祝辞
私が、みなさんたちのところに座っていたのは、1985年の3月でした。ちょうど博士課程を終えるところでした。思い出すと、ちょうど博士課程に入る前、修士課程に在学している時、1980年から81年の間、オーストリアのウィーンで勉強をしていました。ご存じの通り、今世紀の初頭、この地は、きわめて著名な社会科学者たちを輩出したところでした。私の専門は、社会学ですが、その後、学位論文もそれにかかわる問題でした。そして、最近経験した3回の国際会議での報告の2回も、ここに関連する問題でした。
1980年から81年の頃のウィーンは、といっても、私にとっては初めての海外での体験であり、初めての海外での生活でしたから、それ以前の生活とは自らの体験では、比べようがありませんが、おそらく歴史上初めて西ヨーロッパの街になっていたように思います。つまり、極端なことを言えば、パリやロンドンと変わりのない街になっていたということです。この街の特徴は、歴史的に知られているように、東側への窓口であり入り口であったということです。しかし、私がその頃体験したことは、アラビア語、トルコ語圏からの人々は少なくありませんでしたが、ハンガリー、また当時のチェコスロバキアをはじめ、オーストリアと歴史的ゆかりのある国々への門は、かなりしっかりと閉じられていました。
1980年夏に、オーストリアの北、グミュンからチェコスロバキアのチェスカベレニースを通って、プラハ、そして当時まだあった東ドイツ、ドレスデン、ベルリンまでの旅行は、緊張の連続でした。愛想のよいオーストリアの出入国管理官に送られて、チェコ領に入る列車は、何重にもなった鉄条網を通りました、そして入ったチェスカベレニースの駅は、何ともひなびた、というより汚い、ペンキの剥げたそれでした。そして、愛想どころか、機関銃を持った国境警備員たちが、どんどん乗り込んできました。私のコンパアートメンは、私ひとりだったのにです。10日ほどの旅行でしたが、東ベルリンからマリエーンボーンというところを経てハノーヴァーに着いた時、ほっとした思いをした時のことを、今もよく覚えております。
そんな時代の留学、ウィーンの学生の安アパートというより、間借りをしていましたが、少しでも、いろいろ学びたいとも思い、家主に是非にと頼んで、テレビを置くことを許してもらいました。音に対する神経は、日本人とは違いますから、またオーストリアやドイツも、当時まだ基本的には、二チャンネルしかありませんでしたから、テレビに対する感覚は、日本人のそれとは大いに違っていました。なけなしの金を集めて、シャープの白黒テレビを買いました。「このテレビは、あんたのところで作ったものでしょ」と話してくれた、電器屋のおばさんの顔を、今も覚えています。テレビを見ていて、しばらくして気がついたのは、ニュースで報じられる議会の内容、そしてここの議会は、よくしゃべるなぁという思いでした。そして、若く長髪の、よくしゃべる政治家、それが私が初めてみたJoerg Haiderでした。今、日本の新聞やテレビでも見ることができますね。間借りをしていましたが、基本的には、パン、コーヒー、野菜、肉ソーセ-ジ類などは、当然食事をしますから買いに行くことになります。スーパーマーケットにあたるものは当然ですが、すでにありましたが、そしてSupermarktという英語から転成したドイツ語もありましたが、日本のいわゆる大型店を知っていた私には、どちらかと言えば、たいへん小さなスーパーでした。小さかったゆえに、足りないものもいくらかあり、そうなるといわゆる商店に買いに行くことになります。とくに、食べ物は、東京で習うドイツ語では学ぶことのない呼び名です。そう、オーストリアは、もちろんドイツ語の世界ですが、日常接することの多いものは、その地の言葉になります。これは、日本語でも同じですね。とくに、ウィーンは、方言のきわめて強いところで、何を言っているのか、わからない。市電の運転手が、何かぶつぶつ言いながら運転している。言っていることをわかろうと、テープレコーダーで盗み撮りをして、あとでこれは何て言っているんだと、友達に聞いて、言葉を覚えようとしたこともありました。
ある時、立食パーティで、ソースがかかった食べ物を勧められました。勧めた方は、珍しく音楽学生ではない、日本人においしものを教えてやろうと思ったのでしょう。Lungenbraten という言葉を聞いた時、Lungen、これは肺ではないか。肺なんか食べたくないなぁと思ったことがあります。ただ、見た目はそういうふうには見えなかったのですが、言葉は事物を規定する性質もありますから、肺なんか食べたくない。私の観念連想では、肺、そして肺ガンに冒されたホルマリン漬けの肺という、妙な連鎖が作られていたからかもしれませんが、この時は、見ただけで、食べませんでした。しばらくして、ヒレ肉のローストとわかり、食べればよかったと思ったことがあります。まぁ、そんなこともあり、また若かったこともあり、その後、肉料理に凝りました。ところどころにある、肉屋で、パンにはさんだ肉を買って食べるのが、昼飯であり、夕食であり、それが留学中の食生活となり、いろいろな知識を習得するきっかけのひとつとなりました。
その後、1週間、2週間、あるいは1ヶ月の単位で、訪れることがありましたが、92年、この年は1年間を過ごしました。連れ合いもいっしょだったこともあり、食べ物についての呼び名について、それまで以上にずいぶん聞き知るようになりました。当時、ハイダーはすでに党首になっていました。かつて80年から81年の留学時代、オーストリア自由党の党首であった、ノルベルト・シュテイガーという人はもはやその地位を失い、ハイダーが党首となっており、ちょうど92年にオーストリアに滞在している時、自由党は分裂しました。その後しばらく、東京での仕事が忙しく、去年、久しぶりにウィーンに1カ月いることができました。驚いたのは、街の変わり様。もちろん、東側からの人々が多くなっているというのは感じましたが、それよりも何よりも、私、そしてつれあいが感じたのは、たくさんあった肉屋さんが、なくなっているということでした。おいしいカツをはさんだパン、ハムをはさんだパンを食べに行こうと、昔なじみの道を歩いて、楽しみに、足取り軽く、スキップにもなりそうな気持ちで、るんるん行ってみて、目にしたのは、マクドナルド、あるいはピザハット。その時のがっかりは、食い物に関係していますから、みなさんも想像できるはずです。こんなものなら、東京にもあるというがっかりでもありました。スーパーマーケットも大きくなり、聞けば、みんなドイツ資本になっています。
オーストリアの政治状況は、この急速な変化にあります。全就業人口の過半数が、第三次産業就業人口で占められるようになったのは、日本では、1970年代前半です。私が、小学校の社会科で学んだ日本社会は、まだ第一次産業就業人口が多い社会でした。アメリカでは、1939年に第三次産業就業人口が全就業人口の過半数を超えたということになっています。面白いのは、西ドイツは、1981年、オーストリアは、さらに最近になります。これは、辻角の肉屋さんが、マクドナルドへと急速に変化してしまう現象を示しており、オーストリアや南ドイツでは、これが、きわめて早いものに感じさせるものです。
1980年、初めてウィーンに来た時には、ウィーン市内、私がちょっとあれこれ街を見て回って、目にすることのできたマクドナルドは、たしか2軒。92年には、3軒。昨年は、もう数え切れないほどでした。生活にゆとり、経済的なゆとりがある間、われわれは、おそらくわれわれとは区別される「彼ら」、すなわち外国人にも寛容であります。急速な変化、これは時に便利です、日本、いやアメリカの郊外大型店舗のようなスーパーマーケットがウィーン近郊にも出来上がっています。そこでは、もはや、日本のドイツ語辞書にはないような単語をさがさなくてはならない、食品名のものも、手にとっと、カートに入れるだけですみます。肉屋さんで、やはり辞書にはない名称を使って、買い物をする苦労、いや楽しみは、消え失せました。その意味では、「そんな事も知らないで、ここに住んでいるのか」という顔で見られないですむという意味での快適さが生まれたのかもしれません。
しかし、そうした一種、近代化、大型化は、どこかでの痛みを伴っています。変化が激しければ激しいだけ、そして早ければ早いだけ、さらには変化することそれ自体、しかも変化の早さに高い価値がおかれる現代、われわれは、そこに潜む、歪み、痛みに目を向けることができる力量を持っていなければならないと思います。これから活躍されるみなさんは、さらにそれが求められるかもしれません。
現在のオーストリアにおいて、EUに入ったから、こんなことになったという結果についての評価は、間違っていないところがあります。しかし、そう思い続けることでしか、現状を確認できなくなってくると、問題は別の次元に移行します。
日本の社会のさまざま方面での舵取りは、これから、みなさん方の多くに頼ることになるはずです。是非とも、変化と変化が生み出すものを、よく見ることのできる、見通せる目を持ち続けてください。変化を求めること以上に、いやそれよりも、変化、急速な変化に対して、変化しない部分をつねに保持できる、見据えることのできる、強いパーソナリティを保持して、活躍されることをお祈りしております。
私が代表幹事をさせていただいている、証券奨学同友会は、すでに2000人以上の会員を擁しています。例年、11月第1週は東京で、第3週は関西で、懇親パーティを開催しています。昨年は、どちらも最近にない盛会でした。急速に変化する、あるいはせざるをえない日本の社会ですが、そして、毎年毎年、みなさんも変わりますが、集まり、集まるということは変わらないままに、すでに私が幹事を引き受けて、最初は早稲田大学の幹事、そして関東地区の幹事、そして今や代表幹事を引き受けさせていただいておりますが、すでに通算して十年以上になっています。変化しつつ変化しない、変化しないで変化する、このパラドクスが、これからも保持していくことが、何よりも重要です。今年、新しく会員になられる、みなさまも、是非、秋には顔を見せてください。
また、急速かつ激変の日本経済の今日にもかかわらず、若い奨学生たちに、育英という変わらぬ理念を保持し続けている証券奨学財団に、まさしくその典型を見て、また感謝して、私の挨拶とさせていだきます。
2000年3月17日
証券奨学同友会代表幹事
森 元孝
Copyright 2025 Prof.Dr.Mototaka MORI