7.若人たちの祭典 | ||
大学選手権のはじまり |
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前章で見て来たように、職域・学生大会においてその覇権を握ってきたのは、早稲田と慶応、後には東大の3大学であったが、平成のかるた界はそのままこの3大学かるた会の時代であったと言うことが出来る。 そのような中、大学生独自の大会を開催しようとの動きも現れた。やがてそれは平成6(1994)年に近江神宮で第1回大学選手権が開催されることで実現する。大学選手権は、3人チームによる団体戦と、大学代表1名の出場による個人戦からなり、第1回の団体戦は福岡大学が、個人戦は九州大学2年の中島聖二(九州かるた協会)が優勝している。 第1回大会発足当時の大学連盟会長であった福原慎太郎(現・島根県かるた協会)率いる早稲田大学は、翌平成7(1995)年の第2回大会で悲願の初優勝を遂げ、福原自身も個人戦優勝で見事花を添えた。もう一方の大学の雄である東京大学は、当初大学選手権開催に反対の立場であり、過去2回の大会にも不参加であったが、平成8(1996)年の第3回大会に初出場すると圧倒的強さで優勝を遂げる。 平成9(1997)年の第4回大会、のちの名人西郷直樹を加え、優勝候補の呼び声高かった早稲田大学であったが、決勝で北陸大学を相手に残りあと1枚にまで迫りながら、まさかの逆転負けを喫し2度目の優勝を逃す。だが、翌平成10(1998)年、早稲田は決勝で立命館大学を破り再び優勝。翌平成11(1999)年には決勝で慶應義塾大学との早慶決戦を制し、初の連続優勝となった。早稲田の救世主となった西郷直樹は、平成9(1997)年から個人戦でも4年連続優勝という前人未到の偉業を成し遂げた。 その早稲田の栄光を脅かす存在となったのが、西日本の立命館大学であった。大学のサークルでひとつの会となっている早稲田大学と異なり、立命館大学は、各メンバーの所属が奈良、京都、大阪、滋賀などに分かれている混成チームである。有力選手を揃え、平成8(1996)年の第3回大会では、初出場ながら3位入賞と実力を見せる。だが、個々に目的・スタンスの異なるメンバーの寄せ集めのチームであることから、なかなか頂上へは辿り着けない。平成10(1998)年の第5回大会では決勝まで進むも、早稲田大学に3敗を喫しあえなく敗れていた。 |
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平成12(2000)年の第7回大会、立命館大学は齊藤裕理(3年/現・荒川/京都府かるた協会)、寺嶋良介(3年/福井渚会)のダブルエースで予選を勝ち上がると、決勝は西郷直樹名人(4年)率いる早稲田大学との対決となった。齊藤は早稲田の高洲慶一(4年)を大差15枚で下し、まず立命館が1勝。西郷も立命館の西木場智子(1年/東大阪かるた会)を9枚差で破り、1勝1敗。勝負は、寺嶋と富田光(2年)の試合に委ねられた。序盤富田が有利に試合を進めるが、終盤寺嶋が追い上げ 逆転。結果は2枚差で寺嶋が勝利。立命館はついに初優勝を遂げる。関西の大学が優勝したのは大学選手権始まって以来のことであった。立命館は翌平成13(2001)年の第8回大会でも、西郷の抜けた早稲田大学を決勝で3−0の全勝で下し、連続優勝を遂げている(*1)。平成14(2002)年3月には職域・学生大会でも初優勝を遂げた。これらの優勝の立役者となった齊藤は、平成14年のクイーン位戦に出場し、渡辺令恵クイーンから1勝をあげる健闘を見せたが、惜しくも敗れている。 平成14(2002)年の第9回大会決勝は3年連続で早稲田と立命館の対戦となった。寺嶋と斎藤の抜けた立命館に対し、福井・武生高校出身の三好輝明(1年/府中白妙会)を加えた早稲田は2勝をあげ、王座の奪還に成功する。翌15(2003)年の第10回大会決勝では、早稲田は 新興チーム・大阪市立大学の挑戦を受けた。大阪市立大は三木まおり(3年/奈良県)、安ヵ川如々(1年/京都府)ら実績のある選手を揃え、早稲田から1勝をあげるものの、一歩及ばず敗れる。平成16(2004)年の第11回大会では、予選リーグにおいて再び早稲田と大阪市立大学の対戦が実現。今度は大阪市立大が2勝をあげ、早稲田はまさかの予選敗退であった。しかしその大阪市立大も準々決勝では京都大学に敗退。決勝は東北大学と筑波大学の対戦となった。東北大は第1回から、筑波大は第2回から連続出場する常連校であったが、共にこれまで4位が最高で入賞経験は無い。A級選手3本を擁する東北大が、A級1本でB級選手中心の筑波大学から2勝をあげ、見事に初優勝を遂げた。 平成17(2005)年の第12回大会、昨年の中心選手が卒業した東北大はチームが編成できずに不参加となる。昨年まさかの予選敗退に終わった早稲田は、予選リーグで三木の抜けた大阪市立大に雪辱。準決勝でも段位的に優位な立命館から勝ち星をあげ、決勝に進出した。決勝では京都大学を2−1で破り、2年ぶり6度目の優勝となった。 早稲田大学は平成18(2006)年の第13回大会でも、立命館大学を、1勝1敗の後の運命戦の末に下し連覇を遂げる。だが、翌19(2007)年の第14回大会では、準決勝で立命館大学に3敗と不覚を取る。立命館大学はそのまま決勝で大阪大学を破り、2度目の優勝となった。 |
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*1 この項は次の資料を参照した。 池原威徳「全日本かるた選手権大会について」(「かるた展望第28号」平成10年12月) 村上元史「立命館大学かるた会記録集」(http://www001.upp.so-net.ne.jp/amxpmx/rits/) 「関西地区大学かるた連盟:大学選手権」(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/9874/) |
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高校選手権の歩み |
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高校球児の夢の舞台が甲子園であるように、高校生かるた選手にとって目標となっているのが、毎年8月に近江神宮において開催される高校選手権大会である。 高校選手権は、大学選手権よりも長い歴史を持ち、昭和54(1979)年8月18日に第1回大会が開催されている。 第1回大会の参加校は宮城学院、暁星学園(東京)、富士(静岡)、大垣北(岐阜)、三国(福井)、精華女子(京都)、下関南(山口)、福岡の計8校であった。全国を東北、関東、東海、北陸、近畿、中国、九州の7地区に分け、各地区より1校(東海地区のみ2校)が代表校として推薦された。8校は4校ずつの2ブロックに分けられ、それぞれがリーグ戦を3試合行い、その後各ブロックの上位2チームによって決勝トーナメントが行なわれた。優勝候補であったのはA級選手3名を擁する福井県代表・三国高であった。予選リーグにおいて三国高は静岡県代表・富士高を4−1で破っていたが、決勝では同じ富士高との再戦となった。結果は、富士高が3−2と逆転勝ちを収め、第1回のチャンピオンの座に着く。その後富士高は、10連覇という輝かしい成績を残すことになる。 翌年の第2回大会には富士高は前年度優勝校として推薦で出場。また新たに兵庫県代表が参加して出場校は10校に増えた。以後第3回大会は12校、第4回大会は14校と年々出場校が増え、平成13(2001)年の第23回大会には27校が参加している。 平成元(1989)年の第11回大会、破竹の勢いの富士高の11連覇を阻止したのは同じ静岡県の長泉高であった。長泉高はその後も第13回、19回、20回大会にも優勝を遂げる。一方の富士高は連覇が途切れた後長い低迷を 余儀なくされるが、平成8(1996)年に見事復活を見せ11回目の優勝を遂げた。その他にも、静岡県代表としては大井川高が第14、15回、17回大会と計3回優勝している。高校かるた部が盛んな静岡県においては常に強豪高がひしめきあい、静岡県代表の座を勝ち取ることは、全国大会を勝ち抜くことより困難であるとも言われる。実際、高校選手権全23回のうち、静岡県以外の高校が優勝を遂げたのは、平成2(1990)年の第12回大会における筑紫女学園(福岡)と、平成6(1994)年の第16回大会の益田高(島根)の2校しかない。平成11(1999)年には静岡雙葉高が初出場にして初優勝を決め、平成13(2001)年まで3連覇を遂げた(*1)。 平成14(2002)年の高校選手権は、初出場の浜松北(静岡)が準決勝で前年度優勝の静岡雙葉を破り、決勝でも暁星(東京)に勝って初優勝している。平成15(2003)年は浜松北と静岡雙葉という、史上10度目の静岡同士の決勝となったが、4−1で静岡雙葉が勝利。優勝を奪い返した。静岡雙葉は準決勝まで25戦全勝。史上初の全勝優勝がかかったが、決勝で浜松北が一矢報い、29勝1敗のタイ記録に終わった。 平成16(2004)年、東京代表の暁星学園は、準決勝で静岡東、決勝で静岡雙葉と静岡勢を相次いで破り初優勝。翌平成17(2005)年も優勝を決め、静岡勢以外では初の連覇を遂げている。 平成18(2006)年はクイーン楠木早紀擁する中津西高校(大分)が決勝で暁星を破り初優勝している。 |
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*1 この項は栗栖良紀「輝かしい栄光の数々を讃える−百人一首部の歩みを振り返って−」(「富嶽論叢 第17号」平成12年3月)を参照した |
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