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カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット
Karl Rudolf Gerd von Rundstedt
(1875〜1953)


 
 プロシア正統派の陸軍長老の一人。第一次世界大戦では軍事顧問としてトルコへ派遣され、その際の活躍が、ドイツ敗戦後、『黒い共和国計画』と呼ばれる陸軍再建を進める、フォン・ゼークト将軍に注目され、参謀将校となりました。1938年、ヒトラーによる陸軍粛清のあおりを受けて引退しますが、翌年にはヒトラーの軍部懐柔策により現役復帰。ポーランド侵攻戦では南方軍集団を指揮し、対フランス戦ではA軍集団司令官となります。
 伝統的なプロシア軍人でありながら、柔軟な思考を持つルントシュテットは、各国で異端視されていた機甲戦術にも理解を示し、機甲戦術の第一人者であるグデーリアンや、フランス戦準備中、ルントシュテットの参謀長であり、アルデンヌ森林地帯突破作戦を考案したフォン・マンシュタインの良き理解者となりました。フランス侵攻戦の最中、麾下のグデーリアンとフォン・クライストが対立。作戦遂行の危機となるところを、巧みに仲裁して危機を回避します。
 フランス戦での功績により元帥に昇進したルントシュテットは41年の対ソ戦では南方軍集団を指揮しますが、作戦を巡ってヒトラーと対立、解任されますが、翌年、フランス駐留部隊を統括する西方総軍司令官に任命されます。
 
 来るべき連合軍の上陸作戦に備え、ルントシュテットは、カレーを集中的に防御する事で連合軍をノルマンディーへ向けさせ、上陸した敵部隊の攻勢を見極め、強力な機甲戦力で以て、内陸で撃破する策を考えますが、これは西方総軍麾下のB軍集団司令官ロンメル元帥が考える、沿岸での水際防御と相反するものであり、機甲部隊の運用と配置を巡って両者は対立します。
 1944年6月6日、連合軍はノルマンディーへの上陸作戦“オーバーロード(大君主)”を開始。ヒトラーの死守と反撃命令は徒にドイツ軍を損耗させ、7月末に西部戦線は崩壊。ヒトラーに戦争の早期終結を進言したルントシュテットは罷免されるも復帰。しかし、絶望的な戦況をどうする事も出来ず、1945年に退役。英軍の捕虜となりますが戦犯の対象から外され、静かな余生を送りました。
 他の将官が、一度解任されると再度復帰が難しかった中、ルントシュテットが三度解任されるも、三度復帰しえたのは、ヒトラーが彼を尊敬し、彼の意見を最後まで重視した故でした。


補足

麾下のグデーリアンとフォン・クライストが対立=A軍集団麾下の装甲集団司令官、フォン・クライスト上級大将は騎兵科出身の騎兵信奉者であり、機甲戦術理論には懐疑的な保守派でした。その彼が装甲集団司令官職に就いたのは、隷下の第19装甲軍団長グデーリアン大将を牽制する意味合いがありました。クライストの機甲戦術への無理解は、グデーリアンへ度々進撃停止や針路変更命令を出し、進撃速度が命の機甲戦を停滞させる事になり、これに怒ったグデーリアンと、日頃から機甲科を批判していたクライストは激しく口論。グデーリアンが辞表を叩き付ける事態にまで発展します。ルントシュテットの仲裁で面目を保ち、又、自由裁量権を与えられて勝利に貢献したグデーリアンの恩恵で、フランス戦勝利の立役者として名声を得たクライストは、機甲戦術理論を謙虚に学び、後の対ソ戦では数々の大戦果を上げました。