エルヴィン・ヨハンネス・オイゲン・ロンメル |
Erwin Johannes Eugen Rommel (1891〜1944) |
敵味方問わず敬愛された名将。第一次世界大戦でのヴュルテンベルク山岳大隊所属時、イタリア戦線・カポレットの戦いでの功績により、“プール・ラ・メリート”勲章を拝受。ドイツ敗戦後も陸軍に残留し、ドレスデン歩兵学校教官時、執筆した『歩兵の攻撃』はベストセラーとなり、ヒトラーも注目。ロンメルを高く評価したヒトラーにより、護衛隊指揮官に抜擢されました。 ポーランド侵攻戦での“電撃戦”の主役である戦車の活躍に感銘を受けたロンメルは、ヒトラーに願い出て、第二軽師団から改編された第七装甲師団長に就任。対フランス戦での第七装甲師団は神出鬼没の活躍から“幽霊師団”の異名を奉られる事になります。なお、後のアフリカ軍団司令官時、88mm高射砲を水平射撃して敵戦車を撃破する戦法は、フランス戦で初めて採った戦法でした。 イタリアのアフリカ侵攻が失敗すると、これを放置しては地中海方面への防衛が懸念されると判断したヒトラーは、北アフリカへイタリア軍増援を派遣。後に、大胆巧妙な戦いぶりから“砂漠の狐”と呼ばれたロンメルの指揮下、勇名を馳せる『ドイツ・アフリカ軍団(DAK)』です。 |
ドイツにとって、アフリカ戦線は副次的な戦線であり、為にロンメルに与えられた戦力は敵と比べて明らかに劣勢でしたが、大釜の戦いとトブルク攻略を果たして、その功によりドイツ軍史上最年少(50歳)の元帥に昇進。しかし、エル・アラメインでの敗戦後、DAKは守勢に回り、また、アフリカの過酷な環境で体調を崩していたロンメルは病気療養の為、帰国し療養生活に入ります。復帰後、ヒトラーに後退を進言して解任。後に再編されたアフリカ軍集団司令官に就任しますが、さしものロンメルといえど、圧倒的不利な戦局を挽回する事は出来ませんでした。またしても撤退を却下され、心身ともに疲れ果てたロンメルは再び病気療養に入り、程なくアフリカ戦線の枢軸軍も降伏。北アフリカの死闘は終わりを告げます。 北イタリアで編成されたB軍集団の司令官となったロンメルは、ノルマンディー戦の最中、車上で航空機からの銃撃を受け重傷。直後に起こったヒトラー暗殺未遂事件に関わっていると疑われたロンメルは死を強要され、家族に類が及ばない事を条件に、毒を服用し自殺。ヒトラーはその真実を隠す為、ノルマンディー戦での傷が元で死亡と発表、国葬が執り行われました。 |
補足
“プール・ラ・メリート”勲章=フリードリヒ大王が創始した最高武功勲章。フランス語(当時、プロシア宮廷での公用語はフランス語だった事による)で“勲功に対し”の意。第二次世界大戦では、騎士鉄十字章(ロンメル授章の最高はダイヤモンド剣付き柏葉騎士十字章)と共に佩用しております。当時中尉だったロンメルは、カポレットの戦いにおいて、多数のイタリア軍将兵を捕虜にしますが、この功績で授章するはずだった勲章が手違いから別人に授与される事になり、ロンメルはこれに強く抗議しますが認められず、勲章獲得に執念を燃やしたロンメルは新たに戦功を上げ、念願の“プール・ラ・メリート”勲章を獲得するという、人間くさいエピソードが残されています。 ヒトラー暗殺未遂事件=ノルマンディー戦最中の1944年7月20日、総統大本営“ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)”の会議室に仕掛けられた爆弾が爆発。偶然から軽症で済んだヒトラーは直ちに報復を開始し、直接事件に関与した将軍や将校が処刑又は自殺に追い込まれ、無関係な者も含めて、多数の反ヒトラー派がゲシュタポの手により、逮捕・処刑されました。尚、ロンメル自身は暗殺計画には何ら関与していなかったのですが、彼を反ヒトラー派に加えたと錯覚していた将校が拷問の際、ロンメルの名を口にした為、疑心暗鬼に囚われたヒトラーはロンメルに死を強要し、自分の命運を悟ったロンメルは10月14日、自決を選びました。 ノルマンディー戦での傷が元で=国民的英雄であるロンメルまでもが反ヒトラー派であり、暗殺未遂事件に連座(事実は違うのですがヒトラーはそう信じた)した為に死を強要したとは、ヒトラーでも発表出来ず、公告での死因は『7月17日に受けた重傷が原因』とされました。10月18日、国葬が執り行われ、多数の参列者が彼の死を悼みましたが、この国葬は真実を隠蔽する為のものでした。 |