日本一周第4回「心の旅」 

初日「和歌山ブルース〜和歌山県〜」
 

2006年8月24日(木)

 
 
 東京には2日おらず、早くも旅人となった。また西を目指している。
 日本一周旅行の計画は、計らずしも母校・早実の甲子園出場によって狂ってしまった。なんとかして取り戻さなくてはならない。約1週間をかけて、四国を周ろうと思う。
         
 新幹線といえばビールという条件反射があるのだが、さすがに連日あれだけ飲んだ後だと飲む気にならない。もっとも各地で出会うであろう地ビールは別だが…。朝ぐずぐずしていたら電車に乗り損ねるところだった。走ってなんとか間に合ったが、早くも汗だく。まずは和歌山を目指そう。そこから四国に渡るつもりだ。
  
 
     

 


8:13 東京 →(のぞみ)→ 名古屋 →(ワイドビュー)→ 新宮 13:25  
 

 
 


〈新宮〉

 
 
 名古屋から紀伊半島を半周。熊野川を越え和歌山県に入ったところで、新宮で下車した。
 ここには世界遺産の熊野古道がある。もっとも時間がなく、熊野速玉大社を見るだけになりそうだが…。
     
 
  ◆佐藤春夫育成の家の跡・佐藤春夫生誕の地碑  
 



新宮城跡


左手に佐藤春夫育成の家の跡がある
 

 
 
 熊野速玉大社へ行く途中、新宮城を通り過ぎたが、その左手に、「佐藤春夫育成の家」と書かれた看板があった。
 文豪・佐藤春夫(1892〜1964)は、ここ新宮の地に生まれ育っている。

 さらに、佐藤春夫生誕の地碑も建っている。
  
 
 



佐藤春夫生誕の地碑
 

 
 
◆熊野速玉大社(HP)
 
 



熊野速玉大社
 

 

 


 ようやく世界遺産・熊野速玉大社へ。熊野速玉大社は熊野三山の1つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としている。
   

 
 



 

 
 
 佐藤春夫の句碑があった。なるほど、郷土の英雄なのだろう。


   秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ

     

 
 



佐藤春夫句碑
 

 
 
 丹
鶴城とは、新宮城のことである。おそらく故郷に帰ってきた春夫が、自分の子供に城跡を見せている、そんな場面を詠んだ句なのだろう。

  参道左手に立つ木は、“椥(なぎ)”で、国の天然記念物にも指定されている神木である。
     
 
 



椥の老樹
 

 
 
 神門から中に入り拝殿へ。
  
 
 



神門


拝殿
 

 
 
 もともと熊野の神々は、神代の頃に神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年に現在地に新しい宮を建て、「新宮」と称したという。景行天皇58年は西暦では128年ということだから、相当に古い。初めは、2つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神そして家津美御子大神を祀っていたが、平安時代の初めには現在のように12の神殿に祀られるようになった。熊野速玉大神が伊弉諾(いざなぎ)尊、熊野夫須美大神が伊弉冉(いざなみ)尊、家津美御子大神が天地開闢の際に出現した国常立尊のこととされる。現在ではその他、天照大神や瓊瓊杵(ににぎ)尊・彦火火出見尊・鵜葺草葺不合命の日向三代など、皇室の祖先神ら計12柱の神を祀っている。

 摂末社として、境内の入口の近くに手力男神社と、八咫烏神社の2つがあった。共に皇室の祖先神に協力した神である。
   
 
 



手力男神社と八咫烏神社
 

 
 
◆新宮市立佐藤春夫記念館(HP)
 
   


佐藤春夫記念館

 

 
 
 熊野速玉大社の敷地に隣接して、「新宮市立 佐藤春夫記念館」がある。
 この記念館は、もともと東京の文京区関口にあった春夫の家を移築したもの。春夫は1964(昭和39)年に亡くなるまでこの家で過ごした。
  
 
 



再現された客間
 

 
 
 この家は大石七分(1890〜1959)の設計によって1927(昭和2)年に完成した。大石は、同じ
新宮出身で、文化学院を創設した西村伊作(1884〜1963)の弟である。
   
 
  ◆新宮城(丹鶴城)  
 



新宮城(丹鶴城)
 

 
 
 新宮城にもすこしだけ立ち寄った。
 新宮城は別名・丹鶴城。もともとこの地には、源為義(1096〜1156)と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことから「丹鶴城」と呼ばれたそうである。また、丹鶴姫の弟・新宮十郎行家(1141頃〜1186)は、この地を支配した新宮氏の祖とされる。現在の地に城を築いたのは浅野忠吉。浅野氏が広島に移ってからは、水野氏が支配した。
     
 
 



川上不白顕彰碑
 

 
 
 本丸跡には、茶道・江戸千家を創設した川上不白(1719〜1807)の顕彰碑が建っている。不白は、水野氏の家臣の子として生まれた。碑には不白が好んだ「清風生蓬莱」の文字が彫られている。
 また、「丹鶴姫之碑」も建っている。
  
 
 



丹鶴姫の碑
 

 
 
 新宮に馴染みのある文豪は佐藤春夫だけではない。与謝野鉄幹(1873〜1935)の詩碑も建てられている。鉄幹は、1906(明治39)年11月、新宮出身の社会主義者・大石誠之助(1867〜1911)に招かれ、北原白秋(1885〜1942)、吉井勇(1886〜1960)、茅野蕭々(1883〜1946)らと初めてこの地を訪れ、その際に詠んだ歌である。
 
   高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰ぞ涙すや 城のゆふべに
                               
 
 



与謝野鉄幹歌碑
 

 
 
 
お城から見た景色。
 赤い鉄橋は熊野大橋であろうか。
    
 
 



熊野大橋を望む
 


 
 
◆阿須賀神社
 

 



阿須賀神社
 

 
 
 新宮の東の方にも行ってみた。
 阿須賀神社がある。
    
 
 



阿須賀神社鳥居
 

 
 
 阿須賀神社は、社伝によると孝昭天皇53年の創建だという。
 「平家物語」には平維盛(1159〜84)が阿須賀神社に参拝したとの記録がある通り、かなりの由緒がある。
 境内にある手水鉢は新宮市の指定文化財。新宮藩2代藩主・水野重良が1631(寛永8)年に奉納したものである。
   
 
 



手水鉢

 

 
   
 新宮は、徐福伝説の地の1つとされる。
 徐福は3世紀に、秦の始皇帝の命で不老不死の霊薬を求めて蓬莱国に船出をした人物である。徐福はそのまま故郷に帰らず、彼が上陸したとされる土地は日本国内に数多くある。新宮はそんな伝説の地の1つなのだ。

 境内には徐福之宮がある。 
  

 
 



徐福之宮
 

 
 
 「祖元禅師徐福の祠に香を献ずる碑」がある。宋の僧・無学祖元(1226〜86)が元の支配を逃れて来日した後に詠んだ詩が刻まれている。これは、確かな文献による熊野での徐福伝承の初見だとみられている。祖元は、流浪の自らの境遇を徐福に重ね合わせたのだろうか…。
    
 
 



祖元禅師徐福の祠に香を献ずる碑
 

 
  ◆徐福公園(HP)  
 



徐福公園入口
 

 
 
 その徐福を記念した徐福公園も、新宮にある。
 もともとこの地には徐福の墓と伝えられるものがあった。それを近年公園として整備したものである。
 徐福像が建つ。
   
 
 



徐福像
 

 
 
 徐福の墓。
 徐福は3世紀の人物だが、この墓は1736(元文元)年建立のもの。墓碑は紀州藩祖・徳川頼宜が儒臣の李梅溪に書かせたもの。
     
 
 



徐福の墓
 

 
 
 徐福はこの地で不老の霊薬を発見し、この地を拓いたとされる。
 この「不老の池」は、徐福の七重臣にちなんだもので、彼らの7つの徳「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」が7本の柱に刻まれている。
  
 
 



不老の池
 

 
 
 この碑は徐福とは関係ない。新宮出身の童謡作詞家・東くめ(1877〜1969)の「鳩ぽっぽ」の碑。もっとも「♪ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ…」で始まる例の歌とは別の歌のもの。同様の歌碑は、浅草寺の境内にもあった。「東くめ 85才」と書かれているから、1962年の建立であろう。
    
 
 



「鳩ぽっぽ」碑
 

 

 


15:47 新宮 →(スーパーくろしお)→ 和歌山 18:49  
 

 
 
 新宮はわずか2時間ほどの滞在で、今日の宿泊予定地である和歌山へ向かった。
 考えてみたら、昼食をとっていなかった。

 そこで駅で熊野名物さんま鮨を買った。それと熊野霊水仕立て清酒那智の滝。

  

 
 



さんま鮨と清酒那智の滝
 

 
 


〈和歌山〉

 
 
 和歌山に着いた時はすっかり夜になっていた。結局この日はほぼ一日電車の中。計画通りとはいえ、無茶な旅である。

 和歌山では夕食であるが、やはり和歌山ラーメンであろう。そこで、「丸高中華そば」へ。
  中華そばはあっさり醤油トンコツ。シンプルなラーメンだった。
    
 
 



和歌山ラーメン
 

 
 
 テーブルの上には「早寿司」なるものがあったので、それも頂いた。鯖の押し寿司だった。
   
 
 



早寿司
 

 
 
 いよいよ明日は、四国へ渡る予定である。
  
 
  集まり散じて人は変われど〜早稲田〜 ダンシング〜徳島県・香川県〜  
 


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