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LE SORELLE NELLE VIGNE(ワイン・ヤードに捧ぐ姉妹)











          "LUENZO"(ルエンツォ/左)
"VERNACCIA DI SAN GIMIGNANO "SANICE""
(ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ・サニチェ/右)



Letizia e Marialuisa Cesani(レティツイア(右)&マリアルイーザ(左)姉妹)


                                          Azienda Agricola "VINCENZO CESANI"
                                                 (ヴィンチェンゾ・チェザーニ農場)
                                    Localita, Pancole 82/D, 53037 San Gimignano SIENA
                                                     Tel/Fax : 39(0)577/955084


  ワイン・ヤードに捧ぐ姉妹


 初夏の煌々とした日差しに照らされては、青く、そしてどこまでも美しく茂るワイン・ヤードの向こうに、二人の妖精と出会う。

 レティツイア、そして、マリアルイーザ

 この世界にその名を誇る有名白ワイン「ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ」の産地”サン・ジミニャーノ”をすぐ近くに眺める美しき高台「パンコーレ」の里に佇む、とある小さな家族経営のワイナリー「チェザーニ」に生まれた美しき姉妹である。

 
時は、80年代後半に凄まじい勢いで火が付いた”トスカーナ・ワイン・ブーム”が起きるはるか40年前のこと。当時のイタリア・ワイン・シーンというものは、”ヨーロッパ最大のワイン生産国”として知られながらも、かのワイン先進国フランスのように長い歴史と組織化された生産体系を持っていなかったなどの事情や、政府の無策による海外マーケットの欠如により、いわゆる”暗黒の時代”を迎えていた。

 第2次大戦後、農業国イタリア再建の為にも人々はがむしゃらに働き、むさぼるように食べ、そしてその潤いを満たすかのようにワインを飲んでいた時代で、こうして消費される”生活の糧”としての位置を占めていた農産物の多くに必要とされていたものは”量”。他にも多くのマイナス要因があったであろう。国家レベルにワイン醸造学の研究を行う学院の存在しなかったことにより、”無知”であった人々が引き継ぐものは唯なる伝統と呼ばれる悪習。長年に渡って放置されすっかり荒れ果てた畑に育つ葡萄は野放しにその実を付け誇り、その全てを搾り取るかのように得られたモストが眠る先は、可しくも洗浄してはいけないと伝えられ続けていた古い大樽やセメント、もしくはガラスの空洞。あのキャンティとて、現代イタリア・ワイン・ルネッサンスの中で最初に課題とされていながらも、未だに名残惜しくまかり通っているのが、”伝統的キャンティ生誕の由来”として美しく語り継がれている”白ワイン品種の混入”の排除であった。

 とにかく、イタリア原産で歴史的にも最も古く重要、かの詩人ダンテ・アリギエーリがこよなく愛したと語り継がれる”中世の華やかな栄光”を誇るこのヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノも、その名誉たる存在感はすっかりと消え失せ、史上において最も”質の”、そしてさらに言うならば”絶滅の”危機にあったとさえ云われる時代であった。

 そんな中、今となってはその値も付けられぬほどに高騰しているここトスカーナの大地は、”亡くした”若しくは”離れてしまった”生産者を補う国の政策でタダ同然に安く売り叩かれ、それを買い取ったマルケ州からの移民の一団に生まれたのが、このヴィンチェンゾ氏である。

 思えば、マルケ州にも、”ヴェルナッチャ”に同じく、イタリア原産品種で、歴史的にも偉大な白ワイン”ヴェルディッキオ・デイ・カステッリ・ディ・イエージ”がある。”魚のボトル”で一躍知られることとなった、爽やかな口当たりとフレッシュ感、フルーツ香が特徴のワインだが、これとて、現代の意識、そして技術の向上により変化しつつあるのは、この”ヴェルナッチャ種”同様のこと。

 そんな不安定な時代のさなか、失われつつあった”文化”を再建、保持すべく立ち上がったヨーロッパ共同体、イタリア政府の政策”原産地呼称名称(DOC)制定により、1966年、紛れもなくイタリア最初の指定を受けたワインとして注目が集まりながらも、理念と現実の食い違いの狭間に揺れていたこの由緒正しき白ワインの事情をヴィンチェンゾ氏はこう語ってくれた。

 「人々は”赤”を好んで飲んでいた。よって、生産者側も”キャンティ”に重点を置き、当時”イタリア最初のDOCワイン”ヴェルナッチャ”は死滅しかかっていたとも言える。不思議な話だけどね。」

 彼自身のルーツにマルケ州の”ヴェルディッキオ”を抱えているせいか否か、”ヴェルナッチャ種”に何かしらの魅力を感じていたヴィンチェンゾ氏は、その再建にひたすら努めたという。時を同じくとして、この地に振り降りた多くの生産者たちも同じ志を胸に抱えていた。名門”ピエートラフィッタ”、”グイッチャルディーニ”などの古巣ワイナリーは当然、かの”テルッツイ””ファルキーニ”などなど、今となってはビックネームの彼らも、同じ苦しみを味わっていたことは間違いない事実である。苗樹の入れ替えや新しいクローンの組合せ、醸造技術の研究、ステンレス樽による温度管理発酵システムの導入など、そんな多くのワイナリー達の努力の経緯が、現在のDOCGワイン”ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャ―ノを生み出したのである。

 そんな、良いワインを造るために挙げられる”様々な要因”のなかで、彼、ヴィンチェンゾ氏が最も重要視しているのは、葡萄畑だと言う。

 「毎日、葡萄、そして天候ととにらみ合うこと。そうすると自ずから結果が見えてくる。」

  こう語った”葡萄畑に恋した男”ヴィンチェンゾ氏はひたすら黙々と畑を耕し続ける。

 「なぜならそれが彼の生きがいだがら」

  とそばで語ってくれたのは、彼の二人の娘、レティッツイアさんとマリアルイーザさんである。

 レティッツイアさん、28歳、そしてマリアルイ―ザさん、22歳、家族経営の小さなワイナリー”ヴィンチェンゾ・チェザーニ”を支える二人の若き姉妹である。

 レティッツイアさんが高校卒業をまじかに控えた10年ほど前のこと、畑仕事に明け暮れる、過酷な父の家業を誰が引き継ぐべきか否か、彼女は散々迷ったと言う。

 「私が継ごうが継がまいが、彼は畑を耕し続けていたと思うわ。」

 継ぐことを迫られた事はないと言う。他にやりたいことがなかった訳でもない。ただ、ひたすらそんな父の背中を眺め育った彼女の中では最終的に”選択”は存在しなかったのであろう。父に付き添いカンティーナの仕事を学び、モストの香りに朝から晩まで包まれる。そうして、彼女の中に芽生えたものは、”商品生産”としてではなく、”手造りの工芸品”としてのワイン意識であり、長い長い我慢と大変な苦労、そして尽き果てぬ努力の影に成す魅惑の雫。いつの日か、すっかり”恋”に落ちてしまったワイン生産に留まらず、昨年から「ワイン街道組合、ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーの支部の代表として活躍。ワインに限らず、地元の良い農産物のプレゼンテーションなどの企画に走り、多忙ながらも充実した毎日を過ごしていると言う。

 「まず第一に、多くの人々に”ワイン”に始まる農産物の素晴らしさを知って欲しい。そして、その中で少しでも感銘を受け、次世代に繋がる人達が育ってくれれば幸いだわ。私が父から学んだようにね。」

 春期には、街中の広場にての試飲会「塔の狭間の道」。夏期には、幾つかのワイナリーを巡る試飲ツアー「景色の広がるところには芸術がある」。そして秋口には、新オリーブ・オイルのテイスティング会「失われた味の開放」。そしてオイル・テイスティング教室などの意欲的な文化活動を催している。

 ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ生産共同体のプレジデントであり、「ファットーリア・パラディーゾ」というワイナリーのオーナー、そして一流のドクターでもある、ヴァスコ・チェッティ氏はこう彼女について言及した。

 「今、この”ヴェルナッチャ業界”を最も引っ張っている若きリーダーはダントツに彼女である。その熱意には、我々でも時々学ぶことがあるくらいさ」

 「ヴェルナッチャは偉大な品種だわ。そしてまだまだ無限の可能性を秘めているのよ」と語る彼女の目は実に輝いている。

 そして、もうひとり輝く女性がここにいる。

 マリアルイーザさん。ワイナリーが経営するアグリトゥリーズモの運営、そして試飲会やカンティーナ作業のお手伝いを担当している次女である。高校にてツアー学を専攻していた彼女は、一度は父に大学への進学も勧められたとも言うが、やはり姉と同じ理由で仕事を選ぶこととなる。

 「ヴェルナッチャは私達には全てだわ。ヴィンテージによる落差も出やすいし、手間も非常に掛かるけど、本当に良く仕上がった時は何者にも及ばない。いつの日か、私たちの手で、世界最高のヴェルナッチャを造ってみせるわ」」


  ”ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャ―ノ”に降り注ぐ、眩しくも新しい光の生誕、そして尊くも魅惑的な夢へと導く意志の伝達が生み出す未来。

 そう、いつの日か、彼女達の手から”神話”が生まれるでしょう。何故ならそれが、彼女達の生きがいだから。


                                                  2001年8月08日 土居 昇用