鼓吹士、リーブ=トゥエスティW |
彼女にとってそれは10年ぶりに向けられた笑顔、あるいは純粋な微笑みだったのかも知れない。そしてその微笑みは、彼女の心の奥に閉ざされた大切な何かに、ほんの少し。だが、確かに触れた。 (これは、……“誰の”記憶の断片……ですか?) 少女は心の中で誰にとも分からないままで問うのだった。 *** 彼が去ってしばらくしてから再び背後でドアが開く音がしたが、彼女は振り返ろうともしなかった。こちらに敵意や悪意が向けられていないことは、気配だけでおおよその見当はついた。だから振り返る必要はないと判断して、ひたすら目の前のディスプレイに流れる文字を追いかけながら、手元に並んだキーボードの上でせわしなく指を動かしている。タイピングの音と、機械から出る僅かなノイズだけが、この小さな空間を満たしていた。 飛空艇シエラ号の艇内で、そこは姉妹に割り当てられた部屋だった。所狭しと壁際に並んだ計器類やディスプレイに加え、納められたたくさんの機械類を一手に引き受けているのは、まだ外見は幼く見える妹のシェルクだった。 姉はと言えば、彼女の後ろで静かに身を横たえている。 (…………) 流れていく文字の速度が徐々に緩やかになり始めた頃、少女は顔を上げるとようやくディスプレイから視線を離した。静かに息を吸い込むと瞼を閉じる。彼女は無意識のうちに、酷使していた視覚神経を少しでも休ませようとしていたのかも知れない。 目の前にある端末にSND――センシティブ・ネット・ダイブ――を実装するための処理にはもう少し手を施さなければならないが、とりあえず山場は超えた。常人からすればとてつもない作業量と、理解を超える処理だったが、少女にとってはこの10年間の「日常」だった。 正確には「日常」を維持するための手段――過酷な環境の中で生き残る術に他ならない。できれば二度と思い出したくない地底での記憶は、それでも脳や精神はおろか身体をも蝕んで、この先もずっとついて回るのだろう。 ――データとして削除できるのならば、いっそのこと消し去ってしまいたい。 目を閉じたまま少女の指はゆっくりとキーボードの上をたどった。入力されることのない文字列は、プログラムコマンド「削除」の意味を表している。 (…………) 自分のとった全く意味のない行動に、少女は目を開けて自身の指を見つめながら心の中でつぶやいた。 (バカみたい) 『ほんまにスゴイんやな〜……』 「!」 唐突に足下から聞こえてきた声に、最小限の動作と最短の時間で少女は驚きを表そうとしたが、どうやら相手にそれは伝わっていなかったようだ。 『邪魔してもうたかな?』 そこに立っていたのは、誰かと同じように赤いマントを靡かせ、小さな王冠を乗せた"猫"だった。しかも二足歩行の。少女の知る限り、猫という動物は四足歩行のはずだ。いやそれ以前に、猫は人語をしゃべらない。それにこの妙なしゃべり方は一体なんだ? そんなことを考えてしまい、少女は思わずその"猫"を見つめた。視覚から得たその姿と、少女が知識として持っていたデータに合致するものが見つかった。 (ケット・シー) だが、あくまでもデータだ。そのもの自体と接触するのは今回が初めてだった。観察するように、それをじっと見つめる。動作を見ていても敏捷性や機動性に長けているとも思えないし、攻撃力や防御力があるようにも見えない。貧弱というよりは非効率的だというのが、ケット・シーに対する第一印象だった。 『や〜、そんなん見つめられたら照れてまうわ』 そう言って、ケット・シーは首を傾げ、しっぽを大きく振って微笑んだ。 (!) しかしその姿を見ていると妙な、とても妙な感じがする。――これは、どういうことだろう? 不可解、奇妙、怪訝、不審――少女の中で、まるでデータベース化されたように並ぶ感情の中から検索を試みた。しかし合致するデータが見つからない。 こうして少女がケット・シーを食い入るように見つめていると、今度は頭上から声がした。 「作業の片手間で結構ですので、少しお尋ねしてもよろしいですか?」 「構いません」 この男は知っている。リーブ=トゥエスティ。元神羅カンパニー都市開発部門統括にして、現在はWRO<世界再生機構>の局長たる人物。そして……。 (ケット・シーの操縦者) つまり彼女にとって「ケット・シー」は単なるロボットだった。もちろん、その認識が外れているわけではない。しかしこの妙な感覚は何だろう? 迷走を続ける少女の思考をよそに、リーブは話を始めていた。 「これから行われる作戦会議の際、ケット・シーの見た内容もこちらから併せて転送したいのですが、可能でしょうか?」 「…………」 予想外の質問に、少女は男を無言で見上げた。何を言っているんですかこの人は? と、彼女の目が言っている。 「私、なにか妙なことを言ってますか?」 すると声に出していないはずなのに、男は少女の問いに適切な返答を寄越してきた。そのことに僅かばかり驚きもしたが、気にせず話を進めた。 「ネットワークを介さずとも、直接あなたの口から説明した方が早いのではな いですか?」 「そうですね……ですが、私の口では説明できない部分があります。それを、データとして転送して頂きたいのです」 「それは?」 「…………」 黙り込むリーブを、少女はじっと見つめていた。少し待ってみたが、今度は返答がなかった。 『おっさん、口ベタやねん』 かわりに答えたのは、足下にいたケット・シーだった。 このふたり――1人と1匹?――を見ていると、とても効率が悪い。そう思って少女は視線をそらす。 (なぜ、リーブ=トゥエスティは自らの口を動かして語らない?) そのことが少女には理解できなかった。だからかも知れない、珍しく苛立っているような気がした。 『けどな、わいの口からも説明でけへんねん。……あんな、シェルクはん』 「なんですか?」 名前を呼ばれて少女が言葉を返す。 『想いを伝えられるのは、言葉だけやないねん……いんや、言葉じゃ伝わらんモンもあるねんで?』 ケット・シーはしっぽを振ることをやめ、じっとこちらを見つめていた。相変わらずにこやかな笑みを貼り付けたままではいたけれど。 「それがたとえ、どんなに強い想いでも。……そして、どんなに辛い記憶でも」 ケット・シーの言葉を引き継ぐように今度はリーブが語り出す。ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと。 「もともとケット・シーは遠隔操作のできる偵察用ロボットとして開発された技術を搭載しています」 『せや、わいはオモチャやさかい』 対照的にケット・シーはおどけた口調で相づちを打つ。 「ですが、ケット・シーにはふつうのロボットには搭載されていないものが積み込んであります」 「それは?」 彼らに誘導されている様な気はしたが、それでも少女は尋ねた。 「……“感情”です」 リーブがそう言ったとき、初めてシェルクは彼と真正面から向き合った。思っていたより、ずっと穏やかな表情をしていた事に気づく。 次にシェルクは視線を足下におろすとケット・シーを見つめた。感情というのを最初は人工知能の類だろうかと考えた。少女の思考に重なるようにして、リーブの声は続く。 「ケット・シーに蓄えられたデータは私の記憶を介して蓄積されています。ですから……ここにいる前のケット・シーのデータも、彼はちゃんと引き継いでいるんですよ」 『今でも占い、できるんやで〜』 ふたりの視線を受けて、ケット・シーが手をかざして自慢げに胸を張って見せる。 「しかし、ケット・シーを通して私が見たものを、私から他の方に伝えるには限界があります。それが言葉です」 他者にものを伝達する手段であるはずの言葉が、それを阻害するというのはどういうことだろうか? 「言っていることの意味が、よく分かりませんが」 突き放すようにして少女は問い返すと、再びディスプレイと向き合った。よく分からないことを、これ以上だらだらと聞かされたくなかったからだ。 「……あなたも」 背を向けた少女にリーブの姿は見えなかった。ただ、耳に届く声の反響で、彼が後ろを向いたことは分かった。 少女の座る後ろで、姉はカプセルの中に横たえられている。彼女がいつ目覚めるのかは分からない。目覚める時が訪れるのかすら分からなかったが。 姉は――シャルアは、それでもそこにいた。そして彼女をここへ運んだのは、他ならぬこの男だった。 アスールから逃げ延びた後、あの場所へ戻ったこの男は、シャルアを回収した。閉ざされた扉の向こうで、どんな酷い姿をしていただろう? 考えたくもなかった。自らの危険も顧みずに、しかも生死の定かでないものを回収してきたこの男の行為が、シェルクには理解できなかった。 理解できない行動をとった男の話など、いくら聞いても分かる訳がない。そう思っていても、話は続く。 「あの場所で……見たことを説明はできるでしょう。しかし……」 そっと、リーブはカプセルに手を伸ばす。両者を分かつ、今となっては決して超えることのできない隔たりに触れながら、 「あそこで感じた想いを……どれだけ人に伝えられますか? どんな言葉を使って、どう語れば、全てを伝えられますか?」 絞り出すように、リーブは言葉を発した。 ――「遅くなって、ごめんね。」 「残念ながら、私にはその方法が分からないのです」 あのとき"見ている"事しかできなかった自分の感じたものは、伝えなくても良いのだろうと。しかし、妹との再会をひたすら願っていた彼女の姿を、この目で見ていたはずなのに、それを伝えることもできなかった。そして。 ――「今でも、大好き……。」 彼女を、失った。 かけがえのない仲間を、目の前で。 リーブが言葉を止めると、室内には静寂が広がった。周囲を埋め尽くす機械達も、まるで息を止めてしまったかのように沈黙する。 この静寂の中で、シェルクの脳裏では先ほど刻み込まれたばかりの記憶が再生されていた。 自分たちの意志に反して閉ざされようとする扉の隙間から、限られた時間の中でシャルアは自分の気持ちを、思いを、妹に伝えようとした。彼女はその場に立ちつくすシェルクの腕を強く引くと、何のためらいもなく閉じかけた扉に自らの左腕を挟み込んで退路を確保し、妹を出口へと導きながらこう叫んだのだった。 ――「私たちは、これから10年を取り戻すんだ」 腕をつかまれさらに強く引っ張られた。痛みに思わず見上げれば、シャルアの真剣なまなざしがあった。ぼんやりと、姉の力はこれほど強かったのかとシェルクは思った。 そのときの感覚が、まだ残っているような気がする。まるで今でも、腕を引かれているような―― 錯覚。 「……!?」 脳裏によみがえったビジョンを打ち消すように、シェルクは目を見開いた。瞼を閉じればまた同じ闇の中に記憶が再生されるのではないか? 不安になって、瞬きすらためらった。そんな自分を否定するように、あるいは隠すように言葉を発した。 「自分の感じた感情を全て伝えることなど、不可能でしょう。たとえ血を分けた家族だろうと、同じものを見た人間だろうと。その精神構造や思考過程には個人差がありますから……それに」 キーボードをたたきながら、少女は淡々と答えた。もともと起伏のない話し方しかできないが、今は違う。とても不愉快だった。 「感情を伝えるという行為に、一体どんな意味があるのです? 情報として事実を共有することの重要性は分かりますが、一個人の主観でしかない感情を共有することがそれほど重要とは考えられません」 正直、自分の口からこんなに言葉が出てくるとは彼女自身思っていなかった。話すことに気を取られ、キー入力する手を止めそうになる。 恐怖と苦痛に満ちた日常、しかしこの10年間で腹が立った事など一度もない。たとえ腹を立てたところで力でねじ伏せられた。絶対的な命令と、服従。それが少女にとっての日常だった。 地底世界から解放されたとはいえ、少女には今さら腹を立てる理由はないはずだった。 けれど、とにかく腹立たしいのだ。あの日――WROの本部で相対した、あの時から。 シャルア=ルーイもヴィンセント=バレンタインもそうしたように、けれどこの男だけは、敵であると認識し、さらに武器を向けられながらも最後までシェルクに銃口を向けようとはしなかった。 それでいて……。 (……干……渉? ……違う。“彼女”のデータでもない……) 少女自身ですら把握しきれないこの感情は、一体なんだろうか? 自身の内でわき始めた思考と感情の奔流を鎮めようと、キーボードに置いた指に意識を集中する。しようとした。 「重要性に対する答えであるとすれば……動機、でしょうかね」 しかしそれを阻んだのは男の声だった。 「人間はコンピュータと違いプログラムを打ち込めば素直に動くと言うわけではありません。コンピュータにも動力が必要なように、人間が動くためにも理由が必要です。大きな動きをしようとすれば、それに見合うだけの大きな動機が必要になります。ましてや、自分の生命を危険にさらそうとする状況なら尚のこと」 それを担うにはお金や名誉ではとても足りない。しかし“大切な誰かのため”というそれだけで、彼らが動く理由には充分なのだ。 ――大切じゃないものなんか、ない。 そういって剣を振るった男がいる。彼もまた、かけがえのない仲間のひとりだ。ちょうど1年ほど前、この飛空艇から見ていた戦いの光景が重なる。 リーブは「当時も今も、この船に乗り込んだ人たちの多くは、皆お人好しなのだ」と付け加える。その言葉を聞いて、そういえば先ほどここへ来た男も同じようなことを言っていたなと少女は思い出す。 「……もっとも、私にそれを教えてくれたのは、他でもない彼らなんですけれどね」 それこそ口では伝えづらいのだと苦笑したリーブの後を引き継いだのは、やはり足下からの声だった。 『せやから、わいらの出番なんやて』 「!」 その声に再び視線を足下へ戻すと、ケット・シーが手を掲げている。 『わいが見たことを、直接みんなに見せてやりたいんや! したら納得してくれる。確かに感じ方は違うかもしれへんけど、み〜んな、この船に乗ってるんやで?』 懸命にしゃべり続けるケット・シーを見ていると、少女の指は止まった。その姿を見ていると、腹立たしさはどこかへ消えてしまう気がした。 自分自身でも抑えることに必死だった内の奔流を、ケット・シーは意図もたやすく鎮めることができた。そう考えると少し悔しいような気もするが、今は考えないことにした。 「……分かりました。できる限りのことはやってみます。ですが、どこまで実現できるかは保証できません。それでも、よろしいですね?」 後ろを振り返ることはしなかった。振り返ればまた、不愉快な腹立たしさが戻ってくるような気がしたからだ。 「構いません。ありがとうございます」 それでは後ほど。と短く告げて、リーブはそのまま部屋を出て行った。 残された少女は再びディスプレイに向かうと作業を再開した。思わぬ追加注文に対応するべく、再びせわしなく指を動かしながら、それでも考えた。 自身の中にあるこの不快感の正体は一体なんだろう? と。 *** 断片化された彼女の記憶、想い。喜びや悲しみ、痛み、感情……。 それらの補完と復元が少女の内で何度も繰り返されている。知るはずのない事実、持つはずのない記憶。そんなものまで抱え込んでしまった。 けれど、それとは別の何かが確かに存在する。先程の男――リーブ・トゥエスティ――が言っていた言葉が引っかかる。 ――動機。 すなわち理由だ。彼の言っていることは間違ってはいない。理由がなければ行動という結果は存在しない。そうだ、間違いではない。 間違ってはいないはずなのに、分からない。 『ほな、行きますわ』 その声に意識が現実へと戻って来る。頭部を装置ですっぽり覆われたケット・シーが手を振っていた。その姿に、SNDを促すようにとシェルクはうなずく。どこまで投影が実現できるかは、賭でしかなかった。 すると、音が聞こえてきた。 ビジョンはなく、闇の中にはただ音だけが聞こえる。 人、それもたくさんの声。不鮮明ではあったが、それは確かに人の声だった。 捕らわれ、連行された人々は、檻もろとも魔晄炉の深層部へと放り込まれる。 暗闇に閉じこめられた苦しみ、突然連れ去られて理不尽な苦痛を与えられる事への怒りや、恐怖。死に瀕した人々の悲鳴は、生への執着。 ……闇の中に流れる声と、それを見た彼の記憶が投影される。 『な、なんちゅーことを!?』 見ていることしかできない彼の――叫び。 その声を残して、回線は切断された。 彼はここで事切れたのだ。 その声を聞いて、少女は思う。 断片化されたデータの中には、少なからず自分の記憶や感情も混じっているのだと言うことを。 まぶたを閉じて見ることすらしなかった、だから叫ぶこともできない。 叫ぶことも泣くことも忘れてしまっている自分は今も、闇の中にいるのだと……ようやく気づいた。 −鼓吹士、リーブ=トゥエスティW<終>−
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