3.


 火曜日――お風呂に入る…


 ――カッカッカッ…まだ薄暗い路地に足音がこだます…一人の男が、走っている。走っている。彼の目指す、その先は――
 「デスマスク。連続18回、通算63回目の遅刻だ。」
 「ああーっ!今日は走ったのに…!!いや待てよ、教皇!何であんたが俺の通算成績知ってるんだ!?まだ朝参10回もやってないくせに…さては、俺をハメる気だな!誰がそんな口から出まかせを信じるか!P!P!」
 抗議するデスマスクだったが、その声をサガが遮った。
 「いや、残念だったなデスマスクよ。この記録はこの私と教皇とで作成した、正真正銘、本物の記録だ!!」
 「ちなみに最多無断欠席は、意外にもアリエスのムウ。13年間サボり続けた強者です。また、連続長期休暇は、文字通り記録的な数字が出ています…なななんと!243年間!ライブラの童虎がほぼ一生かかってうちたてた金字塔です!!」
 「いやあ、それほどでも。」
 書記を兼ねているミロの発表に、童虎はくせのある黒髪をかき上げた。デスマスクの額を冷や汗が伝い落ちる。
 「ば、ばかな…まさか出席簿があったとは…」
 「フッ、覚悟はいいかデスマスクよ。罰としてお前に命ずる。今回の会議の間お前の発言は、すべて長崎弁でおこなってもらおうか」
 「な…なにい!!ば、ばかな…いつもと違う!!」
 「ウサギ跳びやアブラハム・ダンシングではお前には効果がないと判明したのでな…」
 教皇の仮面の下から残酷な笑みが覗いた。デスマスクは後ずさりする。
 「おっ…おっ…鬼ばいっ!」
 「…さて、本日皆に集まってもらったのは他でもない…」教皇はデスマスクを黙殺した。
 「単刀直入に言おう。赤貧を洗うが如き聖闘士の生活の実態についてだ。」
 「おお!過激な発言だな。」茶化したのは童虎である。
 「…貧しいのは大いに結構だが、それがために近頃聖闘士の品位が落ちつつあるような気がしてならない。それについて皆の意見が聞きたい。」
 「品位!落ちるも何も、もはやひとかけらも残っていないと思います!」と、ミロ。「俺は我と我が身が虚しくって虚しくって…」
 「バイトは美しくないと思います」とアフロディーテ。
 「さっさと縁が切れるものなら切りたいですね。」とカミュ。
 「いや…俺はそうでもないが。」手刀をひらひら、と振りながらシュラ。
 「またあ。何ばかっこつけよっとね。せからしかー。」………。
 「いいえ!私は耐えてみせます!今までアテナと皆にかけた迷惑を少しでも清算できるなら、このサガは、たとえくみ取りでも…!」
 「私は、アテナのご命令とあらば、どんな事でも厭いません。正義のためこのアイオロス、一命を賭してバイトでも何でもいたします。」
 「…兄さん…本当にそれでいいのか…?俺はあの変なネズミの着ぐるみだけは金輪際…」
 「確かに生活費を稼ぐのは良い社会勉強ではありますが…聖闘士たるもの、もっと他にやるべき事があると思いますね。」
 「目を開かねばできない仕事があって、私の修行に差し支えます。」
 「俺は…出番さえふやしてくれたら…」
 「ホッホッホッ。シオンよ、お主も大変じゃのう…」
 「…………。」
 無言でひとつ、大きなため息。我が師は疲れていらっしゃる…と、ムウは思った。その時、慌ただしく伝令が入る。
 「大変です!!十二宮に侵入者あり!すでに双魚宮を抜けたとのこと!!」
 「なにいいいいいっ!?」一同の声がハモった。
 「し…しかし何故誰も止めなかったのだ!?」
 「い、いえ…既に数人の聖闘士と多数の雑兵が向かったのですが、ことごとく倒されたとの事…」
 「馬鹿な!?その割にはその敵の小宇宙をひとかけらも感じないぞ!!」アイオリアが叫んだ。
 「はい…小宇宙はまるっきりないんですが、…どうしてでしょうね。」
 「ばかやろう、それを調べるのがお前らの仕事だろう!」
 「…デスマスク!」
 「うっ…。こんアンポンタンが!そいばしらぶっとがわいたちの仕事やろ!」
 伝令は神妙に顔を引きつらせた。「どうした?」と尋ねる童虎。
 「…すみません…こんな時どんな顔をしていいのかわからないんです」
 童虎はぽんっ、と伝令の肩に手をおいた。
 「笑え。わしが許す。」
 すなはち伝令は、遠慮なく爆笑した。
 「楽しんでる所悪いが諸君、そんなにくつろいでいていいのか?」切り出したのはアフロディーテである。
 「…?何を言っているんだお前?」
 「おいおい、双魚宮からここまでの通路にデモンローズを植えたのはお前だろう。本人がそんなに自信なくてどうす…」
 次の瞬間教皇の間はしん、と水をうったように静まり返った。
 「え…ええとだな…俺の記憶に間違いがなければ……今日はそのバラ、なかったような気がするのだが…」
 「私が寝ぼけて夢うつつだったのではない限り、そうだな…。」
 「ああ…なかったな…。」
 24の瞳が刺すような視線をアフロディーテに向けた。
 「アフロディーテ。まさかとは思うが…」
 「……フッ。この間キルナに売ったやつのことかな。」
 ――それはまさしく時にして刹那の100分の1――魚座の黄金聖闘士はめっためったのぎったぎったのぐゎばらぐゎばらにされて、教皇の玉座の下に安置されていた。「ひっ…ひどい…」中から声が聞こえる。ということはまあ、ほっといても大丈夫だろう…。
 「ああっ!そんなことしているうちに…!敵です!ついにこの教皇の間までやってきました!」
 「十二宮全宮無人か…神話の時代から数えて、間違いなく最速突破記録だな…」しみじみ述懐したのはアイオロスである。
 「…ど…どうしますか教皇…一応記録しときましょうか…?」
 「ミロ…お前はベルベル語が話したいのか…?」
 「いえ!直ちに迎撃させていただきます!」
 「侵入者よ!よくぞここまで来れたものだな!ワッハッハッハッ…」
 「いや…アルデバランよ…ほめる必要はないと思うぞ…。」
 みんな、けっこう動揺しているなあ…。その時、侵入者が声高に叫んだ。
 「聞け!愚かなる黄金聖闘士共よ!!私の名はアドノス、科学者である!ただ今より教皇の間を貴様ら全員の墓にしてやろう!!」
 「フッ…何を小ざかしいことを…この十二宮にのりこんできたからにはそれなりの覚悟はあるのだろうな!食らえ獅子の牙を……ライトニングボル――」
 バチッ。大きな音がした。そして皆の目に映っていたのは、見事に失神したアイオリアの姿だったのである。
 「な…何だと…!?バカな…」
 「ア…アイオリア!!」
 駆け寄ったアイオロスが直ちに喝を入れ、アイオリアは息を吹き返した。と、よく見るとその髪が濡れて、水がしたたり落ちている。
 「ん…何だ…?何か落ちてるぞ…水たまりの中に…!こ…これは!!」
 ――電極。
 「ア…アドノスとやら…貴様、アイオリアに水ぶっかけて導線投げて電流通したな…」
 アイオロスの瞳に炎が燃えている。
 「貴様は…聖闘士に対して決してしてはならないことをしてしまったのだ!!」
 「あっ!アイオロス、今行っては危な……!!」
 バチバチッ。ドサッ。……何のことはない。アイオリアを介抱した時点で、アイオロスも体が濡れていたのである。
 「あーあ…。」
 「兄弟共々熱血直線タイプか…。」
 「おい、誰か介抱してやれ…」
 それぞれ軽口を叩きながら、しかし、黄金聖闘士達の全神経は、アドノスと称する科学者に集中されていた。
 と、その時。
 「金は数ある金属のうちでも3番目に電気を通しやすいのだよ、ククク…1番目は何だと思う…?私に立ち向かってきた白銀聖闘士は今の攻撃で全員心臓発作だよ…クックックッ…」
 ざわっ。異様な緊張が、その場を走った。
 「…貴様、何者だ?何が目的でここまでやって来た?」
 静かな口調で、教皇が問う。
 「私かね…?私は一介の科学者。目的は…黄金聖闘士の殲滅さ!!」
 アドノスが手首をひるがえした。無数の液体の塊が空中を乱れ飛ぶ。片腕の装甲でそれを払い落としたサガが、何気なくその液体の付着した箇所を見て、突然絶叫を放った。
 「ば、ばかな!?溶けている!!」
 「ハーッハッハッハッハッ!金が弱いのは王水っ!!」
 もはや酔狂の沙汰である。そこら中に王水をふりまくアドノスと、悲鳴をあげつつ逃げまどう黄金のお兄さん方々。
 「そぉぅぅら、そぉぅぅらっ!」
 「よせ!やめろ――――ッ!!」
 「ハーッハッハッ君たち知っているかね!!王水とは濃塩酸と濃硝酸を3:1の体積の割合で混合した液体のことだ!!さしもの金もこれには少しずつ溶けていくよー!さあどうだね!色があせるよ!形が崩れるよ!カッコ悪いよ!」
 「けっ、うるせえな!誰がこんなスローモーションみてえなもんに当たると思ってんだよ!」
 「…デスマスク。」
 「はい、もとい!ひっちゃかましかね!だいがこぎゃんスローモーションごたんとに当たると思っとっとね!」
 …実際、初めの不意打ちよりこの方、王水に当たって溶かされるものはいなかった。いなかったが…何やらわけのわからぬ恐怖感が、黄金聖闘士達の精神的余裕をほとんど奪いかけていた。このアドノスという男、普通じゃない。人間が持っているべき線が一本、どっかに弾け飛んでいる。一体何なんだ。こいつわ。
 「アドノス!もう一つだけ聞きたい!我々に何か恨みでもあるのか!!?」
 「恨み…?」
 ふっ…と笑って、アドノスは王水をしまった。全員がその場で思わず深い深い、吐息を漏らす。脱力して膝をつく者も現れた。
 「恨みか…恨めしい…恨めしいね…聖闘士が憎い…そう、憎くて、憎くて、あんまり憎いんで、何で憎かったのか忘れてしまったねえ…」
 そして、凄絶な笑みを浮かべ、やおら塩酸と水酸化ナトリウムを取り出し、目分量で混ぜ合わせて――
――飲み干した。(よい子のみなさんは絶対に真似してはいけません。)
 「な、なにぃ!」
 「フフフ…しょっぱい…しょっぱいねえ…これは中和して、食塩水になってしまったんだねェェ。ククク…クックックッ…」
 「や、やめてくれ――ッ!」たまりかねてミロが悲鳴を上げる。
 「そうぅ〜言えば…フッ…」
 アドノスは満足げに辺りを見渡し、勝利の余韻に浸るかのような恍惚とした表情で目を細めた。
 「…私に立ち向かって来た青銅聖闘士共がどうなったと思う…?ククク、この濃硫酸で今ごろみんな、聖衣共々べろべろのどろどろだよ…」
 その直後。アドノスは数十メートル吹き飛んだ。体につけていたフラスコや試験管の類が砕ける音がする。
 「だ、誰だ!何をする…!」
 わめき散らすアドノスの前にゆぅらぁり、と立っているのは…
 「ムウ!!」
 「…貴様…。」呟くように言って、じりっ…と前につめよるムウ。
 「――!?」
 座に再び緊張が走る。ムウの口調が豹変していた。すっ…と片手をアドノスの眼前に突き出す。
 「誰がその聖衣を修復すると思っている!!」
 それでもスターライトエクスティンクションを打たれずにすんで、科学者は幸運だった。派手な音と共に教皇の間の天井をブチ抜いて、お空の彼方に見えなくなりはしたが。ちなみに、その場にいた者全員が、奴を敵に回さなくて本当に良かったと思ったと、後に語っている。
 何はともあれ、災厄は消えた。全員、その場にへたり込む。顔色が真っ青の者もいる。ムウも、放心状態でさっきの場所に座り込んだまま一歩も動かない。と、重い沈黙をシュラが破った。
 「おもいだした…。奴は確か、聖域の巷で人々に忌み恐れられている、マッド・サイエンティスト、アドノスだ……。」
 「むっ、それならこのシャカも聞いたことがあるぞ。その科学に対する実績はノーベル賞並みであるにもかかわらず、その狂人・変人ぶりをもって、都市部から隔離されたというが…」
 「そうなのか…?…だがいくら結界に覆われているからって、ここ聖域に隔離しなくったっていいじゃないか…」
 「それだ!」と、あごに手をあててサガが言う。
 「さっきから気になっていたのだが、あのアドノスとかいう変態、一体どうやってこの十二宮の位置がわかったのだ?十重二十重の結界に覆われたこの場所は、聖域近辺の人間ですらめったに近寄らない、まさしく聖闘士でなければ勝手がわからぬ場所だというのに…。」
 「…私が推察するに、」教皇が重々しい口調で言った。「デスマスクの後をつけたな…。」
 「うっ…オレ…もとい、オイっすか?…そう言えば、足音の妙にエコーすったいねえ、と思っとったばってん…あいが、あん親父の足音やったとばいねー。」
 …一同は、もはやデスマスクをどつく気力も残っていなかった。
 「あのマッド・サイエンティストが相手だとすると…あれくらいでへこたれるとは思えんな。近いうちに必ず、再襲撃してくるだろう。…あまり気は進まぬが、明日、皆で対策を講じたいと思う。異存ないか?」
 もちろん、異存など出なかった。場所はカミュ宅と決定する。そこが一番広いからである。だが、カミュは心に重くのしかかっている昨夜の出来事を、皆に話すべきか否か、迷っていた。――いや、話せるわけがなかった。事、ここに至った今。悶々として、カミュのテンションは人一倍低かった。
 …ちなみにただ一人、アフロディーテは、未だに教皇の玉座の下にかくれて、「う、美しくない…(以下略)」と呟き続けていた。確かに、アドノスは彼には少しキツかったかもしれない――目の細い脂性の中年親父の、あの言動、あの、過激さ、あの怪しさであるからして…。
 「…アフロディーテ…明日、ちゃんと来るのだぞ…」
 それでもそんな彼に、とどめの一撃を忘れない教皇は、ナイスなお方である。

 そして黄金の12人と教皇は、その日1日アドノスの幻影にどっぷりと悩まされ続けたという…。


2へ←  →4へ
  小説トップへ