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エーリヒ・フォン・マンシュタイン
Erich von Manstein
(1887〜1973)



 通常、両立し得ないとされる“作戦立案能力”と“部隊指揮能力”を兼ね備えた、ドイツ軍最高の名将。代々軍人を輩出した名門貴族レヴィンスキー家に生まれ、後に母方の親類マンシュタイン家の養子になり、フォン・レヴィンスキー=フォン・マンシュタインと、二重姓を名乗ります。
 第二次世界大戦勃発時、フォン・ルントシュテット上級大将の下、参謀長として従軍。対フランス戦に先立ち、参謀本部は第一次世界大戦と同様、シュリーフェン計画を踏襲した黄作戦を立案しますが、マンシュタインは、機甲部隊生みの親であり、陸軍大学の同期であるグデーリアン大将の賛同を得た、機甲部隊の進攻が困難とされたアルデンヌの森林地帯を突破し、英仏海峡へ至るという、マンシュタイン計画を立案し、旧来の作戦計画の変更を再三要求。この為、総司令部に煙たがれ、第38歩兵軍団長に左遷されますが、メケレン事件の発生と、従来の計画に不満だったヒトラーは、マンシュタインの斬新な作戦構想に同意し、マンシュタイン計画を採用。誤った防衛構想に固執し、旧態依然のフランスは2ヶ月も経たずに降伏。この作戦においてマンシュタインは、実戦指揮官としても優れた能力を示しました。
 
 1941年、第11軍司令官となり、セヴァストポリ要塞攻略戦を指揮。80センチ列車砲ドーラ、臼砲カール、ガンマを主力とする火砲1300門を投入し、これを陥落。この功により元帥に昇進。その後レニングラード攻略を指揮。攻略は失敗するものの、一個軍を撃滅。ドン軍(後、南方軍)集団司令官となり、フォン・パウルス指揮下の第6軍救出に向かいますが、第6軍は降伏。マンシュタインも危機に陥りますが、機動防御の冴えを見せ、東部戦線のドイツ軍を崩壊の危機から救います。
 “後の先”を主張するマンシュタイン案に対し、“先の先”にヒトラーが固執して立案された、ツィタデレ作戦は多大な犠牲を払った末、何ら戦略的効果を得ることなく中止します。
 クルスク戦の後、大きく後退して戦線を縮小し、兵力を再編すべきと強硬に主張したマンシュタインはヒトラーに忌避され、南方軍集団司令官を解任され、復帰することなく終戦を迎えます。
 戦後の裁判で18年の禁固刑を受けますが、53年に釈放。回顧録『失われた勝利』を残しました。