4月3日(木)[@] “「アンゼラスの鐘」サンパウロでの上映会の報告を、有原監督が執筆してくださいました(上)”

 お元気ですか、桜が満開になり始めていますか?

 私は、アンゼラスの鐘上映会が終わり、一行が帰られたあと風邪のためダウンしてしまいました。
 今、熱は下がりましたが、まだ気分が悪く気力が元に戻りません。
 今度の上映会のことを皆様に知らせようと思いながら時間だけが過ぎていきます。

 幸いこの映画を監督して下さった有原誠治監督が、帰国報告書という形でまとめて協会に送って下さいました。
 それを許可をいただきましたので、掲載させていただきます。

 斉藤やす子さんもダウンされましたがもう働いておられます。
 一番元気なのは森田会長です。

(盆子原 国彦)

 「サンパウロ上映会の報告」

 サンパウロでの上映会と平和交流は、在ブラジル原爆被爆者協会のご奮闘のおかげで大きな成功を収めました。
 26日の日伯文化協会での上映は、参加者がほとんど日本人のお年寄り400名ほどでした。なんと、ポルトガル語の字幕挿入が間に合い、とても喜ばれました。午後1時開会でしたので、子どもや若者はほんのわずかでした。在ブラジルが長いといえども日本人、質問や発言もなく静かな上映会でした。
 27日 午前中のサンフランシスコ、デ、アシス校での上映は、参加者が230名ほど。幼稚園から高校生までが学ぶ私学のクリスチャン学校で、校名がなんと、秋月先生の洗礼名と同名で縁を感じました。鑑賞した学童は小学高学年、中学生、高校生はチラホラほんのわずか。高校生は試験期間で参加ができなかったそうです。とても残念だったのは、会場が明るく、しかもスクリーンが小さく、せっかくの字幕が読みにくく、席後方の学童達は残念ながら鑑賞に集中できませんでした。しかし、上映後に盛大な拍手と歓声が上がり、中学生たちから質問があいつぎ、よい交流ができました。
 
 午後、ジメンソン高校上映は、視聴覚設備のよい会場で参加者が90名。狭い教室が学生達でいっぱいでした。私達が紹介されると、一斉に大きな拍手、口笛、歓声が上がるのはここも同じ。開放的なお国柄を感じました。
 会場のよさもあって、上映中はとても集中してみていました。被爆シーンでは驚きの声があがりました。母親が子どもを救うシーンでは、女性教師が泣きながら「とても見ていられない」と会場から出てきて、落ち着くとまた戻って見てくれました。上映終了後も大きな拍手。そして、私達にさまざまな質問があいつぎ、デスカッションと交流は1時間以上つづきました。
 高校と聞いていましたが、小学生や中学生、さらには大学生と思われる子ども達がいて驚きました。聞けば、成績次第で入れる学校で、授業について行ける子は低年齢でも学べ、成績の悪い子はいつまでも卒業できないのだそうです。
 
 夜のイビラプエラ大学は、圧巻でした。
 講堂は300席、私達が到着した6時半ごろは学生一人いませんでした。立派な会場に定刻が近づいてもパラパラの参加。このままじゃじゃさびしいなぁと思ったのですが、予定の7時を過ぎると学生達が次々とあらわれ、たちまち満席。20分過ぎても来場する学生達が絶えず、通路やスクリーン脇まで座り込んでの観賞会となりました。高見山関(古い)のような体格の学長までが参加、私達が紹介されると拍手と口笛と歓声で歓迎する様子はここでも同じでした。
 上映終了後にも、大きな拍手や歓声が上がりました。9時からのデスカッションには、夜の授業のない200名ほどが残って参加。核廃絶は可能か、日米関係はどうなっているのか、原爆を落としたねらいは?大学生らしい知的な質問があいつぎ、学長や教授たちまでが熱心に発言。学生達はとてもまじめで熱心です。授業が迫った学生達から静かに少しづつ退場して行きます。結局、デスカッションは10時過ぎまで続き、終了後も学生達は話しかけてきて握手と写真撮影で交流、学校を出たのが11時近く。ホテルに帰ったのが11時半。この夜は、とうとう夕食を逃してしまいました。
 こちらの大学はどこでも、働く学生のため、午前、午後、夜と選択して学べるそうです。肌の色もさまざま、明るくにぎやかで開放的なブラジルの若者達ですが、好奇心、向学心、向上心などの意欲がとても大きいと感じ、ついつい日本の大学生達の現状と比較してしまいました。
 
 28日、午前中から、日本人が創設し経営する私立ピオネール校で上映。上映後に交流の予定でしたので、私達は11時ごろに訪問したのですが、なんと二度目の上映中途のこと。最初の上映で感動した校長先生達が、その時間に見れなかった学生達のために急遽上映することにしたのだそうです。その終了を待つ私達は給食室で給食を御馳走になりましたが、おにぎりや味噌汁も出て、おなかの中からとても満たされました。
 この学校は、最初花嫁学校としてスタートし、今では幼稚園から高校まで学べるとのことでした。サンパウロ日系人達の多くの子ども達がここで学ぶのだそうです。
 上映終了後、数人の中学生達しか残っておらず、その子達と高校生平和大使の二人が交流しました。
 
 午後、2時過ぎから、パウリスタ教育委員会で上映。
 平和教育に熱心な教師達の働きかけによって実現した上映会で、当初は「数百人の教師を対象にしている。」と聞いていました。が、会場となる部屋は50名ほどの席しかありません。定刻を過ぎてもパラパラしか人があらわれず心配しましたが、やがて中学生たちがぞろぞろ集まってほぼ満席となりました。予定していた教師たちに、他の会議が入って参加出来なくなったのだそうです。
 ここでも、上映後のデスカッションは学生教師ともども熱心です。中学生から「長崎で、戦争を身近に感じることはありますか?」との質問があったとき、平和大使の井原歩さんが被爆したおばあさんが癌で亡くなったことを涙ながらに語って、核兵器を今すぐなくして欲しいと答え、大きな共感を呼びました。質問した子は、「質問し、辛い思いをさせて申し訳なかった」と語ったそうです。
 
 上映会の大きな成功は、ひとえに在ブラジル原爆被爆者協会(森田隆会長)による証言活動と、平和教育に熱心な教師達の長年に渉る交流が築き上げた土台があってのことと痛感しました。とりわけ、80才を超えてる森田さんは、どの学校でも子ども達に大人気。教師達の尊敬を集めています。証言活動の深さ、大きさを感じました。
 この件につきましては、また別途報告したいと思います。
 
 ちょっと残念だったのは、高校生平和大使二人が、サンパウロに入ってから体調を崩て発熱し、26日、27日には用心を取ってホテルで休養せざるを得なかったことです。ペルーからの強行日程で、疲れが出たようです。幸い、被爆者協会に身近な日本人医師がいて数度見舞ってくださり、我々や高校生たちも安心して過ごせました。28日には完全復帰できたのですが、上映会が多かった27日までホテルで過ごさねばならなかった笛田、井原二人は、とても悔しい思いをしたようです。
 
 では、とりあえずの帰国報告とします。
 
   2008年4月1日 ありはらせいじ 

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