第2章−サイレント黄金時代(31)
寂しい熱帯魚たち〜映画の中の女形〜
 



「後のカチューシャ」(1915年日活)
立花貞二郎と関根達発
(「日本映画発達史T」より)
 

 

 ネパールに滞在していた2008年の大晦日にNHKワールドで「紅白歌合戦」を見た。白組で出場した美川憲一(1946〜)が「さそり座の女2008」を熱唱した際、はるな愛(1972〜)がダンサーとして登場。応援にかけつけたIKKO(1962〜)と共に、まるでゲイバーのショーを観ているかのようだった。
 僕は2007年1月から2009年1月までネパールの首都カトマンズに滞在していたが、帰国してからしばらくの間、いわゆる“浦島太郎状態”で、様々なことに戸惑ってばかりであった。2年の間に、日本の社会はいろいろと変わっていた。
 そんな驚きのうちの1つが、テレビの中にいわゆる“おネエ”系キャラが増殖していることだった。もちろん、僕が日本にいた頃から、そういったキャラは存在していたのだが、この2年の間に相当増え、すっかり市民権を得ているようだった。
 “おネエ”とは、生物学上男性でありながら、女性的なキャラクターを演じる者たちのことである。すでに消えてしまった人もいるが、思いつくままに挙げてみると…。美容家のIKKOを始め、少女漫画家の山咲トオル(1969〜)、振付師のKABAちゃん(1969〜)、華道家の假屋崎省吾(1958〜)。お笑いの世界では松浦亜弥(1986〜)の歌を裏声で歌う前田健(1971〜2016)や、口パクで“エアあやや”のはるな愛、セーラー服姿でスケバン恐子なるキャラを演じた桜塚やっくん(1976〜2013)、「LOVE注入」のフレーズで人気の楽しんご(1979〜)など。そういえば、藤井隆(1972〜)も最初はオカマキャラで人気があった。2005年の紅白歌合戦にはゴリ(1972〜)演じるキャラクター ・ゴリエが男性としては初めて紅組で出場。続いて2007年には性同一性障害の中村中(1985〜)がやはり紅組で出場している。
 おネエ系の元祖ともいうべき美輪明宏(1935〜)も「オーラの泉」(2005〜09年テレビ朝日)で人気を盛り返し、2012年には77歳にして「紅白歌合戦」に初出場した。ゴリエや中村とは違い“白組”での出場だった。また、双子のおすぎとピーコ(共に1945〜)も一時期テレビに出ずっぱりだった。
 最近(2013年現在)でも、辛口コラムニストのマツコ・デラックス(1972〜)、“女装家”ミッツ・マングローブ(1975〜)、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹(1947〜)、フィットネス・インストラクターのクリス松村、テレビで男性であることを告白して話題を呼んだモデルの佐藤かよ(1988〜)などが人気を集めている。
 もちろん、おネエ系と一口に言っても、そのスタンスにはかなりの違いがある。藤井隆やゴリのようにキャラクターとしておネエを演じる者がいる一方で、はるな愛や佐藤かよのように性別適合手術(性転換手術)で身体を女性化してしまっていたり、カルーセル麻紀(1942〜)やモデルの椿姫彩菜(1984〜)のように戸籍までもを女性にしている場合もある。
 また、芸能界に限らず、サブカルチャーとしての“女装”も一般社会にかなり浸透しているようだ。例えば、男の娘(オトコノコ)と呼ばれる女装少年が流行しており、秋葉原にはそんな男の娘だけを集めたメイドカフェまであるらしい。また、「オトコノコ倶楽部」(2009年創刊)なる女装美少年の専門誌が発刊されたりもしている。さらには男性同性愛をテーマとしたボーイズラブ(BL)というジャンルの小説も人気を集めているようだ。
 それにしてもなぜ、日本ではこのようにおネエ系が跋扈(ばっこ)するようになってしまったのだろうか…。
  
◆日本映画と女形 
 



「袈裟と盛遠」(1917年天活)
市川莚十郎と尾上梅太郎
(「日本映画発達史T」より)
 

 
 
 日本でおネエ系が受け入れられている要因の一つに、歌舞伎の伝統があるのではないか。歌舞伎は言うまでも無く男性のみで演じられる演劇で、女性役を女形(おやま/おんながた)が演じるのを特徴の一つとしている。
 歌舞伎は、出雲阿国(1572〜不詳)による1603年の「歌舞伎おどり」を発祥としているが、そもそもは女性だけで演じられるものであった。それが1629年に風紀を乱すとして禁じられると、女性役もすべて男性が演じる「若衆歌舞伎」となる。若衆歌舞伎では、女性の役を、前髪を剃り落としていない少年(若衆)が演じたが、それもまた風紀を乱すとして1652年に禁止され、その後は月代を剃った野郎頭の男性がすべての役を演じる「野郎歌舞伎」となり、現在に至る。

 明治以降に出現した新派劇や、大衆演劇にも女形は受け継がれ、“下町の玉三郎”と呼ばれる梅沢富美男(1950〜)や、“生きる博多人形”と称される松井誠(1960〜)、若手でも早乙女太一(1991〜) らが人気を集めている。

 演劇に女形を取り入れていたのは何も日本だけではない。お隣中国の京劇でも、20世紀に入るまで女形が用いられており、「花の生涯/梅蘭芳」(2008年中国)で知られる梅蘭芳(メイ・ランファン/1894〜1961)が史上最高の女形と称されている。また、イギリスでも17世紀までは風紀上の理由から女性が舞台に上ることは禁じられ、女性役は変声期前の少年が演じていた。若き日のシェークスピア(1564〜1616)の悲恋を描いた「恋におちたシェイクスピア」(1998年米)には、「ロミオとジュリエット」の初演の直前に、ジュリエット役の少年が突如声変りを迎えてしまうというエピソードが登場する。

 だが、こうした国々で女形が用いられていたのは演劇の世界のみで、19世紀末に生まれた映画には、女形の伝統は受け継がれていない。唯一、日本だけが映画においても女形を積極的に取り入れていたのである
。1898(明治31)年に製作が始まった日本映画では、題材や役者を歌舞伎や新派から取り入れていたこともあり、初期は女性役も男性俳優が演じるのが専らであった。
 もちろん、初期の映画にも女性が登場することはあった。例えば、中村歌扇(1889〜1942)の少女歌舞伎一座の出演で「曾我兄弟狩場の曙」(1908年M・パテー)などが製作されている。また、1910年代には演劇と映画を組み合わせて上映する“連鎖劇”が流行したが、これにも新派の女優が出演していたそうである。
 歌舞伎や新派の伝統ばかりではなく、当時の日本では“女優”そのものが未発達であったことも、映画に女形を起用した理由だったといえる。日本で初めての女優は川上音二郎(1864〜1911)の妻の川上貞奴(1871〜1946)である。1899年に川上音二郎一座のアメリカ公演に同行した際、女形が亡くなったため急きょ女性役を務めた。彼女はその後“マダム貞奴”として有名となり、帰国後の1908年に音二郎と共に帝国女優養成所を設立し、女優の養成に努めた。
 同様のことはインドにおいてもあったらしい。インド映画の父とされるダーダーサーヘブ・ファルケー(1870〜1944)が最初のインド映画である「ハリシュチャンドラ王」(1913年印)を製作するに当たって、演劇などは低カーストの売春婦などがやるものだというヒンズー教の偏見のため女優の起用に難航。しかたなくヒロインのタラマニ妃役に若い男性のサルンケーを起用した。第2作ではファルケーの母親と娘を女優として起用したが、女優蔑視はその後も続き、インド映画のサイレント期には英印混血のアングロ・インディアンが主に女優として用いられた。アングロ・インディアンはインドの言語が話せなかったため、トーキー後に姿を消した
(*1)

*1  杉本良男「インド映画への招待状」54〜55ページ
          
 
 



カチューシャ」(1914年日活)
立花貞二郎と関根達発
(「週刊THE MOVIE84」135ページ)
 

 
 
 初期の日本映画はほとんど残っていないため、女形の状況はわかりにくい。「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜17年横田商会)などの残された作品を観ると、確かに女性役は男性俳優が演じている。ただ、現存作品では端役の場合が多く、 また白塗りの本化粧で荒い画像であるため、観ていてもそう違和感を感じるようなことは無い。
 当時人気のあった女形俳優には、立花貞二郎(1893〜1918)がいた。立花は、歌舞伎、新派を経て、1909年に横田商会で映画デビュー。その後、日活向島撮影所に入社する。彼の代表作は、ロシアの文豪トルストイ(1828〜1910)の「復活」を原作とした「カチューシャ」(1914年日活)。薄幸のヒロイン役で人気を集め、「日本のメアリー・ピックフォード」とも称された。「カチューシャ」は大ヒットし、「後のカチューシャ」「カチューシャ続々篇」(共に1915年日活)と2本の続編が製作されたが、立花はメイク用の白粉に含まれる鉛の中毒により、1918年に25歳の若さで早逝してしまう。「カチューシャ」は1919年にも「復活」(1919年日活)としてリメイクされているが、ここでカチューシャを演じたのもやはり女形の東猛夫(1878〜)であった。また、この映画には後の映画監督・衣笠貞之助(1896〜1982)も女形として出演している。
    
 
 
 これらの「カチューシャ」は現在フィルムが残っていないので、どのような映画だったのかは今となってはわからないが、当時の知識人の間では女形の使用は不評であったようである。劇作家・演出家の島村抱月(1871〜1918)は次のように語っている。  
 
   
 私は信州で立花貞二郎の「カチューシャ」を見たことがあるが、ネリュードフとカチューシャとが歌を唄ってゐる場面で、終りが絞りになって消える所などは誠にいいけれども、役者の動作や表情などは全然失敗であった。あの写真を見た時もさう思ったが、新劇では矢張り女の役は女優が演らなければ駄目である。女形では誤魔化しが利かぬ。活動写真だからどうでも良いといふやうな考へでは到底外国と肩を並べるどころか尻について行くことも出来ない。(*2)
   
 
 同じ頃、映画会社・天活の社員であった帰山教正(1893〜1964)は、「
活動写真劇の創作と撮影法」(1917年)という映画理論書を発表しカメラワークやシナリオ、女優の使用を呼びかけた。帰山は「深山の乙女」「生の輝き」(共に1919年天活)を発表したが、新劇女優の花柳はるみ(1896〜1962)を主演女優として起用している。この花柳が事実上、日本最初の映画女優だったといえる。
 帰山のこうした企てが契機となり、「純粋映画劇運動」が起こる。大正活映(大活)は、文豪・谷崎潤一郎
(1886〜1965)を文芸顧問に迎え、ハリウッド帰りの栗原トーマス(栗原喜三郎/1885〜1926)を招いて「アマチュア倶楽部」(1920年大活)などを製作。松竹も、俳優養成所を設立し、新劇から小山内薫(1881〜1928)を校長に迎えた。後に小山内の指導で「路上の霊魂」(1921年松竹キネマ)を製作している。谷崎は義妹の葉山三千子(1902〜96)を、小山内は英百合子(1900〜70)をそれぞれ主演女優に起用した。
 「純粋映画劇運動」そのものは1923年の関東大震災を機に終焉を迎えるが、彼らの唱えた映画のリアリズムは、次第に映画界全体に受け入れられていく。そのため女形も女優に取って代わられていった。
特に松竹は、1924年に撮影所長に就任した城戸四郎 (1894〜77)の指導のもと、女優を積極的に取り入れ、明朗な映画を次々と製作し、いち時代を築いていった。(純粋映画劇運動については「受難の映画史」、谷崎潤一郎の映画については「文豪の映画礼讃」を参照のこと。)
 

*2 田中純一郎「日本映画発達史T」220〜221ページ
   ただし初出は「活動之世界」1916年5月

  
 
 



「鼠小僧次郎吉」(1914年日活)
尾上松之助(右)
(岩本憲児編著「日本映画の歴史1/映画の誕生」(1998年3月日本図書センター)42ページ)
 

 
  ◆女形映画の集大成「京屋襟店」  
 



「京屋襟店」(1923年日活)
藤野秀夫、東猛夫、宮島健一
(「日本映画200」11ページ)
 

 
 
 早くから女優を取り入れていた松竹に比べ、もう一つの大映画会社である日活の方は、映画の近代化で大きく遅れを取っていた。当時の日活は日本映画最初のスーパースターと言われる尾上松之助(1875〜1926)の主演で、旧態依然とした旧劇映画を作り続けていた。しかしその日活も、1920年になってようやく女優の採用を決め、中山歌子(1893〜)や酒井米子(1898〜1965)らを入社させた。もちろん、すぐにすべての女形が女優に取って代わられたわけではなく、女形の出演する映画も相変わらず撮られている。例えば松之助の主演作で、今日フィルムの残っている「豪傑児雷也」(1921年日活)や「渋川伴五郎」(1922年日活)にもやはり女形が出演している。(尾上松之助については「完全無欠のスーパーヒーロー」参照。)
 この時期に日活で製作された「新派 二人静」(1922年日活)が現存している。これは主に現代劇を製作していた日活向島撮影所(1913〜23年)の作品で唯一現存しているものであるが、女優と女形が共演する珍しい作品となっている。「二人静」は柳川春葉(1877〜1918)が1916年に発表した小説で、翌1917年には新派劇として上演され、新派の代表的演目の一つとなった。1917年には最初の映画化がなされ、この時は女形の五月操(1882〜)・立花貞二郎らが出演している。
 主人公・渋江輝雄(新井淳)には許嫁の三重子(配役不明=女形)がいるが、芸妓浪次(中山歌子)との間に男の子・政一をなしている。輝雄は三重子と結婚し、浪次との子供を引き取るが、良心の呵責に悩まされ北海道へ旅立つ…。やがて彼の妻子も北海道へ渡り、三重子に思いを寄せる医学士・唐沢(若葉馨)、息子に会いたい一心の浪次もその後を追う。
 典型的なお涙頂戴のメロドラマで、ご都合主義的な展開が気になる。セットは書割なのがミエミエだし、ラストに出てくる橇が玩具そのものというのも今見るとおかしい。ところで、僕はこの映画が女優と女形の共演する作品だという予備知識を持って観たのだが、最後まで中山歌子演じる浪次のほうを女形だと思っていた。三重子を演じた女形の名前は不明らしいが、こっちのほうがよっぽど女らしかった。
 女形と女優の共演というのはこの「二人静」に限らず、日本映画の父・牧野省三(1878〜1929)の晩年の大作「実録忠臣蔵」(1928年マキノ)にも、女優に交じって女形の石川新水(1885〜)が大石内蔵助(伊井蓉峰)の妻りく役で出演している。
  
 
 



「京屋襟店」(1923年日活)
小栗武雄
(「日本映画史T/増補版」181ページ)
 

 
    
 日活が女優を採用したことに対して、女形側の動揺は当然のようにあった。女優が日本に誕生してからわずか20年に満たないのに対し、女形は江戸時代以来の長い伝統を持つ。独自の美学を持ち、根強いファンもいた。そんな最中の1923年に製作された「京屋襟店」(1923年日活)は、女形映画の最高峰というべき作品となった。
 「京屋襟店」は田中栄三(1886〜1968)の脚本・監督。女形映画ということで、旧態依然とした映画であろうと考えてしまうが、決してそんなことは無かったようだ。監督の田中は、帰山教正や小山内薫、谷崎潤一郎らと同様に映画界の革新をめざした人物であり、彼は従来の映画には無い立体的な舞台装置を造形し、それまでのワンシーン・ワンカットのカメラを多角的な撮影に変更。ライトを使って夜間撮影を行い陰影のある美しい画面を作りだしていた。「京屋襟店」の製作に当たっても、スタジオに京屋の店をまるまる1軒建て、半襟(和服の襦袢の襟)を1軒分買占めたという。そうして「滅びゆく下町情調を、耽美的な手法をもって描き、女形の持つ頽廃美を極度に発揮した映画であった
(*3)」らしいのだが、残念なことに今日フィルムがまったく残っていない。
 
 「京屋襟店」の完成試写のあった夜、会社の女優起用の方針に不満を持つ13名の幹部俳優は日活を脱退し、国活へと移籍した。その顔触れは藤野秀夫(1878〜1956)、東猛夫、五月操、新井淳(1890〜)、衣笠貞之助、横山運平(1881〜1967)、藤川三之助、荒木忍、島田嘉七らであった。日活に残った幹部俳優は山本嘉一(1877〜1939)のみであったため、日活は舞台協会と契約し、岡田嘉子(1902〜92)、夏川静枝(1909〜99)らの女優を迎えることになった。一方の国活は、経営難から1925年正月には映画撮影を停止。その後まもなく倒産してしまい、映画草創期以来の女形の伝統は途絶えてしまうこととなる。
 「京屋襟店」はそうした女形映画にとっての最後の輝きとなった。

*3 田中純一郎「日本映画発達史T」345ページ 
         
 
  ◆女形の残党  
 



「雪之丞変化」(1935〜36年松竹)
伏見直江と林長二郎(後の長谷川一夫)
(「日本映画200」75ページ)
 

 
    
 映画が女形をやめ完全に女優を用いるようになっても、女形の伝統それ自体が途絶えたわけではない。歌舞伎を中心に、新派や大衆演劇の世界では相変わらず女形が用いられ続けてきた。そして、時には女形を用いた映画も製作されている。
 例えば、1935〜1936年にかけて製作された「雪之丞変化」(松竹)は、林長二郎(後の長谷川一夫/1908〜84)演じる女形・雪之丞を主人公としたものであった。一夫はもともと歌舞伎の女形であっただけに、その女形ぶりは板についている(「雪之丞変化」については「美剣士変化」参照 )。
  
 
 



「弁天小僧」(1959年大映)
市川雷蔵演じる弁天小僧菊之助
(「市川雷蔵」62ページ)
 

 
 
 女形映画としてはもう一つ、「弁天小僧」がある。これは歌舞伎の「白波五人男」を映画化したもので、サイレント時代に林長二郎主演で映画化され(1928年衣笠映画連盟/松竹)、当時二十歳の林長二郎が可憐な娘姿を見せている。
 「弁天小僧」は後に市川雷蔵(1931〜69)主演で再映画化された(1959年大映)。「弁天小僧」というと、主人公の弁天小僧菊之助が娘姿に装って入った呉服屋で男であることが発覚し、「知らざあ、言って聞かせやしょう…」と片肌脱いで啖呵を切る場面が有名。10分程度の断片しか残らない長二郎版「弁天小僧」にもその場面は残っている。
 弁天小僧が娘に化けて騙すというのは、女形を用いている歌舞伎であれば何の問題も無いのだが、映画ではリアリティを出すのが難しい。特に女形の作り声では、少なくとも観客には一瞬にして正体がバレてしまう。もっとも長二郎版はサイレントなので、声の問題はクリアできている。雷蔵版ではどうか。詐欺の計画を練る一味の打ち合わせの中で、菊之助は「芝居の筋立てだったらこうだ…」と話し始める。すると、場面は突然舞台の書き割となり、その中で件の名場面が展開するのである。これは実にうまい手法だ。
     
 
 



「街の刺青者」(1935年日活)
河原崎長十郎と河原崎国太郎
(「日本映画200」79ページ)
 

 
   
 「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)などの明朗な時代劇を製作していた山中貞雄(1909〜38)が監督した「街の刺青者」(1935年日活)は、日活が歌舞伎の前進座と組んだ作品である。
 前進座は女優と女形が同居する異色の歌舞伎であるが、1930年代には盛んに映画製作にも携わっている。しかしながら、映画化作品では女形が用いられることは無く、前進座の創設メンバーでもある女形の5代目・河原崎国太郎(1909〜90)は映画に出演しないことが多かっ た
(*4)。前進座の芝居に惚れ込んでいた山中は、「街の刺青者」の製作に当たって、日活の俳優は用いず、配役のすべてを前進座の俳優のみで行うことに決めた。また、アンサンブルを重視し、国太郎の起用をも決めた。もっとも、声ばかりは女形の発声ではリアリティを欠くとの判断から、前進座の女優・原緋紗子(後の原ひさ子/1909〜2005)によって吹き替えられている。
 この「街の刺青者」、「キネマ旬報」ベストテンでも2位に選ばれるなど、公開当時から評価は高かったが、国太郎の女形に関しては不評だったようだ。残念ながら、この作品はフィルムが現存していない。山中はその後も前進座と組んで「河内屋宗春」(1936年太秦発声映画)、「人情紙風船」(1937年PCL映画)を製作しており、これらは幸いにもフィルムが現存しているが、国太郎は出演していない。  

 その他にも、「藤十郎の恋」(1938年東宝)など、演劇界を舞台にした作品では端役として女形が登場するような作品は存在するが、女形が女性役を演じることはほとんど無くなっていった。
  
*4 「元禄忠臣蔵」(1941〜42年松竹)には磯貝十郎左衛門役で出演している。
    
 
  ◆映画作家・坂東玉三郎  
 



「天守物語」
坂東玉三郎
(「坂東玉三郎すべては舞台の美のために」71ページ)
 

 
 
 サイレント時代から現在に至るまで歌舞伎の演目は映画の題材となり続けてきている。何度となく映画化されている「仮名手本忠臣蔵」や「東海道中四谷怪談」は言うに及ばず、「勧進帳」の映画化である「虎の尾を踏む男たち」(1945年東宝)や、「心中天網島」(1969年表現社/ATG)、「曽根崎心中」(1978年行動社/木村プロ /ATG)、「女殺油地獄」(1992年フジテレビジョン/京都映画)など、歌舞伎を原作とする映画はそれこそ枚挙に暇がない。
 また、最初の映画スター・尾上松之助を始め、嵐寛寿郎(1903〜80)、片岡千恵蔵(1903〜83)、市川右太衛門(1907〜99)、長谷川一夫など初期の映画スターのほとんどは歌舞伎出身である。戦後も萬屋錦之介(1932〜97)、市川雷蔵(1931〜69)、大川橋蔵(1929〜84)らが歌舞伎界から映画界に入り成功を収めている。現在でも松本幸四郎(1942〜)、中村橋之助(1965〜)、中村獅童(1972〜)らが歌舞伎の傍ら映画にも出演している。
 しかしながら、これらの場合であっても映画の中に女形が持ち込まれることはまず無い。嵐寛寿郎や長谷川一夫、大川橋蔵、あるいは大谷友右衛門(後の4代目・中村雀右衛門/1920〜2012)らは歌舞伎では女形であっ たが、映画では立役・二枚目に転じている。つまり女形が登場する「街の刺青者」は数少ない例外だったのだ。
       
 
 



「夜叉ヶ池」(1979年松竹)
坂東玉三郎
 

 
   
 そんな中、現代の歌舞伎界を代表する名女形の5代目・坂東玉三郎(1950〜)は、積極的に映画に関わっている点で注目される。
 その玉三郎の初めての映画は、泉鏡花(1873〜1939)の戯曲を篠田正浩(1931〜)が映画化した「夜叉ヶ池」(1979年松竹)であった。現在この作品はビデオ・DVD化されていない。テレビでも1度放送されただけの幻の作品となっている。僕も観ることはできないものだと諦めていた。ところが、ネットの発達は大したもので、あっけなくネット上にUPされているのを発見してしまった。

 「夜叉ヶ池」の舞台は福井県と岐阜県の県境に実在する夜叉ヶ池である。夜叉ヶ池は、毎日人間が鐘を撞く限り、氾濫することはないと伝えられ、池に住む竜の化身の白雪姫は、そのため池から出ることができないでいる。また、池の畔に住む女・百合は、鐘を守り、村を水害から守っている…。玉三郎は、白雪姫と百合という立場の違う2人の女を演じ分けている。

 まず登場するのは百合のほう。男性である玉三郎が演じていることを知っていても、まったく違和感がない。ごく自然に女性に見えてしまう。終盤に夫役の加藤剛(1938〜2018)とのラブシーンが出てくるが、それすら普通に受け止められる。この映画の批判の1つに、玉三郎を「女形でなく女優として使っている」点を挙げる人もいたが、確かに玉三郎が百合を演じなければならない必然性はない。
 だが、中盤になって池の鯉や蟹の化身が登場し、ファンタジーの様相を帯びてくると、雰囲気が一転する。池の底に住む白雪姫は、白塗りの本化粧で、その容姿も挙動も歌舞伎の様式。回りには鎧兜の武者を引き従え、見ている我々を一気に異界に引き込む。なるほど、白雪姫の異形の女という側面が遺憾なく発揮されている。この白雪姫のキャラクターは、後の「天守物語」で玉三郎が演じたキャラクターにも通じ、まさしく彼の見せ場たっぷりである。
 クライマックスは、夜叉ヶ池の氾濫。ミニチュアを駆使し、迫力のある特殊効果が用いられる。ラストの水浸しとなった村の風景はブラジルのイグアスの滝でロケーションされるなど、贅を尽くした作品であった。
  
 
 



「夜叉ヶ池」(1979年松竹)
坂東玉三郎と山崎努
 

 
 
 しかしながら、「夜叉ケ池」は批評的にも興行的にも失敗に終わった。確かに、百合と晃(加藤剛)の純愛物語から始まって、白雪姫を中心としたファンタジー、クライマックスのパニック映画まで、様々な要素が混じり合い作品としての一貫性を欠いているのは大きな欠点だ。とはいえ、果たして封印されてしまうほど質の悪い映画と言えるのだろうか。僕が観た限り、それなりに魅力のある作品だと感じた。多くの人に観てもらいたい。
 「Wikipedia」によると、一部の権利者がソフト化を拒否していることが、封印の原因ということだ。その“一部の権利者”が玉三郎かどうかはわからないのだが、あるいはその可能性もあり得る。玉三郎は、監督の篠田が鏡花の戯曲をあくまで「原作」として扱い、シナリオにする際に改変したことに異議を唱えていた
(*5)からである。それが後に玉三郎が自身の監督作「天守物語」を鏡花の原作そのままに撮ったことにつながる。
 いずれにせよ、「夜叉ヶ池」をきっかけとして玉三郎はいったん映画から離れることになる。

*5 中川右介「坂東玉三郎」226〜227ページ
  
 
 



「帝都物語」(1988年エクゼ)
泉鏡花を演じる坂東玉三郎
 

 
 
 玉三郎が次に映画に出演するのは約10年後の「帝都物語」(1988年エクゼ)であった。この作品で玉三郎は、自身が敬愛する泉鏡花を演じる。ほとんどゲスト出演にも等しい小さな役柄ではあるが、重要な役どころであった。
 続いて鈴木清順(1923〜)監督の「夢二」 (1991年荒戸源次郎事務所)に稲村御舟役で出演。この役は日本画家・速水御舟(1894〜1935)をモデルとしている。
 これらの作品での玉三郎はあくまで男性役であった。
  
 
 



「ナスターシャ」(1994年日/ポーランド)
坂東玉三郎と永島敏行
 

 
 
 玉三郎が映画で女性を演じた作品としては、ドストエフスキー(1821〜81)の「白痴」を原作とした「ナスターシャ」(1994年日本/ポーランド)まで待たなくてはならない。ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926〜2016)は、1980年に来日した際、玉三郎の「椿姫」を見て衝撃を受け、自身の2人芝居に玉三郎の起用を決めた。
 映画は玉三郎演じるムイシュキン男爵と、永島敏行(1956〜)演じるラゴージンの2人が、ナスターシャの思い出を語るという形式である。玉三郎が女装姿でナスターシャに扮するのは映画の冒頭だけで、後はムイシュキンが眼鏡を外し、ショールとイヤリングを身につけただけで一瞬にしてナスターシャへと変身する。もちろん舞台と違い、ナスターシャになった時の玉三郎は、カットを切り替えた際に薄化粧を施してはいるのだが、その姿は何とも言えず妖艶で美しい。むしろ、男性であるムイシュキン役のほうに違和感を覚えるほどだ。
   
 
 



「天守物語」(1995年松竹/HIT)
宮沢りえと坂東玉三郎
 

 
 
 玉三郎は俳優として映画に出演する一方、監督にも進出している。
 泉鏡花の小説を映画化した「外科室」(1992年松竹)と、永井荷風(1879〜1959)の小説を久保田万太郎(1889〜1963)が新派のために脚色した舞台用の台本をもとにした「夢の女」(1993年松竹)の2作品。共に吉永小百合(1945〜)がヒロインを務め、玉三郎自身は出演していない。
 これらの作品での経験を持って、玉三郎は1995年に自身の監督・主演で泉鏡花原作の「天守物語」(1995年松竹/HIT)の映画化に着手した。「天守物語」は彼にとってライフワークともいうべき作品 で1977年に歌舞伎として初演。その後も何度となく再演され、ついに自身の手での映画化の運びとなった。

 かつて姫路城の殿様が鷹狩りに出かけた時、美しい里の娘に会い手にかけようとする。だがその娘は、舌を噛んで自害してしまう。そこに安置してあった獅子頭は、娘の血をなめて涙を流した。 やがてその獅子頭は、姫路城の天守に運ばれ、以来、誰も天守に近づくことはなかった…。
 玉三郎が演じるのは、天守に住む魔性の女・富姫。富姫の妹分の亀姫が天守にやってくる。亀姫に扮するのは宮沢りえ(1973〜)。そしてその従者には朱の盤坊(市川左団次)と舌長婆(坂東玉三郎/二役)がいる。当時22歳の宮沢りえが何ともいえず美しい。その宮沢りえに美しさで真っ向勝負を挑む玉三郎。まさしく美の競演といえる。
 その夜、天守に一人の若者が登ってくる。昼間、富姫によって鷹を奪われた鷹匠の姫川図書之助(宍戸開)であった。富姫はその図書之助に惹かれて行く…。

 映画は台詞の一つひとつに至るまで泉鏡花の書いた戯曲に忠実である。先にも述べたように、同じ鏡花の作品であっても原作を大きく離れた「夜叉ケ池」と好対照だ。これは、玉三郎の過去の監督作品にもいえることであって、「外科室」「夢の女」も同様に原作小説にほぼ忠実であった。「天守物語」はその一方で、様式的な舞台セットの中にドラマは凝縮され、玉三郎の意図したであろう耽美的な世界が展開する。めくるめくファンタジー映画として「天守物語」は成功している。
 しかしながら「天守物語」は興行的には失敗に終わってしまった。この後、玉三郎は再び映画との関わりを断ってしまう。興行的なことが原因であったのだろうか? あるいは「天守物語」は玉三郎にとってライフワークであったのだから、その映画化によっておそらく彼はしたいことをすべてやり終えたのかもしれない。 
       
 
  ◆美輪明宏と「黒蜥蜴」  
 



丸山明宏(現・美輪明宏)
「椿姫」でマルグリットに扮する(1968年)
(「オーラの素顔」6ページ)
 

 
 
 現代劇の女形として目覚ましい活躍を見せている人物には、美輪明宏(丸山明宏/1935〜)がいる。
 美輪はシャンソン歌手・丸山明宏としてデビュー。1957年に「メケ・メケ」の日本語訳カバーでヒットを飛ばす。彼は化粧をし、元禄時代の若衆 (小姓)の衣装を現代的にアレンジしたユニセックス・ファッションを取り入れた。「神武以来の美少年」「シスターボーイ」などとも称され、今日では「ヴィジュアル系の元祖」と位置づけられることさえある。

 美輪を女形として見出したのは寺山修司(1935〜83)であった。寺山は1967(昭和42)年、横尾忠則(1936〜)、東由多加(1945〜2000)らと演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げした。旗揚げ公演の「青森縣のせむし男」に美輪を醜悪な老婆の役で起用している。その後、美輪は寺山が彼のために書き下ろした第3回公演「毛皮のマリー」で美貌の男娼マリーを演じ、評判となった。
  
  
 
 



「黒蜥蜴」(1968年松竹)
丸山明宏と三島由紀夫
(「オーラの素顔」227ページ)
 

 
 
 1968年、「毛皮のマリー」の公演を見た三島由紀夫(1925〜70)は、美輪の演技に惚れ込み、自身の作による舞台「黒蜥蜴」に彼を起用した。「黒蜥蜴」は、江戸川乱歩(1894〜1965)が書いた推理小説を三島が戯曲化したもので、1962年に初代・水谷八重子(1905〜79)の主演で初演されている。ヒロイン“黒蜥蜴”は、腕にトカゲの刺青を持つ女盗賊。ありとあらゆる美しいもの、それは宝石などには留まらず、美しい人間をも剥製にして蒐集している。その退廃的で耽美的な女傑像は、美輪最大の当たり役となった。三島の死後も、美輪が演出・美術・衣装・音楽までをも手がけ、40年以上に渡って再演され続けている。

 1968年に「黒蜥蜴」は深作欣二(1930〜2003)の監督で映画化された。この「黒蜥蜴」(1968年松竹)で美輪は、主演の他に自身が作詞・作曲する主題歌「黒蜥蜴の歌」を歌っている。
 オープニングではオーブリー・ビアズリー(1872〜98)の「サロメ」の挿絵を背景に、美輪が「黒蜥蜴の歌」を歌う。何とも言えずデカダンで退廃的な雰囲気が漂う。もっとも、今日の目で見るといささか時代がかって見えなくもない。作品の魅力はなんといっても美輪演じる黒蜥蜴。もちろん、男性が女装して演じているのだが、そのことを超越した彼の存在感で、その世界に入り込んでしまう。途中、逃走のために黒蜥蜴が男装するシーンがあるのだが、なぜか逆に倒錯美を感じる。
 見所の一つに、原作者の三島由紀夫自身が出演していることがあげられる。彼は、黒蜥蜴の蒐集する剥製の1つとして出演し、そのボディービルで鍛えた筋肉質の裸体を披露する。三島の剥製に口づけをする黒蜥蜴。黒蜥蜴演じる美輪が実際には男性であることを考えると、何とも不思議な感覚である。現在「黒蜥蜴」はDVD化されていないが、一説には三島のホモセクシャル描写を遺族が嫌ったからだとも言う…。
 なお、「黒蜥蜴」は1962年にも大映で京マチ子(1924〜2019)の主演でも映画化されている。こちらの方はミュージカルタッチで、登場人物がステップを踏み、唐突に歌い踊る。「♪くろとか〜げ〜…」という、黛敏郎(1929〜97)作曲、三島由紀夫作詞によるテーマソング「黒蜥蜴の歌」が耳に残る。黒蜥蜴が男装 して逃走する場面はまるで宝塚歌劇を見ているかのよう。いや、京マチ子は松竹歌劇団(SKD)出身だから、SKDのレビューといわなければいけないか…。
 
   
 
 



「黒薔薇の館」(1969年松竹)
田村正和、松岡きっこ、丸山明宏
 

 
 
 美輪が「黒蜥蜴」に続いて深作欣二の監督で主演した作品に「黒薔薇の館」(1969年松竹)がある。この作品は「『黒蜥蜴』の続編」とされることが多いが、実際にはストーリーのつながりは無い。美輪が扮するのは、男を次々と不幸に陥れる魔性の女性・藤尾竜子。彼女に魅せられた富豪・佐光喬平(小澤栄太郎)は、彼女のためにサロン「黒薔薇の館」を改良し、彼女はそこの女主人として君臨するようになる。やがて、佐光の息子・亘(田村正和)が、彼女と関係を深めていく…。
 ストーリー展開の面白さと言う点では、「黒蜥蜴」には及ばない。だが、そのデカダンな雰囲気と、美輪演じる竜子の男を滅ぼす魔性の女としての魅力には一層拍車がかかっている。あくまでも、美輪明宏のための映画と言ってよい。

 美輪は、その他テレビドラマ「雪之丞変化」(1970年フジテレビ)でも女形の雪之丞を演じているが、僕は観ていない。1971年に姓名判断によって名前を「美輪明宏」と改名。近年では「もののけ姫」(1997年スタジオジブリ)や「ハウルの動く城」 (2004年「ハウルの動く城」製作委員会)といったアニメ映画にも出演するなど、息の長い活躍を続けている。
 美輪の場合「日本人のへそ」(1977年ATG)などで男性役を演じることも稀にはあるが、面白いことにほとんどの場合は純粋な女性に扮している。性転換者のカルーセル麻紀が「俺は田舎のプレスリー」(1978年松竹)や「道頓堀川」(1982年松竹)などで性転換者(つまりは男性)を演じることが多かったのと極めて対称的である。リアリティが求められる現代の映画界において、女形を貫きつつ、美しさで魅せるという点では美輪は世界的にも稀有な存在だといえよう。
    
 
  ◆ピーターこと池畑慎之介  
 



「薔薇の葬列」(1969年松本プロ)
ピーター
 

 
 
 美輪(丸山)明宏と同様に「ヴィジュアル系の元祖」とされる人物にピーターこと池畑慎之介(1952〜)がいる。ピーターは地唄舞吉村流の四世家元・人間国宝の吉村雄輝(1923〜98)の長男として誕生。彼自身3歳で初舞台を踏み、「吉村雄秀」の名を持つ(父の死後に返上)。
 16歳の時に松本俊夫(1932〜2017)監督のデビュー作「薔薇の葬列」(1969年松本プロ)に主演し、 映画デビューを飾っている。これは、ギリシア神話のオイディプス王の物語を裏返しにした実験作で、彼の役どころは母を殺して父と交わるゲイの少年エディという衝撃的なもの。
 ピーターは当時、六本木のゴーゴークラブにゴーゴーボーイとして働いていた。ゴーゴークラブとはディスコ(クラブ)のようなもので、ゴーゴーボーイはウェイターなどをしながら客の踊りの相手をするものであったそうだ。男の子か女の子かわからない「ピーターパンみたい」ということで、「ピーター」の愛称で呼ばれるようになった
(*6)。その頃知り合った作家・水上勉(1919〜2004)家のクリスマス・パーティで、美術担当の朝倉摂(1922〜2014)に見出され、白羽の矢が立った。

*6 池畑慎之介「ピーターThis is My Lifeどお?!」60〜61ページ
 
 
 



「薔薇の葬列」(1969年松本プロ)
ピーター
 

 
 
  「薔薇の葬列」でのピーターは、わずかに素顔を見せる他は、全編を通じて女装で通している。もっとも、彼の設定はゲイボーイ、つまりは男なので、厳密には女形とはいえない。とは言うものの、当時17歳の彼の女装姿は初々しくて愛らしい。彼の素顔が案外男っぽいことに驚かされたが、それにも関わらず、彼は映画に出演する本物のゲイ・ボーイの誰よりも女っぽいのだ。おそらくこれは、彼の幼くして鍛えられた女舞踊の素地から来ているのに違いない。
   
 
 



「薔薇の葬列」(1969年松本プロ)
ピーター
 

 
 
  ピーターは「薔薇の葬列」と同じ1969年には「夜と朝のあいだに」で歌手デビュー、レコード大賞最優秀新人賞にも輝く。近年ではバラエティー番組にも出演するなど息の長い活動を続けている。しかし、彼の映画におけるキャリアを眺めると、女形としての出演は案外少ない。
 むしろ彼は市川崑(1915〜2008)監督の「獄門島」(1977年東映映画)の元駐屯兵や、黒澤明(1910〜98) 監督の「乱」(1985年日/仏)の狂阿弥のように、中性的な男性の役を演じることが多い。
  
 
 



「乱」(1985年日/仏)
ピーター
(「ピーターThis is My Lifeどお?!」3ページ)
 

 
 
 そんな彼を女形として見出したのは美輪明宏の場合と同様に寺山修司だった。ピーターは1979年に天井桟敷の舞台「青ひげ公の城」に青ひげ第2の妻として出演している。そして、寺山が監督した映画「上海異人娼館/チャイナ・ドール」(1981年仏/日)に出演することになった。
 この作品はフランスの官能小説「O嬢の物語」を大胆にアレンジし、1920年代の上海を舞台としている。ピーターが演じるのは、“黒トカゲ”と呼ばれる異人娼館の女主人。“O”と呼ばれるヒロインを演じたイザベル・イリエがその肢体を惜しみなく披露し、その主人である富豪を演じるクラウス・キンスキー(1926〜91)らとの激しい濡れ場を演じるが、そんな中でもピーターは妖艶な美しさを発揮している。
 ピーターの役が“黒トカゲ”という異名を持つところからも、「天井桟敷」の旗揚げにも参加した美輪明宏を意識しているのは間違いないだろう。映画は、日本語、中国語、英語、フランス語が混じりあいエキゾチックなムードに溢れているが、キンスキーらの外国人出演者やスタッフは、ピーターのことを女性だと信じていたらしい。寺山が彼のことを指して「ヒー・イズ…」というたびに「ノー、シー・イズ…」と、訂正していたそうである
(*7)

 また、オリジナル・ビデオ「ピーターの悪魔の女医さん」(1986年オレンジビデオハウス)でもピーターは女医に扮している。この作品はホラー・シリーズ「ギニー・ピッグ」の一編として製作された。この作品を一躍有名にしたのは、連続少女誘拐殺人事件の宮崎勤(1962〜2008)の部屋にこの作品のビデオがあったことである。身体を切り刻むという描写が、彼の行為に影響を与えたのではないかとも言われた。当時、僕の家の近所のビデオレンタルにはこの作品が置いてあったのだが、事件後にそのことが報道された直後、いつの間にか無くなっていたのを思い出す…。

*7 池畑慎之介「ピーターThis is My Lifeどお?!」102〜103ページ
     
 
  ◆松原留美子と「蔵の中」  
 



「蔵の中」(1981年角川春樹事務所)
山中康仁と松原留美子
 

 
 
 異色の女形としては松原留美子(1958〜)を挙げることができる。
 松原は松本清張(1909〜92)の小説を映画化した「蔵の中」(1981年角川春樹事務所)でヒロインを演じている。彼(…と呼んでいいのだろうか?)は、1981年3月、男性であることを隠して「六本木美人」のキャンペーンに応募。話題になったのちに男性であることが発覚し反響を呼んだ。1982年には「ニューハーフ松原留美子写真集/うつし絵の中から」も出版されたが、女性的な容貌の男性を指して言う“ニューハーフ”という言葉は、最初彼に対して使われ始めたと言われている。彼はカテゴリーとしては性転換者(トランス・セクシャル)もしくはトランス・ジェンダーの部類に入るのだろうが、少なくともマスコミで活躍していた当時は身体に一切手を入れていない、つまり身体的には完全な男性であったため、ここで取り上げることにする。
 「蔵の中」で彼は、肺病を患ったために蔵の中に閉じ込められた娘・小雪を演じている。山中康仁演じる弟・笛二との近親相姦のシーンもあるのだが、これは実は男同士のラブシーンだったりするからややこしい…。
 
 
 



「蔵の中」(1981年角川春樹事務所)
松原留美子
 

 
 
 松原は役になりきるために、映画の撮影中は常に女性として扱われた。なお、小雪の“声”の問題は、彼女が聾唖者で、笛二が唇を読んで会話するという設定で回避されている。おそらく、松原が男性であるということを知らずに見ていれば、あるいは何も違和感はないのだろう。だが、予備知識を持って見てしまうと、その表情などに男性的なものがあることに容易に気づいてしまう。しかし、その脆く儚げな小雪の魅力は、あるいは彼でなくては演じられなかったのではないかという気すらする。
 
 
 



松原留美子
(「うつし絵の中から」より)
 

 
 
 松原はその後もドラマに出演したり、歌手デビューも果たしているが、その人気は長くは続かず、すぐに引退している。その後、銀座でホステスなどをしたりした後、故郷に戻って男性として暮らしているという…
(*8)

*8 「松原留美子」(http://www.femine.net/wiki/wiki.cgi?松原留美子
  
 
 



松原留美子
(「うつし絵の中から」より)
 

 
  ◆京劇映画の女形  
 



「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993年中国/香港)
レスリー・チャン
 

 
 
 ここで、海外の女形にも目を向けることにしたい。
 お隣中国では、日本の歌舞伎と同様に女形の伝統のある京劇が存在している。もっとも中国では、映画にまで女形を使ってはいなかったようだ。だが、中国映画とりわけ香港映画には主人公が女装するというシーンがしばしば登場する。例えば、ジャッキー・チェン(1954〜)の場合。監督デビュー作「クレイジーモンキー/笑拳」(1979年香港)で、道場の用心棒となったジャッキーが、道場破りを騙すために女装。そのままカンフーを披露する。また、後藤久美子(1974〜)と共演した「シティハンター」(1993年香港)でも、ゲーム「ストリートファイター」のキャラクター“春麗”のコスプレでアクションを見せる。他にも、ジェット・リー(1963〜) やチョウ・ユンファ(1955〜)などがアクションシーンの合間に女装姿を披露する。
 レスリー・チャン(1956〜2003)もやはり「恋はマジック」(1993年香港)などで女装姿を披露しているが、その彼が京劇の女形を演じた作品がある。チェン・カイコー(1952〜)監督の「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993年中国/香港)である。
 「さらば、わが愛」でチャンが演じるのは京劇の女形・程蝶衣。娼婦の息子として生まれた小豆は幼くして京劇の養成所に入れられる。養成所の子供たちからいじめられる小豆をかばったのは、兄弟子の石頭だった。小豆は、そんな石頭を慕うようになっていった。やがて、成長した小豆は女形“程蝶衣”となり、立役“段小楼”(チャン・フォンイー)となった石頭とコンビで京劇「覇王別姫」を上演し、トップスターとなる。蝶衣は小楼に対しての愛を募らせていくばかりだった…。
   
 
 



「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993年中国/香港)
チャン・フォンイーとレスリー・チャン
 

 
 
 レスリー・チャンの女形姿は美しい。いや、その所作や挙動は色っぽさすら感じさせる。そんな美しい姿でありながら、男であるがために満たされない蝶衣の恋心。やがて、小楼は遊郭の女・菊仙(コン・リー)と結婚する。傷心のまま去っていく蝶衣。だが、彼を失った小楼もまた、自堕落になってしまう。そんな切ない三角関係はやがて、日中戦争、国共内戦、文化大革命と時代の波に翻弄されていく…。
 レスリー・チャンはこの作品の10年後の2003年に46歳の若さで突如飛び降り自殺をしてしまった。チャンは「ブエノスアイレス」(1997年香港)でもゲイ役を好演していたが、彼自身ゲイであることを公言していたそうだ。死の原因は愛情のもつれとの噂もあり
(*9)、ますます彼と蝶衣の姿が重なり、切なくなってくる。

*9 「張国栄:ホテルから転落死、遺書を残し自殺か」(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2003&d=0402&f=entertainment_0402_001.shtml
   
 
 



「花の生涯〜梅蘭芳」(2008年中国)
梅蘭芳を演じるユィ・シャオチュン
 

 
 
 「さらば、わが愛」のチェン・カイコー監督は、京劇史上最高の女形といわれた梅蘭芳(1894〜1961)の生涯を「花の生涯〜梅蘭芳〜」(2008年中国)として映画化した。梅蘭芳を演じたのは青年期がユィ・シャオチュン(1983〜)、壮年期がレオン・ライ(1966〜)である。
 「さらば、わが愛」と同様、女形である主人公が激動の時代に翻弄される様子が描かれる。辛亥革命に始まり、日中戦争、国共内戦、文化大革命と20世紀の中国は政治も価値観も大きく揺れ動いた時期であり、そんな中で知識人や文化人にとって生き抜くことがいかに厳しい時代であったか…。「さらば、わが愛」の蝶衣が時代に流されることで迫害を受けたのに対し、梅蘭芳は自己を貫こうとすることで辛酸を舐める。2人の生き方は対称的ともいえる。例えば、梅蘭芳は日本支配下で、日本の招きに髭を生やす――女形の芸を拒否することで、抵抗するのである。
  
 
 



北京の旧居にある梅蘭芳の像
(2005年8月訪問)
 

 
   
 作品の随所に同性愛的な要素が描かれているが、主人公の梅蘭芳自身のそういった側面は強くは描かれていない。この作品での蘭芳の恋愛の相手は、京劇の男形女優・孟小冬で、チャン・ツィイー(1979〜)が扮している。舞台の上では、男と女を取り替える2人の恋はそれはそれで倒錯的ではある。
 同性愛的な要素を持つのは梅芳の義兄・邱如白(スン・ホンレイ)。彼は代々官吏の家計に生まれ、留学帰りで中華民国の司法局長にまで上り詰める。だが、梅蘭芳の京劇を観て感銘を受け、職を投げ打って蘭芳と義兄弟の契りを結びマネジャーとなる。その如白の蘭芳へのひたむきさと情熱は、まさしく恋愛感情を思わせる。「さらば、わが愛」の蝶衣と小楼の関係がまさに裏返しとなっている。もっとも、如白の思いはあくまで控えめで、はっきりとは描かれていない。あるいは、梅蘭芳が実在の人物であるからなのだろうか…。
 当時の若い見習い女形は、「相公堂子」としての接客業で収入を得ていたという。「相公(シャンゴン)」とは「だんなさま」の意味だが、発音の近い「像姑(シャングー)」つまり「若い女に似ている」の意の転化だという。相公の仕事は薄化粧をして酒席を盛り上げることで、時には男色の相手をもした。おそらく史実の梅蘭芳も、若き頃には「相公」をしていたのだろう。だが、「花の生涯」の冒頭で、梅蘭芳は「相公」の仕事を強制された時、あくまでそれを拒絶した。

 なお、「花の生涯」は史実を元にしているものの、エピソードの大半はフィクションである。梅蘭芳の恋人となる孟小冬(1908〜77)は実在の女優だが、その他の人物の大半はモデルがいるものの、実在しない。例えば、梅蘭芳のパトロンとなり経済的に彼を支援する馮子光(イン・ター)は、馮幼偉(1880〜1966)がモデルであるといった具合。
 若き日の梅蘭芳に京劇の舞台でどちらが客を多く呼べるかの勝負を挑み敗れるベテラン京劇俳優の十三燕(ワン・シュエチー)は、当時の京劇のトップスター譚鑫培(1847〜1917)がモデルである。譚が梅蘭芳と実際に勝負をしたという事実こそ存在しないが、1916年夏、2人の公演日が重なってしまったことがあった。劇場側は2人のスターの対決を「新旧対決」と煽り、結果としてかなりの観客が梅蘭芳のほうに流れてしまったそうだ。
 梅蘭芳は梅党というブレーン集団を抱えていたが、その1人の斉如山(1875〜1962)が梅蘭芳の義兄・邱如白のモデルである。斉はヨーロッパに渡った経験もあり、西洋演劇との比較から、様々な京劇改革を提案。自身でも京劇の脚本を書いた。1931年に日中戦争が勃発した後、日本軍の進出を避けて梅蘭芳が北京から上海に脱出した際に、2人が別の道を歩くようになったのは映画と同じだが、実際には絶交したわけではなかった。
 映画では、梅蘭芳の妻は福芝芳(チェン・ホン)だけであるが、史実では福芝芳(1905〜80)は第2夫人で、それ以前に17歳の時に結婚した第1夫人の王明華(〜1928)がいた。孟小冬も実際には第3夫人であった。映画では孟小冬は、梅蘭芳が世界的な名優になる邪魔をしないために身を引くことになっているが、実際には福芝芳夫人との対立が原因だったという。梅蘭芳の母親代わりでもあった伯母の葬儀の際に、梅蘭芳の本宅へ駆けつけた孟小冬は福芝芳から「愛人にすぎないあなたに、この敷居をまたぐ資格はありません」と拒絶され、その屈辱から梅蘭芳と別れる覚悟を決めたそうである。
  
 
 



「花の生涯〜梅蘭芳」(2008年中国)
レオン・ライとチャン・ツィイー
 

 
 
 映画における中国と日本の女形の違いは同性愛要素の有無ではないだろうか。同性愛要素の強い「さらば、わが愛」「花の生涯」に比べ、「雪乃丞変化」や「弁天小僧」 の主人公は姿こそ女であっても、中身は立役なのである。強いて同性愛的な要素を探すと、「雪之丞変化」において両親の仇の土部三斉が、雪之丞にその母の面影を見る程度である。
 しかしながら、日本の場合でも江戸時代には、「陰間」と呼ばれるまだ舞台に立たない修行中の少年女形が、男性客相手に色を売るようなことがかなり盛んであったようだ。近代に入っても、稀代の女形・6代目中村歌右衛門(1917〜2001)が若き頃、使用人の男性と駆け落ちするという事件を起こしている。にも関わらず、日本映画における女形が同性愛の要素を排除しているのはなぜなのだろう。
 もちろん、「雪之丞変化」が製作された1960年代以前と、京劇映画の製作された1990年代以降という時代の違いもあるだろう。だが、 歌舞伎における同性愛の問題はタブー視されているのか、ほとんど語られることはない。今後の検討課題としたい。
      
 
 



「エム・バタフライ」(1993年米)
ジョン・ローン
 

 
   
 中国映画ではないが、デビッド・クローネンバーグ(1943〜)監督の「エム・バタフライ」(1993年米)も京劇を扱っている。
 フランス人外交官ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は、京劇の舞台女優ソン・リリンと出会い恋に落ちる。リリンはガリマールを通じて、西側の情報を中国へ流す。やがて、スパイ容疑で逮捕されたガリマールは、衝撃の事実を知る。
 その衝撃の事実とは、ガリマールが女性だと信じていたリリンが実は男であったということである。映画のタイトル「エム・バタフライ」とは、プッチーニのオペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」にちなんでいるが、「エム(M)」とは「マダム(Madam)」の頭文字であると同時に、「メイル(Male=男性)」の頭文字でもある。
 リリンを演じるのはジョン・ローン(1952〜)。終盤の法廷のシーンを除いて、終始女装姿で出演し、京劇やオペラ「蝶々夫人」を演じるシーンが登場する。おそらく、予備知識なしで観たならば、リリンを演じるのがジョン・ローンであるとは、最後まで気づかないのではないだろうか。もちろん知っていても、ジョン・ローンの女装ぶりはかなり板についていて色気さえ漂っている…。
 それ以上に驚くのが、この物語が実話に基づいているということだ。このようなエキセントリックな物語が実話とは…事実は映画より奇なり。
 
 
 



「エム・バタフライ」(1993年米)
ジョン・ローン
(「エム・バタフライ パンフレット」31ページ)


実際のシー・ペイプー
(「Birsh of Blues:【映画評】エム・バタフライ」より)
 

 
 
 事実としては、フランス人外交官ベルナール・ブルシコ(1944〜)が恋におちた京劇スターのシー・ペイプー(時佩孚)こと時佩璞(1938〜2009)は女装していたわけではなかったようである。どう見ても男であったペイプーと、ブルシコは友人となるが、やがて彼から重大な“秘密”を打ち明けられる。「私は実は女性なのです。でも跡継ぎの男児が生まれないと、父は母と離婚するか第二夫人を迎えるしかなかったので、やむなく男の子として育てられたのです。
(*10)」彼の言葉を信じたブルシコは「彼女」を恋人とし、18年にも渡って連れ添うことになる。
 不思議なのはなぜそんなにも長い間、“彼女”の秘密が明らかにならなかったのだろうか。映画にも出てくるが、ペイプー(映画ではリリン)は、「東洋的な慎み」として、ブルシコ(映画ではガリマール)に決して素肌を見せなかった。ペイプーは、睾丸を体内に押し込み、ペニスを股間に挟んで隠す特技を持っていたという。ペイプーと出会った当時のブルシコは童貞であり、しかもバイ・セクシャルの性癖があったそうなので、その魅力に取りつかれたというのはなんとなくわかる。しかし、ブルシコは後にサウジアラビアやモンゴルといった世界各地で、多くの男女と情事を重ねていたというから、果たして本当に騙されていたのか、はなはだ疑問を感じる。
  
*10 「北京で燃えた『ある愛の詩』」(「ニューズウィーク日本版」1993年11月13日)
   以下同書を参照した。
  
 
 



法定でのベルナール・ブルシコとシー・ペイプー
(「ニューズウィーク日本版」1993年11月10日 50ページ)
 

 
 
 京劇の女形が悲劇的な存在として語られる要因には、中国では共産党政権のもと、1997年まで同性愛は犯罪とされていたこととも関係があるのかもしれない。おそらく、当時は同性愛者であるが故の悲劇が実際に起きていたのであろう。
   
 
  ◆ハリウッド・コメディと女形  
 



「チャップリンの女装」(1915年米)
チャールズ・チャップリン
(「世界の映画作家チャールズ・チャップリン」(1973年4月キネマ旬報社)98ページ)
 

 
 
  一方、欧米における女形俳優はどうであろうか。欧米ではユダヤ教・キリスト教の文化・倫理観が大きな影響を持っているが、「旧約聖書」には同性愛を禁止する記述があり、女装自体がタブー視されているようだ。したがって、日本のように女形が女性としての魅力を醸し出すような作品は極めて少ない。
 女形が起用されるのは主に喜劇映画。例えば、喜劇王チャールズ・チャップリン(1889〜1973)は、初期の作品「男か女か」(1914年米)、「チャップリンの女装」(1915年米)で女装を披露している。もっともこれらは、あくまでも男性が女性に変装するというもので、女形ではない。もちろん天才チャップリンだけに、その女装ぶりは見事である。
 チャップリンが女性を演じた「多忙な一日(つらあて)」(1914年米)という作品がある。ここでのチャップリンは、嫉妬深い新妻役であるが、彼の演じるキャラクターは夫に突き飛ばされて海に落ちたりと散々な目に合う。
 他にも、「チャップリンの質屋」(1916年米)のジェームズ・T・ケリー(1854〜1933)や、「一日の行楽」(1919年米)のマック・スウェン(1876〜1935)といったように、チャップリン映画にはしばしば男優が女装して女性として登場することがある。バスター・キートン(1895〜1966)も「即席百人芸」(1921年米)では夢の中で女装を披露している。“デブ君”ことロスコー・アーバックル(1887〜1933)も、「ファッティとキートンのコニー・アイランド(デブ君の浜遊び)」(1918年米)で女性物の水着で中年女性に化ける。僕は見ていないが「デブ君の女装(ファッティとキートンのおかしな肉屋)」(1917年米)なる作品もある。このようにアメリカ映画では女形を含めた女装というものが、グロテスクさでもって滑稽さを引き出すために利用されているようだ。
 そうした伝統は今日でも残っていて、例えばエディ・マーフィ(1961〜)主演「星の王子ニューヨークへ行く」(1988年米)がそうである。アフリカの某国の王子が、理想の女性を探してアメリカへ渡る。王子を演じるマーフィと世話係を演じるアーセニオ・ホール(1955〜)が1人何役も演じているのだが、王子がバーで会う女性の一人にホールが扮する。役名は「とてつもなくブサイクな女(Extremely Ugly Girl)」とあるが、どう見ても女装男そのものである。
 また、2011年度のラジー賞で史上初の10部門を総なめにした
(*11)アダム・サンドラー(1966〜)主演の「ジャックとジル」(2011年米)では、サンドラーが双子の兄妹ジャックとジルにそれぞれ扮する。社会的にも成功したジャックと、無邪気でハチャメチャしかも40過ぎで独身の負け犬ジル。正直、ジルの容姿は女装したサンドラーでしかない。しかも、兄ジャックが女装してジルに変装するなんて場面まで出てきて、そのことに誰も気づかないのだからひどい話だ。結局この映画も女装のグロテスクさで笑わせるためだけの作品である。
 サンドラーはラジー賞ではジャック役での主演男優賞に加え、ジル役で主演女優賞を受賞。さらに、2人の同級生モニカをやはり女装で演じたデビッド・スペード(1964〜)も助演女優賞を受賞しているが、こちらのほうがよっぽど女性ぽかった。 

*11 ラジー賞(ゴールデンラズベリー賞)は、史上最低の映画を表彰する賞なので、決して名誉ではない。
    
 
  ◆カルト・ヒロイン ディヴァインとドラーグ・クイーン  
 



ディヴァイン
 

 
 
 アメリカの女装俳優としてはディヴァイン(1945〜88)があげられる。ディヴァインは本名ハリス・グレン・ミルステッド。高校時代にジョン・ウォーターズ(1946〜)と出会い、後に彼の監督作のヒロインとして数々のカルト映画に出演した。
 最初のコンビ作は「ロマン・キャンドルズ(Roman Candles)」(1966年)。8mmで撮られた未公開作品で僕も観ていないのだが、ディヴァインは修道女に扮しているらしい。この作品で「ディヴァイン」のキャラクターが生まれたという。300ポンド(約140キロ)を超える巨体に、どギツイ衣装とメイク。そのインパクトはマツコ・デラックスもかなうまい…。
 そして、コンビの代表作が「ピンクフラミンゴ」(1972年米)。すでにカルト映画の古典ともなっており、 ディヴァインはトレーラーハウスに家族と共に隠れ住む“世界一下品な女”ディヴァインその人を演じている。ディヴァインは頭のてっぺんまで剃り上げた金髪のモヒカン頭という強烈なルックスで、あまりにも衝撃的な結末(敢えて内容は伏す)を迎える。
   
 
 



「ピンクフラミンゴ」(1972年米)
ディヴァイン
(「悪趣味映画作法」23ページ)
 

 
 
 続く「フィメール・トラブル」(1974年米)では、ディヴァインはヒロインのドーン・ダヴェンポートを演じる。不良女子高生だったドーンは、両親にキレて家出。ヒッチハイクした男にレイプされて私生児を産む。ストリッパーや夜の女、はたまた強盗をしながら生きていくうちに、美容師の男性と結婚。幸せな生活もつかの間。美容院のオーナー夫妻に煽てられ犯罪写真のモデルとなり、ついには自身のショーの舞台で拳銃を乱射。裁判で有罪となり電気椅子に送られる。その壮絶かつ波乱万丈な人生を、ディヴァインが演じ切る。
 ディヴァインというというと、その体形と派手なメイク・衣装に隠されがちなのだが、実は女装演技のクオリティは相当に高い。「フィメール・トラブル」の冒頭では、ナチュラルな女子高生に扮するが、周りを本物の少女に囲まれてもそう違和感が無い。ラストの素顔に坊主頭の囚人姿でさえ女性に見えてしまうから不思議だ。ひょっとしたら映画を見ているうちにディヴァインに魅せられ(毒され?)頭がおかしくなっているのかもしれない…。
 「フィメール・トラブル」のディヴァインは男性役も演じている。そして女ディヴァインをゴミ捨て場でレイプするというおぞましくも壮絶なシーンがある。ジョン・ウォーターズによると、このシーンはディヴァインとほぼ同じ体重の女優サリー・ターナーをボディ・ダブル(代役)に利用したとのこと。最初に女ディヴァインのシーンを撮影した後、2人の衣装を取り替えて、男ディヴァインのシーンを撮影したそうであるが、近くにいたゴミ収集人は役の入れ替わりには気づかなかったのではないだろうかと、語っている
(*12)

 ディヴァインはウォーターズ作品のインパクトが強かったため、後年そこからの脱出を模索するようになる。1981年の「ポリエステル」以降、しばらく2人のコンビ作は製作されず、ディヴァインは舞台に進出、プロデュースも手がける。また、歌手としても「You Think You're a Man」(1984年)などのヒット曲を生み出している。

*12 ジョン・ウォーターズ/柳下毅一郎訳「ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法」160〜162ページ
 

 
 



「フィメール・トラブル」(1974年米)
ディヴァイン
(「悪趣味映画作法」172ページ)
 

 
 
 ウォーターズとディヴァインの最後のコンビ作は、「ヘアスプレー」(1987年米)。これは、ウォーターズにとって初の一般映画であった。1960年代のボルティモアを舞台に、太めの女子高生トレーシー(リッキー・レイク)が、テレビのダンス番組のスターになっていく様子を描 く。初期のカルト映画からは想像もつかない、毒の無いノスタルジックな青春映画となっている。「ヘアスプレー」を観た家族が、他のウォーターズ作品を見ようと思ってビデオ・レンタルで「ピンク・フラミンゴ」を借りてびっくり仰天。警察に通報したなんて、冗談みたいなエピソードも存在 している
(*13)
 この作品でディヴァインが扮するのはトレーシーの母親エドナ。トレーシーをはるかに上回るダイナマイト・ボディの持ち主ながら、明るく優しい母親をキュートに演じている。ちなみにディヴァインは強欲なプロデューサーという男性役でも出演している。
 ディヴァインは「ヘアスプレー」公開の翌年、睡眠中の心臓発作により43歳の若さで急死。太りすぎが原因だったという。すでに死後20年以上経ったが、ディヴァインの存在は伝説として残り続けている。
 
*13 ジョン・ウォーターズ/柳下毅一郎訳「ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法」9ページ
 
 
 



「ヘアスプレー」(1987年米)
(左より)ミンク・ストール、ディヴァイン、リッキー・レイク
 

 
   
 「ヘアスプレー」は後にブロードウェーでミュージカル化され、2007年には映画されている。再映画化作品で母親を演じたのはジョン・トラボルタ(1954〜)で、特殊メイクによって巨漢の女性に扮している。確かに、ミュージカル・スターで、しかも同性愛者の噂の強いトラボルタが女装で歌い踊るというのは見所である。しかし、あまりに特殊メイクが強く、知らずに観たら母親がトラボルタであるとは気づかないのではないだろうか。正直、僕はこの役をトラボルタが演じる必然性を感じなかった。
   
 
 



「ヘアスプレー」(2007年米)
ジョン・トラボルタ
 

 
 
 なお、ディヴァインの衣装とメークは、いわゆる“ドラァグ・クイーン”の伝統に乗っ取ったものである。ドラァグ・クイーンとは、ゲイ・カルチャーの一つで、 ド派手な化粧と衣装の女装姿でパフォーマンスを行う男性のことである。映画であれば、3人のドラァグ・クイーンが旅をする「プリシラ」(1994年オーストラリア)や、その映画をヒントに作られた「3人のエンジェル」(1995年米)に取り上げられている。「ロッキー・ホラー・ショー」(1975年英)に登場した女装趣味の宇宙人フランケン・フルター(ティム・カリー)や、「ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ」(2001年米)の性転換手術に失敗した女装の歌手ヘドヴィグ(ジョン・キャメロン・ミッチェル)もドラァグ・クイーンの一種だろう。日本でも1990年代にはオナペッツなる2人組のドラァグ・クイーンが活躍していた。
 ドラァグ・クイーンはの“ドラァグ”とはDrag(引きずる)のこと。引きずるほどの長い衣装からきている。しばしば“ドラッグ・クイーン”とも記されるが、それだとDrug(薬、麻薬)と混同しやすいので、最近は“ドラァグ”とすることが多い。
 ドラァグ・クイーンは、あくまで男性が女装をしているだけで、厳密な意味では女形とはいえない。だが、「雪乃丞変化」と同様、女を演じることを生業とする男性という点では通じる部分がある。
  
 
 



「プリシラ」(1994年オーストラリア)
(左より)テレンス・スタンプ、ガイ・ピアース、ヒューゴ・ウィーヴィング
(「週間The MOVIE90」24ページ)
 

 
  ◆「クライング・ゲーム」とジェイ・デビッドソン  
 



「クライング・ゲーム」(1992年英)
ジェイ・デビッドソン
 

 
 
 それでは、西洋の女形が常にグロテスクさを強調していたのかといえば、必ずしもそうではない。中には美しさをアピールする女形が存在している。それが、「クライング・ゲーム」(1992年英) のジェイ・デビッドソン(1968〜)である。
 主人公のテロリストのファーガス(スティーブン・レイ)は、誘拐した兵士の遺言でその恋人ディルを訪ねる。やがてファーガスはディルに好意を抱くようになる…。
 このディルを演じるのがデビッドソン。映画の中で、ディルは最初普通の女性として登場する。ファーガスはディルの裸を見て、初めて男であることを知るのだが、観客である僕らもその時初めてその事実を知る。
  
 
 



「クライング・ゲーム」(1992年英)
ジェイ・デビッドソン
 

 
 
 デビッドソンはガーナ人の父とイギリス人の母の間にアメリカで誕生。すぐにイギリスに移住する。16歳で学校をドロップアウトし、ファッション・デザイナーとして働くところを見出されて「クライング・ゲーム」に出演することにな った。
 「クライング・ゲーム」はヒロイン・ディルをデビッドソンが演じたからこそ成功したのではないだろうか。少なくともそう思わせるだけの魅力をデビッドソンは持っている。この衝撃的なキャラクターでデビッドソンはアカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされた。彼はその後、SF大作「スターゲイト」(1994年米)にも出演し太陽神ラーを演じたが、映画はすぐに引退。以後はファッションモデルとして活動している。
 映画界にはたった1作で永遠に名前が残る俳優がいる。「シェーン」(1953年米)のアラン・ラッド(1913〜64)や、「ロミオとジュリエット」(1968年英/伊)でロミオを演じたレナード・ホワイティング(1950〜)もそうだろう。デビッドソンも「クライング・ゲーム」の演技だけで、いつまでも人びとの記憶に残るに違いない。
 ところで、彼は最近どうしているのかと思って調べてみた。いくつかのサイトに最近の彼の写真が載っていた(参照)。見なきゃよかった(>_<) すっかり男性的な容姿になっているようだ…。
  
 
  ◆男装の麗人たち  
 



「危険な年」(1983年オーストラリア)
リンダ・ハント
(「週間The MOVIE90」25ページ)
 

 
 
 女優が男性を演じるという場合も取り上げたい。女性の男性的な服装というのは、“ボーイッシュ”としてかなり市民権を得ている。したがって、男装自体が好奇の目で見られるようなことも少な く、映画の中で女優が男装する場面も枚挙にいとまがない。キャサリン・ヘップバーン(1907〜2003)の「男装」(1935年米)、バーブラ・ストライサンド(1942〜)の「愛のイエントル」(1983年米)、ブルック・シールズ(1965〜)の「サハラ」(1983年英米)など。

 しかしながら、女優が男性そのものに扮するというのは少ない。
 その中でも特筆すべきなのは、「危険な年」(1983年オーストラリア)のリンダ・ハント(1945〜)である。この作品で彼女は小人の男性カメラマンに扮している。身長145センチと小柄な彼女だが、演じるのが女性だと知っていて観ても違和感が無い。その怪しい魅力で、見事アカデミー助演女優賞を受賞した。
 
 
 



「ビクター/ビクトリア」(1982年英/米)
ジェームズ・ガーナーとジュリー・アンドリュース
 

 
 
 生まれ変わっても再び結ばれる男女の永遠の愛を描いた「メイド・イン・ヘブン」(1987年米)では、運命の男女をティモシー・ハットン(1960〜)とケリー・マクギリス(1957〜)が演じている。2人が天国で出会う男の天使に当時ハットンと結婚していたデブラ・ウィンガー(1955〜)が扮しているが、そのハスキー・ボイスもあって、こちらも違和感無く男性を演じている。

 男装演技の珍品としては、ブレイク・エドワーズ(1922〜2010)監督の「ビクター/ビクトリア」(1982年英/米)をあげたい。売れない歌手のジュリー・アンドリュース (1935〜)が、女装の男性歌手の振りをする。つまり女優が男装して女装するという、文字にすると何ともややこしい設定であるのだが、ジュリーはとても魅力的で 、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。ちなみにこの映画ではロバート・プレストン(1918〜87)が女装して歌い踊るという抱腹絶倒の場面もあり、こちらも助演男優賞にノミネート。この1982年度のアカデミー賞では、他にも「トッツィー」(1982年米)で女装して女優になった俳優を演じたダスティン・ホフマン(1937〜)が主演男優賞、「ガープの世界」(1982年米)で性転換者を演じたジョン・リスゴー(1945〜)が助演男優賞にノミネートされるなど、倒錯合戦ともいえる様相だったが、結果的に受賞者はいなかった。
  
 
 



「競艶雪之丞変化」(1957年新東宝)
美空ひばり
(「週間The MOVIE90」25ページ)
 

 
 
 さて、女優の男装演技においても、やはり日本が際立っている。歌舞伎同様に宝塚歌劇団という少女歌劇の伝統があるからだろうか。宝塚歌劇団はすべて女優によって構成される劇団で、当然ながら男性役も女性が演じる。宝塚出身の女優には、「歌ふ狸御殿」(1942年大映)の宮城千賀子(1922〜96)や、「千年の恋ひかる源氏物語」(2001年東映)で光源氏に扮した天海祐希(1967〜)のように映画で男性を演じる場合も見られる。
 また、昭和の歌姫で映画でも活躍した美空ひばり(1937〜89)も、しばしば男性を演じた。代表的なものに、嵐寛寿郎(1903〜80)主演「鞍馬天狗」シリーズ(1951〜52年松竹)における杉作少年がある。また、「ひばり十八番 弁天小僧」(1960年東映)、「ひばりの三役 競艶雪乃丞変化」(1957年新東宝) といった女形映画の主人公も演じている。その他、「牛若丸」(1952年松竹)、「宝島遠征」(1956年東映)、「花笠若衆」(1958年東映)、「大当たり狸御殿」(1958年宝塚映画)、「天竜母恋い笠」(1960年東映)、「ひばりの森の石松」(1960年東映)など男性役もしくは男装演技をする作品は数多い。多くの作品でひばりは女装姿をも披露し、ヒーローとヒロインの両方を二役で演じている。「フィメール・トラブル」のディヴァインと同様だと言うと、きっと怒る人もいるに違いない(笑)
     
 
◆映画の中の女形とは 
 
 このように、映画の中の女形をいろいろと紹介してきた。リアリティを必要とする映画において女形が用いられるには、やはりそれなりに理由がある。だから女優が未発達であった初期の日本映画を除けば、女形を普通の女性として扱うような場合は少ない。それならば最初から女優を使えばいいわけだ。
 日本映画であれば女形は退廃美を描くために用いられている。ハリウッド映画ならグロテスクな滑稽さを引き出すため。中国映画では悲劇性を強めるためといった具合である。女形の持つキワモノ性というか異形の魅力とでもいえば言いのだろうか。
 今回このエッセイを書くため、女形の出演する映画をまとめて観直した。確かにみな魅力的なのではあるが、倒錯した世界にすっかり魅せられてしまった。まずい、このままだと現実でも女性より女装者(女装子・女装娘ともいう)が良いなんて言い出しかねないぞ。さすがにそれでは実生活にも影響が出てきかねない。これからはしばらく美人女優の出演している映画をリハビリとして観ることにしたい。
  
 
 

(2013年8月5日)

 
   
(参考資料)
田中純一郎「日本映画発達史T」1967年1月 中央公論社
「ニューハーフ松原留美子“うつし絵の中から”」1982年3月 放送出版ミュージック
朗雷会(市川雷蔵を偲ぶ会)「市川雷蔵/シネアルバム103」1983年10月 芳賀書店
美輪明宏「紫の履歴書」1992年11月 水書房
池畑慎之介「ピーターThis is My Lifeどお?!」1993年10月 日本テレビ放送網
ファビュラス・バーカー・ボーイズ「ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光」1999年1月 洋泉社
「銀幕の女装・男装」(「週間The MOVIE 90」)1999年11月 デアゴスティーニ
杉本良男「インド映画への招待状」2002年12月 青弓社
ジョン・ウォーターズ/柳下毅一郎訳「ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法」2004年6月 青土社
武田雅哉「楊貴妃になりたかった男たち/〈衣服の妖怪の文化誌〉」2007年1月 講談社選書メチエ
豊田正義「オーラの素顔/美輪明宏のいきかた」2008年6月 講談社
三橋順子「女装と日本人」2008年9月 講談社現代新書
加藤徹「梅蘭芳/世界を虜にした男」2009年3月 ビジネス社
「坂東玉三郎すべては舞台の美のために/和樂ムック」2009年4月 小学館
中川右介「坂東玉三郎/歌舞伎座立女形への道」2010年5月 幻冬舎新書

泉鏡花「天守物語・夜叉ヶ池」(「泉鏡花集成7」所収)1995年11月 ちくま文庫
久保田万太郎/永井荷風原作「夢の女」(「久保田万太郎全集第9巻」所収)1968年2月 中央公論社
 
 
 


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