.名人位戦・クイーン位戦観戦記
   第46期名人位戦・第44期クイーン位戦(平成12年)
   
第47期名人位戦・第45期クイーン位戦(平成13年)
       第48期名人位戦・第46期クイーン位戦(平成14年)

 
 新しい2000年代の名人位戦・クイーン位戦は、私自身が近江神宮において実際に目の当たりにしてきたものである。当時のことを振り返りつつ、紹介したいと思う。なお、記憶があいまいの部分は「かるた展望」の記事等で補っている。
 

第46期名人位戦・第44期クイーン位戦(平成12年)

 1900年代も終わり、新たな2000年代となった平成12(2000)年の1月8日。私は生まれて始めて名人位戦・クイーン位戦を観戦するために近江神宮を訪れた。
 正月気分の抜けやらないこの時期に、はるばる関西まで足を運ぼうという気持ちはなかなか起こらないもので、かるたを始めてからこの6年間というもの、名人位戦・クイーン位戦はテレビで観戦するのが常であった。前々年(平成10年)は大学の先輩でお世話になっている田口貴 志さん(横浜隼会、現・暁星)が、前年(平成11年)は大学の後輩の西郷直樹が挑戦者となっていたのにも関わらず、私にとって近江神宮は遠い場所であった。だが、この年私がようやく重い腰をあげたのは、この年の名人位戦・クイーン位戦に出場する選手のうち3人までが、早稲田大学および早稲田大学かるた会に関係する選手であったことが大きい。

 昨年、奇跡的とも言える逆転勝利でみごと名人位を獲得し、この年初の防衛を目指す西郷は当時早稲田大学教育学部の3年生。私が大学を卒業したのは平成9(1997)年で、同年入学の彼とは残念なことに同時期に大学に在籍したことはない。だが、練習や大会では度々顔を合わしており、私にとって後輩であるということには変わりはない。それに対し、名人戦に挑戦者として出場する土田雅(福井渚会)は、平成10(1998)年早稲田大学社会科学部卒業。私の一年後輩にあたるが、在学中は府中白妙会に所属していたため、当時からあまり交流はなかった。この2人の因縁は平成10(1998)年秋にまでさかのぼる。東日本代表の西郷と、西日本代表の土田は、挑戦者決定戦において対戦し、勝ったのが西郷であった。土田にとっては1年越しの雪辱を果たす好機であった。
 一方、クイーン位戦の挑戦者である片瀬亮子さん(現・益満亮子/九州)は、学習院大学を平成7(1995)年に卒業。在学中は、早稲田大学かるた会に所属しており、私にとっては1年間だけだが同じサークルで活動した先輩であった。また、クイーンの渡辺令恵さん(横浜隼会)も、時おり早稲田の練習に来てくださることがあり、普段から親しくさせてもらっている選手である。

 さて、名人位戦・クイーン位戦の試合は近江神宮・勧学館の2階和室で行なわれる。かるた日本一を決するタイトル戦ということで、選手にはただでさえ大きなプレッシャーがかかりそうなものである。それに加えて何十人もの観客がその一挙一動を注目している。さらにNHK衛星放送によって全国に生中継されるためのテレビ機材やスタッフが所狭しと居並ぶ。選手の緊張は並大抵のものではないだろう。
 試合会場だけでは大人数が入りきらないため、勧学館1階の会議室に設けられた「解説室」のモニターで試合の中継を見ることができる。そこではテレビ放送の際の実況と解説の収録も同時進行で行なわれる。
  

 


試合前の選手宣誓
左から西郷、土田、渡辺、片瀬
(「かるた展望31」平成12年6月)
 


 1月7日の夜、私は夜行バスで東京を発ち、近江神宮へと向かった。近江神宮に着いた時にはすでに第1回戦が始まっていた。試合会場にはもう入れなかったため、私は1階ロビーのテレビで試合観戦することにした。試合会場はもちろん、解説室でもテレビ収録の関係上、音を立てることは出来ないのだが、ロビーであれば回りの人たちと試合について色々と話をしながら見ることができる。実際、何年も観戦に来ているベテラン(?)にも、ここで見るという人は多い。
 さて、肝心の試合展開のほうであるが、名人位戦は西郷名人がプレッシャーからか、終始土田に押され気味に進んでいった。土田が引き離しては、西郷が追いつくという展開で、3−3まで来る。ここで土田が自陣を触ってから敵陣を取るという手痛いミスで、2−3と西郷がようやくリード。最後は1−2から西郷が自陣を守り、まず1勝目を挙げた。ロビーのギャラリーからは「低レベルの試合」だという声が聞かれるほど、西郷は本調子から遠かったが、土田もその好機を生かすことはできなかった。
 一方のクイーン位戦。渡辺永世クイーンのスピードが全盛期から落ちてきているとの評はここ最近さかんに聞かされていた。だから札への反応には定評のある片瀬さんにもチャンスがあるのではないか。あれは、かるたを始めたばかりの平成6(1994)年のことだったろうか。早稲田杯大会という会内の大会の1回戦で私は片瀬さんと対戦したことがあった。結果は文字通り「何もできず」、24枚差という大差で敗れたのだった。近江神宮へ向かう電車の中、その時の記憶が蘇り、「ひょっとしたら」という期待がしてならなかった。テレビ中継は1回戦は名人戦だけであったため、クイーンの試合についてはまったくわからなかったが、結果は渡辺クイーンが10枚差で先勝。やはりここ一番での渡辺クイーンの強さには計り知れないものがあった。
 



46期名人位戦 西郷(左)vs土田
 


 昼食休憩を挟んだ後の2回戦。テレビはクイーン位戦の中継となった。序盤は片瀬さんのペース。16−22と6枚のリードを奪う。だが、大山札(6字決まり札)の判定をめぐってもめた後、渡辺クイーンがペースを取り戻し逆転に成功。だが、片瀬さんも食い下がり渡辺5−7片瀬と勝利の行方はわからなくなる。ここ常に大差でクイーン位戦を乗り切ってきた渡辺クイーンが久しぶりに10枚を切る展開に、私を始めとする観衆は息を呑んだ。張り詰めた緊張感の中、渡辺3−6片瀬となり、2−5となる。渡辺クイーンが着実に防衛に向けて動いていく。私は段々見ているのがつらくなった。やがて片瀬さんのお手つきで1−6と渡辺クイーンがリーチをかけた時、私は耐えられずロビーから外へ出てしまった。後で聞いたところ片瀬さんの健闘虚しくそのまま渡辺クイーンが6枚差で勝ったとのことであった。
 数分の間、外で気持ちを落ち着かせた後ロビーに戻ると、名人戦はまたしても接戦となっていた。6枚セームから西郷が抜け出し2−5となった後、最後は4枚差でかろうじて勝つことができた。

 苦しみながらも何とか2勝をあげ、初防衛まであと1勝と迫った西郷。こうして始まった3回戦は、またしても土田が序盤主導権を握る展開であった。だが、土田がミスを重ねるうちに、西郷が調子を取り戻し逆転に成功。結局最後は11枚という大差で西郷が初の防衛を決めたのだった。
 


防衛を果たした渡辺(左)と西郷
 


惜しくも敗れた片瀬(左)と土田
 

 今回、初めて間近で見ることの出来た名人位戦・クイーン位戦。西郷名人が、渡辺クイーンが、予想外の苦戦を強いられていた。あの試合会場の持つ独特の重たい空気は、我々の想像を絶する ものなのだということに改めて気づかされた。だが、二人とも苦しみながらも見事に防衛を果たし、終わってみれば順当な結果であったと言える。勝った二人が他の二人に勝っていたのは、勝負所のここぞという場面で、きちんと流れを手繰り寄せることができていたから。たったそれだけのことでしかなかったような気がしてならない。

 試合の終わった夜は京都に繰り出し、防衛を果たした西郷名人を囲んでのささやかな祝勝会が開かれた。惜しくもクイーン位を逃した片瀬さんの一行も途中から合流し、それなりに盛り上がった夜であった。
 翌日私は、一人浜松へ向かう新幹線の中にいた。中学以来の友人の結婚式に出席するためである。名人位戦・クイーン位戦の興奮ももうどこかへ消えていた。ただ、私の頭の中にあったのは結婚式で頼まれたスピーチのことだけだった。
 
 

第47期名人位戦・第45期クイーン位戦(平成13年)

 一度目の前で名人位戦・クイーン位戦の迫力と感動を味わってしまうと、もうやみつきである。これからは出来る限り毎年近江神宮へ足を運ぼうと決意した。
 昨年は名人位戦の翌日には浜松へと向かっていたのだが、今年は翌日(日曜)に名人位戦が行なわれたのと同じ会場で開催される高松宮杯全国歌かるた大会に、さらに翌々日(成人の日)は京都の本隆寺で開催される京都新春大会に自らも出場するつもりであった。日曜の夜に大学時代の先輩と大阪で食事をするという約束こそあったものの、かるた尽くしの3日間になるはずである。

 名人戦の前日は京都の妙顕寺の宿坊に宿を取った。実はこのお寺、茶道表千家の本拠地・不審庵のすぐ隣にある。大学2年生の冬、私は不審庵短期講習に参加していたが、その際に宿泊していたのが、この妙顕寺であった。実に5年ぶりになる宿泊で、とても懐かしく、名人戦当日には朝5時からの勤行にも参加してしまった。
 
 さて、今回3期目をめざす西郷名人に挑戦するのは鹿児島の鶴田究さんであった。鶴田さんは13年前にも挑戦者として当時の種村貴史名人(現・永世名人)に挑み、結局敗れたものの、当時連勝を続けていた名人に初めて土を付けていた。西郷にとって、決して楽に勝てる相手ではない。
 一方のクイーン位戦の挑戦者は中村恭子さん(現・矢野恭子/横浜隼会)。渡辺令恵クイーン(横浜隼会)とは同会の後輩に当たる。平成8(1996)年に一度挑戦者となっていたが、その際は渡辺クイーンに連敗し敗れていた。今シーズンは当初からクイーン位戦に照準を合わせ、大会でも女流選手にだけは負けないよう心掛けてきたというから、意気込みが違っていた。

 こうして試合開始の時を迎えた。私は今年も、結局ロビーでテレビ観戦することにした。
 1回戦は名人位戦の中継が行なわれていた。いきなり西郷名人のダブ(
注:敵陣でお手つきし、自陣の出札を敵に取られること。相手から札を2枚送られる)で西郷26−鶴田23となって幕を開ける。そのまま序盤は鶴田さんのペースで試合が進む。だが、中盤西郷は鶴田さんのお手つきに乗じて逆転。今度は逆に自分のペースに持ち込んだ。鶴田さんもしっかりと追走するが、最後は7枚差で西郷がまず勝利を納めた。
 2回戦の中継はクイーン位戦のほうであったため、名人戦の序盤から中盤にかけては見ることができなかった。結局見れたのはクイーン位戦が終わった後の終盤のみ。西郷がお手付きを連発する一人相撲となった結果、展開は接戦となっていた。西郷2−4鶴田。ここで西郷は送ったばかりの札のことを忘れ、自陣を触るという痛いお手付き。西郷3−2鶴田となる。だが、西郷はそれでも崩れなかった。ここから落ち着いて3連取。苦しみながらも2勝目をあげた。西郷は結局この試合だけで計5回のお手付き。苦しい展開ながらも何とか勝ち切り、防衛まであと1勝と迫った。
 3回戦は名人戦の中継。序盤こそ西郷が速さで押し、12−20と8枚のリードを奪う。だが鶴田さんも徐々に詰め寄り、西郷4−5鶴田とまたしても接戦となる。西郷3連取で1−5。鶴田さんが1枚守るも、最後は西郷が自陣をゆっくり守って4枚差で2度目の防衛に成功した。
 終わってみるとストレートの3−0での防衛であったが、名人と挑戦者の力の差は紙一重との印象を受けた。特に、鶴田さんは大負けにもなりかねない展開を、すぐに建て直し、最後まで西郷に優位を与えなかった。
 
 
 
 一方のクイーン位戦。名人戦を見ていたので見れなかった1回戦は、渡辺クイーンが貫禄の違いを見せつけ、14枚という圧倒的大差で先勝。これで渡辺クイーンはクイーン位戦14連勝。今年も渡辺さんで決まりかと思わせたが、それだけでは終わらなかった…。
 2回戦。クイーン位戦がテレビ中継されている。1回戦同様、渡辺クイーンは順調に札を減らしていく。挑戦者の中村さんはお手付きを重ね、あっという間に引き離されてしまった。渡辺6−12中村となった時に異変が起きた。渡辺クイーンの手がピタリと止まってしまったのだ。中村さんは、そこに乗じて連取を重ねる。実に12連取。そのまま6枚差で勝ち、1勝1敗のタイに持ち込んだ。渡辺クイーンが敗れたのは、実に7年ぶりのことであった。
 テレビ中継の関係でクイーン位戦は名人戦3回戦の間休憩となる。この約1時間半の休みが両者が与える影響はいかなるものか。特に、終盤まったく動けなくなった渡辺クイーンの調子が気になる。

 さて、せっかく近江にまで来ているのだから、1度くらいは会場で観戦したいものである。そこで、クイーン位戦の3回戦は会場に入って見ることにした。隣の席には 私と同じ学年の矢野誠恭君(東北大学)が座っていた。ほんのすぐ後、彼が挑戦者の中村さんと結婚することになるとは、当時の私も含めて誰も想像できなかった。
 こうして迎えた3回戦。序盤から両者は互角の勝負を見せる。中村さんの気迫が冴え渡る。一方の渡辺クイーンも、先ほどの苦戦が嘘であったかのように落ち着いて札を減らしていく。ついに5−5と、勝利の女神がどちらにほほ笑むのか、まったくわからない展開となった。だが、数々の修羅場を渡って来た渡辺クイーンに一日の長があったようだ。そのまま5連取で勝負を決めると、見事にクイーン位を防衛。連続10期通算13期目という記録となった。
 
 
 
 名人戦もクイーン位戦も共に昨年以上の好勝負であった。非常に息つまる攻防を見ることができ、私も大満足だった。とりわけ、この数年間絶対的な強さを誇っていた渡辺クイーンが最終戦までもつれるという波乱に、近いうちの世代交代の訪れを感じた人も少なくなかったのではないだろうか。
 今年は西郷君有利と予想されていたせいか、思ったより応援に訪れた仲間は少なかった。それでもささやかな祝勝会がその夜京都で催された。

 翌日、同じ近江神宮で開催された高松宮杯かるた大会に出場。前日熱戦の行なわれたのと同じ会場で自分が試合できると言うのは何とも不思議な気分だったが、結果は栗原績・元準名人(福井渚会)に20枚という大差で惨敗。その翌日の京都新春大会では、久しぶりに1勝を挙げることができた。

 こうしてお正月らしいかるた漬けの3日間を終えて、私は京都を後にした。
 
 
 
第48期名人位戦・第46期クイーン位戦(平成14年)
 
 
 平成13(2001)年3月に私が発表した「日本競技かるた史(1)」(実践学園紀要19)は、一部のかるた関係者の間で評判になったようである。こうした関係で、全日本かるた協会の調査研究部に参加することとなった。
 平成16(2004)年は黒岩涙香が最初のかるた大会を開催してからちょうど100年目の節目の年にあたる。そこで全日協としても「競技かるた百年史」を作成することとなり、私もそのメンバーに加わることになったのである。名人位戦前日に琵琶湖ホテルにおいて、打ち合わせが行われる。
 
 当初、京都には名人位戦前日の1月4日に入るつもりでいたのだが、年末の忘年会で会った後輩がやはり関西方面への旅行を計画していたことから、1月2日の夜に、彼の持つ青春18切符を使って一緒に出発することにした。
 大垣行きの臨時夜行に品川から乗って出発。この電車に乗るのも実に大学生の時以来。貧乏学生のケチケチ旅行にはこの大垣夜行は必須であった。大会の遠征の際に何度となく利用したものである。

 1月2日深夜から3日にかけて東海地方は大雪であった。1時間遅れで大垣に着いたものの、そこからの電車が待てど暮らせど来ない。大雪で大幅に遅れていたようだ。2時間近くも吹きっさらしのホームで待つのはつらかった。ようやくやって来た電車で京都へ向かった。
 京都に着くとさっきまでの雪が嘘みたいにすっかり晴れていた。 


 京都ではまず最初に八坂神社に向かった。八坂神社には須佐之男命が祀られているが、「古事記」によれば彼は最初の和歌である、

 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を

を詠んだとされている。そういう関連で、毎年1月3日は「かるた始め」の儀式が行なわれている。それを見るためであった。
 「かるた始め」に参加しているのは、私の所属する全日本かるた協会ではなく、そことは距離を置く「日本かるた院本院」である。創設者の鈴山透元名人については前述した通り。現在は鈴山未亡人の葵さんが理事長を務め、この日の読唱も彼女であった。
 かるた院のかるたは、試合の勝ち敗けよりも王朝の優美さを今に伝えることを主眼としている。そのため、全日協のかるたで行なわれる「払い手」を禁止し、「押さえ手」に重きうを置く。だが、 私が見た限りかるた始めでは、札を飛ばしていた。ひょっとしたら押さえた後に飛ばしているのかもしれない。せっかくの機会なのでもう少し細かいところまで見たかったのだが、あまりの人だかりでそれも適わなかった。

 その夜は後輩と大阪に繰り出して遊んでから別れた。
 
 



かるた始めの行われる八坂神社
 

 
 
 翌1月4日、大津の琵琶湖ホテルに移動。そこでの全日本かるた協会調査研究部の部会に出席した。主に「競技かるた百年史」の打ち合わせが行われた。黒岩涙香から現在までの100年の競技かるたの歴史を綴った本で、平成17年3月の発行を目指すとのこと。私の執筆担当は、「昭和戦前期」と「昭和戦後・伊藤秀吉期(〜昭和41年)」と決まった。また、その日は、名人位戦・クイーン位戦の前夜祭ということで、東洋大学名誉教授の神作光一先生による「女性仮託の歌―『小倉百人一首』と『曽祢好忠集』とを軸として―」という記念講演があった。「由良のとを…」の作者・曽祢好忠(925〜1003)が、「曽祢好忠集」の中で、女性に仮託して読んだ歌を中心に、さらに百人一首の女性仮託の歌。百人一首の後世への影響について語られていた。競技かるた100周年を機に、百人一首そのものについても見直す機会になればいいのではと、思った。

 その後は前夜祭のパーティである。本当は参加する予定ではなかったのだが、せっかくの機会なので飛び入りで参加してきた。盛装でなかったので、テレビには映らないようにと、カメラから逃げ回ってきた。乾杯の後、西郷名人、渡辺クイーン、そしてそれぞれの挑戦者が翌日の抱負を述べる。
 
 



記念講演の神作光一先生
 

 
 
 昨年、一昨年とストレートで防衛してきた西郷名人にとって今年は試練の年になるであろう。なぜなら、彼は昨春に大学を卒業し、新社会人となっていた。大幅に生活が変わったばかりか、四国の松山に赴任し、練習場所・練習相手にも事欠くようになっている。しかも、今年の挑戦者となったのが前名人の望月仁弘(慶應かるた会)。望月前名人は、3年前、先に2勝しながらも、その後西郷に3連敗し、名人位を失っていた。その後は打倒西郷に燃え、以来公式大会では西郷に負けていない。昨秋も、名人奪還を目標に据えると、9月の吉野会大会、10月の水沢大会と連続優勝。名人位戦東日本予選、挑戦者決定戦と危なげなく勝ち上がり、ここまで駒を進めてきた。
 今まで以上に西郷の苦戦は必至と思われた。下馬評でも、「フルセットの5回戦までもつれるだろう」あるいは、「3連勝で望月の勝ち」といったようにささやかれていた。パーティの際の抱負でも前名人は「3試合で決める」と自信の程を述べていた。

 その日は初めて琵琶湖ホテルに宿泊した。普段めったに泊まれないような豪華な部屋ではあったが、調査研究部の重鎮と同じ部屋ということで、少々窮屈だった。
 
 
 



琵琶湖ホテル
 

 
   
 こうして1月5日、近江神宮での名人位戦の当日を迎えた。西郷名人を大学時代指導していた田口忠夫元名人も今年は応援に駆けつけている。やはり難敵を迎えるに当って心配なのだろう。今年もまた私はロビーのほうでテレビ観戦することにした。

 1回戦は序盤から西郷、望月両者互角の戦いとなる。西郷が引き離すと、すぐに望月さんが追いつくという展開のまま、最後は西郷が3枚差で先勝。西郷はこれで名人戦10連勝となった。
 2回戦、望月さんの様子がどうも変だ。「打倒西郷」に燃えていると聞いているにしては日ごろの気迫がほとんど感じられない。西郷がそこに付け込み序盤から大量のリードを奪う。だが、中盤になってから望月さんの取りにようやく冴えが戻ってくると、連取で6−6のセームにまで追いついた。ここで西郷はラストスパート。望月さんのお手付きもあって、最後は6枚差で勝利し、防衛に王手をかけた。
 3回戦は、追いつ追われつの攻防で競り合いのゲームとなった。終盤まで4枚以上の差がつかない僅差の展開のまま2−2のセーム。望月さんが自陣を守り先に王手をかける。すぐさま西郷も自陣を守って追いつき、勝負は「運命戦」に。望月陣は「ちは」、西郷陣は「なにし」。詠み手の稲葉修至専任読手が読みあげた札は「なにし」。西郷が自陣を守って接戦を制し、3度目の名人位防衛を果たした。

 最後の最後で自陣を引くというその勝負強さに、「大名人」の風格がどこか漂っているようであった。


 一方のクイーン位戦。渡辺永世クイーンに挑戦するのは斎藤裕理5段(現・荒川裕理/京都府かるた協会)。こちらは立命館大学の4年生で、大学選手権優勝の原動力となった選手である。昨年もクイーン位戦の西日本代表に勝ち進むが、挑戦者決定戦で中村恭子さん( 現・矢野恭子/横浜隼会)に敗れていた。その斎藤と今年の挑戦者決定戦で対戦したのが東日本代表の目白大学1年の吉峰翼(埼玉むさしの会)。こちらは一昨年のクイーン位戦予選で東日本代表に弱冠17歳で勝ち進んだが、挑戦者決定戦で片瀬亮子さん(九州かるた協会)に敗れていた。そういえば、私がまだ大学生だった頃の6、7年前から「ポスト渡辺」となるで あろう選手はこの斎藤や吉峰あたりの世代であろうと言われていたことを思い出す。いずれにせよ、近い将来の女流かるた界を彼女らがリードしていくのは間違いない。このフレッシュな二人の対戦は斎藤に2−1で軍配が上がり、渡辺クイーンへの挑戦権を獲得したのであった。
 1回戦、渡辺クイーンは調子があがらないも、齊藤挑戦者のミスに乗じて、一気に差を広げ9枚差で勝利。だが2回戦、渡辺クイーンはどうもペースをつかめない。終始押されて、結局8枚差で齊藤挑戦者が勝利、タイに持ち込む。1試合分の休憩を挟み、3回戦が幕を開ける。2回戦とは髪型を変えた渡辺クイーン。それまでの不調が嘘だったかのように、本来の気迫のこもった取りを見せる。14枚という大差で勝利し、前人未踏の11連覇の偉業を達成した。渡辺クイーンは昨年10月にお母様の幸子さんを亡くしたばかり。その悲しみを乗り越えての偉業達成であった。敗れた齊藤挑戦者が「まるで二人と戦っているようだった。」と後に語ったと聞いた。
 

 もう恒例となった京都の町での祝勝会。今年は田口元名人も参加してくれた。


 翌1月6日は同じ近江神宮で行われた高松宮杯争奪かるた大会に出場したが1回戦で敗退。混雑を避けるために新幹線こだま号でのんびりと東京へ戻った。
 
 
 
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