九段下 |
浅草寺 |
所在地:台東区浅草2−3−1(浅草駅) |
浅草寺雷門
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今日はインド人一家と浅草へやってきた。
メトロ浅草駅で下りて、そのまま案内に従って雷門へ。
この雷門が、浅草は浅草寺(せんそうじ)の正面玄関である。
「雷門」と書かれた巨大な提灯が出迎えてくれる。
この雷門。1635(寛永12)年に徳川家光(1604〜51)によって建設された。右に風神、左に雷神の像が安置してあることから正確には「風雷神門」という。1865(慶応元)年に大火によって焼失。現在のものは1960(昭和35)年にコンクリートで再建されたもの
である。提灯の下に「松下電器」と書かれた文字があるのが、何とも場違いな感じがするが、これはこの雷門が松下幸之助(1894〜89)によって寄進されたことによるそうである。
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仲見世
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雷門の向こう側の通りが「仲見世」。左右にびっしりとみやげ物店などが軒を並べる。この仲見世は、元禄・享保(1688〜1735)の頃にはできていたと言うことで、日本で最も古い商店街の一つ。
おみやげ物や着物、玩具などといったいかにも外国人がイメージするようなものが売っている。さらに、雷おこしや人形焼、あげまんじゅうといった食べ物の店も。
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浅草寺宝蔵門(仁王門)
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仲見世の突き当りに宝蔵門(仁王門)がある。
楼門の左右に仁王像が安置されていることから、一般的には仁王門と呼ばれているが、正しくは宝蔵門。名前の由来は国宝の「法華経」、重要文化財の「元版一切経」などの宝を収蔵していることによる。
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浅草寺五重塔
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宝蔵門のすぐ左手には五重塔がある。
宝蔵門と同じ942(天慶5)年に建設されたと伝えられている。その後など火災で炎上。徳川家光が1648(慶安元)年に再建し、寛永寺、増上寺、天王寺の塔と共に「江戸四塔」として親しまれたが、1945(昭和20)年の東京大空襲で炎上。1973(昭和48)年に現在のものは建てられている。
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鳩ポッポの歌碑
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宝蔵門を潜ると、浅草寺本堂前の広場に出る。
浅草寺にはこれまでにも何度か来ている。この場所はハトがいっぱいいた記憶があるのだが、どうも今日は少ない。寒いせいだろうか? そう言えば、以前あった「はとまめ」の売店も無い。よく見ると、あちらこちらにハトに餌をあげるのを禁止する張り紙が貼ってある。何と、いまやこの場所でハトに豆をあげることはできないのである。なんとびっくり。
そうすると、この場にある「鳩ポッポの歌碑」も今や過去の想い出になってしまっているようだ。「鳩ポッポ」は東くめ(1877〜1969)作詞、滝廉太郎(1879〜1903)作曲で1901(明治34)年に発表された童謡で、浅草寺の境内で鳩と戯れる子供たちをモデルにしている。歌詞は次の通り。
鳩ぽっぽ はとぽっぽ
ぽっぽ ぽっぽと飛んで来い
お寺の屋根からおりてこい
豆をやるからみな食べよ
たべてもすぐにかえらずに
ぽっぽ ぽっぽと ないて遊べ
あれ、僕らが昔歌った「♪ぽっぽっぽ鳩ぽっぽ…」とは違うではないか。どうもこの歌は文部省唱歌の「鳩」という童謡で別物らしい。
ところで、槙原敬之(1969〜)が作詞・作曲し、The Studentsが歌った「ハトマメ〜Say
Hello to the World〜」という曲がある。浅草寺の境内で間違えてはとまめを食べてしまった外人のことを歌った曲である。 |
浅草寺本堂
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さあいよいよ、浅草寺の本堂である。
ここはいわゆる浅草観音として知られている。江戸でも最古の寺に属する。
寺伝によると、628(推古天皇36)年に、檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川で観音像(聖観音像)を掬い上げ、それを土地の長・土師中知(はじのなかとも)が本尊として祀ったものが浅草寺の始まりという。この観音像は秘仏のために非公開で見ることはできない。
現在の本堂は戦災で焼けたものを、1958(昭和33)年に再建したものである。
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堂本印象による「天人散華の図」
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本堂の天井には堂本印象(1891〜1975)による「天人散華の図」と、川端龍子(1885〜1966)による「龍の図」が描かれている。
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浅草神社
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浅草寺のすぐ右には浅草神社がある。
ここには観音像を発見した、檜前浜成・竹成、土師中知の3人を祭神として祀っている。中知を「阿弥陀如来」、浜成を「観世音菩薩」、竹成を「勢至菩薩」として祀ったことから「三社権現社(三社様)」とも呼ばれている。神社の創建時期ははっきりしていないが、現在の社殿は1649(慶安2)年に徳川家光によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
…などなど、こんな調子で紹介していくとキリが無い。それだけ、浅草寺は見所がたっぷりある場所だ。今までにあげた物の他にも、浅草寺境内には様々な場所や、碑が立っている。
まず浅草は大衆芸能と切っても切れない関係にある町だ。現在も、浅草には劇場が多い。例えば浅草公会堂に浅草演芸場(旧フランス座)、ロック座、それに映画館も多くある。
そんな芸能に関する碑を探していくと…。
五重塔の裏手には「喜劇人の碑」。榎本健一(1904〜70)や古川緑波(1903〜61)、清水金一(1912〜1966)、柳家金語楼(1901〜71)、ミヤコ蝶々(1920〜2000)、渥美清(1928〜96)など浅草でデビューした芸人たちの名が刻まれている。
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喜劇人の碑
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映画弁士塚
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喜劇人の碑のすぐ隣には「映画弁士塚」がある。浅草には日本最初の映画専門館である「電気館」があった場所である。1958(昭和33)年に建てられたが、徳川夢声(1894〜1971)、生駒雷遊(1895〜1964)、西村楽天(1886〜1954)、松田春翠(1925〜87)といった、往年の活動弁士の名が刻まれている。
その他にも、浅草寺境内には江戸時代の戯作者山東京伝(1761〜1816)が9歳から50歳まで愛用した古机を埋めた「山東京伝の机塚」、岡本綺堂
(1872〜1939)を記念した「半七塚の碑」、9代目市川団十郎(1838〜1903)の「暫の像」が、浅草神社境内には「河竹黙阿弥顕彰碑」「中村吉右衛門句碑」などといった大衆芸能に関係の深い碑が建っている。
その他のものも合わせれば、おそらく浅草地区の碑の類は20を下らないであろう。そういった碑を探しながら浅草散策するのも面白いだろう。
この他、大衆芸能関係の記念碑としては、浅草公会堂前広場にスターの手形とサインを刻んだ「スターの広場」があるのだが、現在浅草公会堂が工事中のため、今回見ることはできなかった。
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大衆芸能スターの写真
右側の柱はコロンビア・トップ(1922〜2004)
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浅草公会堂の前を浅草演芸ホールに向かって行く六区通りの街頭には、大衆芸能のスターの写真が飾られていた。永井荷風(1879〜1958)に始まり、萩本欽一(1941〜)や哀川翔(1961〜)にまで至る浅草に縁の深いスター33人の顔を眺めることができる。
僕なんかにしてみると、驚きやら感激がいっぱいなのだが、一緒に歩いていたインド人親子には何の感慨も無いに違いない。当たり前か…。
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からくり時計(使用前)
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からくり時計(使用後)
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浅草見学の最後に、我々は雷門の向かいにある浅草文化観光センターの「からくり時計」を見ることにした。この時計は毎日10時から19時の正時に動き出す。ちょうど時間は16時だったので、からくり時計が動き出した。時計が開き、左から白鷺の舞、右から金龍の舞の人形が出現。最後は、真ん中から三社神輿が…。
ほんの5分のショータイムではあったが、なかなか見ごたえがあった。
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黄金うんち?
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観光を終えて、地下鉄浅草駅に向かう我々の目に入ったのは、隅田川の向こうのビルの屋根にそびえる謎のオブジェ。うんち? それとも人魂? 初めて見た人が誰もが首をかしげる例のもの。
このオブジェがあるのは、アサヒビール本社。ということはビールの泡なのだろうか。アサヒビールのHP(http://www.asahibeer.co.jp/aboutus/summary/)によるとフランスのデザイナー、フィリップ・スタルクの手によるもので、「炎のオブジェ」とのこと。「躍進するアサヒビールの心の象徴」だそうである…。
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(2006年5月10日) |