第2章−サイレント黄金時代(特別企画) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文豪の映画礼讃 〜谷崎潤一郎の映画製作〜 |
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この「映画史探訪」は基本的に僕が実際に観ることのできた作品を取り上げることを目的としている。したがって、現在フィルムが失われてしまっていたり、あるいはビデオ・DVD化されていなくて観ることのできなかった作品は、必要な場合を除いて取り上げないことにしている。だが、今回の「文豪の映画礼讃」だけは、例外とさせていただきたい。今回、文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965)が製作した映画について取り上げるが、彼が1920年代初頭に映画会社・大活で製作した4本の作品は、現在いずれもフィルムが残っていない。 それではなぜ、ここで敢えて谷崎映画を取り上げるのか。僕は2002年3月に「谷崎潤一郎の映画製作」という論文を雑誌「実践学園紀要20」に発表している。雑誌とはい っても、関係者だけに配布されたもので、公刊されたものではない。せっかく調べた内容をこのまま埋もれさせるというのはなんだかもったいない気もする。そこで 、この「映画史探訪」の場を借りて発表することにした。 ところで、谷崎潤一郎の映画と聞くとどのような作品が思い浮かぶであろうか。人によっては市川崑(1915〜2008)監督の名作「細雪」(1983年東宝)であったり 、あるいは山口百恵(1959〜)主演の「春琴抄」(1976年東宝)を思い浮かべるかもしれない。確かにこれらは谷崎文学の映画化である。だが、共に谷崎が亡くなった後の作品でもあり、彼自身の意図に添って製作された映画ではもちろん無い。そうすると、正真正銘の谷崎映画と呼べるものは、谷崎自身が1920年代初頭、映画界に新風を送るべく自ら映画製作に乗り出し製作した4本の映画のみということになる。これらの谷崎映画にスポットを当て、その意義を考察していきたいと思う。 |
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◆映画人谷崎潤一郎の誕生 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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谷崎潤一郎が映画と出会ったのは、かなり早かったようである。彼は1897(明治30)年、12歳の時に日本橋の遊楽館における映画の上映に立ち会っている。それは東京で映画が初めて上映されてから間もなくのことで、彼は映画に最も早くに触れた日本人のうちの一人であった。彼は自伝「幼少時代」(1955年4月〜56年3月「文藝春秋」連載)に次のように書いている。 |
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いづれも簡単な実写物かトリック物、一巻のフィルムの両端をつなぎ合せて、同じ場面を何回でも繰り返して映せるやうにしたもので、今もよく覚えてゐるのは、海岸に怒涛が打ち寄せて、さつと砕けて又退いて行くのを、一匹の犬が追ひつ追はれつして戯れる光景の反覆。遠くの方の平原の果てに、粟粒ほどの小さゝで一列に並んでゐる馬の群が、観客席の方を目がけて一直線に疾駆して来、刻々に形が大きくな つて眼前に肉迫しつゝ走り去つてしまふ、と、又新しい一列が遥かな地平線上に現はれて来る光景の反覆。フランスあたりの、昔の新教徒迫害や革命騒ぎを想像させるやうな場面で、貴族の夫人らしい女が次々に刑場へ引き出され、薪を積んだ束の上に立たされて火あぶりの刑に処せられる、煙が濛々と燃え上つて女を火中に包んでしまひ、やがて煙が消えた跡には屍骸もとゞめずきれいに焼かれてしまつてゐる、その光景の反覆。メフィストフエレスのやうな装束をした悪魔の左右に、裸体に近い服装をした二人の美女が立つてゐる、悪魔がその一人を呼んで俎板のやうな形をしたテーブルの上に寝かせ、カーボンペーパーのやうな黒いキラキラした大きな紙で全身を包み、何か合図ををすると、紙に包まれた美女の体が宙に浮き上り、裾の方から炎がメラメラと燃えて来て紙ぐるみ焼けて消えてしまふ、その光景の反覆―等々であつた。(*1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1897(明治30)年3月6日に神田錦町の錦輝館で上映されたヴァイタスコープの上映記録が「活動写真説明書 附エヂソン氏史伝」(*2)として残っている。谷崎が観た映画というのは、どうやらこの時の上映プログラムと同じようなものであったようだ。それによると、最初の、“波打ち際を犬が戯れる”映画は、「米国最大海水浴場の光景」。次の、“馬の疾駆”は「米国陸軍士官学校騎馬操練の光景」のことだと思われる。3つ目の、“女性の火あぶり”は、フランスのグランドオペラ劇場において名優バルティー夫人一座がジャンヌ・ダルクの舞台劇の公演を撮影した「ジョンターク火刑の惨状」のことだろう。「説明書」に記されている映画は16作品であるが、4本目の悪魔が出現する映画に該当するような作品はこの中にはない。もちろん、錦輝館と遊楽館ではプログラムの一部が入れ替わっていることも考えられるが、内容から推測するに、「月世界旅行」(1902年仏)で知られるジョルジュ・メリエス(1861〜1938)の魔法映画(「20世紀の魔術師」参照)ではなかっただろうか。 *1 「谷崎潤一郎全集17」160〜161ページ *2 塚田嘉信「日本映画史の研究 活動写真渡来前後の事情」 |
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谷崎は自らを「久しい以前から、熱心なる活動の愛好者(*3)」であったと語っているように、早い段階から映画に興味を示し、同時に魅力を感じていたようだ。さらに「活動写真が芝居よりは高級な芸術として、発達し得る可能性を認むる」(*4)とも語っている。 1920(大正9)年5月、谷崎は4月に創設されたばかりの大正活動映画株式会社(すぐに大正活映と改称、略称「大活」)に脚本部顧問として招聘され、直接映画に関わりを持つようになった。この時、谷崎を会社に紹介したのは新劇俳優の上山草人(1884〜1954)であ った。上山は大活創設の直前にアメリカに渡り、栗原トーマス(1885〜1926)、早川雪洲(1889〜1973/「武者修行の夢のあと」参照)らと 同様に映画に出演している。代表作にダグラス・フェアバンクス(1883〜1939)主演の「バグダッドの盗賊」(1923年米)があり、モンゴル王子を演じている。また、1935(昭和10)年に製作された谷崎原作の映画「春琴抄/お琴と佐助」(松竹)で も、春松検校を演じている。 谷崎は上山と知り合ったきっかけを次のように述べている。 |
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あれは明治年代だつたか大正になつてからだつたか、雑司ケ谷の鬼子母神の境内の焼き鳥屋の二階で、或る日早稲田派の文士を主とする会合があつて、私もそこへ招かれて行つたことがあつたが、多分その時が草人との初対面だつたかと思ふ。(*5) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この時は簡単に挨拶を交わす程度であったが、1916、1917(大正5・6)年頃から盛んに交際をするようになった。1920(大正9)年の「鮫人」の、劇団主催者梧桐寛治は、上山がモデルである。この上山との付き合いがきっかけとなって谷崎は次第に演劇界・映画界との交渉を深めていくことになる 。 *3 谷崎潤一郎「活動写真の現在と将来」(1917年8月「新小説」)35ページ *4 同 38ページ *5 谷崎潤一郎「老俳優の思ひ出―上山草人のこと―」(1954年10月「別冊文藝春秋」)24ページ |
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◆「アマチュア倶楽部」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大活は1920(大正9)年6月から、浅草・千代田館を直営館とし、谷崎の脚本で映画の製作に乗り出した。監督に起用されたのはアメリカ帰りの栗原トーマス(栗原喜三郎/1885〜1926)であった。栗原はハリウッドにおいてトーマス・ H・インス(1882〜1924)の下で指導を受け、日本劇に出演する傍ら映画演出法の研究をしていた。谷崎は栗原を高く評価し、次のように述べている。 |
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当時は、シナリオでも、ディレクティングでも、カッティングでも、時にはキャメラの位置でさへも、栗原君を除いては手を出せるものが一人もなかつた。(略) 栗原君の監督としての技倆に就いては、既に定評のあることであるから、事新しく云ふ迄もあるまい。(略)「アマチュア倶楽部」は私の原作ではあるけれども、あれを細かいシナリオに直したのは同君である。「葛飾砂子」の如きに至つては、私が単に原作を読ませ、ざつとした注文を出しただけで、始めから君が脚色した。(*6) |
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当初大活は、谷崎原作の「人面疽」(1918年)の映画化を企図していたことが「キネマ旬報」1920(大正9)年5月11日号の記事によりわかる。この「人面疽」は、ロサンゼルス帰りの歌川百合枝という女優の映画をめぐる怪奇譚である。彼女が出演する「人間の顔を持つた腫物」の意味の英語タイトルの怪奇映画が巷間で評判となるが、彼女自身はその映画に出演した記憶がない。やがて彼女はその映画にまつわる薄気味悪い噂を耳にする…。劇中劇ならぬ劇中映画が設定されており、「焼き込み」すなわち二重焼きのトリックが用いられ、ヒロインを恨んで命を失った男の顔が、ヒロインの膝の腫物に人面疽となって現れる。物語の舞台を映画界におき、映画的な展開を意識した作品であった。谷崎が映画化を企図したことも理解できる。「キネマ旬報」の1921(大正10)年2月1日号の記事にも「人面疽」が4月公開の予定であると見えるから、企画自体はその後も進んでいたようであるが、結局製作されることはなかった。もっとも、当時の二重焼きの技術では谷崎のイメージ通りの映像となり得たかどうかははなはだ疑問である。 *6 谷崎潤一郎「栗原トーマス君のこと」(1926年11月「映画時代」)89〜90ページ |
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結局大活の第1回作品として製作されたのは谷崎原作、栗原監督による「アマチュア倶楽部」であった。「アマチュア倶楽部」は谷崎がシナリオに近いオリジナル・ストーリーを書き、栗原がそれを精密なコンティニュイティに仕上げた。コンティニュイティ(コンテ)とは、シナリオをもとにして、1カットごとに画面の構成や登場人物の動き、カメラの位置などを、絵に描くなどして作る撮影台本のことである。 1955(昭和30)年の「映画のことなど」で、谷崎は次のように述べている。 |
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この映画はオリジナル・ストーリイで、シナリオは栗原トーマスが書いたが、その前に、シナリオになる前のストーリイは私が書いた。これはかなり委しく書いたもので、一つ一つの場面も、ここはかうい ふ風にし、あそこはかういふ風にすると、くはしく指定した。だから、普通の小説ともちがふし、ただのストーリイでもないものだつた。私が場面を割りだし、タイトルまで私が考へだした。それをもとにして、栗原氏がシナリオにした。後には 私もだんだん覚へてきたけれども、そのときは、映画のことは何も知らなかつた(*7)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栗原は既成の俳優に飽き足らず、大活の作った俳優養成所を中心として配役を選び出した。「アマチュア倶楽部」はいわゆるスラプスティック・コメディであり、日本最初の海辺喜劇と呼ぶべきものであった。谷崎は「俳優たちも素人から養成しつつある人々であるから、先づ試験的に五巻の喜劇物を撮つて見たのである。(*8)」と述べている。 さて、「アマチュア倶楽部」とはどのような映画であったのだろうか。今日、この映画のフィルムは現存していないが、シナリオを読むことができる(*9)。なお、最初の題名は「避暑地の騒ぎ(*10)」というもので、「アマチュア倶楽部」とは、映画中に出てくる素人の西洋音楽と歌舞伎の研究グループの名前である。 *7 谷崎潤一郎「映画のことなど」(1955年4月「新潮」)845〜846ページ *8 谷崎潤一郎「其の歓びを感謝せざるを得ない」(「谷崎潤一郎全集第22巻」) 初出は「活動倶楽部」(1920年12月) *9 紅野敏郎・千葉俊二編「資料 谷崎潤一郎」(1980年7月 桜楓社)所収 *10 谷崎潤一郎「其の歓びを感謝せざるを得ない」 |
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ストーリーは次のようなものである。舞台となっているのは、鎌倉由比ヶ浜の海水浴場と、それに隣接する別荘地帯。「アマチュア倶楽部」のメンバーである村岡繁とその友人たちが海辺で遊んでいるうちに、海で泳いでいる三浦千鶴子と知り合う。二人組の泥棒が休憩所に入り込み、千鶴子の着物を盗み出したため、千鶴子は水着のまま家に帰ってしまう。その頃三浦家では鎧などの家宝の土用干の最中であった。泥棒二人はここにも忍び込むが、千鶴子に見つかって逃げ出す。千鶴子は薙刀を持って追いかけるが結局逃げられてしまう。 その夜、村岡たちアマチュア倶楽部は、村岡の別荘で西洋音楽と歌舞伎の公演を行なう。村岡の父に反対されたため、父の留守を狙っての公演だったが、予定外にも父が帰ってきてしまう。父は激怒したため、アマチュア倶楽部のメンバーは、劇の扮装のまま外へ逃げ出す。村岡の父 が警察に電話し、巡査が出動する。一方、先の泥棒二人は、三浦家の土蔵に忍び込むが、それに気づいた千鶴子は、鎧を着て二人を追いかける。目覚めた千鶴子の父は、娘がいないのでてっきり家出をした のだと思い、警察を呼ぶ。村岡も千鶴子も鎧を着ているものだから、二人の親は子供を取り違え…こうして、三つ巴ならぬ四つ巴の追っかけが展開する。最後には、泥棒も無事逮捕され、騒ぎは収まり由比ヶ浜は平和な姿に かえるのであった。 栗原と谷崎の頭の中には、当時流行していたアメリカのマック・セネット(1880〜1960)の水着美人の喜劇の再現があったようである。それは、「アマチュア倶楽部」のオープニングが、主役を演じる葉山三千子(谷崎の義妹・せい子/1902〜96)の水着姿で幕を開けることからも明らか だ。また、警官をも交えての追っかけは、やはりセネットの「キーストン警官隊」からの影響と思われる。その点に関しては谷崎自身は次のように述べている。 |
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映画の終わりのほうに刑事が現れたのは、あれは私の最初の考えでは、追っ掛けの終局を警察署の中へ持ち込むつもりであったのが、それが許可にならなかったので、止むを得ず刑事に追っ掛けをやらせることになり、一晩でその部分を書き換えたのです。この場面がいささか従来の日本の喜劇物の型に傾いたように思われます(*11)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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谷崎は、「活動写真の現在と将来」(1917年8月「新小説」所収)の中で、「少しく極端かも知れないが、西洋のフィルムでさへあれば、どんな短い、どんな下らない写真でも、現在の日本の芝居に比べれば、ずつと面白いと云ひたいくらゐである。」とまで述べ、西洋映画を評価すると共に、日本映画に対して幾つかの提言をしている。谷崎が最初の映画製作に際して、西洋映画を意識していたのは当然であろう。「痴人の愛」の中でも、葉山をモデルとしたナオミを、メアリー・ピックフォード(1893〜1979)に準え、さらにはアンネッテ・ケラーマン(1887〜1975)の真似をさせる場面が出てくる。 |
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その時私たちは、あの有名な水泳の達人ケラーマン嬢を主役にした、「水神の娘」とか云う人魚の映画を見たことがありましたので、 「ナオミちゃん、ちょいとケラーマンの真似をして御覧」 と、私が云うと、彼女は砂浜に突っ立って、両手を空にかざしながら、「飛び込み」の形をして見せたものですが、そんな場合に両腿をぴったり合わせると、脚と脚との間には寸分の隙もなく、腰から下が足頸を頂点にした一つの細長い三角形を描くのでした。(*12) |
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ここに出てくる「水神の娘」と言う映画は1914(大正3)年製作のアメリカ映画「海神の娘」(ハーバート・ブレノン監督)のことであり、日本では1917(大正6)年2月17日に浅草・帝国館で公開されている。このケラーマンを意識したポーズは、「アマチュア倶楽部」の中にも描かれおり 、その場面のスチール(写真上)が現存している。 谷崎自身は当時どちらかと言えばヨーロッパ映画のほうを高く評価していたようであるが、アメリカ流に撤したプランとして「アマチュア倶楽部」を生み出したのは、何よりもアメリカで映画修行をしていた栗原のためであった。谷崎自身は次のように書いている。 |
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この映画が、そのころのアメリカ映画の影響をうけてゐたといふのには訳がある。ほんたうは、ヨーロッパ風にしても、どつちでもいいわけだけれども、資本をだしてゐた東洋汽船といふ会社が、アメリカ航路をもつてゐて、いろいろアメリカのことに詳しかつたし、それに栗原トーマスがアメリカのことしか知らなかつた。映画はやはりヨーロッパよりもアメリカの方が進んでゐるといつてゐたが、それは、技巧的にはさうだつたかもしれないが、私たちは必ずしもさうは思はなかつた。むしろヨーロッパの方がいいと思つてゐたくらゐだが、前にいつたやうな理由から、アメリカ流のものにしようといふことになつた(*13)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実際栗原も、完全にアメリカ的な監督手法を徹底させた映画作りを行なった。「鎌倉アマチュア倶楽部」のメンバーと、泥棒、ヒロインの家の3つのシチュエーションを同時にスタートさせ、ラストにそれを結びつけるというクロスカッティングの手法を用いている。これはアメリカのD・W・グリフィス(1875〜1948)が好んで用いたテクニックであるが、当時の日本映画においてはまさに画期的な試みであった。 |
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「アマチュア倶楽部」は1920(大正9)年11月19日に有楽座にて公開された。18歳当時この映画を観た飯島正(1902〜1996)が「率直な感想から言えば、革新的な形式的な整備はともかくとして、アメリカ流に 徹したとも言えなかった。セネット的な軽快なテンポやリズムには欠けているし、ショットのつなぎもまだるっこしく、俳優の演技が、いかにも、しろうとぽかった。(*14)」と述べているものの、この「アマチュア倶楽部」は総じて好評に迎えられた。俳優の近藤伊与吉 (1894〜1944)は「キネマ旬報」誌において、「最初に目についたのは監督である。俳優は殆ど素人であつたが、監督の手腕でその人たちがそつなく、良く動いていたことは 賞嘆せずにはいられない。(*15)」と栗原の演技指導を誉めている。また、主演の葉山については「その豊潤な体格が可成りによく働いていた。」とも述べている。 いずれにせよ、この「アマチュア倶楽部」は本当の意味で最初の「純映画劇」とも言うべきもので、後続の若い映画作家に与えた影響も大きかった。また、大活の俳優養成所出身で、この映画においてデビューを飾った人たちには、岡田時彦(当時・高橋英一/1903〜1934)や、後に映画監督となった内田吐夢(1898〜1970)などがいる。そういう意味でも、この映画の果たした役割は大きかったと言えよう。 *11 「読売新聞」1920年11月21日 *12 谷崎潤一郎「痴人の愛」(1947年11月新潮文庫) *13 谷崎潤一郎「映画のことなど」346ページ *14 「映画史上ベスト200シリーズ/日本映画200」7ページ *15 橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」56ページ採録 |
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◆ 「葛飾砂子」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「アマチュア倶楽部」に続く大活の第二回作品は、上山珊瑚を主演とした「月の囁き」が予定されており、谷崎の原作も出来上がっていたが、結局延期され、泉鏡花(1873〜1939)の小説を原作に仰いだ「葛飾砂子」が1920(大正9)年12月28日に公開された 。この作品はフィルム自体が関東大震災により焼失、谷崎が書いたとされる脚本も残っていない。なお、谷崎自身は後になってこの脚本を執筆していないことを告白している。前述の「栗原トーマス君のこと」において「私が単に原作を読ませ、ざつとした注文を出しただけで、始めから(栗原)君が脚色した。」とあるのがそうである。 谷崎は1917(大正6)年の「活動写真の現在と将来」の中で、「泉鏡花氏の『高野聖』『風流線』の類はきつと面白い写真になると思ふ(*16)」と、エドガー・アラン・ポー(1809〜49)の作品と同様に鏡花の作品は映画化に適していると早くから述べている。また、「自分が若し映画の製作に関係するやうな時があつたら、是非泉鏡花氏のものを手がけて見たいといつもさう思つて居た。然るに図らずも其の機会が来たのであるから、こんな喜ばしいことはないのである(*17)」とも語っているように、「葛飾砂子」の映画化は谷崎の念願であった。 鏡花の書いた原作(*18)によって粗筋を紹介してみたい。深川富岡門前の三味線屋・待乳屋の16になる娘菊枝は、先年25歳に満たずに亡くなった尾上橘之助という役者に熱をあげていたが、ある秋の末に縁日に行くと言って出て行ったまま11時近くになっても戻ってこない。待乳屋の小僧・弥七は、菊枝の友人で橘之助を看取った看護婦・お縫の家へ菊枝を探しに行くが、菊枝は小町下駄を残したまま忽然と姿を消している…。その頃洲の崎の乗合船の船頭・七兵衛は、隅田川に身を投げた菊枝を救い上げていた。 淡い悲恋と人情、そしてサスペンスとを織り交ぜた鏡花の原作は、ものの情景を詳細に語り、映像のイメージを連想させる作りになっている。 |
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室の内を眴すと、ぼんぼん時計、花瓶の菊、置床の上の雑誌、貸本が二三冊、それから自分の身体が箪笥の前にあるばかり。 はじめて怪訝な顔をした。 |
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また、千葉伸夫(1945〜)は「映画と谷崎」(1989年12月青蛙社)で、鏡花のこの小説の持つ映画的な効果を以下のように指摘している。 |
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お縫は額さきに洋燈を捧げ、血が騒ぐか細おもての顔を赤うしながら、お太鼓の帯を巾つたげに、後姿で、すつと台所に入つた。 と思ふと、湿ッ気のする冷たい風が、颯と入り、洋燈の炎尖が下伏になつて、ちらりと蒼く消えやうとする。 はつと袖で囲つてお縫は屋根裏を仰ぐと、引窓が開いて居たので煤で真黒な壁へ二条引いた白い縄を、ぐいと手繰ると、かたり。 引窓の締る拍子に、物音もせず、五分ばかりの丸い灯は、口金から根こそぎ取つたやうに火屋の外へふッとなくなる。 「厭だ、消しちまつた。」 |
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千葉によれば小説のこの箇所には「映画でいう、全身(フル・ショット)、半身(バスト・ショット)、大写し(クローズ・アップ)を交錯させながら、音響効果まで入れて、サスペンスの濃度を 高くしていく。(*18)」とのことである。谷崎が脚本を書かなかったそもそもの理由とは、鏡花の小説がそれだけで映画的であり、それ以上に付け加える必要がなかったからではあるまいか。 映画評論家の淀川長治(1909〜1998)は、この作品について次のように語っている。 |
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すべての大正活映作品の中では「蛇性の婬」「雛祭の夜」などよりも私は第二作の「葛飾砂子」を最高と思う。これはこんにち映写してもその美しさは高く評価されると確信する。このフィルムがすでに無しとは何たることか。このフィルムがもしいまアメリカで映写されると聞けば私はそれを見るだけにアメリカに駆けつけるだろう。三巻という小品ゆえか私はこの作品のタイトルからラスト・シーンまでを今にあざやかに記憶の自信がある。その映画の流れの美しさはただごとでない。(*20 ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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その一方でも、「谷崎氏の脚花は最善をつくして気分を出すことに努めたが、映画劇としては失敗である。栗原氏もあまりに冗長な転換を見せた。」との評価が「キネマ旬報(*21)」に見られる 。 谷崎自身はこの映画について「或る傑れた小説を完全に映画化したからと云つて、それが必ず優秀な物になるとは断言出来ない。しかし鏡花氏の場合に於ては、その多くの作品は、最初から小説にすべきではなく映画にすべきではなかつたかと思はれるほど、それほど映画に適して居るやうに感ぜられる。 『葛飾砂子』はいろいろ不出来な箇所もあつたが、少くとも私に此の事を教へてくれた。それだけでも意義のある仕事であつた。(*22)」と語っている。 *16 谷崎潤一郎「活動写真の現在と将来」37ページ *17 谷崎潤一郎「映画雑感」(「谷崎潤一郎全集第22巻」所収) 初出は「新小説」(1921年3月) *18 「新小説」(1900年11月)所収 以下引用も同様 *19 千葉伸夫「映画と谷崎」92ページ *20 淀川長治「大正活映の作品」(橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」所収)58ページ *21 橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」56ページ採録 *22 前出「映画雑感」 |
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◆「雛祭の夜」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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明けて1921(大正10)年3月30日、谷崎の第3作目の映画「雛祭の夜」が浅草・千代田館で公開された。これは「アマチュア倶楽部」と同様に谷崎のオリジナル作品である。この「雛祭の夜」のシナリオは大正13年9月の「新演芸」に採録されているが、なぜか後半部分を欠いている。 「雛祭の夜」の主人公は3歳の少女愛子であり、谷崎の娘鮎子(当時6歳)が扮している。愛子は西洋人形のメリーさんや、2匹の兎を可愛がっているが、雛祭の日に母に飾ってもらった雛人形にすっかり夢中になってしまう。その夜、愛子の枕下で雛人形達が動き出す。メリーさんと兎も、雛人形を脅してやろうと彼女の寝ているお座敷に向かうが…。シナリオはここで終わっているので、のちのシナリオ作家野田高梧 (1893〜1968)が「緑の星」というペンネームで書いた「活動倶楽部」1921年3月号に収められたあらすじと批評からその後の部分を抜き出すと。 |
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その夜、愛子ちやんは兎とお人形とにつれられて綺麗なお山を越えて、山奥に、面白い遊戯をして遊んだ夢をみた。そしてその翌朝、愛子ちやんはすぐにお人形も雛段に飾つてやり、兎もお座敷に入れてやつた(*23)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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シナリオには「お伽劇」とあるように、極めてファンタジー色の強い作品であったようである。野田の批評によれば、玩具の自動車が段々と本物の自動車に変わるというショットもあったよう だ。谷崎のこの作品への力の入れようは、彼が部分的に監督したばかりか、雛人形の操作をも自身が行なうというという点からも現れている。作品の評価は割れたようで、「キネマ旬報」 が「眞に萬人向きの好映画たる価値を有している(*24)」とこの映画を褒め称える評も載せた一方、野田は前出の批評において「プロットは如何にも童話的で美しいものではあつたが、映画劇として、随分不要な場面もあつたり、冗長に亙りすぎたうらみもあつた。(*25)」と語り、谷崎の人形操作に関しても「不満がある」とのことであった。しかしながら愛子を演じた谷崎鮎子の演技に関しては「ヴァージニア・コービン嬢(*26)をほめる様に称賛する。」 としているのが特徴的であった。 *23 橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」52ページ採録 *24 同 56ページ採録 *25 同 52ページ採録 以下の引用も同様 *26 ヴァージニア・リー・コービン(1910〜42)は1910・20年代に活躍したアメリカの子役女優。 |
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◆「蛇性の婬」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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谷崎は1921(大正10)年3月の「日本の活動写真」において日本映画の「未発達」ぶりを嘆いた後、最後にこう結んでいる。 |
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日本の活動写真の未来は要するに努力さへすれば決して悲観すべきではなくて、偉大なる民衆芸術として西洋人に示し得るに至るのである。それには日本在来の文学では不可はないが、只米国のそれを真似る事は禁物で、何処までも個有なのが望ましい。(*27) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
谷崎はこうした「米国の真似」を回避するために、次作として日本の古典文学を映画の題材として選んだ。それが谷崎にとって最後の映画となる「蛇性の婬」であった。 原作に選ばれたのは谷崎が幼い頃より親しんできた上田秋成(1734〜1776)の「雨月物語」の世界であった。この「蛇性の婬」の脚本は全集に収められているので簡単に読むことが出来る(*28)が、本格的なコンティニュイティとして完成している。谷崎がこうしたコンティニュイティを書くようになった経緯は1920(大正9)年12月の「其の歓びを感謝せざるを得ない」に次のように述べられている。 |
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自己の芸術を何処迄も自己の物として完全に映画劇に仕上げんが為めには、単に原作を提供するばかりでなく、自分自ら脚色するに越した事はない。もつと適切に云へば、物語を書くよりはいきなりシナリオに書き下すべきものである。事件が話としてでなく、活動写真の場面として頭に浮かぶやうになつて来なければ駄目である。シナリオ・ライターとしての私は、俳優諸氏と共に、目下栗原君を先生にして、稽古中であるが、近き将来には自分で書きおろす事が出来るやうにならうと思つて居る。さうならなければ、私が映画劇に関係したことは結局無意義に終つてしまふ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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また、翌1921(大正10)年10月に発表された「映画のテクニック(*29)」では、映画撮影の技法について詳細な解説を行なっている。 「蛇性の婬」は、このように谷崎が映画の脚本について、映画の技法について深く考えをめぐらせていた時期の1921(大正10)年9月6日に遊楽座で公開された。谷崎の言を借りれば「日本に於いて最初の試みである純映画劇としての古典物(*30)」であった。 「蛇性の婬」の時代設定は王朝時代であるが、シナリオには「必ずしも明確なるを要せず」とある。紀伊国三輪が崎、漁師大宅竹助の息子豊雄は、漁師になることを嫌い 、新宮の神主の許で学問を学んでいた。ある日のこと、豪雨で海辺の漁師の家に雨宿りをする豊雄は、縣の眞女兒という女と知り合い傘を貸す。翌日、傘を受け取りに彼女の家を訪ねた豊雄は、彼女から一つの太刀を譲り受ける。だが、その太刀は熊野権現の神宝であった。嫌疑をかけられた豊雄は、衛士と共に眞女兒の家を訪ねるが、その時眞女兒は「電光閃き、どこからともなく激しき風起り(略)たちまち屋根を突きぬけて消え失せ」たのであった。 その後豊雄は、大和国の長谷寺の近くの姉の家に身を寄せていた。そこにやってきた眞女兒。豊雄は最初拒絶するものの、彼女の情にほだされて「幾千代かけての契」を結ぶのであった。春の吉野に花見に出かけた二人であったが、そこに現れた当麻酒人を見た眞女兒は、滝壷へ飛び込む。眞女兒の正体は年を取った大蛇であったのだ。 故郷の紀伊国へ戻った豊雄は、庄司の娘の富子と夫婦となっていた。ある夜、豊雄と語らっていた富子は、突然「妾こそは、そなたの妻に取り憑いた縣の眞女兒でござります」とその正体を明らかにする。富子に取り憑いた蛇を退治するため、鞍馬山の法師が呼ばれるが、彼は蛇の毒にやられて死んでしまう。次に呼ばれた小松原の道成寺の法師・法海は、一計を案じ、芥子の香を炊き込めた袈裟を豊雄に渡す。豊雄によって袈裟を頭より被せられた眞女兒は、ついに退治されるが、同時に富子も命を落とすのであった。ラストシーンは蛇となった眞女兒を収めた壷が地中に埋められる場面で終わる。 谷崎の手による脚本は、秋成の原作にほぼ忠実なばかりか、原作の持つ妖美な雰囲気さえも継承している。蛇の化身である眞女兒が、豊雄の体に絡みつく次の場面(第200場)などは、極めて官能的な雰囲気を醸し出している。 |
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豊雄は恰もメスメリズムにかけられた如く全くその体を女の為すまゝに任す。女は哀れなる餌食を捕へて、淫欲いよいよ起りたる様子。一層強く豊雄の体をゆすぶりながら身を悶える。やがて片手を豊雄の肩にかけ、片手を脇の下に挿し入れてシツカと抱きしめ、仰向きに抱き起し、その頬に頬擦りしながら、更に激しく揺す振る。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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撮影は1921(大正10)年4月に開始し、以来4ヶ月に渡った。ロケは京都、奈良、初瀬、箱根において敢行されたが、谷崎もスタッフと行動を共にしたが、「少からぬ経験と愉快を得た(*31)」と回想している。室内場面は横浜のスタジオで撮影されたが、平安朝の衣装・舞台装置に こだわったため、制作費は予想以上に莫大なものとなった。 「キネマ旬報」の評には「懸命な演技、鮮麗な画面、カメラポジションの巧妙さ等、称賛すべき長所も多い」ものの、「原作に忠実すぎた脚色とカッティングが足りないために、冗漫に流れ、印象を弱めた。漁夫の家の風俗、建物、小道具の細部に真実性が欠けていること、女優の容貌や表情の現代化したこと(*32)」などが、欠点としてあげられている。古典劇としての雰囲気を出している点では好評であったが、「所々に見苦しい破綻」「チグハグな感じ(*33)」の見られる作品であったようである。しかしながら、谷崎自身はこの作品に対して、「日本に於いて最初の試みである純映画劇としての古典物を、これだけに纏め得た事に自分は云ふ可からざる喜びを感じて居る。(*34)」のであった。 結局、この作品が谷崎にとって最後の映画製作になった。 *27 「谷崎潤一郎全集第22巻」所収 初出は「社会及国家」(1921年3月) *28 「谷崎潤一郎全集第8巻」所収 以下引用も同様 初出は「鈴の音」(1922年2月−4月) *29 「谷崎潤一郎全集第22巻」所収 初出は「社会及国家」(1921年10月) *30 谷崎潤一郎「蛇性の婬」(「谷崎潤一郎全集第8巻」所収)151ページ *31 同上 *32 前出「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」56ページ *33 田中純一郎「日本映画発達史T/活動写真時代」304ページ *34 前出「蛇性の婬」151ページ |
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◆谷崎映画の終焉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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4本の谷崎映画のすべてを監督した栗原トーマスは、アメリカ滞在中に肋膜を患って以来体調が思わしくなかった。大活で映画と関わり始めた時点ではかなり病状が悪化していたようである。「蛇性の婬」の欠点をこうした栗原の健康の悪化に求める人もいる(*35)。栗原の静養の必要もあって、1921(大正10)年12月、大活の撮影所は解散され、谷崎も映画製作から手を引くこととなった。栗原はそれから4年後の1926(大正15)年9月8日、42歳の若さで世を去 っている。大活はその後、新派映画の製作に転向するが、それも長くは続かず、1922(大正11)年8月15日、外国映画輸入を主な業務にするとして松竹に吸収されてしまう。わずか3年間の歴史であった。 谷崎は、1923(大正12)年に再び映画を製作するという動きを見せたが、それは実現せず、以後映画製作に関わることはなかった。その後の谷崎は小説の中に映画的な世界を再現しようとする。1923年の「肉塊」は、撮影所のオーナーとなった男が白人女性の肉塊に心を奪われていく話で、大活時代の見聞とそこから生まれた理念をもとに書き上げられたものである。また、「痴人の愛」(1924〜25年)や「細雪」(1943〜48年)でも盛んに外国映画の話題を取り上げているように、映画への関心は衰えていなかった。このように映画的な世界を再現しようと試みる谷崎の小説は、その後も恰好の映画の題材となった。1922(大正11)年に「お艶殺し」を映画化した「おつやと新助」(中川紫郎監督)をから、 2009年に製作された「白日夢」まで谷崎作品を原作とした映画は計52作品が製作されている。中にはイタリアで製作された「鍵」(1984年/ティント・ブラス監督)や、イタリア・西ドイツ合作で製作された「卍」(1985年/リリアナ・カバーニ監督)といった海外で製作された作品もある。 *35 田中純一郎「日本映画発達史T/活動写真時代」304ページ |
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◆谷崎映画と女〜今後の課題〜 |
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以上のように谷崎潤一郎の映画製作について一通り見てきたが、今日谷崎映画を研究することは大きな困難を伴っている。なぜなら、谷崎が製作に関わってきた4本の作品すべてが失われてしまい、現在では観ることの出来ない幻の作品になってしまっているからである。谷崎自身や当時それらの映画を観た人々の証言をもとにしての研究にも限度があるだろう。今後の私自信の研究課題として、谷崎映画をめぐる女性問題について指摘することで本論を終えることとしたい。 谷崎が映画を製作していた1920(大正9)年から1921(大正10)年にかけては、谷崎自身の私生活にとっても波乱に富んだ時期であったといえる。谷崎は1915(大正4年)に 石川千代と結婚し、翌年には長女鮎子も生まれて、結婚生活は順風満帆であると思われていた。しかし、1917(大正6)年頃から、谷崎は妻の妹である石川せい(石川勢以子/後の葉山三千子)と関係を持つようになる。当時谷崎は31歳、せいは15歳であった。同じ頃谷崎は佐藤春夫(1892〜1964)と知り合い、交際を始めるが、間もなく佐藤は千代夫人への同情から愛情を持ち始める。1920(大正9)年秋、谷崎とせいの関係を千代夫人が知るに及び、千代もまた佐藤への愛情を持つようになった。谷崎は一度は千代との離婚を決意し、千代を佐藤に譲るという意思を表明するが、1921(大正10)年3月、谷崎はそれを撤回。それに対して佐藤は絶好を宣言する。これがいわゆる「小田原事件」であるが、二人の確執は、その後1930(昭和5)年、千代が谷崎と離婚し、佐藤と再婚するまで続く。同じ頃せいもまた、和嶋彬夫と結婚して谷崎の元を去った。谷崎の映画製作は、まさに小田原事件の前後の時期と重なっているのである。 ここでもう一度、なぜ谷崎が映画製作に乗り出したのかについて考えてみたいと思う。谷崎が早くから映画に関心を示し、その可能性を認めていたことは、すでに述べた通りであるが、理由はそれだけではない だろう。谷崎が映画第1作に海辺を舞台とした「アマチュア倶楽部」を選んだのは、スクリーンにせいの水着姿を映し出したかったからではないだろうか。これは多くの研究者が指摘していることであるが、「痴人の愛」の中でせいをモデルとしたナオミにアンネッテ・ケラーマンのポーズをさせ、同じポーズをせい自身に「アマチュア倶楽部」の中でさせていることからも想像される。せいは1989(平成元)年2月に千葉伸夫のインタビューに答えて次のように否定しているのであるが。 |
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長い間、筆者(注・千葉)にとって懸案だった質問をぶつけてみた。 「谷崎さんが映画を作った原因ですね、葉山さんをスクリーンに映しだして見たいということ、『痴人の愛』とか、『アヴェ・マリア』、『肉塊』に書いてありますね、とくに葉山さんの水着姿とか、……」 ハスキーな声でさえぎった。 「そんなことないわよ」(*36) |
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「アマチュア倶楽部」が撮影されたのは1920(大正9)年夏頃であったから、谷崎夫人の千代は夫と妹の関係をまだ知らなかったと思われる。「アマチュア倶楽部」には千代夫人と谷崎の娘も端役出演しているから、谷崎の胸中はいかなるものであったのか興味深い。 1921(大正10)年3月公開の「雛祭の夜」の主演は谷崎の娘鮎子である。前述した野田高梧の批評は鮎子の演技を称賛した上に、「愛子ちやんのお祖母と、お母さんとが嬉しい様に飾り気なく演 つてゐられた事を特筆する(*37)」と述べており、掲載誌には人形を抱いてにっこりと笑う鮎子の写真も掲載されている。この1921年3月というのは、佐藤春夫が谷崎に絶縁状をたたきつけた「小田原事件」のまさしく渦中であり。谷崎と千代の関係も多分にギクシャクしていたものと想像される。こうした時期にこのような作品を撮った谷崎の心境はいかなるものか。谷崎の妻千代に対する償いの意図があったのではないか、そんな邪推さえ浮かんでくる。 以上、2つばかり谷崎映画と女性という観点からの問題を取りあげた。この問題を考えていくにおいては、一途な愛情をテーマとした残りの谷崎映画「葛飾砂子」と「蛇性の婬」も念頭に置くべきであろう。また、谷崎の心情の変化が小説作品において表れていないのか、まだまだ検討すべき点は多い。 *36 千葉伸夫「映画と谷崎」35ページ *37 「活動倶楽部」(1921年3月) 橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」に採録 |
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すでに述べた通り、この「文豪の映画礼讚」は僕が「実践学園紀要」に発表した論文「谷崎潤一郎の映画製作」を元にしている。論文を発表したのは2002年のことだから、すでに9年が経っている。読み返してみてわかったのは、この年月の間に僕の文章の書き方がだいぶ変わってきたということだった。また、あくまで論文として発表したものだけに、「映画史探訪」の他のエッセイに比べるとかなり堅苦しいものとなっている。そこで、最初は全面的に書き換えようかとも思った。しかし、そうした違いを敢えてそのまま残すのも面白いかもしれないと思い直し、結局改訂は最小限に留めることにした。 論文「谷崎潤一郎の映画製作」の第2章は「映画の誕生と日本上陸」と題し、稲畑勝太郎(1862〜1949)によるシネマトグラフから1920年代の純映画運動までの流れを追ったものだった。その部分はだいぶ手直しをしたものの、「エキゾチック・ジャパン!」と「受難の映画史」に流用 している。今回の「文豪の映画礼讚」では残りの部分もこのように発表することができた。 まさか、過去の論文がこのような形でお目見えするとは当時は想像もしていなかった。なんだか、生き別れていた息子に親孝行をされたような気分だ。 |
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(2011年3月7日) |
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(参考資料) 橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」1966年10月 ギャラリー吾八 福田清人、平山城児「谷崎潤一郎/人と作品」1966年10月 清水書院 野口武彦「谷崎潤一郎論」1973年8月 中央公論社 田中純一郎「日本映画発達史T/活動写真時代」1980年2月 中央公論社 紅野敏郎、千葉俊二編「資料 谷崎潤一郎」1980年7月 桜楓社 塚田嘉信「日本映画史の研究 活動写真渡来前後の事情」1980年11月 現代書館 「谷崎潤一郎/新潮日本文学アルバム」1985年1月 新潮社 小林一郎「谷崎潤一郎と『映画』をめぐる二三の問題」1986年2月「文学論藻」 千葉伸夫「映画と谷崎」1989年12月 青蛙房 佐藤忠男「日本映画史1」1995年3月 岩波書店 永英啓伸「評伝谷崎潤一郎」1997年7月 和泉書院 近藤信行「谷崎潤一郎東京地図」1998年10月 教育出版 千葉俊二編「谷崎潤一郎必携」2001年11月 学燈社 野崎歓「谷崎潤一郎と異国の言語」2003年5月 人文書院 谷崎潤一郎「谷崎潤一郎全集8、17、22」1981年12月、1982年9月、1983年6月 中央公論社 谷崎潤一郎「痴人の愛」1947年11月 新潮文庫 上田秋成「雨月物語」(「日本古典文学大系56」)1934年7月 岩波書店 |
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