第2章−サイレント黄金時代(29) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美剣士変化〜永遠の二枚目・林長二郎(長谷川一夫)〜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「ラスト・サムライ」(2003年米)でアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた渡辺謙(1959〜)。その後も「硫黄島からの手紙」(2006年米)や「インセプション」(2010年米)などのアメリカ映画に出演し、すっかり日本を代表する映画俳優となっている。そこでふと考えた。オールタイムで日本を代表する男性俳優をあげるとするなら、いったい誰がふさわしいだろうか。 世界的な知名度という点なら早川雪洲(1886〜1973/「日本人の肖像」参照)や三船敏郎(1920〜97)が思い浮かぶ。いや、それなら渡辺謙にだって充分資格があるだろう。 各種のアンケートを見てみよう。1989年の「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文春文庫)の男優部門で一位となったのは阪東妻三郎(1901〜53)だった。その4年後の「大アンケートによる男優ベスト150」 (文春文庫)では阪妻を抑えて、笠智衆(1904〜93)が1位を獲得している。1995年の「日本映画オールタイムベストテン」(キネマ旬報)では森雅之(1911〜73)が1位である。その他、こうしたアンケートで常に上位に入ってくる俳優には、三国連太郎(1923〜2013)、志村喬(1905〜82)、高倉健(1931〜2014)らがいる。確かにいずれも日本を代表する俳優としてふさわしいが、この中から一人に絞るとなるとなかなか難しい。 長谷川一夫(1908〜84)も、こうした日本を代表する俳優の候補の中に入れてもいいのではないか。 長谷川は1984年に亡くなると俳優としては最初の国民栄誉賞を受賞した。 |
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◆剣戟スター林長二郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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そんな国民的スター・長谷川一夫。彼は「林長二郎」の芸名で1927(昭和2)年にデビューし、サイレント期の「六大剣戟スター」の一人に数えられた。1937(昭和12)年に本名の「長谷川一夫」に改名するが、その後も戦後に至るまで息の永い活躍を見せている。ここでは主に、林長二郎時代の彼についてみていきたい。 しかしながら、僕は林長二郎時代の作品をあまり観たことが無い。サイレント作品に限れば、まとまった作品としては「刺青判官」(1933年松竹)を見ただけ。後は、「弁天小僧」(1928年衣笠映画連盟/松竹)と「野狐三次」(1930年松竹)の断片を見ている程度。同時期に活躍した剣戟スターであれば、阪東妻三郎、嵐寛寿郎(1903〜80)、大河内伝次郎(1898〜1962)、片岡千恵蔵(1903〜83)らの作品は割合に観る機会があるのに比べ、何とも寂しい。ひょっとすると他の4人が日活に所属していたのに対し、長二郎だけが松竹だったこととも関係があるのではないか。サイレント期の松竹映画はどうやらあまり残っていないようなのである。 |
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そこで、まずは「刺青判官」(1933年松竹)がどのような作品なのかをみることにしたい。この作品は幸いにもビデオ化されている。刺青(ほりもの)判官とは、桜吹雪の刺青でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元(1793〜1855)のことで、原作は長谷川伸(1884〜1963)が1933年に発表した小説である。 この作品で長二郎は、若き日の金さんと、田舎相撲の大関・百姓百之助の2役を演じている。金さんが美男で腕ぷしが強いのに対し、百之助はずんぐりむっくりの三枚目で、知らずに見たら長二郎 だとは気づかないかもしれない。 殿様に騙されて死んだ父と叔母の仇討ちで蝦夷の松前から江戸へやってきた百之助は、道中で知り合った旅芸人の女座長から紹介された金さんに助太刀を頼む。一方の松前藩は、百之助に殺し屋を差し向ける…。 ビデオ化されている「刺青判官」は前後篇計86分のものだが、オリジナルは全3篇であったらしい。そのため、筋が飛んでいたり、明らかに無意味なシーンが挿入されている。しかしながら、初期の長二郎の剣戟スターとしての側面が見られるという点では貴重な作品といえよう。もっとも、長二郎が刀を抜くシーンはほとんどないのだが…。 遠山の金さんといえば、もろ肌脱いで背中の桜吹雪を刺青を見せ、「この桜吹雪が目に入らねえか」と啖呵を切るクライマックスが思い浮かぶ。だが、残念なことに「刺青判官」の中にそのような場面はない。それどころか、刺青を見せる場面すら無い。ただ、金四郎が上半身裸になるスチール(写真下)が残っているので、オリジナルフィルムの中にはあったのかもしれない。 |
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◆女形の伝統 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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長二郎は、甘いマスクで「永遠の二枚目スター」と言われた。確かに彼の顔は、男の僕から見てもほれぼれするほど美しい。どこか女性的な雰囲気すら持っている。 なるほど、彼はもともと歌舞伎の女形であった。林長二郎、本名・長谷川一夫は、京都の芝居小屋の子として生まれ、1913(大正2)年、5歳の時に中村鶴之助の一座にて子役として舞台に立つ。その後、初代 ・中村鴈治郎(1860〜1935)の長男・林長三郎(後の二代目・林又一郎/1893〜1966)に弟子入りし、「林長丸」を名乗っている。青年歌舞伎の仲間であった市川百々之助(1906〜78)や市川右一(後の市川右太衛門)が映画界で成功したことに刺激を受け、衣笠貞之助(1896〜1982)の薦めもあり1927年松竹に入社、林長二郎となった。デビュー作は「稚児の剣法」(1927年衣笠映画連盟/松竹)だった。 |
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松竹で長二郎は瞬く間に剣戟スターとして人気を博する。特に、衣笠貞之助に重宝されたが、その衣笠も彼と同じく女形出身であった。長二郎のデビュー作「稚児の剣法」は衣笠のプロダクションで製作されている。 女形出身の監督とスターが組んだ女形映画に「弁天小僧」 (1928年衣笠映画連盟/松竹)がある。弁天小僧とは、歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白浪五人男」の登場人物である女装姿の盗賊 ・弁天小僧菊之助のこと。特に5代目・尾上菊五郎(1844〜1903)が当たり役とし、歴代の菊五郎に受け継がれている。 この「弁天小僧」は1928(昭和3)年の正月映画として公開され大ヒットしたが、現存部分はわずか10分程度。しかしながら、「知らざあ、言って聞かせやしょう…」と女装した弁天小僧が呉服屋で正体を現すという、一番の見せ場が現存しているのは幸いと言える。 |
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長二郎の女装ぶりは、正直予備知識無しに見たら正体を現すまで気づかないのではないかと思えるほど、堂に入っている。長二郎は当時20歳ということもあり、娘姿は見事である。 |
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衣笠と長二郎が7年後に手掛けた「雪之丞変化」三部作(1935〜36年松竹)もまた、発声映画ではあるが、女形を取り上げた作品である。原作は三上於菟吉(1891〜1944)が1934年から翌年にかけて朝日新聞に発表した時代小説。後に何度も映画化されたが、これが最初の映画化に当たる。 長二郎演じる主人公の雪之丞は、旅廻り一座の女形に身をやつしながら、両親の仇を討つことを狙っている。 雪之丞の生家は長崎で隆盛を極めた海産問屋の松浦屋であったが、同業の廣海屋(志賀靖朗)はこれを妬み、松浦屋の使用人長崎屋三郎兵衛(高松錦之助)を唆し、長崎奉行・土部三斉(高堂國典)と手を結んで陰謀をめぐらし、松浦屋を破滅させる。両親は土部一味を呪いながら悶死する。 松浦屋は幼い息子・雪太郎に復讐を託し、旅廻りの役者・菊之丞(嵐徳三郎)に預ける。雪太郎は雪之丞と名を改め、芸事ばかりでなく武芸をも身につける。やがて雪之丞は人気女形となり、菊之丞一座は江戸へ上り、仇討ちの好機が訪れる…。 |
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長二郎は雪之丞の他、彼に協力する義賊・闇太郎、そして雪之丞が見る幻として登場する雪之丞の母親の3役を演じている。長二郎の二枚目ぶりは、闇太郎のほうで見ることができる。雪之丞に扮する長二郎の女形姿は見事で、美しい。声も、女形の作り声ではあるが、女性のものだと言われればそう聞こえる。女形時代の長二郎は、きっと雪之丞のように人気があったに違いない。 それにしても雪之丞は、舞台の上はもちろん、そうでない時も女形姿を通す。現在なら、坂東玉三郎(1950〜)や梅沢富美男(1950〜)といった人気女形であっても、舞台を降りれば素顔を見せるのが普通なだけに、やや奇妙に感じる。どうも、江戸時代には女形が日常のすべてを女性で過ごすということはよくあったことのようだ。例えば、初代 ・瀬川菊之丞(1693〜1749)や初代・芳沢あやめ(1673〜1729)がそうであった。それでも2人とも、女性との間に実子を残しているというのが面白い。 さて、雪之丞は父の仇たちに贔屓されるようになり、三斎の娘・浪路(千早晶子)からも想いをかけられ、仇討ちの好機を狙う。一方、雪之丞の秘密を盗み聞いた女盗賊・軽業のお初(伏見直江)は、雪之丞に想いをかけ迫るが、拒絶され たため彼のことを憎むようになる。雪之丞は長崎屋と廣海屋を反目させ、ついに復讐を遂げる時がやってきた…。 この「雪之丞変化」もともとは「第一篇」「第二篇」(共に1935年)「完結篇」(1936年)の3部作として製作され、全部で5時間近くあったと思われる。しかし、現存するフィルムは総集編のみの100分弱。部分的にナレーションでつないでいる個所があり、土部の腹心の門倉平馬(山路義人)の最期や、浪路の行く末といった、物語上重要な部分が欠けている。また、闇太郎がなぜ雪之丞に協力するのかもよくわからない。 もちろん、それでも一級の娯楽作品で、物語についつい引き込まれてしまう。雪之丞が女形姿のまま剣戟を見せるのも見ごたえがある。大ヒットし数十万円の利益を生み出し、これ1本の収益で松竹現代劇部門の蒲田から大船への移転費用を稼ぎだしたとも言われている。東海林太郎(1898〜1972)が歌う主題歌「むらさき小唄」も空前のヒットとなった。 |
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「雪之丞変化」はその後何度も映画化されている。僕はそのうち東千代之介(1926〜2000)主演の「雪之丞変化」(1954年東映)と大川橋蔵(1929〜84)主演の「雪之丞変化」(1959年東宝)を見ている。 千代之介版は、長二郎版と同じく3部作として製作されているが、こちらは3部すべてが現存している。3部併せて3時間の長編だが、「お染久松色読販(お染の七役)」を始めとした舞台シーンがふんだんに挿入されている。さすが千代之介は日本舞踊・若菜流の家元だけあって、踊りも見事で、舞台シーンはとにかく見ごたえがある。クライマックスの土部三斉(薄田研二)一味との対決は、芝居小屋の舞台の上で繰り広げられ 、雪之丞は「京鹿子娘道成寺」の蛇体の姿のままで立ちまわる。他の作品に比べ、土部の腹心・門倉平馬(原健策)の見せ場が多いのが特色。もっとも、しくじってばかりで、闇太郎やお初(喜多川千鶴)に「しくじり屋」とからかわれる格好悪い役回りではあるが…。 大川橋蔵版では、橋蔵は雪之丞、闇太郎の他に、雪之丞の父・松浦屋清左衛門をも演じている。橋蔵の女形っぷりは、長二郎や千代之介以上にぴったりで、違和感が無い。なるほど橋蔵は、六代目・尾上菊五郎(1885〜1949)の「菊五郎劇団」の売れっ子女形だっただけのことはある。クライマックスの土部(進藤英太郎)一味との戦いに際して、雪之丞は若衆姿に立ち返る。闇太郎とは別に、雪之丞の男装姿が見られるのはこの作品だけである(*1)。 この他、坂東好太郎(1911〜81)の「雪之丞変化/闇太郎懺悔」(1939年松竹)、美空ひばり主演「ひばりの三役/競艶雪之丞変化」(1957年新東宝)が製作されている。さらにテレビでも丸山明宏(現・美輪明宏/1935〜)版(1970年フジテレビ)と滝沢秀明(1982〜)版(2008年NHK)が製作されているのだが、いずれも僕は観ていない。60歳を過ぎた市川右太衛門(1907〜99)が、出演を持ちかけられ「ああ、もう雪之丞は(年齢的に)無理です!」と答えたエピソードは「退屈な不死鳥」で紹介した通りだが、右太衛門にそもそも持ちかけられた役は、雪之丞の芸の師匠の菊之丞か、剣の師匠の脇田一松斎のどちらかだったのだろう。 1963年には、長谷川一夫となった長二郎自身によって再映画化されている。その作品「雪之丞変化」(1963年大映)は、一夫の「300本記念作品」として製作された。一夫は、この次の「江戸無情」(1963年大映)で映画を引退しているため、この作品はほとんど彼の映画キャリアの最後を飾る 作品である。この時一夫は55歳。約30年前のオリジナルに比べると、演技に円熟味が加わり、とりわけ闇太郎役には貫禄がある。しかし、女形の雪之丞のほうには、少々無理がある。にもかかわらず、雪之丞は若尾文子(1933〜)演じる浪路との濡れ場を披露する。そこが芝居がかった面白さだとも言える。 一夫の記念すべき作品ということで、その後の時代劇を支える市川雷蔵(1931〜69)や勝新太郎(1931〜97)も顔を見せるオールスター映画となっている。ラストで、大望を遂げた雪之丞は、姿をくらましてしまうが、この後すぐに引退した一夫自身の姿ともオーバーラップしてくる。 *1 厳密にいえば、千代之介版でも劇中劇の「お染の七役」で、雪之丞が男役・久松に扮するシーンがある。 |
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◆永遠の二枚目 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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これまで「映画史探訪」では、尾上松之助を始めとした多くの剣戟スターを紹介してきた。しかし長二郎は、他の剣戟スター(阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、市川右太衛門 )と大きな違いがある。長二郎以外の剣戟スターは、強くたくましく、女性に対してもストイックである。それに対し長二郎は、もちろん強さは持ってはいるものの、むしろ甘く優しい。女にももてて、しばしラブシーンを演じる。「藤十郎の恋」(1938年東宝)や、現代劇ではあるが「鶴八鶴次郎」(1939年東宝)、「白蘭の歌」(1939年東宝/満州映画協会)などで、長二郎(当時は長谷川一夫)は恋を演じている。 「瞼の母」(1938年東宝)でも、彼の演じる番場の忠太郎は、下宿先の娘お露(椿澄枝)と思いを通わす。片岡千恵蔵始め、何度となく映画化されている題材だが、忠太郎の恋が描かれるのは長二郎(長谷川一夫)版のみである。 映画評論家の佐藤忠男(1930〜)によると、日本映画の主演男優のタイプには、「立役」と「二枚目」の二つの系譜があるそうだ(*2)。それはもちろん、歌舞伎の伝統に則っているのだが、立役は武士の理想像を体現しており、松之助以来の従来の剣戟スターがこれにあたる。一方、二枚目は色男であり、女性への愛を信条とする。長二郎はまぎれもなく二枚目の系譜に当たる。もちろん、長二郎も作品によっては立役を演じることもあり、両方にまたがったスターであった。例えば、「刺青判官」の金四郎役や「雪之丞変化」の闇太郎は立役である。 *2 佐藤忠男「日本映画史1」23〜27ページ |
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長二郎は55歳だった1963年に映画界を引退するまで、301本(*3)の映画に出演した。そのほぼすべてが主役であった。もっとも、そんな彼も1931年の「馬頭の銭」(松竹)では黒塗りで悪役を演じたことが あったらしい。そんな彼の悪役に失望したファンの声に対し、「どんなヨゴレ役でも、顔だけはヨゴさないようにしましょう」(*4)と答えたという。まさしく「永遠の二枚目スター」であった。 長二郎がその甘いマスクでいかに女性の人気を得たかは、「ミーハー」という言葉の語源が彼だという説が生まれたことからもわかる。当時の女性の好きなものであった蜜豆の「み」と、林長二郎の「は」の頭文字を取って「ミーハー」という言葉が生まれのだそうだ(*5)。 *3 ただし、「日本映画データベース」(http://www.jmdb.ne.jp/person/p0283520.htm)では290本である。 301本というのは、 「雪之丞変化」が300本記念作品で、その後もう1本、「江戸無情」に出演したことによる計算だろう。 *4 長谷川稀世「長二郎変化」41〜42ページ ただし初出は旗一兵「花の春秋〜長谷川一夫の歩いた道〜」(1957年文陽堂) *5 うしおそうじ「夢は大空を駆けめぐる〜恩師円谷英二伝」7ページ |
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◆東宝移籍と顔斬り事件 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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長二郎は、1927年の入社から、1937年までの10年間に渡って松竹の看板スターであった。その彼が1937年に東宝への移籍を発表したのだから、衝撃が走った。 なぜ長二郎は松竹を去ることにしたのだろうか。1935年、彼の大師匠に当たる初代・中村鴈治郎が74歳で亡くなり、1937年2月に大阪歌舞伎座で「中村雁治郎三回忌追善 東西合同歌舞伎」が開催された。長二郎は、これが初舞台となる長男の林成年(1931〜2008)と共に興行に出演した。この興行に際して長二郎は、一座の俳優たちから「部屋子あがりの名題下が(*6)」といった冷たい視線を浴びせられたという。1913(大正2)年に歌舞伎座の経営権を握ってからというものの、松竹は歌舞伎の上演に大きな力を持っており、長二郎は歌舞伎界の因襲に嫌気がさすと共に、松竹に対して も不信を抱くようになった。また、彼の給料もその人気に反して著しく低かった。松竹入社時の給料200円から、この頃には倍の400円になっていたものの、他の人気スターである阪東妻三郎の3000円、片岡千恵蔵1500円、大河内伝次郎1000円(*7)に比べれば 極端に少ない。その上、松竹は追い打ちをかけるように、長男・成年の初舞台披露にかかった費用2万円の精算を長二郎に要求したのである。「雪之丞変化」が大ヒットしたにも関わらず、松竹は「会計は別だから」と主張した。そんな折に15万円ともいわれる支度金で移籍話を 持ちかけられたのだから長二郎は、借金返済のためにも東宝入りを決めたのであった。 こうした長二郎の裏切りに対して当然ながら松竹側は猛反発。師・林長三郎も、彼を破門すると同時に、「林長二郎」の名前の返上を求めた。長二郎はこれ以後、本名の長谷川一夫を名乗るようになる。 東宝移籍後の長谷川一夫としての最初の作品は、「源九郎義経」であった。その撮影が始まって間もない1937年11月12日、一夫を悲劇が襲った。その日の撮影を終えて東宝京都撮影所を出てきた一夫は、剃刀で暴漢に左頬を切られた のである。その傷は左目下から上唇にかけて12センチ、左耳から頬にかけて10センチで、深さは2センチにも及んだ(*8)。 この顔斬り事件の背景には、松竹と東宝の一夫をめぐる遺恨があったのは言うまでも無い。また、実行したのはヤクザの千本組の構成員であったと言われている。つい先日(2011年8月23日)も司会者の島田紳助(1956〜)が、「暴力団関係者との親密な関係」があったとして、芸能界からの引退を発表したばかりだが、芸能界とヤクザ・暴力団のつながりは昔から深いと言われている。例えば、美空ひばりは、弟が山口組の構成員であったことが発覚したため、1973年以降紅白歌合戦へ出場できなかった。2008年にも細川たかし(1950〜)や小林旭(1938〜)が暴力団組長とのゴルフコンペに参加したことが発覚し、NHKの出演を自粛する事件が起きている。江戸時代以降、地方での興行を取り仕切っていた興行主や劇場主はたいがいが侠客(ヤクザ)ともいうべき人であり、1897(明治30)年に日本で初めて映画の上映を行った駒田好洋(1877〜1935)も、トラブル回避のために彼らを手なずけなければならなかったようである。その後、映画会社はトラブルを避けるためにも、著名なヤクザと手を結ぶことでその庇護を受けようとするようになる。そんなヤクザの中からも積極的に映画に関わる人物が登場している。千本組初代組長・笹井三左衛門(1855〜1939)の息子で後に3代目組長となる笹井末三郎(1901〜69)は、日活や宝塚キネマに参加した後、マキノ正博(1908〜93)が1935年にマキノ・トーキー製作所を設立した際にはその後ろ盾となり理事に就任していた。戦後も日本電映(後の日本電波映画)を設立し専務に就任している。また、後に大映の社長となる永田雅一(1906〜85)も、千本組の構成員で、笹井末三郎の舎弟とも言うべき人物であった。当時の映画界は、ゴロツキやアナーキスト(無政府主義者)、共産主義者といった海千山千の連中が集まる場であったらしい。 一夫の顔斬り事件に、千本組が直接関与していたかどうかは確かではない。だが、逮捕され有罪となった人たちの中に笹井末三郎の兄で、松竹の系列会社だった新興キネマの所員・笹井栄次郎(1896〜1967)がいた。また、事件の黒幕は当時新興キネマの撮影所長・永田雅一であると、当時からささやかれていた。一夫は1950年に永田が社長を務める大映に入社し、後には取締役になるのだが、彼の心中やいかなるものであったろうか。一夫の息子・林成年によると、彼は一度も永田に釈明を求めることもなく、永田も弁解をしなかったそうだ(*9)。 *6 矢野誠一「二枚目の疵」47ページ *7 柏木隆法「千本組始末記」316ページ *8 同上 330ページ *9 林成年「父・長谷川一夫の大いなる遺産」230ページ |
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「顔ぶたないで。わたし女優なんだから」とは「Wの悲劇」(1984年角川春樹事務所)で薬師丸ひろ子(1964〜)が言っていたセリフだったが、二枚目俳優にとっても顔が大事なのは同じこと。顔を切られた一夫は、「鏡を、鏡!(*10)」と叫びながら撮影所の鏡に向かったという。負傷直後の措置が適切だったこともあり、 一夫は翌年には映画に復帰することができた。事件当時撮影中だった「源九郎義経」は製作中止となり、一夫の東宝第1作は「藤十郎の恋」(1938年東宝)となった。だが、彼の左頬には事件以後も、生々しい傷跡が残るようになる。 *10 柏木隆法「千本組始末記」329ページ |
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◆二枚目の傷 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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剣劇スターの中でも数少ない“二枚目”スターだった林長二郎(長谷川一夫)は、特に女性に人気があった。チャンバラスター番付において、彼が割に低い地位に甘んじてい た (参照)のは、選者が男性だったこととも関係あるかもしれない。 人の顔にはもっとも美しく見える角度があるそうだ。以前テレビで、とあるアイドルが、その角度でない方向から後輩に写メを撮られて激怒したというエピソードが紹介されていた。また、僕の知人の一般人にも、写真を撮る際は必ず決まった角度でという女性がいる。長二郎の場合は、それが右斜め前を向き、左頬を見せる角度だったらしい。また、当時の映画館は男女で席が別れていた。スクリーンに向かって左側が女性客、右側が男性客の席であったが、長二郎は、映画の中でしばしば左側の女性席に向かって見得を切り、流し目を送ったそうである。見つめられた女性客は、それでうっとりしたのだという。僕は何本も長二郎の主演映画を観ていたが、実はこの事実に気がつかなかった。もっとも僕は男なので、いくら二枚目とはいえ、同性に見つめられても嬉しくはないのだが。 長二郎が女性席に向けて流し目を送っていたのは果たして事実なのだろうか。そう思って長二郎時代の主演作である「刺青判官」と「雪之丞変化」の2本を観直してみた。両作とも、現存版は総集編。しかも、「刺青判官」では三枚目、「雪之丞変化」では女形としての出演シーンのほうが多く、典型的な長二郎作品であるとは言いにくいのだが、ビデオ化されて容易に観ることのできる作品が少ない以上は、これらの作品を観るよりほかにしかたがない。結果としては、確実 にそうといえるシーンは無かった。 そこで今度は、長二郎のアップの場面において、右頬、左頬どちらを向けた回数が多いかを数えてみた。ここでのアップというのは、胸から上を映したバスト・ショット以上ということにした 。もっとも、腰から上のミディアム・ショットと見分けがつきにくい場合も多い。さらに、一つのシーンの中で、右から左に向き直すような場合もあり、必ずしも 厳密とは言えないが、 結果は次のようになった。
「刺青判官」の百之介を除いて、いずれも右を向いて左頬を見せるという、決め顔のアップのほうが多かった。唯一右頬のアップのほうが多い百之介だが、これは三枚目であるため、決め顔で無い方をわざと見せているのだとも考えられる。ただ、その他の場合であっても、左頬のアップのほうが飛び抜けて多いというわけではない。「雪之丞変化」の闇太郎に関しては、現存フィルムの中に出演シーン自体が少ないため、参考にしにくい。
これらの作品のうち、「鶴八鶴次郎」と「月下の若武者」の2作品では決め顔の左頬よりも右の頬のほうのアップが圧倒的に多かった。「瞼の母」は左頬のほうのアップが多いが、アップ数自体が10回に満たない程少ない。各作品とも、一夫の傷跡をできるだけ見せないよう工夫しているようである。面白いのは復帰第1作の「藤十郎の恋」。作品の前半は右頬のアップばかりが7回続
く。しかし、後半はむしろ左頬のアップのほうが多くなる。どうやら、右頬のアップばかりを撮る監督に対し、一夫自身が左頬のアップも撮るように頼んだらしい。「いつも、右顔しか撮れないのでは、俳優として致命的だし、お客も白けるだろう(*11)」との理由からだった
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◆二枚目の引き際 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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喜劇王チャールズ・チャップリン(1889〜1977)は名作「ライムライト」(1952年米)の冒頭の字幕で、「ライムライトの光の中、老いは去り若さに取って代わられなければならない」と語ったが、長谷川一夫にも銀幕を去る時が訪れる。 一夫が「江戸無情」(1963年大映)を最後に映画界を去ったのは55歳の時だった。片岡千恵蔵や大河内伝次郎のように一夫には脇に回っても映画界に残るという選択肢があったはずである。だが、彼はあくまでも“永遠の二枚目”を全うすることにこだわった。引退したのと同じ1963年に一夫が出演した「雪之丞変化」でも、55歳の一夫は25歳年下の若尾文子を相手に濡れ場を演じている。 映画を引退した後の一夫は、その活躍の場を主に舞台に移す。なるほど、舞台であればそれこそ80歳を過ぎても二枚目を演じ続けることができる。もともと歌舞伎出身であった一夫は、そのことをよく知っていたに違いない 。一夫は映画界引退前の1955年から、東宝歌舞伎の座長を務めていたが、それは彼の死の前年まで続いた。1978年の「おはん長右衛門」で、70歳の一夫は 相手役に弱冠二十歳の桜田淳子(1958〜)を起用している。また、テレビにも進出し、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)では大石内蔵助を演じている。落語家の林家木久扇(初代・林家木久蔵/1937〜)が今でも「おのおの方、討ち入りでござる(*12)」と物まねをするのは、この時の一夫である。その他、1974年から76年にかけては宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」の演出を手掛けるなど、一夫は晩年まで勢力的に活躍した。 それでは去って行った一夫にとって代わったのは誰だったのか。1963年の「雪之丞変化」には、一夫が演じる義賊・闇太郎の他に、市川雷蔵演じる昼太郎なるオリジナルキャラクターが登場する。雷蔵はこの時大映売出し中の剣戟スターであった。彼の演じる昼太郎は、自らが不遇をかこっているのは、闇太郎が人気だからと考えている。さらに、闇太郎が足を洗 って江戸を去ると聞くと「いよいよ俺様の天下だ」とほくそ笑む。まるで当時の2人の立場を象徴しているかのようだ。一夫が引退した1963年に始まった 雷蔵主演の「眠り狂四郎」シリーズ(1963〜69年大映)は全部で12作製作されるほどの大ヒットとなり、彼は一夫の後釜として大映時代劇を引っ張っていった。雷蔵は1969年7月17日、37歳という若さで肝臓癌で死去。皮肉にも死ぬことで彼もやはり“永遠の二枚目”となった。 *12 大河ドラマ史上最高視聴率53.0%を記録した第47話「討ち入り」が現存しており、DVD化されているが、件の台詞の部分は含まれていない。 |
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長谷川一夫にとって最後の舞台となったのは1983年正月の東宝歌舞伎「半七捕物帳/女いろは歌留多」。75歳だった一夫は、さすがに衰えが目立っていたようだ。「引退の時期を誤り、晩節を汚(けが)す(*13)」と言われ、本人も大きなショックを受けた。その年の秋、一夫はかねてからの持病である糖尿病が悪化し入院。翌84年の東宝歌舞伎は休演することになる。 1984年2月17日、繁夫人が肺ガンで死去すると、一夫は病身をおして葬儀の陣頭指揮を執った。そして納骨を終えた3月25日に再び入院。4月6日午後11時20分に息を引き取った。 長男の林成年によれば一夫は生前、「プロローグとエピローグのつくり方こそ、芝居の典型であり、もっといえば、自分の人生自体も、このように納得のゆく形でけじめをつけたい」(*14)と語っていたそうである。果たして、その人生は彼の願い通りだったのだろうか。一夫は死の前年まで東宝歌舞伎の座長を務め、最後まで“二枚目”を貫いた。彼の死と共に東宝歌舞伎は28年の歴史を終えたのだから、彼の存在がいかに大きかったかがわかるだろう。 長谷川一夫は大衆の人気を一身に集めたが、その大半は女性ファンであった。一夫自身もその人気を自覚していた。1941年2月11日、中国から来日した李香蘭(本名・山口淑子/1920〜2014)が 出演する有楽町の日本劇場(日劇)での公演の際に、彼女を観に詰めかけた観客が日劇の周りを七周り半取り囲んだという「日劇七周り半事件」が起きている。一夫もその日の公演に出演していたのだが、彼は何と「日劇の七まわり半事件は、僕を見にきたファンなんですよ(*15)」との発言を残している。彼はそれだけの自信を持っていた。彼が死ぬと、その死を当時の新聞は大きく伝えた(写真上)。そしてその2か月後に、史上3人目の国民栄誉賞を植村直己(1941〜84)と共に授けられている。もし一夫が生きていれば、きっと当然のことだと受け取ったのではないか。彼は自分の人生の幕切れを納得のいくものと感じていたような気がしてならない。 *13 山村美紗「小説長谷川一夫」478ページ *14 林成年「父・長谷川一夫の大いなる遺産」57〜58ページ *15 矢野誠一「二枚目の疵」108〜109ページ |
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(2011年11月3日) |
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(参考資料) 長谷川一夫「芸道三十年」1957年4月 萬里閣書房 マキノ雅弘「マキノ雅弘自伝/映画渡世・天の巻」1977年8月 平凡社 林成年「父・長谷川一夫の大いなる遺産」1985年5月 講談社 山村美紗「小説長谷川一夫/男の花道」1989年7月 文春文庫 柏木隆法「千本組始末記」1992年2月 海燕書房 佐藤忠男「日本映画史1 1846−1940」1995年3月 岩波書店 都筑政昭「シネマがやってきた!/日本映画事始め」1995年11月 小学館 「時代劇六大スター戦前篇/藤波米次郎コレクション」1997年1月 ワイズ出版 わかこうじ「活動大写真始末記」1997年9月 彩流社 うしおそうじ「夢は大空を駆けめぐる/恩師・円谷英二伝」2001年11月 角川書店 矢野誠一「二枚目の疵/長谷川一夫の春夏秋冬」2004年8月 文藝春秋 前川公美夫・編著「頗る非常!/怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞」2008年8月 新潮社 長谷川稀世「長二郎変化」2008年11月 長谷川一夫生誕百年祭実行委員会 |
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