2.


  月曜日――お風呂を焚いて…


 その日は昼から氷河が遊びに来ていた。そう、遊びに…それがカミュの気に入らない。
 「氷河、そんなに暇ならこの糸すべてまいてくれんかね」
 まだ10分の1も片付いていない糸巻き作業のことである。
 「カミュ!!貴方は…貴方は…せっかく訪ねてきた弟子を、そんな、小間使いみたいに扱うんですか!俺は…俺はそんなに未熟者だというんですか!こ…この氷河は…くっ…!」
 「だぁ――っ泣くな!!常日頃からクールになれと言っておろうが!」
 「カミュだってさっきからわめいてるじゃないですか!」
 「うっ…こ、これは…ええい!男子たるもの、屁理屈をこねるな!」
 「な、……!!」
 しかし、そうこう言いながらもわざわざ紅茶を入れているカミュは、情けないを通り越して健気である。
 「おや…砂糖が切れてるな。氷河、ちょっと買いに行ってくれんか…」
言いながら財布を探っていたカミュが、突然硬直した。
 「カミュ…?どーしたんですか」
 「ない…」
 「ないって…何が」
 「砂糖のタダ券がないっ!!確かにここに入れておいたのにっ!!」
 10秒ほど立ち尽くし、その間物凄い速さで頭を回転させながら、カミュは何かぶつぶつ言っていたが、すぐにぎんっ!と目が据わった。
「昨日市場で落とした。拾って来る。」
 …止める間もなかった。氷河は言いかけたセリフを、勢いよく閉まったドアに向けて吐き出した。
 「…市場で落としたタダ券が、次の日まで残ってるわけないじゃないですか…。」
 …カミュときたら、頑固な上に見かけによらずマヌケなんだから……。湯気をたてている紅茶に目をやり、氷河は少し笑った。あ、そういえば…。彼はふと思い当たる。俺、昔は紅茶に砂糖入れないと飲めなかったんだっけ。
 「それにしても、」今度は声に出して言う。「カミュがあんなに守銭奴だったとは…」



 ギリシアの空に薄闇が忍び寄って来た。次第にそれは濃くなり、やがて空には宇宙が露わになる。一軒の家の細い煙突の上に、人影がひとり立っていた。束ねた長い髪の先が、風に踊っている。一刻ほどして、眼下にこちらへ向かって来る人の気配を感じるや否や、人影はその場からかき消えた。そして、家の灯りが急に路を明るくする。
 「お疲れ様です」ムウは、帰って来た人物――シオンに声をかけた。
 「ああ、全くだ…。もう肩が凝るわ凝るわ、何で教皇の正装はこんなにアンバランスなのだ…」
 そう言って仮面を投げ捨てるように外すと、シオンは机の上につっ伏した。
 「頭にはその仮面!肩周りにはこの装飾!何もかもが無駄にでかい上にこれでは首もろくに動かぬわ!ムチ打ち症患者か私は!そしてこの法衣の意味不明な重さ!何だというのだ一体!まったく上ばかり重くて幼児じゃあるまいし、第一…」
 ぐちる。ぐちるのである。これでアルコールが入ったらどういう固体反応が見られるのだろうかと、ムウが無責任にも考えていると、
 「ムウ。明朝、7時から朝参っ!」
 シオンが宣言した。
 「そっ…そんな…!」
 「そんなじゃない!まさか起きられないなどと…」
 「言いませんよ!…でも…」
 「何か、不都合でも?」
 「…途中で知らない一般人にたくさん会わなきゃならないじゃないですか」
 瞬間、室内の空気は液体を通り越して、凝固した。「…は…?」低い声で、思わずシオンは聞き返す。
 「たくさん…って…朝の7時だぞ…たかが知れて…」
 「いえホラ、7才の時から標高6000m地帯で人の気配と無縁の生活をしていましたからね。誰かさんがコロッと殺されたりしたせいで…」
 「…今の、シャレのつもりならぶつ。」
 「暴力は反対です。お茶入りましたよ。」
 熱い紅茶に濃いヤクのバターを入れたもので、チベットの人々が好む飲み物である。カロリーたっぷりらしい。
 「おお、これはまた懐かしいものを…」
 シオンの口調が心なしか弾んでいる。「最近雑用仕事が忙しいからな…」しみじみ。それってまるっきり中間管理職のおじいさんじゃないですか、とはさすがに言わず、
 「あまり根を詰めないで下さいよ。この頃疲れているでしょう。」
 「お前に心配される程落ちてないよ。皆のこともよくわかるようになったし…」
 ああそうか、とムウは思った。しかし、やはり同時に中間管理職のおじいさんが現場復帰しました、という図が頭の中から離れない。
 「そうですか、それは何よりですね。」
 ムウは極上の微笑みで、自己内のフトドキな連想を獄中深くに封じた。



 それは深夜だった。科学者の家のドアを、1人の黄金聖闘士が蹴破った。
 「大人しく観念するんだな。」
 「なっ…何者だ!」
 全くである。
 「忘れたとは言わせん。昨日、拾った砂糖のタダ券を勝手に持ち帰っただろう。」
 「なっ…何を根拠にそのようなことを!」
 「貴様は甘かった…戦場ではその甘さが命取りになるということだ!よもやこの私が自分のタダ券に名前を書いていたということまでは気付かなかったろう!!」
 「何ィっ!?どっ…どこにそんなもん!?」
 「フッ…裏側のいちばんすみに、水色の文字で…」
 カミュ。そんなん誰も見ないよ。
 「わかったなら大人しく渡すのだ!」
 「ち…畜生…」
 科学者は涙声である。しかしそれでいて敢えて逆らわなかったのは、黄金聖闘士のご高名か、それとも…
 「そう、返してくれればよいのだ。今度からは拾い物は交番に届けるのだぞ」
 高らかに靴音を響かせて、カミュは帰っていった。後に残された科学者の、心の呟きを知る由もなく…。
 ――黄金聖闘士…覚えていろ…ククク…ウハーッハハハハ…!
 実験器具が埃のように散らかった暗い暗い部屋の中で、彼は陰湿に沸騰していた。
 ちなみに、深夜帰宅したカミュを待っていたのは、朝参の連絡だった。その時の気持ちは、現代日本高校生(地方在住)が朝補習に対して抱くそれそのものであっただろうと思われる。



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