■ キャラクター考察
各キャラクターの担っている意味というか、そんなもの。
 
FF7からDCFF7への継承
クラウド=ストライフ
「興味ないね」
シェルク=ルーイ
「ま、どうでもいいですけど」
 ……こじつけですか?(笑)
 クラウドにしてもシェルクにしても、この「世界を救う」という途方もない活動に参加するそもそもの動機というのは、世界の為ではなく、まずは“自分自身のため”だったのだと解釈しています。
 憧憬の対象が一転して失望、故郷を失った事への絶望、自らを救い失った命に対する罪悪。それらに苛まれ続けたクラウドは、まるで救いを求める様に旅をする。
 理不尽な処遇に対する失望、引き裂かれた家族と絶対的な孤独への絶望、自らを救い出して欲しいと願う淡い希望。その狭間に揺れていたシェルクも、地上へ出てから導かれるようにして人々と出会い、彼らの中で自身を見つめ、その過程で世界を救う活動に荷担する。
 また、ふたりは“運び屋”という点にも共通点がある。

クラウド=ストライフ
ストライフ・デリバリー・サービス
文字通りの“運び屋”。
物理的な荷物を、依頼人から指定の宛先へ届けるという単純かつ重要な仕事である。
荷物は、それを必要とする人の手元に届いて初めて役に立つものです。
シェルク=ルーイ
センシティブ・ネット・ダイブ
情報という“運び屋”。
ルクレツィアという個人のデータ、記憶、そして願い。断片化したそれらをシェルクという個人が集約し、必要とする人々の元へ届ける。その能力こそがSNDだったのだと思います。
情報は、それを必要とする人の元に届いて初めて意味を持つのです。
 制作者側の意図するところとはまったく関係なく、ゲームをプレイした一個人として両者の共通項からFF7をちゃんと引き継いでいるんだなぁと感じた次第。
 
組織人格論とケット・シー
『同じボディのがようさんおるんやけど、このボクはボクだけなんや!』
(FF7:Disc1古代種の神殿)

 スキル考察[インスパイア]の項目で触れた「操縦者リーブの意思」による発言という解釈の根拠。
 語るまでもありませんがこの当時、ケット・シーは神羅のスパイであるという立場を明かした上で、クラウド達に同行していました。(しかもストーリー上は古代種の神殿到達前夜の話です)

  1. 『同じボディ』
     組織において「人」は個人ではなく構成部品ととらえる事があります。
     「駒の換えはいくらでもある」なんて、どこかのドラマや映画で当たり前に使われてそうな台詞ですし、その発想に関しては世で働く多くの人々が感じている事じゃないかなと思います。(もっとも、それこそが筆者の主観である事は否めませんが…)
     仕事上の役職や肩書きは、個人ではなく功績によって得られたもの。あるいは在籍の年数によって自動的に得られる場合もあるかも知れません。どちらにしても、それは個性とは全く関係のない評価であって、結果さえ残せればそれでいいのです。営利主義とは経過(プロセス)よりも結果重視の世界です。
     “都市開発”に携わるリーブが畑違いの“諜報活動”に身を投じる事になったのは、本人の希望如何に関わらず、インスパイア(=ケット・シー操作の実績/BCFF7:第20章)能力を見込まれての上司からの業務命令だったのではないでしょうか。
     それはリーブにとっては“仕事”=給料を得るためにやった作業に過ぎなかった。現在ではそう考えています。
     クラウド達の旅に同行を申し出た時のセリフに、その辺の心理状態が伺えるのですが。(以下、根拠となるセリフ)

    『ど〜も、気になるんや。みなさんのその、生き方っちゅうか? 誰が給料払てくれる訳やないし、だぁれも褒めてくれへん。それなのに、命かけて旅しとる。そんなん見とるとなぁ……自分の人生、考えてまうんや。なんや、このまま終わってしもたらアカンのとちゃうかってな』
    (FF7:Disc1ゴールドソーサー)
     なんとこの直後、ティファに「嘘ついてる」と思いっきり突っ込まれている可愛そうなケット・シー。今でこそこんな事を書いている自分ですが、何を隠そう初プレイ時は間違いなくティファと同じように考えました。さらにクラウドの「ふざけるな!」のセリフは、思わず自分が言ったのかと錯覚するほど同意したものです(笑)。
     しかし、この図太さと思慮深さこそがリーブをリーブたらしめている要素なのだと思います。
     その後(FF7:Disc2ウェポン襲来前のハイウインド号)のバレットとの口論を踏まえて考えると、リーブ自身の「成長」(変化、とする方が適切なのかも知れませんが)が見て取れます。
     また、このDisc2バレットとの口論時の「神羅を辞めない理由」としてティファが解釈(=リーブが神羅を辞めないのはミッドガルの人達が心配だから)を披露する場面の伏線だと捉えると、ティファとバレット、そしてリーブの心中描写がより深く味のある物になっていると思うわけです。

  2. 『このボクはボクだけなんや!』
     前述した組織の中において、軽視(時には無視)されがちな個性ですが、それでも働いているのは“人間”である事に変わりはありません。時には自らの仕事に対して疑問や不満を持つ事もあるでしょう。
     そのせめぎ合いの中に成立するのが日常であり、平穏の裏では常に葛藤がある。個性(自己)を優先してばかりいれば働けないし、仕事(義務)を優先しているだけでは自分は成り立たない。

     会社で必要とされているのは、本当にその人自身なのか?
     残念ながら大方の場合、答えは否定的です。
     必要なのはその人自身ではなく、“その役職(地位)”が持つ“権限(決裁権)”なのです。
     一見すると相反する思考の中で、自分を保って居続けなければならない。これは言葉で言うよりもはるかに難しいと思います。
     つまり、その地位の人がいなくなれば別の人間がその地位に就けばいい。会社組織に求められるのは“その人の存在”ではなく、“その地位の存在”です。これが組織人格論。
     「この僕は、僕だけなんだ!」――それは会社組織の中で働き続ける者が、自分を見失うまいと必死になって叫ぶ声にも聞こえたのです。
    # これはあくまでも、筆者が“インスパイア”を知る前の話。
    # このセリフの直後『しっかりこの星を救うんやで〜!』で
    # しっかりインスパイアについて伏線が張られている事に、
    # 気づくことになりました。(詳細はスキル考察[インスパイア1-1]をご参照下さい)

 
死を愁い、命を問う声[ダインとリーブ]
 建造中の魔晄炉で発生した事故を隠蔽するため、神羅カンパニーによって焼き払われたコレル村。
 滅ぼされた故郷の恨みを晴らすべく、反神羅テロ組織アバランチによって爆破されたミッドガル壱番魔晄炉。
 共に、犠牲となった多くの命があった事実を忘れてはならない。
  • ダイン(FF7Disc1:コレルプリズン)
    「それで殺された人間は納得するのか? 神羅の言い分を聞けばコレル村の人間は了解するのか!?」
  • ケット・シー(FF7Disc2:飛空艇ハイウインド)
    「多少? 多少ってなんやねんな? アンタにとっては多少でも死んだ人間にとっては、それが全部なんやて……」
 神羅カンパニーによる魔晄炉事故隠蔽の被害者であるコレル村のダインと、神羅カンパニーの社員であるケット・シー(リーブ)は、立場と言葉の違いこそあるものの、人々の“死”についてバレットに対してほぼ同じ内容の問いを向けている事実は、とても興味深い。
星命学における“死”の意味
 ところで、FF7作中にある『星命学』に基づいた考え方では、生物の生死のシステムは大きく次のように解説されている。
  • 肉体(身体)が失われ星に還る事を“死”とする。
  • 生物の死と同時に精神もエネルギーとして星へ還る。
  • その精神エネルギーの集合体がライフストリーム。
  • 人間をはじめとした全種、全宇宙の生物に共通。
  • 生物だけではなく、星が星であるためにはライフストリームが必要。
  • ライフストリームが無くなれば星は滅びる。
    ブーゲンハーゲン(FF7Disc1:コスモキャニオン)
 ちなみにこれは、ブーゲンハーゲンの台詞から要点のみを抜き出したもの。ゲーム中では、はじめてコスモキャニオンを訪れたときに聞ける。
 尚、DCFF7ではこの星命学を発展させた形で『オメガレポート』[参照]が存在している。
 生命を精神エネルギー的な観点で見ている星命学では、生物の生死はすべて一過性の物であって“死=生命循環システムの一部”という解釈がなされている。
 しかしながら星命学はあくまでもFF7世界での理論であって、プレーヤーの日常生活ではあまり馴染みのない考え方だ。
個体に対する尊厳と死を悼む気持ち
 星命学が基盤にあるFF7世界において、それでも上記の様に個体の“死”が重く捉えられているのは、それら“生命(生物)”を“エネルギー”という観点ではなく“個体”として見ているからに他ならない。
 学問的な見地と言うよりも、感情的な物の見方であるから、より日常生活に近い場所にありFF7世界の一般人(と、プレーヤー)にも理解されやすいものだと思われる。
  • バレット(FF7Disc2:飛空艇ハイウインド)
    「エアリス……死んじまったんだよな。精神エネルギーになって星をめぐる……かぁ? だとしてもよ、やっぱりよ会えるわけじゃねえからな……」
 エアリスの死に触れてバレットが残した言葉だが、これが一番自然な感じ方だと個人的には思えた。
 つまり、星命学の影響がある・なしに拘わらず、人の死を悼むことのできるバレットの死生観は至って正常(身近)であり、テロ活動はほぼ神羅カンパニーへの復讐のみを目的としていた事が分かる。

バレットにとっての正義
 “自分の身近な者を守る”ことが彼にとっての正義であり、彼にとって最も大切なマリンの傍にいる事ではなく、戦いに身を置く事を選択した最大の動機だった。それは同時に、大切な者を守るためであれば他の犠牲も辞さないという面も意味している。
 飛空艇ハイウインド内でケット・シー(リーブ)が糾弾したのは、この「自分の感情や感覚のみで、救う(救われる)生命の選別を行う」という考え方だったのだろうと思う。
ダインにとっての正義
 一方、守るべき者を失った世界に生きることを余儀なくされたダインにとっては、“生きている事そのものが悪”だったのではないだろうか。選択肢としては自ら命を絶つという行動を取っても不自然はないが、ダインは敢えてそうしなかった。むしろダインだからこそ「世界の“すべて”を壊したい」という動機の元に殺戮を繰り返す道を選んだのではないか。
 この時の彼にとって、神羅とかアバランチなどと言った立場や思想は関係なく“生きとし生けるもの全て”を等しく死に導くことが正義だった。大切な者を失った世界で生き続ける事の苦しさ・絶望を知っているからこそ、ダインは“残される者のない世界”を望んだとも解釈できる。
 「殺された人間は納得するのか?」と問いながら、一方では殺戮を繰り返していた彼の動機として、自分と同じような絶望を味わう者がいない世界を願っていたとなれば、彼の行為をすべて否定することはできない。
 親友だった彼らが歩む道を分かつ原因になったのは、“守るべき大切な者”の生死だった。
リーブにとっての正義
 死んでしまえば、その生物が個体として持っていた意識・心・精神は失われ、すべてライフストリームへと還されてしまう。つまり個体としての生命を最も尊重した観点でケット・シーはバレットに詰め寄るが、一方でリーブは魔晄都市ミッドガルの運営に関わる中心人物であるという矛盾が面白い。
 個体としての生命を尊重しながらも、星の生命を削り続けるリーブの正義は、(星命学に対する認識の有無にかかわらず)魔晄都市ミッドガルの繁栄と住民の幸福である事に間違いはない。ひいてはそれこそがリーブ自身の評価にもつながる。たとえ間違っていたとしても、自分自身を簡単に否定できないのも人間らしいと言えば人間らしい感情だ。
ケット・シーにとっての正義
 個体として持っている意識・心・精神を最も尊重する立場を取ったケット・シーは、本を正せばぬいぐるみだ。体は作りモノ、けれど紛れもなく生きている――クラウドやバレット、ダインとも違う。操作しているはずのリーブとだって違う、少し不思議で、そして不安定な境遇にある。
 しかし、だからこそ生物が持つ独自性=個体を掛け値なしに尊重する見方ができたのではないか? とも思う。ケット・シーはもっとも純粋な意味で“生死”と向き合うことができたのではないだろうか。
 バレットを糾弾したのも、リーブ本体ではなくケット・シーだったという点が、説得力の一因となっている――そんな見方も面白い。

 
伍番街の母1[エルミナ・ゲインズブール]
 拙作[Fragment of Memorise "Elmina"]を書くにあたって、FF7本編中の言動や資料集の記載をもとにしたエルミナ・ゲインズブールについての考察です。
エルミナの経緯
 本編中ではDisc1でエルミナ自身の口から語られる話で過去を。Disc1後半〜Disc2にかけてはケット・シーを通して様子を推測する事ができる。
 以下に時系列順でまとめてみました。
時間経過 場所 出来事
15年前  ウータイへ出兵中だった夫から手紙が届く。そこで夫が一時帰宅する予定を知らされ、彼を迎えるために駅へ向かう。
 話の流れからすると、夫は“休暇を取って帰宅”する予定だった事、“帰宅する日時をある程度まで指定”していた事が伺える。
 しかし夫は帰って来なかった。
エルミナ:
「それからわたしは毎日駅へ行った」
数日後  以降、(具体的な日数は不明)駅に通う日々が続く。そこでエアリス親子と出会い、イファルナの死を看取る。
エルミナ:
「戦争中はよくある風景だったね」
数日〜
数週間後
自宅  イファルナの遺志を汲んでエアリスを引き取り、伍番街スラムの一軒家で暮らし始める。互いに実の親子ではないことを知りながらの生活ではあるが、両者の関係は概ね良好だったようだ。
エアリス:
「お母さん、泣かないでね」
# 回想に登場するエアリスは、この時点で既にエルミナを「お母さん」と呼んでいる。
 しかし(これも具体的な日数は不明となっているが)エアリスから唐突に夫の死を告げられた事で、彼女の持つ“特異性”を目の当たりにする。
エルミナ:
「わたしは信じなかった」
数日後 自宅  エアリスの発言から数日後、神羅から夫の死亡通知が届く。
 恐らくこれを機に、エアリスの“特異性”を認める様になったのではないかと思われる。
エルミナ:
「まあ、いろんな意味で不思議な子供だったね」
〜FF7(Disc1) 自宅  タークス・ツォンの来訪。
 この時ツォンから聞かされる話で、はじめて『古代種』の存在を知り、同時にエアリスの持つ“特異性”が『古代種』由来のものである事を知る。
エルミナ:
「でも、わたしには分かってた。あの子の“不思議な能力”……。一生懸命、隠そうとしていたからわたしは気がつかないふりをしていたけどね」
 その後、追われているエアリスの養母として神羅の監視下に置かれていた可能性はあるものの、具体的な危害は加えられていない様子。
FF7(Disc1) 自宅  エアリスが連れてきたマリンを引き取る。
 マリンの無事を交換条件に、彼女は神羅へ連行されてしまう。
エルミナ:
「あんたが父親かい!? あんた、娘をほったらかして何やってるんだい!?」
 娘を放って活動を続けるバレットを叱る一方で、彼の気持ちにも理解を示すあたりがエルミナの包容力とも取れる。
FF7(Disc1) 場所不明  ケット・シー(恐らくリーブ)の人質として、マリンと共に過ごす。
 ゲーム本編中ではゴールドソーサーでのデートイベント直後の描写になっているが、二人がいる場所がエルミナ宅なのかは不明。
FF7(Disc2) 不明  エアリスの死亡をケット・シー(リーブ)から聞かされる。
 ゲーム本編中からこのエピソードの概要を知るには、ブーゲンハーゲン加入直後の飛空艇内において、以下の台詞から推測するしかない。そのため実際の時期や状況の詳細は不明。
ケット・シー:
「エアリスさん、亡くなってしもたことお母さんに伝えたんです。エルミナさん、ずぅっと泣いてはりました……マリンちゃんも……」
FF7(Disc2) カーム  マリンと共に避難。場所は、エンディングで見られる周囲の風景からの推測でしかない。
ケット・シー:
「マリンちゃんは安全な場所にいますわ。エアリスさんのお母さんも一緒です」
 ゲーム本編ではダイヤウェポンのミッドガル襲来直前、飛空艇内でのバレットとの口論が始まるキッカケになった台詞。
 この時点で既に、マリンと共にエンディングの場所に避難していたものと思われる。

 FF7エンディング以降、エルミナの辿った経緯については手がかりが全くありません。(On the Way to a Smileティファ編などで語られているのかどうかは、当方が未読のため不明)
 唯一、ACではマリンがクラウド達の家に預けられている事から“エルミナが一緒に暮らせる状況ではなくなった”とも推察できますが、いずれにしても根拠に乏しく憶測の域を出ません。
# 単純に離れて暮らすという選択で、エルミナは生きている可能性も充分あります。
ひとりで“母”になるという選択
 Disc1神羅ビル潜入直前にエルミナ宅で聞ける話から、ゲインズブール夫妻には子どもがいなかった事が分かる。
 見ず知らずのイファルナの遺志を汲んで、赤の他人だったエアリスを引き取り育てようとした最初の動機の一部には、エルミナ自身の口から語られている通り「自分自身への救済(慰め)」でもあったのだろう。
 しかしこの選択は、夫との間に子を授かるという自然な形ではなく「母」になるという事を意味している。さらにエルミナはたった一人で「母親」になる事を選び、最終的には見事に成し得たことになる。
 FF7には様々な形で「母」という存在が登場するが、彼女たちの中でも最も母親らしい姿で描かれていたのは、エルミナなのではないかと当方は思っている。
 子を産むことだけで母親になれる訳ではない、と言う事を描いたルクレツィア。
 たとえ細胞単位での母になれたとしても、絆は生まれない事を示したジェノバ。
 母は、成長する子を見守り、育てる――宗教的な意味合いや超人的な描写ではなく、エルミナはごく普通に“母親”の道を歩むことを選び、全うした。だから注目される事も少ないけれど、彼女の成し遂げたことは決して容易いことではない。
プレートを挟んだ上下“伍番街の母”
 小説On the Way to a Smile(デンゼル編)で登場するルヴィさんを見ていると、期間こそ短いものの状況と役柄がエルミナさんと重なります。
 小説中の舞台となった当時の混乱は、戦争ではなく七番街のプレート崩落でした。両親とはぐれたデンゼルに手を差し伸べたのが、伍番街社宅エリアに一人で暮らすルヴィでした。
# Disc1で健在だったはずの夫は、小説中にはまったく登場しない。どこ行っちゃった?
 伍番街スラムでエルミナと出会ったマリン。伍番街プレート上でルヴィと出会ったデンゼル――作者の意図を深読みするなら、プレートを挟んだ二人の物語として、ルヴィさんが描写されたと捉えることもできます。
 しかしながら、エルミナとルヴィの最大の相違点は「成長した我が子」に対する母親の複雑な心境です。
 リーブの母親として登場するルヴィは、ミッドガル伍番街社宅エリアに住んでいます(FF7Disc1では蜜蜂の館の住人だったんですが…この辺どう解釈すればいいか未だに悩みます。笑)。裏庭に土を入れ、植物を育てようとした形跡からも、彼女がミッドガルという都市そのものについて肯定的な立場にいなかった事を示しています。けれど、彼女がここに住み続けているのは他ならぬ息子の作った都市だから
 繋がらない電話。
 繋げない手。
 そして、子の過ちを象徴するミッドガル。
 ……それらを目前に、最後まで見守り続けた姿は、見ているこちらが悲しくなる話です。
 そんなルヴィの遺志はデンゼルによって受け継がれ、最終的にはリーブの元に届いた……のだとしても、それを絆として捉えるには悲しすぎる話だと思います。
# まとまらないのでルヴィさんは別項を設けるかも知れません。
 
伍番街の母2[ルヴィ・トゥエスティ]
 リーブ・トゥエスティというキャラクターを考察する上で避けては通れない“家族”という存在、ここでは特に母親・ルヴィさんについて取り上げます。
 彼女は後から語られる場面が多くなった分、FF7本編とコンピレーション作品(On the Way to a Smileデンゼル編)とで、無視できない矛盾を抱える事にもなりました。
トゥエスティ夫妻の行動
 FF7本編と、On the Way to a Smileでの記述をあわせて推測した彼らの行動は次の通り。
 # 表中に記載のない物はFF7本編、(小)はOn the Way to a Smileデンゼル編での記述。
時間経過 場所 出来事
Disc1 壱番魔晄炉  アバランチによる魔晄炉爆破テロの発生。FF7本編スタート。
 ルヴィは非常食の備蓄を始める。(小)
Disc1 蜜蜂の館  ケット・シー人形と共にリーブの両親が滞在する。
Disc1 ミッドガル  七番街プレート支柱爆破の実施。
 デンゼルが両親と死別。(小)
Disc1 七番街
社宅エリア
 一夜明けて、デンゼルは七番街から伍番街へ移る。(小)
 ルヴィとデンゼルが出会う。この時点でリーブ父の描写は一切登場しない。(小)  
 
ルヴィ:
4.どこへ行っても一人なら、3-a.自分の家がいちばん良い」
Disc2 七番街
リーブ宅
 メテオの出現
 ルヴィとデンゼルはミッドガルに留まる事を決め、その後も生活。(小)
Disc3 七番街
リーブ宅
 ライフストリーム発動
 この後、ルヴィを看取ってデンゼルはミッドガルを後にする。(小)

 彼らの行動を辿ると、2つの大きな疑問が出て来ます。1つは居住地について。2つ目は父親の行方について。
 まずは夫妻最大の謎、六番街スラム『蜜蜂の館』にいた理由から。
FF7本編『蜜蜂の館』は“仮住まい”説
 ご存知の通り、Disc1蜜蜂の館に滞在する老夫婦の会話と、中央に置かれたケット・シー人形から、彼らがリーブの両親だと言うことを窺い知ることが出来ます。……が、色々と不自然な点があります。
 以下は、蜜蜂の館で聞ける会話です。
婆:「じいさん、なんです? 溜息ばっかりついて……」
翁:「ハァ……。そやかてなぁ、ばあさん」
婆:「またこの部屋のことですか?」
翁:「ハァ……。なんぼ1.息子がかりてくれたゆうてもなぁ……。わしらにこんな立派な部屋はなぁ。まるいふとんにカクカクふろ。わし、どうも落ち着かんのやわ」
婆:「ええんとちゃいますか。ここらは2.大都会の下、高級地なんですよ。バチが当たるちゅうもんですよ」
翁:「ハァ……。」
 その後の作品との矛盾点を補いながら、彼らの会話が指している部分を読み解いていこうと思います。

  1. 息子がかりてくれた部屋
     じいさん(リーブ父)のこの発言によって、プレイヤーは彼ら老夫婦が「蜜蜂の館に“宿泊”ではなく“居住”している」と認識し、リーブは両親をなんちゅー場所に住まわせてんだ! という非常に不可解な印象の基となっている部分です。
     この部分についての解釈。
     「部屋を借りる」という表現は通常“期間を定めた賃貸借契約を結ぶ”事を指して言います。ホテルなどの宿泊施設に滞在する場合なら、「借りる」とは言わず「息子が取ってくれた部屋(宿)」という表現になるでしょう。ですから両親からして既に「『蜜蜂の館』に“宿泊”している」という認識でない事は明らかです。
     しかしながら館に“居住”するのは、どう見ても不自然です。そこで“長期滞在”を考えます。
     ホテルなどには宿泊施設利用に関する約款が存在します。長期滞在の場合も約款に拠る契約が交わされる筈です。この老夫婦の場合、滞在期間の延長(延泊)で無いというのは上述の通り。となると、どちらかと言えばウィークリーやマンスリーなど短期間の賃貸借住宅と近い用途で、予め期間を決めて館に滞在していたと考える方が自然です。
     では、その理由とは何か?
    • 入居予定の社宅が竣工するまでの期間。
      (もしかしたら同居スペースの増築とか?)
    • 壱番魔晄炉爆破テロの影響から3-b.一時避難措置として館を利用。
     考えられるのは上記です。いずれにしても、期間のメドがついている為の長期滞在(仮住まい)だった。と言うのがこの場合の解釈になります。
     そのうち後者(下線部3-b)の説を採用したいと言う根拠は、小説中の記載にあります。
    ルヴィは壱番魔晄炉が爆破された時から、これは大変なことになると考えて食料を沢山買い込んでいた。
     On the Way to a Smileで語られるとおり七番街プレート支柱爆破以降、ルヴィは伍番街社宅エリアに居住(下線部3-a)しています。
     夫妻が蜜蜂の館に滞在していた期間も、社宅エリアのリーブ宅に居住していた期間も不明です。
     ただ、ルヴィさんに「(今後)大変なことになる」と思わせた壱番魔晄炉爆破事件。それは事件の報に接したから、と言うだけではなく、彼女自身も“蜜蜂の館(プレート下)への一時避難”という形で影響を受けた――つまり、危険を身近に感じた為の行動と考えると、FF7本編と小説との辻褄を合わせる事ができるのではないか? というのがこの説の根拠です。

リーブ父の行方
 On the Way to a Smileのお陰で存在自体が隠蔽された『神羅の闇』すっかり謎の人になってしまったリーブ父、悲しいかな名前すら明かされていないんですよお父さん。
 FF7本編では、蜜蜂の館に仲良く滞在していたにもかかわらず、それ以降まったく姿を見せません。お父さんはどこへ行ったのでしょう?

  1. どこへ行っても「ひとり」なら
     父親の消息について考えるとき、小説中に気になる記述があります。ルヴィとデンゼルが出会い、二人でデンゼルの家を探している場面です。
    ルヴィは、どこへ行ってもひとりなら、自分の家が一番いいと残った理由を言った。
     ルヴィとデンゼルが出会ったのは、七番街プレート支柱爆破の翌日です。つまり、この時点でルヴィは「どこへ行ってもひとり」だった事になります。蜜蜂の館にもいない、と言うことです。
     “蜜蜂の館にいたリーブ父は、七番街プレート支柱爆破の翌日には既にいなかった。”
     これは事実として動かせません。次に、そうなった理由を考えます。  
       
    • 七番街プレート支柱爆破に巻き込まれた
       時期的にも、可能性として一番高いのがこれです。が、この説を採用するとルヴィの反応があっさり過ぎて不自然です。いくら齢を重ねていると言っても、翌日でここまで落ち着いていられるとは考えづらいです。  
    • 夫婦ゲンカ中だった
       FF7本編での会話から受ける印象では、派手なケンカをするような夫婦という風には見えないのですが、多少感性の違いが見受けられるのでケンカが無かったわけでもないでしょう。
       ……が。蜜蜂の館〜プレート支柱爆破までの期間はそれほど長くありません。やはりルヴィの反応があっさり過ぎるのは不自然です。  
    • そもそもリーブ父は存在していない
       発想を変えてみました。蜜蜂の館〜社宅エリアでルヴィが発言するまでの間が極端に短い事が、違和感を覚える原因です。
       だとしたら、蜜蜂の館で見た「リーブ父」はニセモノだったと考えれば、その時点でルヴィは既に「ひとりだった」事になりますから、支柱爆破後の反応があっさりしていても違和感はありません。
       では、蜜蜂の館にいた「じいさん」の正体は?
       ……答えとして示せる可能性はただ一つ、インスパイアで操った人形だったのです!
      # すいませんごめんなさい。
      # でも、インスパイア能力がリーブ以外に無いという描写も無いので…。
 結論は出ず終いに終わりました。……「設定上のミス」という可能性については、ゲーム世界の“外”の要素なので省きます。
ルヴィの吐いた嘘
 蜜蜂の館での会話と、小説On the Way to a Smileでは、ルヴィさんの態度や発言にも差異が見られます。この辺を補うために書いたのが拙作[親不孝は子の不幸]ですが、その大本になるのがこの項です。

  1. 大都会の下、高級地なんですよ。
     ルヴィさん(FF7作中では「ばあさん」)の発言から、彼女のミッドガルに対する認識度がそれほど高くない事を窺い知ることができます。それ以前に、スラム六番街が“歓楽街”という認識も無い様子です。お年寄りですから仕方ないのか、そもそも故郷にはそう言うものが無かったのか……。
     いずれにしてもここで重要なのは、ルヴィさんはミッドガルに対して肯定的な意見を口にしているという点です。
     しかしながらOn the Way to a Smileで明かされたのは、デンゼルの目から見たルヴィさんの気持ちが、館で語られているのとは別にあったという事実です。
    デンゼル:「息子さんが神羅の社員だからミッドガルに住んでいたけど、本当はちゃんとした土があって花が育つような――」
     注目したいのは、蜜蜂の館にはケット・シー人形があったという事実です。つまり、館での発言は「息子を前にして言っている」事になります。On the Way to a Smileではデンゼルの主観という要素もありますが、基本的にルヴィさんの置かれている立場は違います。
    • プレート上の社宅には土が無い事を、当時は知らなかった。
    • リーブに対して気を遣って本音を伏せて(嘘をついて)いる。
     もしも後者だった場合、リーブはOn the Way to a Smile(本編4年後)になって初めて、母親の本意を聞かされた(=母親が自分に向けていた言葉は、息子への気遣いだったと知る)事になります。
    ルヴィ:「そうかい。うまくいくといいねえ。でも、あの会社はいつも何か間違えてしまうんだ」
     時系列で言うとDisc2終盤の魔晄キャノン(シスター・レイ)時点での発言ですが、小説版でのルヴィさんは神羅に対して完全に否定的な見方をしています。
     ただし、この場合もミッドガルという都市、また神羅に勤めてミッドガルの開発事業に携わっている息子(リーブ)について触れていないのです。
     息子と、息子の手がけた都市について、ルヴィは最後まで否定的なことは口にしませんでした。
    ルヴィ:「わたしはここで最後の時を待つつもりだ。星が壊れるってんなら、どこにいたって同じだからね」
     息子の身を案じ、連絡を取ろうにも繋がらない電話。その後のルヴィの発言からは、最後まで子の親であり続けようと言う覚悟と決意が表れているように思います。
 
希望の投影[シェルク]
シェルク=ルーイ
「アナタには妹などいませんよ」
 DCFF7のオンライン版(マルチプレイモード)のシナリオで、シェルクが最後に明かした真実です。オンライン版の主人公にしてみれば、残酷きわまりない話なんですが、これをシェルク視点から見てみると、ちょっと違った読み方ができます。
DCFF7オンライン版シナリオ
 以下、簡単にオンライン版のストーリーを書き出してみました。ちなみに管理人自身はオンライン環境が無いのため未プレイです。
 あらゆる倫理を無視し“人がどれだけ強くなれるか”を追究するため、ミッドガル地下に作られた広大な実験場「ディープグラウンド(DG)」。
 物語の主人公は名も無きディープグランドソルジャー(DGS)。何らかの経緯でDGへ連行されて来た主人公は、朧気に残っている「妹」の記憶を支えに自らを鍛え、死が日常の過酷なDGを生き抜き、遂にDGS最高位の称号『ツヴィエート』を得るに至った。
 DGで出会う他のツヴィエート――アルジェント、シェルク、アスール、ロッソ、ネロ、帝王ヴァイス。そしてDGの統治者ロストフォース(ソルジャー第14部隊)レストリクター。彼らとの邂逅を経て、主人公の中に残っている曖昧な記憶は徐々に輪郭を持ち始め、やがて「仇」の存在を明らかにする。
 妹の仇――それがレストリクターだったのである。
 主人公がレストリクターと対峙した時、自身の危機を顧みずにヴァイスは言い放った「復讐を果たせ」。
 ヴァイス達の助けを借りる形で、主人公はレストリクターを倒し復讐を果たす事には成功するが、反撃を受け自分自身も瀕死の重傷を負いその場に倒れた。
 薄れゆく意識の中、シェルクが言う「アナタには妹などいませんよ」。
 ――すべてはシェルクのSNDによって上書きされた偽りの記憶。自分がレストリクターを倒すためだけに選ばれた“駒”に過ぎなかった事、最初からツヴィエート達によって計画され仕組まれていた事――手向けられたのは弔いの言葉ではなく、残酷な真実だった。
 こうしてオンライン版の物語は、主人公死亡で幕を閉じます。
# オンラインサービスは既に終了。イベントだけを見ることができます。
# これらのイベント自体はDCFF7インターナショナル版に収録された“Extra Mission”内に
# 配置されている各カプセルを破壊することで、イベントビューワーにて閲覧可能。
SND - 欺瞞と投影、そして願望
 DCFF7オンライン版のシナリオでは、上記の通りシェルクが主人公の記憶を意図的に改ざんしている訳ですが、ここで“主人公の「妹」”として投影されているのが幼少期のシャルアです。
 シェルクの記憶を元に、存在しない“主人公の妹”を作り出している訳ですから、“シェルクの目に見える映像”が投影されるのは必然といえます。
 映像はシャルアですが、一方の“声”はシェルク自身の物です。そして、「助けて」と叫ぶその声はシェルクの感情そのものです。見方を変えれば姉に向けて、シェルクが叫んでいるとも言えます。
 オフライン版――DCFF7本編第4章、WRO本部地下で再会したシェルクが姉シャルアに向けて言った台詞が、それを象徴しています。
シェルク:
「ただ、“いつか誰かが助けてくれるかも”なんて、ありもしない希望を持ってしまっただけ……。」
 ありもしない偽りの記憶を作り出すために、シェルクは幼い頃に見た姉の姿を投影し。
 ありもしない希望と諦めながらも呼びかけた「助けて」の言葉は、シェルクの本音であり。
 こうして造り上げた(オンライン版)主人公の記憶は、確かに(主人公にとって)欺瞞ではあるものの、“シャルアに助けを求め続ける”シェルクの思いが作り出した物であり、もしかしたら捨てきれないシェルクの望みを主人公に託そうとしていたのかも知れません。
 死に際の主人公に向けた「アナタには妹などいませんよ」は、残酷に真実を告げる一方で、シェルク自身にとっても“自分で作り出した夢(SND)から冷める”という皮肉と、一方では“自分を助けてくれる存在が無い”という現実を認識する為の、言うなればSNDで接続を切るのと同じ感覚で、ありもしない希望を断ち切る為の言葉だったのではないでしょうか?

 ミッドガルの地底に閉ざされたシェルクにとって、空と同じように光を見出せない世界で生きる為には、姉という僅かな希望に縋るより他に方法は無かった――それがオンライン版の物語が紡ぎ出す、シェルクの一面なのではないかと。
 
[REBOOT]