6.大学かるた会の隆盛 | ||
大学生名人の誕生 |
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平成のかるた界は、大学かるた会が隆盛を極めた時代だと言える。そもそも最初のかるた会が結成されたのは明治25(1892)年頃東京帝国大学内においてであった(第3章参照)。また、その後早稲田にも会が存在したようである。黒岩涙香の「小倉百人一首かるた早取秘伝」(明治38年1月「萬朝報」)によれば、明治38年以前に早稲田と慶応のチャンピオンが試合をしたとの記述があり、当時大学生の間においてもかるたはかなり盛んであったことがわかる。 学生を対象とした大会としては、昭和28(1953)年に仙台において始まった東日本学生選手権大会がある(平成3年まで開催)。また、昭和44(1969)年からは学生選手権が始まっている。同年に開催された和倉大会の後、宿舎の青林寺に居合わせた大学生たちによって「全日本学生かるた連盟」が結成され、8月24日に全日協本部にて大会を開催した。大会当日には、試合に先立ち出席者全員による連盟の設立が承認され、初代会長に早稲田大学の平山真、副会長に東北大の遠藤健一(仙台鵲会)、金沢大の川瀬健男(金沢高砂会)が選出された。第1回大会で優勝したのは副会長の川瀬であった(*1)。学生選手権は現在では3月と8月の年2回、江戸川スポーツセンターにおいて開催されている。 さて、初代名人・正木一郎(白妙会)は早稲田大学商学部の出身(昭和31年卒業)であったが、その早稲田大学にかるた会が設立されたのは正木卒業後の昭和32(1957)年である。それに先立って東京大学、慶応義塾大学にもかるた会が設立されているが、平成の大学かるた界を支えたのも、この3大学のかるた会であった。 早大4年で初めて名人になった正木を始め、何人かの大学生選手がいたが、彼らの所属は一般会であり、早稲田を始めとした当時の大学かるた会は、その一般会に大会でまったく歯がたたないのが実状であったという。 昭和51(1976)年、初挑戦でみごとにクイーン位を獲得した吉田真樹子(現・金山真樹子)は、当時慶応義塾大学の4年生。大学かるた会から初のクイーン誕生であったが、わずか1期で堀沢久美子(現・久保 久美子/小野田)に破れタイトルを失う。その後54(1979)・56(1981)年には慶応かるた会出身の福田美技(旧姓・妹尾美枝/福山)、58(1983)年には国際基督教大学4年の吉井瑞技(ICU若菜会)が堀沢クイーンに挑戦するがやはり破れている。以来、現在にいたるまで大学かるた会からのクイーン位挑戦者は現われていない。昭和60(1985)年の東北学院大2年の渡辺さゆり(現・鎌田 さゆり/仙台鵲会、後に民主党衆議院議員)、平成9(1997)年の福岡大3年池田実穂子(現・中島実穂子/九州)、平成14(2002)年の立命館大学4年齊藤裕理(現・荒川裕理/京都)はいずれも大学生ではあったが、所属は一般会である。 一方の名人戦においては、昭和30(1955)年に正木、昭和46、7(1971,2)年に遠藤健一(東北大/仙台鵲会)が大学生ながら名人位を獲得。敗れた側でも昭和46(1971)年の川瀬健男(金沢大/金沢高砂会、のち大垣むらさき会)、昭和52(1977)年の平田裕一(関西学院大/大阪暁会)がいる。しかしやはり彼らも所属は一般会であった。その後昭和60(1985)年に松川名人を破り名人位を獲得したのが、慶応義塾大学4年の種村貴史であった。大学卒業後も慶応かるた会にとどまった種村は、翌61(1986)年には同じ慶応の1年先輩にして当時大学院生であった牧野守邦を相手に名人位を初防衛。翌62(1987)年と平成3(1991)年には後輩である望月仁弘から名人位を守っている。種村は平成4(1992)年まで連続8期名人位を務め、正木一郎に次ぐ史上2人目の永世名人に就任し、牧野、望月らと共に慶応の黄金時代を築いていく。 種村は平成5(1993)年、平田裕一(大阪暁会)に敗れ名人位を失うが、その2年後に再び返り咲きに成功する(通算9期目)。平成8(1996)年の名人位戦は、3度目の顔合わせとなる種村名人と望月挑戦者の慶応の先輩後輩によって争われた。結果は望月が3−0のストレートで種村を初めて下し、念願の名人に就いた。 |
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一方、慶応のライバル早稲田はどうであったのか。現在でも、野球を始めとして各種の早慶戦は異常なほどの盛り上がりを見せるが、かるたにおいてもそれは例外ではない。平成元(1989)年の名人戦は、昭和天皇崩御により、従来の1月ではなく4月に行なわれたが、この時史上初めて早慶両校のOBによって名人位が争われたのである。種村名人に挑戦したのは、早稲田大学法学部出身の石沢直樹(早稲田大学かるた会、現・大津あきのた会)であった。結果は、種村が3−0のストレートで石沢を破り、名人戦史上初の早慶戦は慶応に軍配が上がった。その後、早稲田からの名人位挑戦は、平成10(1998)年まで待たなくてはならない。 その間の平成9(1997)年、東大から初の名人位挑戦者が現れた。昭和30年代に一度会が結成されるもの、その後長らく会自体が失われていた東京大学かるた会であったが、昭和58(1983)年、当時白妙会に所属していた金刺義行と、黒澤伸隆によって会が再興されている。それから14年、当時経済学部3年、弱冠22歳の新川彰人(現・東会)が挑戦者として望月名人に挑んだのである。しかし、望月の強さには適わず、3−0のストレートで望月が初の防衛に成功する。 翌10(1998)年は、今度は早稲田大学文学部卒業の田口貴志(横浜隼会、現・暁星)が、その望月に挑み、2度目の早慶による名人戦が実現した。囲い手を駆使する田口は、望月が苦手とする選手。しかし、結果は3−0で望月が勝ち、再び慶応に凱歌があがる。 翌11(1999)年、早稲田大学教育学部2年の西郷直樹が挑戦者となり、2年連続の早慶の名人位戦となった。第1、2戦は望月が連勝。名人位防衛に王手をかける。ところが、西郷はそこから奮起し、ついにそこから2連勝してタイに持ち込んだ。最終戦は疲れが見える望月に対し、西郷が9枚差で勝利し、新たな名人が誕生した。西郷は当時弱冠20歳、正木、松川、種村の21歳を下回る史上最年少名人の誕生であった。翌平成12(2000)年は西郷に、早稲田大学社会科学部出身の土田雅(福井渚会)が挑戦し、初の早稲田同士の名人位戦となった。西郷と土田は同じ早稲田大学の先輩・後輩にあたるだけでなく、共に高校選手権の覇者でもある。平成11(1999)年の挑戦者決定戦には、西郷が東日本代表、土田が西日本代表として臨み、勝った西郷が近江神宮へ駒を進めていた。結果は、西郷が3−0で勝ち、初の防衛に成功した。 *1 「異色大会紹介/(1)全日本学生選手権大会」(「かるた展望 第10号」昭和51年1月) |
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西郷名人の時代 |
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西郷直樹名人は平成13(2001)年は2度目の挑戦となるベテラン鶴田究(鹿児島)を、翌14(2002)年は前名人の望月仁弘(慶應)の挑戦をいずれも3−0のストレートで退ける。そして、永世名人位のかかった平成15(2003)年は、土田雅(福井渚会)の2度目の挑戦を受ける。第1戦こそ土田は3枚差にまで詰め寄るが、第2・3戦はそれぞれ6枚、15枚と大差で西郷が勝利。またもや3−0のストレートで西郷が史上最年少の永世名人となった。土田はここぞという場面でのお手つきに祟られた形となった。 名人位への執念を見せる土田は、その後も平成16(2004)年、平成17(2005)年と、3年連続挑戦者として西郷に挑む。接戦に持ち込んだ試合も多かったが、西郷には一度も勝てず、全て3−0のストレート負け。平成16(2004)年の第2回戦では残り1枚ずつの運命戦にまでもつれ込む。読まれた札は土田陣の大山札「あさぼらけあ」であったが、西郷が土田の囲った手をかいくぐって勝利を得た。土田は平成19(2007)年にも5度目の挑戦者となるが、やはり西郷の厚い壁を崩すことはできなかった。 平成18(2006)年には、土田が大学生時代に所属していた府中白妙会での師匠にあたる前田秀彦(府中白妙会)が、53歳という、鈴木俊夫の54歳に次ぐ高年齢での名人位挑戦となったが、すべて10枚差以上の大差で敗れている。 西郷は、挑戦者であった平成11(1999)年の第1・2戦こそ望月名人に敗れているが、その後は3連勝。平成12(2000)年以降 平成19(2007)年まですべてストレートで防衛を続けた。実に27連勝。これは昭和30(1955)年から33(1958)年にかけて正木一郎が記録した14連勝を大きく上回る、名人位戦の新記録であった。 平成20(2008)年の挑戦者は三好輝明(福井渚会)だった。三好は早稲田大学教育学部の出身で西郷の学部の後輩に当たる。1回戦、接戦の末に三好が2枚差で西郷を破る り、西郷の連勝が止まる。だがその後西郷は16枚、9枚、9枚と3連勝で、正木永世名人に並ぶ10期目の名人位に就いた。 平成21(2009)年もやはり、西郷は挑戦者・岸田諭(篠山かるた協会)に初戦を4枚で落とすが、その後は8枚、5枚、11枚と3連勝。名人戦史上初の11連勝を達成する。 平成22(2010)年、2度目の挑戦となった三好輝明は、1・2回戦を6枚、3枚と連勝し、新名人位にあと1勝となった。3回戦は8枚差で西郷が勝利。4回戦、三好が1−2とリーチをかけ、名人位に王手をかけるが、そこから痛恨のダブル(自陣を取られ、敵陣をお手付き)で西郷が逆転勝利で五分に持ち込む。最終戦では西郷が6枚差で勝ち切り、辛くも名人位を守った。 平成23(2011)年、挑戦者は川崎文義(福井渚)。1回戦は接戦の末に西郷が1枚差で運命戦を制す。2回戦は西郷が乱調で、序盤から大差をつけられる。終盤粘るも4枚差で川崎が勝利。3回戦は西郷が6枚差で勝利するも、再び運命戦となった4回戦は川崎が1枚差で勝ち、2年連続の最終戦となった。5回戦は、中盤までは接戦ながら川崎がリード。そこから西郷が追いつき、逆にリードを広げる。最後は1−6から川崎がお手付きで、西郷が名人を守った。 盤石の強さを誇った西郷も、年齢的(2011年現在33歳)からか近年衰えが目立つようになってきた。22年・23年はいずれも最終戦にまでもつれる接戦で、新名人誕生の期待も高まったが、ここぞという場面では西郷が強さを見せて勝ち切ることに成功している。これで西郷は前人未到の名人位在位13期連続。このままどこまで記録を伸ばせるだろうか。 |
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楠木クイーンの時代 |
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平成4(1992)年以降連続してクイーン位を務めてきた渡辺令恵永世クイーン(横浜隼会)は、平成7(1995)年以降は全て2連勝のストレートでクイーン位を守ってきた。それも平成8(1996)年以降は全ての試合で10枚以上の大差をつけるという圧勝ぶりであった。その渡辺の勢いに陰りが見え始めたのは平成12(2000)年のクイーン位戦 だった。挑戦者の片瀬亮子(現・益満亮子/九州かるた協会)が2回戦で6枚差にまで詰め寄る健闘を見せた。 平成13(2001)年の第45期クイーン位戦挑戦者となったのは中村恭子(現・矢野恭子/横浜隼会)。中村は渡辺の中学のかるた部の後輩に当たり、平成8(1996)年にも挑戦者となっていたが、その際は22枚、17枚と渡辺に大差で敗れていた。この年も1回戦は渡辺が14枚で勝利し、やはり力の差を見せつけたかに思われた。2回戦も中村は序盤からお手つきを連発し、渡辺に6−12と6枚のリードを奪われる。ところが、ここで異変が起きる。渡辺の手がぴたりと止まってしまう。中村はそこから12連取し、6枚差で勝利。渡辺のクイーン位戦の連勝が14で止まった。3回戦は序盤から接戦となり、5−5となるが、そこから渡辺が5連取。渡辺が苦しみながらも13度目のクイーン位を獲得した。 平成14(2002)年の第46期クイーン位戦は立命館大学4年の齊藤裕理(現・荒川裕理/京都府かるた協会)が挑戦者となった。1回戦は渡辺が9枚差で勝利。2回戦は齊藤が8枚差で一矢報いるも、3回戦渡辺がが14枚差で大勝。クイーン位を防衛した。 齊藤は翌平成15(2003)年の第47期クイーン位でも挑戦者となる。1回戦は渡辺が9枚差で圧勝。2回戦も一時は8枚リードをつけ、通算15期目のクイーン位にあと一歩と迫る。だが、齊藤はそこから集中力を見せ、6枚差で逆転勝利。3回戦では逆に齊藤が終始有利に試合を進めた。渡辺も驚異的な粘りを見せるが、最後は齊藤が振り切って5枚差で勝利。12年ぶりのクイーン交代となった。 |
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齊藤クイーンは平成15(2003)年秋に結婚、荒川裕理と名前を改める。そうして迎えた平成16(2004)年の48期クイーン位の挑戦者は目白大学3年、21歳の吉峰翼( 現・坪田翼/東会)であった。荒川と吉峰は平成13(2001)年の第45期クイーン位東西挑戦者決定戦で顔を合わせていたが、その際には荒川(当時・齊藤)が2−0のストレートで挑戦者の座を掴んでいた。近江神宮の舞台では初の顔合わせとなった二人の対戦は、接戦となった。1回戦、荒川が序盤リードを広げるが、吉峰が追いすがり4−4となる。そこから荒川が4連取で、防衛戦初勝利を決める。2回戦は吉峰のペースとなり、2枚差で勝利し1勝1敗のタイに持ち込む。3回戦は終止荒川のペース。吉峰も追い上げるが、結局荒川が5枚差で勝利し、初の防衛に成功した。 平成17(2005)年の第49期クイーン位戦の挑戦者は弱冠15歳の中学3年生・楠木早紀(大分県かるた協会)となった。1回戦、楠木は中学生らしからぬ落ち着いたかるたで荒川クイーンと互角の勝負を展開する。終盤にリードを奪うと、そのまま5枚差で勝利。2回戦も9枚という大差で楠木が連勝し、初挑戦でみごとクイーンの座を奪い取った。15歳という年齢は、従来の堀沢久美子(現・久保 久美子)の17歳を下回る、クイーン位の史上最年少の記録である。 平成18(2006)年の第50期クイーン位戦では、楠木は、ベテラン選手の上野玲(京都府)を退け初防衛に成功。翌19(2007)年は鋤納麻衣子(大阪暁会)を、20(2008)年は山下恵令(東京明静会) 、21(2009)年は池上三千代(東京東会)をすべてストレートの2−0で破り5連覇を達成 し、最年少で3人目の永世クイーン位となった。楠木は22(2010)年の吉峰翼(現・坪田翼/東 会)、23(2011)年の山下恵令(東京明静会)もストレートで破り、現在負け無しの 14連勝を続けている。この先どこまで記録を伸ばすかが注目される。 |
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職域・学生大会の流れ |
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平成のかるた界では大学かるた会出身の選手が大いに活躍を見せている。このように大学かるた会が隆盛を極める一つの契機となったものとして、昭和38(1963)年に始まった職域・学生かるた大会をあげることができるだろう。 この職域・学生大会は、同じ職域・学校に所属する選手によって構成された5人チームによる団体戦形式で行なわれる大会である。団体戦は1対1の個人戦を複数組同時に行い、チームとしての勝敗を競うものである。職域・学生大会は、5人制団体戦であるから、3人以上勝ったチームが勝ちを収めることになる。 現在行なわれている職域・学生大会の以前に行なわれていた職域大会は、昭和30(1955)年に第1回大会が光林寺において開催された。同大会は、昭和37(1962)年10月の第15回大会まで年2回ずつ開催されている。当初は職域チームのみの参加であったが、その後学生のチームも出場を認められるようになる。当時の最強チームは正木一郎名人(当時)の指導していた総理府統計局で、計9回優勝している。昭和34(1959)年の第9回大会では早稲田大学が、学生チームとして最初の優勝を遂げた。 |
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現在の職域・学生大会は、昭和38(1963)年に12チームの参加で始まり、春と夏の年2回ずつ開催されている。現在はA級を筆頭にE級まで、約50チームが参加(同一団体から複数チームの参加あり)している。時代において多少の変遷があるものの、参考までに現在の同大会の試合方法について説明しておきたい。A級からC級までの3階級はそれぞれ8チームずつで、 D級が3ブロック24チーム。残りのチームはE級に所属する。また、初めて出場するチームもE級から出場することになる。A〜C級までの各階級で上位2位までに入ったチームは次の大会で上の級に昇級することができ、同様に下位2チームが下の級に陥落することで各級のチームが入れ替わる。 D級は各ブロック1位の計3チームがC級に昇級、各ブロック下位2チームの計6チームがE級に降格である。E級は上位6位までがD級に昇級する。 A〜Dの各級の8チームは、4チームずつTおよびUブロックに分けられ、それぞれのブロック内でリーグ形式の予選が3試合行なわれ、ブロック1位から4位までが決められる。次にブロック1位同士が優勝決定戦、2位同士が3位決定戦を行なう。ブロック3位および4位は陥落戦に進み、一方のブロック3位がもう一方のブロック4位と対戦し、5位から8位までが決められ、下位2チームが陥落する。このように各チームは1回の大会で計4試合行なうのである。 現在、E級のみは異なった方式で行なわれている。TおよびUのブロックに分かれているのは他の級と同様であるが、チームの参加数が多いため、チーム毎の対戦にはならない。各チームの選手(5人)をシャッフルし、個別に対戦相手が決まる。対戦後はチーム毎に勝敗が集計され、計3試合行なわれる。3勝以上あげたチームが勝ち点を得るという点では、他の級と同様であるが、E級は参加チーム数が多い(約30チーム)ため、勝ち数が重要となる。3試合が終わった後、順位が決まる。順位決定戦は、Tブロック1位対Uブロック2位、Tブロック2位対Uブロック1位。Tブロック3位対Uブロック4位、Tブロック4位対Uブロック3位といった具合にチーム同士の対戦となる。こうして最終的に1位から順位が決められ、上位 6チームはD級に昇級することができる。 第1回の職域・学生大会は全日協本部で開催された。この時参加したのは、職域の総理府統計局、貯金局、東大職員、不二アルミ、それに学生の日比谷高校、早稲田大学、慶應義塾大学、東京大学の8団体12チームであった。結果は、職域チームの強豪を押さえて早稲田大学が優勝を飾っている(*1)。早稲田大学はその後も第11回大会までに7回連続を含め計9回優勝するなど、初期の職域・学生大会をリードしていく(*2)。 ここでも早稲田の強力なライバルとなったのが慶応義塾大学であった。昭和48(1973)年の第22回大会。慶応は後のクイーン吉田真樹子(現・金山真樹子/現・東京吉野会)らを擁し、初優勝を遂げる。この時慶応は全20試合中、実に19勝を挙げるという堂々の勝ち振りであった。これは昭和41(1966)年の第7回大会において早稲田大学が達成した記録と並ぶもので、未だに破られない大記録である。その後も慶応は昭和52(1977)年の第29回大会までに計6回優勝し、最初の黄金時代を築くことになる。その後も早稲田と慶応は幾度となく熱戦を繰り広げ、2大巨頭として職域・学生大会に君臨していく。 昭和61(1986)年の第45回大会から平成元(1989)年の第51回大会まで慶応は連続7回優勝。同年の第52回大会こそ早稲田が勝つものの、翌年は再び慶応が連勝し、慶応はライバル早稲田を押さえ第2の黄金時代を迎えていた。平成3(1991)年の第55回大会、早稲田はブロック予選において慶応を破り優勝を奪還すると、そのまま4回連続優勝し、今度は早稲田の黄金時代が始まる。その間に慶応は、次第に弱体化して、影響力を失っていった。 その慶応と入れ替わって浮上してきたのは東京大学であった。東大は平成5(1993)年の第59回大会での初優勝の後しばらく優勝から遠ざかっていたが、平成7(1995)年には春夏連続優勝し、早稲田から覇権を奪い取ることに成功する。しかしその後早稲田は、現名人の西郷直樹の加入により再び力を取り戻し王座を奪い返した。 現在の職域・学生大会は、その名称とは裏腹に、学生の大会となりつつある。職域チームの優勝は、昭和46(1971)年の第17回大会における総理府統計局を最後に現れていない。また、高校チームとしては昭和45(1970)年の第14回大会の宮城学院、昭和47(1972)年の第19回大会からの3大会連続を含め計10回優勝した富士高校(静岡県)がある。富士高は昭和54(1979)年に始まった高校選手権大会の団体戦において10連覇を達成したかるたの名門校である。また、平成9(1997)年には東京の暁星学園が当時王座にあった東京大学から優勝を奪い取り史上3校目の高校チームの優勝を実現した。平成13(2001)年夏の第76回大会では暁星学園と静岡双葉が決勝で激突。史上初の高校生チームによる決勝となったが、結果は平成11〜13(1999〜2001)年と高校選手権3連覇中の静岡双葉に凱歌が上がった。 平成17(2005)年春の83回大会では、暁星学園が早稲田大学を破り2度目の優勝。そのまま同年夏の84回大会、翌18(2006)年春の85回大会では決勝で立命館大学を破り3連覇を成し遂げる。だが、 卒業のために主力選手の抜けた暁星学園は、同年夏の86回大会で最下位に終わりB級に陥落してしまう。 平成18(2006)年夏の86回大会では早稲田大学が優勝を奪還。この時決勝で敗れた大阪大学が早稲田の新たなライバルとなった。3回連続で早稲田大学と大阪大学が決勝にて相見える。平成19(2007)年夏の88大会、ついに大阪大学が早稲田大学を破り 、初優勝を決めた。 |
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*1 「異色大会紹介/(2)職域学生大会」(「かるた展望 第10号」昭和51年1月) *2 以下、職域の記録については「高野仁のページ:職域・学生大会A級優勝チーム一覧」(http://web.sfc.keio.ac.jp/~takano/syokuiki.html)を参照した。 |
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