第2章−サイレント黄金時代(21)
受難の映画史
〜日本映画の黎明〜



「生の輝き」(1919年天活)
花柳はるみ(左)と村田實
(「週刊THE MOVIE89」295ページ)


 僕が映画を好んで観るようになったのは中学生の頃であったということは「序/青春劇場いざ序幕」に書いた通りである。当時、僕の周りには同じような映画好きがたくさんいて、盛んに映画談義に花を咲かせたものだった。しかしながら、映画好き連中というのは、もっぱら外国映画三昧で、「日本映画はつまらない」というのが 彼らの言分であった。僕が中学生だった1987年から1989年にかけての映画界を眺めてみると、スティーブン・スピルバーグ(1947〜)やジョージ・ルーカス(1944〜)がプロデューサーとして盛んに娯楽超大作を送り出していたし、シルベスター・スタローン(1946〜)やアーノルド・シュワルツェネッガー(1947〜)も全盛期で激しいアクションを見せていた。人生の酸いも甘いもわからんような中坊にはそれが新鮮に思えたのだろう。それに引き換え、日本映画は当時興行収入が著しく落ち込んでいたわけである。そんな中、当時の僕は仲間内でも数少ない日本映画擁護派であった。何よりも「男はつらいよ」シリーズが大好きだった。僕は中学1年生の冬から現在までに観た映画をすべて記録に残しているが、そもそもの始まりとなった最初の作品は1987年12月13日にテレビで観た「男はつらいよ/寅次郎子守唄」(1974年松竹)だったのだ。角川春樹(1942〜)の製作した映画もよく観ていたし、伊丹十三(1933〜97)のセンスに唸らされたのもそれからすぐ後のことである。こうした、「日本映画も良い」という僕の意見は、当時の仲間には全然受け入れられなかった。それが、ここ数年の空前の日本映画ブーム。どっちが正しかったかは、歴史が証明しているではないか(笑)
 1980年代末の日本映画が本当につまらなかったのかどうかは置いておいて、少しでも古い映画に興味があれば、かつての日本映画が外国映画に比べて遜色のないものであったことはすぐにわかる。英国映画研究所が1952年以来10年毎に選出している「映画史上ベストテン」の最新版である2002年度版
(*1)を見てみたい。このベストテンは批評家による選出と、映画監督による選出の2つの部門があるが、1位となったのは共にオーソン・ウェルス(1915〜85)の「市民ケーン」(1941年米)であった。日本映画は、小津安二郎(1903〜63)の「東京物語」(1953年松竹)が批評家選出5位(監督選出16位)。黒沢明(1910〜98)の「羅生門」(1950年大映)が監督選出9位(批評家選出13位)、「七人の侍」(1954年東宝)も監督選出9位(批評家選出11位)となっている。以下、溝口健二(1898〜1956)の「残菊物語」(1939年松竹)が批評家選出24位、「雨月物語」(1953年大映)が同27位、「山椒太夫」(1954年大映)が同45位。黒沢明の「乱」(1985年ヘラルド・エース/グリニッチ・フィルム・プロダクション)が監督選出41位である。「残菊物語」と「乱」を除けば、いずれも1950年代に製作された映画である。「羅生門」はヴェネチア映画祭グランプリとアカデミー外国語映画賞を受賞しているが、他にも「地獄門」(1954年大映)がカンヌ映画祭グランプリとアカデミー外国語映画賞、「無法松の一生」(1958年東宝)がヴェネチア映画祭グランプリ、「宮本武蔵」(1954年東宝)がアカデミー外国語映画賞を受賞するなど、国際的に見ても1950年代が日本映画にとって最大の黄金時代であったのは間違い無いところである。

*1  「The Sight and Sound Top Ten Poll 2002」(http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten
   参考までに批評家選出ベスト10は、1位「市民ケーン」2位「めまい」(1958年米)3位「ゲームの規則」(1939年仏)4位「ゴッドファーザーPART1/PART2」(1972/1974年米)5位「東京物語」6位「2001年宇宙の旅」(1968年米/英)7位「戦艦ポチョムキン」(1925年ソ)「サンライズ」(1927年米)9位「8 1/2」(1963年伊)10位「雨に唄えば」(1952年米)
   監督選出ベスト10は1位「市民ケーン」2位「ゴッドファーザーPART1/PART2」3位「8 1/2」4位「アラビアのロレンス」(1962年英)5位「博士の異常な愛情」(1963年米)6位「自転車泥棒」(1948年伊)「レイジンブ・ブル」(1980年米)「めまい」9位「羅生門」「ゲームの規則」「七人の侍」



失われた名作「新版大岡政談」(1928年日活)
(左より)伏見直江、大河内傳次郎、高木永二
(「日本映画200」31ページ)
 


 だが、日本映画の黄金時代というのは、何も1950年代に限ったことではない。それに先立つこと30年、1920年代から1930年代にかけて日本映画は最初の黄金時代とも言うべき盛り上がりを見せていた。そこで、「サイレント黄金時代」の最後ではわが国のサイレント映画をいろいろ見ていくことにしたい。
 自国の映画であるから、資料も簡単に手に入るし、作品を観る機会も多い。だから調べるのも容易である、と考えるのは大きな間違いである。例えばキネマ旬報が出している「映画史上ベスト200」シリーズの「アメリカ映画200」には35本、「ヨーロッパ映画200」には33本のサイレント映画が収められているが、現在フィルムが完全に失われてしまって永遠に観ることのできない作品はイタリア映画「闇に落ちた人々」(1914年伊)1本きりである。ところが、「日本映画200」に収められたサイレント映画29本のうち、半数の15本はフィルムが失われてしまっている。戦前の作品全体で見ても、73本中21本をもはや観ることができないのである。もっとも、フィルムが残っているとはいっても、残存部分が1分の「新版大岡政談」(1928年日活)や2分の「仇討選手」(1931年日活)、5分の「抱寝の長脇差」(1932年嵐寛寿郎プロダクション)といった具合では、もはや作品としての体をなしていない。そればかりか、欠落部分が無く、完全な状態で保存されているもののほうがむしろ少ないのである。もちろん、今あげたデータは「日本映画200」の出版された1982年5月時点のもので、失われたとされていた「斬人斬馬剣」(1929年松竹)や「忠臣蔵」(1932年松竹)のようにその後フィルムが発掘されたものもある。残存1分であった「忠次旅日記」(1927年日活)も、1991年に広島県の倉庫から多くの部分が発見された。コレクターと言うものは得てして所蔵しているフィルムを出したがらないもの。実は、今日失われたと言われている作品のほとんどはコレクターによって秘蔵されているという話もある。例えば、あるコレクターなどは、「忠次旅日記」を始め、戦前の日本映画の大半を所蔵しているそうであるが、「フィルムは映写せずに、人の目に触れることなく、倉庫で静かに眠らせてこそ『保存だ!』」と強調しているのだという
(*2)。また、先日亡くなった大阪のコレクターの所蔵リストには日本の植民地支配下に製作された伝説的な抗日映画「アリラン」(1926年朝鮮)を始めとした、やはり失われた作品が多く含まれているという(*3)。今後も、そういった方面から未発見の作品が出てくることもあるかもしれない。とは言え、映画史的に特に大切な作品だけをあげてもこのような具合なのだから、いかに研究が難しいかがわかるというものである。
 なぜ日本映画が欧米の映画に比べて損傷が激しいのか。1922年の関東大震災や太平洋戦争による戦火というのが理由の一つ。戦後に占領軍としてやってきたGHQは、日本映画の徹底的な検閲を行い、不適当とされる場面を容赦なく切除。そのため、戦火を逃れた作品の多くが不完全な形になることを余儀なくされた。だが、やはり最大の理由は、戦前の映画会社が映画の保存ということを全く意識していなかったことにあるといえるだろう。映画評論家の淀川長治(1909〜98)は1938年に神戸から上京してユナイトに入社しているが、上映権利の切れた映画をジャンクすることに大変驚いたと回想している。時には消防隊が消防練習に火をつけて燃やしたと言う。名作フィルムが焼かれるのに忍びない淀川は、ジョーン・クロフォード(1904〜77)主演の「雨」(1932年米)のフィルムをこっそり持ち帰ったそうだ
(*4)
 サイレント時代末期に少年活動弁士だった松田春翠(1925〜87)は、戦後九州の炭鉱町で二日続けてある無声映画を観て、前日あったシーンが翌日になくなっていたことから、「果たしてこのフィルムが他にもあるのだろうか」と心配になり、無声映画のフィルムの収集・保存を始めた
(*5)。彼の設立したマツダ映画社は、松田の執念の甲斐もあって現在約1千作品6千巻のフィルムを保存している。また、月1回「無声映画鑑賞会」を開催しており、松田の弟子の澤登翠を中心とした現役活動弁士による説明付きで貴重な映画を観ることができる。僕もこのエッセイ執筆にあたって参考となる作品の多くを無声映画鑑賞会で観ることができた。
 以上のように、日本映画の研究には大変大きなハンデが伴っているのであるが、僕が実際に観ることのできた作品を中心にして、日本映画の誕生から1920年代のサイレント黄金時代に至るまでの流れを、何とか概観していくことにしたいと思う。

*2 安井喜雄「映画資料図書館『プラネット』の経験」(「講座日本映画1/月報」所収)6ページ
*3 「毎日新聞」2005年2月11日
    「朝鮮日報」(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/02/11/20050211000097.htmll
*4 淀川長治「淀川長治自伝 上」274ページ
*5 松田豊「無声映画鑑賞会について」(「活動弁士/無声映画と珠玉の話芸」所収)169〜170ページ



現存最古の日本映画「紅葉狩」(1899年)
団十郎(左)と菊五郎
(「日本映画の誕生」12ページ)
 


 日本に映画が上陸するまでの流れは、すでに「エキゾチック・ジャパン」で取り上げた通りである。その後、日本人で最初に映画を撮影したのは、小西写真店(後のコニカ)に勤める浅野四郎 (1877〜1955)であった。1897(明治30)年、当時20歳であった浅野は、日本橋や浅草観音の風景を撮影している。そして、翌1898年に、ストーリーを持った「化け地蔵」と「死人の蘇生」という短 編を撮影した。後者は、死人が棺桶の中に入れられて、その棺桶を担いで歩き出すと、その底が抜けて、ショックで死人が生き返るというコメディタッチの作品で、早くもトリック撮影が見られたようである
。浅野は1899 (明治32)年には新橋の料亭で3人の芸者の踊りを撮影した「芸者の手踊り」を製作しているが、これによって最初の日本映画の興行が行われたとされている。
 当時製作された作品の中でも有名なのは、1899年に製作された「ピストル強盗清水定吉(稲妻強盗)」であろう。これは、当時の東京を震撼させた覆面強盗の清水定吉(1837〜87)をモデルにしたもの。主人公を演じた横山運平(1881〜1967) は最初の映画俳優となり、1960年代に至るまでバイプレーヤーとして活躍した。
 現存する最古の日本映画は、1899年に三越写真部の柴田常吉(1850〜1929)によって撮影された「紅葉狩」である。これは歌舞伎の一場面を撮影したもの。9世市川団十郎(1838〜1903)と5世尾上菊五郎(1844〜1903)が出演しているが、「団菊時代」を築いた明治の2大名優の映像が今日こうした形で残されているのは、奇跡に近いことと言える。この「紅葉狩」は、菊五郎の演じる更科姫が、優雅な外見をかなぐり捨て、鬼女の正体を現して立ち回りを見せる。終りのほうで団十郎が扇を落としてしまい、それを黒子が拾うというのはご愛嬌。そもそも記念用に撮られた映像であったのだが、1903(明治36)年に団十郎が病気で舞台に出演できなくなった際には、その埋め合わせとして一般公開された。

 1900年代に入ると映画は急速に人気を集めるようになる。1903(明治36)年、河浦謙一の吉沢商店によって浅草に最初の映画専門館・電気館が建設された。吉沢商店は、1904年に勃発した日露戦争にカメラマンを派遣し、映画を撮影している。この時に撮影されたフィルムの一部は、「日露戦争の実写と明治の日本」という題名でビデオ化されている(「チャップリン作品集8」に収録)が、大砲の発射や兵士の出撃、そして乃木希典大将(1849〜1912)とロシアのアナトール・ミハイロビッチ・ステッセル中将(1848〜1915)の会談、旅順への入場式、戦勝ムードに沸く内地の様子などが治められ、現在では資料としても貴重なものとなっている。こうした戦争の記録映像は、多くの人々を映画館に引きつけるきっかけとなった。やがて、映画は歌舞伎や新派劇(現代劇)に取って代わり、大衆の大きな人気を集めるようになってくる。1907年に大阪に2番目の常設映画館である千日前電気館が建設されたのを皮切りに、次々と映画の映画館が設立されていった。
 1906(明治39)年、横田永之助(1872〜1943)の横田商会が京都の二条城の南の神泉苑に現像所を作り、そこを拠点に映画製作を開始する。次いで1908年、吉沢商店が目黒の行人坂にグラスステージ(太陽光によって撮影するガラス張りのスタジオ)のある吉沢商店目黒撮影所を建設。これは日本最初の映画スタジオとされる。翌1909年には梅屋庄吉 (1866〜1934)のエム・パテ―商会が大久保に、1910年には福宝堂が日暮里に映画の撮影所を建設し、盛んに映画が撮られるようになってくる。
 当時あった映画会社4社の中で一段と群を抜いていたのは横田商会であった。横田は見世物小屋・千本座を経営する牧野省三(1878〜1929)に映画製作を依頼。牧野は尾上松之助(1875〜1926)と組んで次々と映画を製作していった。松之助はそもそも旅芝居の役者であったが、当時歌舞伎の名門役者たちは映画を蔑み、決して映画には出演しようとしなかったという。桧舞台に立つ歌舞伎役者にとってみれば、地面の土の上で演技をする映画役者などは「泥役者」にすぎなかったのである。先にあげた「紅葉狩」は、あくまで記念用として撮られたものであった。そこで、当時の映画会社は小芝居の役者達をスカウトし、映画に抜擢していった。日本映画最初の巨匠牧野省三と、日本映画最初のスーパースター尾上松之助については、後にそれぞれ一項をあてて詳述することにしたい。
 1912(明治45)年、横田商会、吉沢商店、エム・パテー商会、福宝堂の4社は大合同。「日本活動写真株式会社」通称「日活」の成立となった。1913(大正2)年東京の隅田川辺に向島撮影所が、1916年京都に大将軍撮影所が設立される。「大将軍(たいしょうぐん)」とはたいそうな名前だが、これは京都の北区にある地名で、「大将軍神社」に由来している。そして、東京で現代劇が、京都で時代劇が主に作られていく。1923(大正12)年の関東大震災で東京が壊滅すると、京都でも現代劇が作られるようになり、1928(昭和3)年京都郊外の太秦(うずまさ)に撮影所が建設された。日活太秦撮影所は総面積1万3500坪で3つのステージを持ち、「東洋一の理想的な大撮影所」
(*6)であったという。太秦は阪東妻三郎(1901〜53)が1926(大正15)年に最初の「坂妻プロ太秦撮影所」を開設したのを皮切りに、その後も大小様々な撮影所が建設された日本のハリウッド」とも言うべき場所である。現在でも松竹と東映の撮影所が残っているが、東映撮影所に隣接する「東映太秦映画村」は映画のテーマパークとして人気がある。

*6 都築政昭「シネマがやってきた!―日本映画事始め」57ページ

 初期の日本映画は時代劇は歌舞伎、現代劇は新派劇から多くの題材を得ている。歌舞伎については今さら説明する必要はあるまい。一方の新派劇は明治になってから成立した新しい演劇である。そもそもは1888(明治21)年に自由党の壮士(政治活動家)である角藤定憲(1867〜1907)が自由民権運動の手段として「大日本壮士改良演劇」を旗揚げしたことに始まる。その後、川上音二郎(1864〜1911)の「書生仁輪加(にわか)一座」が成功を収め、歌舞伎を「旧派」とするのに対して「新派」と呼ばれるようになった。1891(明治24)年に旗揚げした伊井蓉峰(1871〜1932)の「済美館」は、政治性は除外し、芸術性を重視。尾崎紅葉(1867〜1903)の「金色夜叉」や徳富蘆花(1868〜1927)の「不如帰」、泉鏡花(1873〜1939)の「婦系図」といった作品を上演し、「新派悲劇」のスタイルを確立した。新派悲劇とは、要はメロドラマのことである。新派出身の俳優では井上正夫
(1881〜1950)が後に映画製作に乗り出している。また、新派の代表的女優・初代水谷八重子(1905〜1979)も「不如帰」の映画化である「浪子」(1932年オリエンタル映画社)に主演するなど映画でも活躍。リーダーの伊井蓉峰自身も「実録忠臣蔵」(1928年マキノ)で大石内蔵助を演じているのが印象的であった。新派は、女形を用いたり、見得を切ったりするなど演技や演出も歌舞伎からの影響が強いものであった。
    



「カチューシャ」(1914年日活)
立花貞二郎(左)と関根達発
(「週刊THE MOVIE84」135ページ)
 


 初期の日本映画の特色については、作品を観るのがてっとり早い。僕が観た最も古い劇映画は牧野省三が監督し、尾上松之助が主演する「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜17年横田商会)である。松の廊下の刃傷から討ち入り、両国橋の引き上げまでの一貫したストーリーは実に80分にも及ぶ。大部分は1910年に製作されたと推定され、まぎれもなく現存最古の長編映画である。ただし、注意しなくてはならないのは、現存するこの作品は、欠落部分を1917年頃までに製作された他の「忠臣蔵」映画で補い、浪曲や弁士の説明を録音して、戦後に再編集されたものということである。また、製作年不明の「與四郎大事を口外す」という現存約4分の時代劇がビデオ「チャップリン作品集9」に収録されているが、どのような作品かを資料で確認することができなかった。この映画は3つの場面からなる。最初の場面は室内で、悪人たちによって何やら密議が行われている。2番目の場面は城の前の屋外を模した書割のあるセット。与力・同心達が警備をする中、悪人の手下がやってきて、捕物の末に逮捕される。最後の場面は奉行所。裁きの場に連れてこられた手下は、役人に棒で打擲(ちょうちゃく)される。そこに現れた仲間は、彼をかばおうとするが、やはり逮捕されてしまう。最後は奉行自らが、刀を抜いて手下を処刑する。字幕がまったくないので、ストーリーはあくまで僕の想像なのだが、スタイルからしてこの映画が1910年代以前に製作されたのは間違いない
(*7)
 これらの作品の特徴は、カメラを据え置いて、芝居をそのまま撮影していることにある。一つのシーンの中でカメラが移動したり、視点が切り替わることはまずない。したがって、3場面の「與四郎大事を口外す」はそのまま3シーンで構成されている。言ってみれば、演劇の舞台を客席から眺めたものそのままである。それはメリエスやポーターが製作したヨーロッパやアメリカの初期の映画も同様であった。現存の「尾上松之助の忠臣蔵」には、人物のクローズアップが1シーンだけあり、初めて観た時大いに感心したのであるが、よく考えてみると、後から挿入された部分に違いない。
 第2の特徴としては、活動弁士の存在があげられる。活動弁士とは、映画(もちろん無声)にあわせて状況を説明したり、人物の台詞を読み上げた説明者のことである。アメリカやヨーロッパでも初期の頃には簡単な説明者が存在していたが、映画の発達と共に1910年頃までには姿を消している。ところが日本では、サイレント映画が完全に無くなる1930年代まで存在していた。それも、1910年代には数人の弁士が役ごとにつき、「陰台詞」と称して台詞を掛け合うというにぎやかな形式のものであった。「尾上松之助の忠臣蔵」の現存フィルムにもそのような掛け合いが見られる。映画の製作者も、活動弁士の存在を前提としており、字幕をまったく用いないことも多かった。したがって、今日現存する日本映画の中にはフィルムだけを観た場合、ほとんど内容を理解することができないものがある。「與四郎大事を口外す」には字幕がまったく無いため、ストーリーを今ひとつ理解できなかったことは先に述べた通り。「尾上松之助の忠臣蔵」も、弁士の説明を消したとすれば、同様であろう。もし説明がないのだとすれば、映画として見て不可解な場面が幾つも見られる。例えば、赤穂城を去る大石内蔵助(尾上松之助)のシーン。内蔵助は城を出た後、いつまでも城の脇にたたずんでいる。これは、弁士が大石の心中を朗々と語るための演出なのである。評定の場面でも、登場人物たちは無声にもかかわらず延々と言葉を交わしている。さらに、討ち入りの場面でも、赤穂浪士の討ち入りを知った吉良方の剣客・清水一角(尾上松之助)が、布団から跳ね起きて、畳に耳を当て、指折り何かを数えている。これは、「一打ち、二打ち、三流れ…」という山鹿流の陣太鼓の音で赤穂浪士の襲撃を知るということなのである。後年の作品であれば、陣太鼓を叩く大石の場面と交互に見せることで、状況を説明するのだろうが、この映画にはそういったことは一切無い。弁士の説明あるいは、太鼓の音でそれをわからせたのだろうか。あるいはそんなこと をしなくとも、この場面の意味など当時の観客は当然知っていたのだろう。
 第3に、歌舞伎や新派の形式を踏襲して、女形を使っていたという点がある。「尾上松之助の忠臣蔵」にももちろん女形が出演している。女形として活躍した俳優に立花貞二郎(1893〜1918)がいる。彼の代表作はトルストイ(1828〜1910)の「復活」を原作とした「カチューシャ」(1914年日活)で、彼はヒロインのカチューシャを演じている。当時のメイクに用いる白粉には鉛が含まれていたため、立花は鉛の中毒により1918(大正7)年に25歳の若さで早逝してしまった。いずれにせよ「カチューシャ」は大ヒットし、「後のカチューシャ」「カチューシャ続々篇」(共に1915年日活)と続編が2本製作された。ちなみに第3編では、主人公のネリュードフ(関根達発)が泉岳寺で大石内蔵助(尾上松之助)と握手するという、とんでもないストーリーだったというから、ちょっと観てみたい気がする。なお、トルストイの「復活」の時代背景は帝政ロシアの19世紀後半ということになっているから、大石内蔵助(1659〜1603)と会うというのは理屈の上ではありえない。「カチューシャ」の時代設定が引き下げられているのか、あるいは内蔵助の幽霊とでも会ったのかしらん。いずれにせよ、現在フィルムが残っていないので観ることは適わない。女形はすぐに女優に取って変わられることになるが、尾上松之助主演の「豪傑児雷也」(1921年日活)や「渋川伴五郎」(1922年日活)にも女形は登場しているから、だいぶ後までも存在したようである。後の監督・衣笠貞之助(1896〜1982)や稲垣浩(1905〜80)も最初は女形として映画界に入っている。

*7 この「與四郎大事を口外す」を保存しているマツダ映画社によると、この作品は一説にエム・パテー商会の作品とのこと。とすると、エム・パテーが映画製作を開始した1908(明治41)年から、同社が日活を結成する1912(明治45)年までに製作された作品ということになる。 (「クラシック映画ニュース631」(2011年2月)より)
 



「大尉の娘」(1917年小林商会)
井上正夫(左)と木下吉之助
(「週刊THE MOVIE87」231ページ)
 


 1910年代になってアメリカやヨーロッパから芸術的に水準の高い映画が輸入されてくると、日本映画のこうした古いスタイルに対し、異議を唱える声があがってくる。これがいわゆる「純粋映画劇運動」であ った。まず最初の動きは1917(大正6)年に新派俳優の井上正夫の監督・主演による「大尉の娘」(1917年小林商会)によって見られた。この作品はカットバックやクローズアップ、移動撮影といった技法が駆使された作品であったという。また、田中栄三(1886〜1968)は「己が罪」(1919年日活)で陰台詞を廃止し、字幕による説明を試みたが、活動弁士から猛烈な抗議を受けた。
 映画会社・天活の社員であった帰山教正(1893〜1964)は、1917(大正6)年、「活動写真劇の創作と撮影法」という映画理論書を発表した。彼は「一般に芝居としての劇と活動写真劇即ち“Photoplay”とは大なる相違を持つてゐる。」
(* 8)と主張。従来の演劇の延長にしかすぎない映画を否定した。また、彼は「活動写真は芸術に成り得る資格を有して居る物の如く思はれる。」とし、「活動写真劇と云ふものは、一箇の確信を以て独創的に芝居と全く離れて立つべき性質を有してゐることは、確かな事であつて、活動写真劇の価値如何は脚色上に於て又撮影上に於て、活動写真が有する総ての範囲を最も巧に使用するとせざるとに帰するものである。」と延べ、カメラワークやシナリオ、女優の使用を呼びかけた。彼は自身の理論に基づき「生の輝き」と「深山の乙女」(共に1919年天活)を発表している。飯島正(1902〜96)によると、当時「生の輝き」には日本語とフランス語の字幕がついていたという(* 9)。海外輸出用の映画であるということで、会社側の反対を押し切ったのであろう。とはいうものの、これらの作品は、必ずしも高い評価を得るものではなかったようだ。だが、映画界全体に大きな影響を与えることとなった。
 1920(大正9)年に設立された大正活映(大活)は、作家
の谷崎潤一郎(1886〜1965)を脚本部顧問に迎え、ハリウッド帰りの栗原トーマス(1885〜1926)の監督で「アマチュア倶楽部」(1920年大活)や「蛇性の婬」(1921年大活)などを製作した。だが、大活は経営不振のため1921年12月に映画製作を停止。翌1922年には松竹に吸収されてしまう。谷崎は映画界から手を引き、栗原も1926(大正15)年に41歳の若さで亡くなってしまう。 (「文豪の映画礼讃」参照)
 今ここで名前をあげた作品は、いずれも現在フィルムが全く残っておらず、観ることができないのは残念なことである。


*8 帰山教正「活動写真劇の創作と撮影法」 1ページ 
    以下の引用も同書2〜3ページ
*9 飯島正「日本映画の黎明」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」/所収)110ページ
 



「深山の乙女」(1919年天活)
(左より)近藤伊与吉、花柳はるみ、青山杉作
(「週刊THE MOVIE89」294ページ)
 


 1920(大正9)年に発足した松竹キネマ合名社は、ハリウッドに人材を派遣し製作システムを研究させた。そして、大監督セシル・B・デミル
(1881〜1959)の推薦により日本人カメラマンのヘンリー小谷(1892〜1972)を招聘。その上で、松竹キネマ俳優学校を設置し、新劇から小山内薫(1881〜1928)を校長に迎えた 。
 小山内薫は新劇運動の指導者的存在として知られている。ところで、「新劇」とは何か。先に説明した「新派劇」と良く似ている名称だが、実際よく混同される。新劇は、歌舞伎の強い影響下にあった新派劇を、独自の芸術的なものに高めようという運動であった。その萌芽は1906(明治39)年に坪内逍遥(1859〜1935)と島村抱月(1871〜1918)によって設立された「文芸協会」にみられるが、1909(明治42)年に小山内薫が2代目市川左団次(1880〜1940)と組んで「自由劇場」を起こしたことから盛んになった。小山内は1912年に渡欧し、ヨーロッパ式の演技を導入して、マクシム・ゴーリキー(1868〜1936)の「どん底」やヘンリク・イブセン(1828〜1906)の「ジョン・ガブリエル・ボルグマン」などの海外作品を盛んに上演して成功を収めた。しかしながら自由劇場は1919(大正8)年に自然消滅してしまう。小山内が映画界から招聘を受けたのは、自由劇場が解散してから間もなくのことであった。
 松竹が当初俳優学校の校長として予定していたのは劇作家の松居松葉(後の松居松翁/1870〜1933)であったが、彼の病気により代わって小山内が起用された。小山内の中学時代の日記によれば、彼は幼少より映画に興味を持っていたことがわかる
(*10)。彼は映画に関する論文も早くから執筆していたこともあって、それが松竹の目に止まったのであろう。こうして発足した俳優学校の講義には、小山内による擬態実習(パントマイム)を始め、作家・久米正雄(1891〜1952)による脚本講義、歌舞伎俳優の7世松本幸四郎(1870〜1949)による扮装術、亡命ロシア人のアンナ・スラヴィナによる西洋舞踊やマナーの訓練などがあった。生徒として集った若者の中には後の監督の村田實(1894〜1937)や島津保次郎(1897〜1946)、牛原虚彦(1897〜1985)、伊藤大輔(1898〜1981)、俳優の鈴木伝明(1900〜89)などがいた。結局、俳優学校は6ヶ月で廃止となってしまうのだが、小山内は松竹キネマ研究所を設立し、「路上の霊魂」(1921年松竹)などの映画を製作した。研究所の最初の作品「路上の霊魂」は幸いなことに今日ほぼ完全な形で現存している。

*10 前田愛「盛り場に映画館ができた」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」所収)339〜342ページ



「路上の霊魂」(1921年松竹キネマ)
(一人置いて左より)小山内薫、澤村春子、久松三岐子
(「日本映画200」9ページ)
 


 「路上の霊魂」は小山内が指導にあたり、脚本が牛原虚彦、監督が村田實、さらに光線(照明)が島津保次郎という顔ぶれであった。冒頭にはキリル文字、次いで日本語の字幕でゴーリキーの「どん底」の一節が引用さ れる。「吾々は人間全体に対して憐れみの心を持たなくてはならない…(以下略)」。最初に教訓的な字幕を掲げるのはサイレント時代の外国映画によく見られる手法だが、こうした作り方も外国映画からの影響を思わせる。
 物語はクリスマス前夜の山村を舞台としている。山林と伐木所の主人・杉野泰には小山内薫自身が扮する。彼の使用人の太郎少年が村田實。当時27歳だが、童顔で小柄なこともあり、充分少年に見えてしまう。杉野には、家出をした一人息子の浩一郎(東郷是也、後の鈴木伝明)がいた。すっかり落魄した浩一郎は、妻燿子(澤村春子)と娘文子(久松三岐子)を伴って故郷に帰ってくるが、誇り高い杉野は彼を許さない。一方、杉野家から程近い別荘では、令嬢(英百合子)がクリスマスパーティの準備に余念が無かった。また、出獄したばかりの2人の浮浪者鶴吉(南光明)と亀三(蔦村繁)は、飢えから別荘に忍び込もうとする…。
 
原作はウィルヘルム・シュミットボン(1876〜1952)の「街の子」とマクシム・ゴーリキーの「どん底」(当時の邦訳は「夜の宿」)ということになっている。核となる杉野父子の物語は「街の子」に基づく。2人の浮浪者が、別荘に忍び込もうとして、管理人の老人(岡田宗太郎)に懲らしめられるというエピソードだけが、「どん底」から採られたものである。 杉野、浩一郎一家、令嬢、浮浪者2人組の4つのエピソードを交互に描きつつ、やがてそれが1本のストーリーへとつながっていくという構成は、D・W・グリフィス(1875〜1948)の「イントレランス」(1916年米)を思い起こさせる。また、杉野が息子浩一郎を拒絶し、吹雪の中に追い出す「不寛容」と、令嬢が浮浪者を憐れみ、彼らを許しパーティに迎え入れるという「寛容」という2つの主題もやはり「イントレランス」に共通している。字幕のみでのストーリーの説明や、カットバック、モンタージュといった映画技法は、演劇の延長でしかなかった「尾上松之助の忠臣蔵」とは雲泥の差がある。もはや「活動写真」ではなく「映画」なのである。
 もちろん、問題がないわけではない。例えば、ストーリーの中盤では杉村邸での父子の対話と、令嬢の別荘での出来事が交互に描かるのだが、時間の長さが必ずしも現実の時間と一致しておらず、ちぐはぐな印象を受けてしまう。例えば、杉村父子の口論が割合長く続いているにもかかわらず、別荘ではあまり時間が経過していない。また、杉村家でランプを点し夕食を摂っているから時刻は夜だと思いきや、別荘の屋外は陽が明るい。「イントレランス」であれば、4つの出来事は時代からしてまったく異なっているので、そうした違和感は感じられないのだが、「路上の霊魂」の場合出来事は1日半という時間の中で同時に進行していることになっているから、不自然に思えてくる。
 令嬢の別荘では、クリスマスツリーを飾ってクリスマス・パーティを催している。大正当時、このような家庭はほとんどなかっただろう。別荘に住む人たちの大部分が和装であるのに、令嬢と執事(茂原熊彦、牛原虚彦の変名)だけが洋装というのも何だかおかしい。さらに、令嬢のいでたちは巻き毛にフリルのついたドレス、大きなリボンといったお嬢様スタイルで、「散り行く花」(1919年米)のリリアン・ギッシュ(1896〜1993)を思わせる。「下妻物語」(2004年製作委員会)の深田恭子(1982〜)じゃあるまいし、21世紀の今日観てもかなり違和感を感じるところである。もっとも、当時はさほど西洋に関する情報もなかったのだから、案外こんなものと、憧れの目で見られたのかもしれない。実際、映画評論家の双葉十三郎(1910〜2009)は、このバタ臭さこそが面白かった
(*11)と回想している。それはそうとして、令嬢は11、2歳の設定だろうか? 当時21歳の英百合子(1900〜70)が、オーバーなリアクションで無邪気な少女らしく振舞うのにはさすがに無理がある。

*11 双葉十三郎「日本映画ぼくの300本」218ページ
 


「路上の霊魂」(1921年松竹キネマ)
令嬢を演じる英百合子
(「日本映画史T」179ページ)
 


令嬢のモデルとなった?
リリアン・ギッシュ
(「日本映画の誕生」83ページ)
 


 とまあ、「路上の霊魂」にはいろいろと問題があるのだが、今観ても決して古臭さを感じることはない。時代を考えれば、いかに画期的作品であったかがわかるだろう。だが、意外なことに帰山や谷崎ら他の「純粋映画劇運動」の作品と同様、興行的には成功しなかった。採算に合わないという理由で松竹キネマ研究所はその年の暮れには解散させられてしまうのである。小山内薫はこれを機に映画からは手を引き、1924年には土方与志(1898〜1959)と共に「築地小劇場」を設立し、再び新劇運動に戻ってしまう。しかしながら、彼の育て上げた島津保次郎や伊藤大輔らがその後の日本映画の黄金時代の一角を担うことになったのだから、彼の映画界への功績は余りあるものがある。
 「路上の霊魂」を始めとする純粋映画劇運動によって生み出された画期的作品のほとんどが当時の観客に受け入れられなかったのは、なぜだったのだろうか。それは、当時の観客が、字幕によって映画を観ることよりも、弁士による語りを聞くということを好んだからではないか。当時の活動弁士はそれだけ人気があったし、観客は上映作品よりも出演する弁士が誰かによって劇場へ足を運んだともいう。一般の観衆は、どうしても変わらないものを好む傾向にある。考えてみれば、テレビの「水戸黄門」(TBS/1969〜)が30年以上も変わらない人気を保っているのは、そのマンネリゆえではないか。
 しかし、純粋映画劇運動は他の映画人たちに、少なからぬ刺激を与えたようで、その影響はその後様々な形で現れてくることになる。
「渋川伴五郎」(1922年日活)がそうであったように、老舗映画会社の日活は永らく女形を使用していたが、1921(大正11)年になってようやく女優を採用し始める。これに抗議したベテラン女形たちは翌年ベテラン日活を退社し、国活(国際活映)に移籍するが、その国活は1925(大正15)年2月に経営破綻し解散。女形の伝統は途絶えることとなる。その一方、活動弁士のほうはサイレント期を通じて存続し続けるが、それまでの陰台詞は廃止され、一人の弁士が状況と会話を説明するというより地味なスタイルへと取って代わられた。やがて、こうした動きの中から多くの名作が生まれ、日本映画は最初の黄金時代を迎えるのであるが、それは次回以降に見ていくことにしたい。
 



「路上の霊魂」(1921年松竹キネマ)
(左より)久松三枝子、東郷是也、澤村春子
(「日本映画の誕生」119ページ)
 


 2002年3月に僕は「谷崎潤一郎の映画製作」という論文を「実践学園紀要」に発表
した。その第2章は「映画の誕生と日本上陸」というもので、映画の誕生から日本への輸入。さらには1920年代の純粋映画劇運動に至るまでの流れを簡単に追ったものだった。その前半部分は「エキゾチック・ジャパン」にほぼそのまま使用している。今回も、あわよくば使い回しを、と思ったのだが、読み直してみてあまりに不十分であることがわかり、結果的にはほとんど全部を書き直すことになった。それにしても、今書きあがった文章を見直すと、まるで教科書のような内容になってしまっている。僕が実際に観た映画を中心に取り上げるこのエッセイの趣旨ともだいぶかけ離れてしまっているが、映画史的に重要な作品のほとんどを観ることができないのだから仕方がない。どこかの倉庫に眠っているそれらのフィルムが、今後陽の目を見ることになるのを切に願うばかりである。
 

(2005年5月1日)


(参考資料)
帰山教正「活動写真の創作と撮影法」1917年7月 飛行社
田中純一郎「日本映画発達史 T」1957年1月 中央公論社
「世界の映画作家31/日本映画史」1976年7月 キネマ旬報社
淀川長治「淀川長治自伝 上」1985年6月 中央公論社
「日本映画の誕生/講座日本映画1」1985年10月 岩波書店
岩本憲児「小山内薫と映画」1986年1月「早稲田大学大学院文学研究科紀要 32」
御園京平「活辯時代」1990年3月 岩波書店
光の誕生 リュミエール!」1994年5月 朝日新聞社
佐藤忠男「日本映画史1 1846−1940」1995年3月 岩波書店
都築政昭「シネマがやってきた!―日本映画事始め」1995年11月 小学館
わかこうじ「活動大写真始末記」1997年9月 彩流社
四方田犬彦「日本映画史100年」2000年3月 集英社新書
「活動弁士/無声映画と珠玉の話芸」2001年12月 アーバン・コネクションズ
双葉十三郎「日本映画ぼくの300本」2004年6月 文春新書

「図説日本文化史大系 第11巻 明治時代」1956年9月 小学館

シュミットボン/森鴎外訳「街の子」1938年6月 岩波文庫
ゴーリキー/湯浅芳子、横田瑞穂訳「世界文学大系49/ゴーリキー」1960年12月 筑摩書店
トルストイ/米川正夫訳「復活 上・下巻」1950年12月 角川文庫
 

目次に戻る

サイレント黄金時代(20)「モラルの幻想」へ戻る

サイレント黄金時代(22)「大君降臨〜日本映画の父・牧野省三〜」へ 進む