.かるたの想い出

 
 以上簡単ではあるが、現在までに至るかるたの歴史について述べてきた。しかし、現在のかるた史は、私自身が選手として少なからず関わってきた生きた歴史でもある。最後に、ここまでの私自身のかるたの思い出について振り返ってみたい。
 
 私が競技かるたを始めたのは、平成6(1994)年、早稲田大学文学部2年生の時であった。それまで私は、生協学生委員会というイベントサークルに所属しており、その年の5月、大隈講堂において「ユニセフのためのチャリティーショー/早稲田の大道芸人たち」というイベントを企画していた。私はそのイベントにおいて情宣の責任者を務めていた。そのイベントにかるた会が参加してくれたのである。私は幼稚園の頃から、家で妹を相手に百人一首の遊びをしたりしていたので、かるたというものに少なからず興味があった。そこで、これを機にかるた会の練習を見学をしに行った。当時早稲田大学かるた会は、早稲田鶴巻町の天祖神社の和室で練習を行なっていた。
 のちに知ったことだが、私の母もかるたに興味があり、中学生の頃、当時湯島で行なわれていた東京東会の練習を見学に行ったことがあるそうである。最近祖母の家から当時の東会副会長・奥田宏氏の名刺が見つかり、現東会会長の松川英夫氏にお見せしたところ、とても懐かしがっていらっしゃった。
 



祖母が所持していた
奥田宏氏の名刺
 


 7月に郡山で行なわれた夏合宿に参加し、本格的にかるたを始めると、新学期からはかなり熱中するようになった。週4回の早稲田の練習だけでは飽き足らず、東京外国語大学の練習などにも参加し、熱心に練習をしたものである。その後は、亜細亜大学や東大、東京東会や白妙会といった一般会にも足を運ぶようになる。
 初めて大会に出場したのは、9月の水沢大会(岩手県)であった。当時私はまだ初心者であったため、本来ならばE級で出場すべきであるが、水沢大会の参加資格はD級以上。そこで、少し冒険ではあったが、1つ上のD級で出場したのである。結果的に初勝利をそこで挙げることができ、結局そのままD級で大会に出場し続けることになる。翌平成7(1995)年2月の静岡大会でD級初入賞(4位)。大学3年になった8月の学生選手権で、3位入賞してC級に昇級する。
 C級デビューは再び9月の水沢大会であった。初のC級ということで、あまり昇級は意識していなかったものの、気づけば決勝まで進んでいた。決勝では早稲田の2年後輩の林正樹君に敗れたものの、堂々の準優勝でB級に昇級することができた。
 B級では12月の椿雄太郎杯と翌平成8(1996)年3月の松山大会で3位に入賞し3段の資格を得るものの、そこからあと一歩がなかなか超えられない。大学4年生になり卒業を目前にするとA級昇級に対して次第に焦りを感じてきた。こうして迎えたのが9月の水沢大会であった。水沢大会は、私にとって初めて出場した大会であると同時に、C級でも準優勝した相性の良い大会。私は優勝への思いを一際強く持って大会に臨んだ。順当に勝ち上がり、決勝の相手は東京大学の同級生・木下佳信君となった。東大の私の同期にあたる代は一種の黄金時代で、大半が早くにA級に昇級したばかりか、すでに何人かはA級優勝者さえしている。木下君はその同期最後のB級選手であり、A級への思いは私をはるかに上回っていたようだった。結果は17枚という圧倒的大差で木下君が勝利をあげ、私のA級昇級は後に持ち越された。
 長いB級時代を終えたのは翌年1月3日の大宰府大会であった。直前の調子はよくなかったが、私にはなぜかA級になれるという自信というか確信があった。そしてそれを裏付けるかのように順調に勝ち進んでいく。気づくと準決勝まで進んでいた。A級昇級の条件はB級優勝もしくは、準優勝2回。準決勝にはもう一人、早稲田の加藤智雄君が残っていた。加藤君は私より1年後輩であるが、2年生からかるたを始めた私にとっては実質的に同期のような存在であった。決勝まで進んだら、加藤君に譲って自分は棄権する…そう約束して準決勝に臨んだ。しかし、加藤君は対戦相手の早さに押されて敗退。私は決勝に進出しA級昇級を決めるものの、同じ相手に敗れて準優勝に終わった。自分が優勝できなかったことよりも、加藤君と揃って昇級できなかったことが悔しかった。だが、大学卒業を目前に、念願のA級に昇級できたことで大きな満足感も得た。
 



平成7年学生会館にて
 


 まもなく大学を卒業し、私は社会人となった。A級に昇級した結果、大会では常に強豪選手と対戦するようになる。練習時間も学生時代に比べはるかに減り、もはや大会で勝つことは容易ではなくなった。だが、かるたをやめようと思ったことはない。今では長くかるたを続けていけるような選手でありたいと思っている。
 かるたを通じて出会えた多くの人たちがいる。かるたをやらなければ知り合うことはなかったであろう地方の人たち、年上や年下の人たち。今後も様々な出会いがあるだろう。選手としてはもはやこれ以上は望めないかもしれないが、かるたを続けていくことは決して無駄ではない。かるたは 永年に渡って続けていくことが可能な競技であるから。このような素晴らしい趣味と出会えることができた自分は幸せである。今はかるたに「ありがとう」が言いたい。
 

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