られた事実は、いやはや全員のど肝をどれほどすっぱ抜いてくれただろうか。
 「…カミュ…お前結構スゲー奴だったんだな…あらゆる意味で…」
 「しかし、気持ちはわからないでもないぞ。あまり気にするな、ホラ。」
 カミュは教皇に向き直った。皆が気を使ってくれていると思い、彼の良心は四方から圧迫されるようだった。
 「私の軽挙のために、皆に多大な迷惑をかけたこと、このカミュ心から悔いております。この上どのような処分を受けてもかまいません。」
 そう言ってひざまずく。ミロは心配そうな顔で教皇とカミュを見守った。彼はカミュの生真面目で一途な性格をよく知っていたから、その胸中を察して自分もいたたまれないような気持ちだったのである。
 「確かに――結果を見ればカミュよ、お前のした事の重大さは判るな。」
 「はっ…」カミュはまた一段と身を小さくする。
 「しかしこうなった原因というのも、ひとつにはお前達の生活の待遇の悪さかもしれぬ――」
 そして、教皇は悠然と口元に笑みを作った。ゆっくりとカミュの目前にまで歩み寄り、獣のような優雅さで床に膝をつき、視線の高さを合わせて、唐突に言う――「御免。」
 バキッ。
 …鈍い、手ごたえのある音が鳴り響いたのはほぼ同時であった。頬を押さえ、しばし茫然とするカミュ。こぶしをはたきながら、その彼に向かって教皇は言った。
 「沙汰はこれだけだ。今後とも十二宮の敵に対し全力で撃退するように。」
 室内にホッとしたような空気が広がった。
 「うっわ…カミュ、お前口切れてるぞ」
 「ほっ、手加減なしじゃな」
 ――教皇…。
 カミュは遠ざかる背に、深く黙礼した。


 その時である。稲光のように、カミュの目を閃光が焼いた。次の瞬間、凄まじい爆音があたりにとどろく。
 「うわっ!?」
 「ふっ…伏せろ――!!」
 ――目を開けたカミュは、眼前に広がる光景を見て、見るんじゃなかったと思った。玄関は吹き飛ばされ、往来の様子が丸見えである。そして外の明るい光に包まれ、巨大な荷車を背景に燦然として笑いを閃かせている男が1人――それは、今彼らがこの世で最も会いたくない男であった。
 「……アドノス……」
 土気色の顔で、誰もがげっそりと呟いた。
 「フハハハハ、いい壊れ方だ…多量のナトリウムに水を加えると、家がふっとぶぞ…危険がアブナイねえ…クックククク」
 あいかわらずテンションはイッちゃっている。
 「み…みんな無事か…」やっとのことでサガが呻いた。
 「サガよ!カノンが放心状態だ!」
 「ああーっこんな時に!」
 普段は温厚なアルデバランも、この時ばかりは目を光らせながら、
 「教皇…あいつにグレートホーンかけてもいいですか…」
 しかし、答えたのは教皇ではなくアドノスだった。
 「私をふっとばせばどうなるか!この荷車もいっしょにふっとぶのだよ!この中には猛毒の一酸化炭素ガスや二酸化硫黄が入ってるねえ!ご近所の皆さんが死んでしまうねえ!」
 その歌うような口調は、聞くものの神経をひび入らせる。
 「フッ!それならお前だけあの世に送ってやる!食らえ、ロイヤルデモンローズ!私は美しいもの以外見たくない!!」
 制止する間もない。猛毒のバラがアドノスに襲いかかる。しかし。
 「問答無用の枯葉剤――!!」
 アドノスがぶちまけたダイオキシンが、バラを葬り去った。
 「そ…そんなバカな…」アフロディーテは愕然として色を失う。…あまりにも非常識な戦いの内容に、周囲の黄金聖闘士たちの口元は引きつった。
 「ではこれはどうする!フリージングコフィン!」
 カミュの作り出した冷気が科学者の体を包む。そして科学者は、二度と抜け出せない氷の棺に閉じこめられる…
 …はずだった。本来なら。
 「ククク…君の技には弱点がある。そもそも氷とは水が凝固してできるものだよ!つまり、君がいくら凍気を出そうと、水さえなければフリージングコフィンを作り出すことは不可能なんだねえ!」
 「フッどうかな。私は別に水を持ってきて氷を作る必要などない。空気中に水蒸気がある限り!」
 「クックックッ…それを人は油断大敵というのだよ!」
 だしぬけにアドノスが、何かを自らの周囲にブチまけた。両者にらみあったまま、数刻が過ぎる。
 「ば…馬鹿な…なぜフリージングコフィンがきかない?!」
 「クッククク…これはシリカゲル!化学式はH2SiO3!こっちは五酸化二リンP2O5!強力な乾燥剤だねえ!今私の周りにはほとんど水蒸気がないんだねえ!ほぅぅら、ためしに実験してみようか!ほぅぅら、ピンクブタちゃんが、青ブタちゃんになったよ!」
 試薬をしみこませたブタのぬいぐるみを2体、晴れやかな顔で頭上にかざして、マッドサイエンティストは高笑いをした。
 「ひゅーほほほほほ!」
 ……だ、…だめだ……勝てない…。誰の胸にも、そんな思いが去来したのだろう、彼らは瞬時に顔を見合わせ、互いに大きく肯いた。そして、彼らが次にしたこと――それは、崩れた石塊やテーブルで、アドノスと自分達との間にバリケードを作成することだった。いや、彼らを笑ってはいけない。意味のない行為とはあながち言い切れないのである。なぜなら、そうすることで自分達の心を少しでも精神汚染から救ってあげることができるのだから…。
 「こ…これで改めて対等だ!覚悟するんだな!」
 虚勢を張るカノン。彼は必死なのだから、決して「どこが?」とツッコミを入れてはならないが、しかし、聖闘士側は全員バリケードの陰に隠れて首だけ出している。すさまじきことこの上ない。
 「こうなっては、もう一般人だの何だの言ってられるか。俺が一刀の元に切り伏せてみせる!」
 シュラの決意もそのあたりから来たのかもしれない。迷いを断ちきるように叫び、飛び出す。
 「エクスカリバー!」
 しかしシュラの動きは途中で金縛りにでもあったかのように、完全に止まってしまった。アドノスがポリバケツ12杯に、王水をなみなみと満たし、うち一杯を両手で掲げて薄ら笑いと共に待ち構えている。シュラの額を一筋、汗が流れ落ちた。
 「いけない!逃げろシュラ!」
 ムウの注進も虚しく、シュラは動けなかった。動こうにも、足がすくんで動けないのである。シュラは思った――カエルがヘビに睨まれて動けなくなるのは恐ろしいからだけじゃない…気持ち悪いからだ…!
 王水のバケツを下に置き、アドノスがやって来る。やって来る。やって来る。シュラは飛んで逃げたがる意識を必死でつなぎとめていた。
 「金属多しと言えども、金は最も延性・展性に富んだ金属だ…クックックッ…黄金聖衣もやはりそうなのかな…?」
 「や…やめてくれ――!!」
 その時である。王水を入れた12個のポリバケツがいきなり空中に浮かび上がった。それだけではない。例の巨大な荷車もである。シュラは目に涙さえ浮かべて、小気味よいアドリブをきかせてくれたムウに、心から感謝した。
 「さあ、今のうちです!」
 「……言われるまでもない……」
 …黄金聖闘士達の目には、ハーデスとの聖戦でも見せたことのない程の殺気がこもっていた。

 かくて、狂人科学者は捕らえられ、全身縛り上げられた上にゴミバケツに入れられ、カミュ宅の金庫の奥深くに保管された。すでに夕方になっていたため、黄金聖闘士が総がかりで眠らず休まず翌朝まで監視したと言う…。



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