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さらに遠い遠い昔、生まれる前の話

 

 

 

 

 上本町六丁目、上六として知られているところ。父、祖父、それ以前の故地ということで、天王寺石ケ辻と、旧天王寺(旧南区)現在中央区上汐を歩いてみた。生まれて初めての経験(2019年11月)。


 父の出生地は、石ケ辻となっており、森庄助という高高祖父の居所と番地も一致する。が、昭和32年の改製戸籍では、上汐となっており、これは高祖父の居所と番地も一致する。上汐の高祖父は、嫡出子3人とも女。男は、高祖父の弟の子を養子とした祖父だけ。三姉妹の上二人は嫁ぎ、三女は独身のまま、蔵と一緒に住んでいるというのは、1966年に、さっぱり、はっきり物を言う父方の性癖のその人から聞いた。その蔵は、これかと眺める。もう、人が住んでいる気配はないが(2019年11月)。

 

 

 

 

 

 私の生誕地は、十三東之町、木川西という辺り。父母は連れ添って阪急宝恊三国に間借りしたが、父が酔って帰ってきて、家主の犬を殴り、母は身重だったが追い出された。母の母が、木川で、戦前は糸屋。戦後は食べていくために、八百屋をやっていて、その近くに小屋を借り、そこで私は生まれた。


 母は小学校に入る頃に父を亡くしており、家庭はけっして裕福ではなかった。当時のニッポン人は、ほとんどみんな貧乏であったが。

 母の口癖は、十三小学校で毎年、優等証書をもらい卒業式で答辞を読み、女学校でも同様に優等証書、卒業式で答辞を読んだというほど、勉強がよくできた。貧しいと、勉強ができても、大学に行かれへんと、私は物心ついた頃から、繰り返し聞かされた。ただし、そういうことは耳蛸になるほど聞いたが、「勉強しろ」と言われたことはなかったし、かんばしくない通知表に何か言われたこともなかったし、学習塾に通わされるということもいっさいなかった。勉強は、自分でやるものということだったか。

 このあたり、56年ぶりくらいに歩く(2019年11月)。

 

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