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祝辞 
  学部、大学院修士課程、博士課程、それぞれの学業課程を終えられ、4月より新しい道に進まれることを心よりお慶び申し上げます。と同時に、証券奨学同友会の会員になられることを歓迎します。この同友会も発足以来22年目を迎え、会員数も昨年すでに2,000名を超えております。


  思えば、私もすでに12年前となりますが、この証券奨学同友会のメンバーとなりました。12年で代表になれるのなら、俺も、私も積極的にやってみようと思われる方々も少なくないでしょう。大いに、参加してください。


  皆さんが奨学生として過ごされた2年、あるいは3年、さらに言えば、大学学部に入学された頃から、すなわち学部奨学生の方であれば4年前、修士課程奨学生の方であれば6年前、そして博士課程奨学生の方であれば9年前、そしてそれ以来、皆さん方の学業期間のほぼ全期間、ご承知のとおり、日本の経済状況はきわめて悪く、構造転換、構造変革も、対症療法的な経済政策の実施の時代ではなく、企業組織全体のそれどころか、私の属する大学などの教育機関においても、制度変更は待ったなしの状況になっております。日本的経営のみ ならず、日本的人格についてまでも、飲み食いの仕方から、コミュニケーションのそれまで転換、変革を迫られている時代になっています。


  かつては、この証券奨学同友会も、他の、まったく異なる業界の誰それさんを、この会をつうじて知っている、あるいは、かの会社の誰それさんであれば、この同友会でのコネクションで頼み事のできる、そういうことのために重宝な会であると紹介され、宣伝されたことがありました。私自身、幾度となく、そうした話を聞いてきましたし、そうした風景は、これからも実際にあり、そして実際に重宝することも多くあるでしょう。


  しかしながら、長い不況は、日本の構造の転換を、コミュニケーションから習慣、そして人格のレベルにまで迫っています。かつて、企業に全身全霊を捧げること、一生を、まさに今皆さんが遭遇されている、この学業課程の終了とともに、設計し尽くす、例えば、数年後にはこの部署に、十数年後にはかのポジションにという形で、人生行路を設計できるという予測可能性は、今の日本社会においては急速にそのもっともらしさを失っていっています。そうしたスタイルの人生設計は、これからはひとつの選択でしかなく、もっと多様なライ フ・スタイルの選択が可能な社会にならざるをえない、そうした時代の始まりに、皆さん方がおられると思っています。ある道一筋という生き方は、いくつかある中のひとつの選択ということが必要かと考えます。


  経済の規模が、いわゆる右肩上がりで、つねにパイが拡大し、その分配される分け前もつねに少しずつではあるけれども大きくなっていっていた時代は、人類の歴史においては、かなり特殊な社会であり、物質的な分配については一定の飽和状況に達した、今の日本社会においては、ある目的のみを設定して、それのみを実現するために、すべての構造化していく人生というものは、特殊なものとなりつつあると思います。


  昨年よく売れた書に、アメリカの著名な投資コンサルタント、ピーター・バーンスタインのAgainst the Gods訳せば「神々に逆らって」という書がありました。邦訳は、『リスク』というものでしたが、このリスクこそ、われわれのいる日本社会が、これから明瞭に理解して__いかなければならない概念かと考えています。


  というのも、「リスク」を「危険」と訳してしまいうるのがまだ普通の状況であることを考えてください。今ひとつ本をあげれば、すでに八六年に、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックという人が、書いたRisikogesellschaftという本があります。この本、英訳は、そのままRisk
Societyという題名となり、母国ドイツのみならず、そしてとくに英訳は、イギリスで専門書としては異例なベストセラーになりました。


  面白いのは、邦訳では『危険社会』とされていることです。敢えて誤訳をあれこれ言うつもりはありません。むしろ、リスクを、日本語でそれに対応する言葉に訳そうとしたところに失敗がありました。あるいは、またリスクを、きわめて限られた経済学の用語、投資のリ
スクというような意味でのみ捉えてしまうわれわれ日本人の語感そのものにこそ問題がありました。


  多少ペダンチックになりますが、イギリスの著名な人類学者メアリー・ダグラスは、日本社会には、リスクの概念が存在していないことを彼女のいくつかの研究で指摘しています。 「危険」は、その反対語に「安全」という語を見つけることができます。ところが、「リスク」に反対語はありません。「危険」と「安全」とが対応して、ひとつの概念を形成しているのに対して、「リスク」は、論理学・哲学いうところの「反省概念」「リフレクシブな」概 念であり、リスクの処理は、ただちに新たなリスクの発生を予定しており、そしてそれの処理もまた、新たなリスクの発生を意味するものだという性質を理解する必要があります。


  種々の調査、例えば今日の朝刊各紙にもあがっていましたが、貯蓄動向調査のようなものも詳しく見ると88年から91年にかけてだけ、われわれ一般の国民の保有する預貯金について、証券・債券を保有する比率が顕著に高くなっているものの、それまで、そしてそれ以降は、顕著に低くなっています。株のような危険なものは持たないというのが、その雰囲気です。これこそ、変わらぬ日本社会の特徴で、ダウ平均10,000ドルを超えたニューヨーク株式の原動力であるアメリカにおける投資信託の普及、そしてそれへの信頼とはずいぶん異なった様相に、まさしくはっきりと現れています。明らかに、リスクを犯さず、言い換えれば、リスクというものを知らず、ただ貯めておくというのが、われわれの社会のその特徴です。


  しかし、この数年で明瞭になってきたのは、貯めておくことも、実はリスクだということです。言い換えれば、敢えてリスクを犯さないことも、実はリスクを犯しているということです。
かつては、時間をかけ、着実に貯めていくことが、成功への近道であり、単線的な人生選択が最も着実で、かつ美的なものとされてきました。しかし、投資のリスクのみならず、貯蓄をし続けることのリスクは、どの銀行に貯金をするかという選択と密接につながっており、そのリスク計算は、これから現実化していくことであります。少し違った見方をすれば、「最終的に保証してくれるとされてきた、政府の保証というものさえ、言い換えれば政府自体も、リスクを、そしてそこでの主体である政治家、官僚が、自らの存在意義について
リスク計算せねばならない時代になってきたということです。


  銀行を政府が保証すること、一般預金者を保護するという名目の保護が、実は、新たなリスク、政治のさらなる信頼喪失というそれを犯すことにもつながりかねないし、また日本国そのものが、投資不的確国として烙印を押されるリスクが、今の国際社会には存在するようになったということであり、それがわれわれの日常生活とも無縁のものではなくなってきたということです。昨今の、政府による大手銀行への資本注入、不良債権の処理、これがただちに不良債権の完全処理をしてはいないということを理解する必要があるように思います。


  たしかに、日経平均は16,000円を超え、ある種の安定感を醸し出しているやもしれません。また、景気が回復基調になるとも言われますが、また不良債権の処理はたしかに即時実施せねばらないものでありましたが、処理したことが、今や処理しないままにしておいたこととは異なった局面で、新たなリスクを生む時代になっているということ、このことの自覚が必要なように思います。


  われわれの人生も、そうした再帰的。あるいは回帰的な、リフレクシブ、あるいはリカーシブな、関係で構造化されているリスクに接しています。敢えてリスクを犯さないということ、それ自体が、リスクであり、リスクを知らない社会は、それ自体、まさに危険社会です。
ある行い、ある選択が、つねにリスクを負うこと、皆さん方の進路選択もそうであり、そして四月からの一歩もまさにそうであります。よりよい選択は、つねに未来を見つつも、決定は、今現在行うことに依拠しています。しかし、その決断は、その今が過ぎると、ただちに次のリスクを生むことになります。そうした構造の中で、われわれが生活をしていくことを自覚する必要があるように思います。そして、そのことは、先にお話した貯蓄動向調査の結果などに表されてくるように考えています。


  バブルの時期には、たしかに証券を保有する人が比率の上で大きかったのです。しかしながらこの時代は、「リスク」の意味をほとんど知らなかったと私は解釈しています。金余りの中、余った金を、あるどこかの営業マンの言うままに括弧つきの投資をしたということでしかありませんでした。「ハイリスクハイリターン」というような表現はそれくらいの意味しかありませんでした。しかし、この括弧つきの投資は、後に損失補填を求める人間行動そのものの裏返しでしかなかったことも証明されているように思います。そうした「投資」が、今の証券・債券への、日常社会の常識的敬遠であり、きわめて低い金利にもかかわらず、貯金することに執着するのがわれわれ日常人の関心です。


  ただし、こうした関心は、非常に消極的な選択であり、それ自体、これからの社会においては、大きなリスクを負うことになるはずです。そして問題なのは、それがリスクであるということを知らないままであるところにあります。そうした姿勢は、やはりまだなお、挫折すると、誰かの責任にし、誰かに頼む、損失補填要求と、それにより発生不良債権を先送り
するという、隠蔽する行動に結びつくものでしょう。


  これまで10年の日本の経済社会がわれわれに教えてくれているのは、そうした補填要求と、先送りをし続けたこと、このことは、実は、リスクということを知らなかったということ、そしてそうした社会であり続けていられた時代であったということであり、そして今やそれが終わったということだと考えています。


  資産形成のみならず、人格の形成、教養の形成においても、選択と決断は、つねにリスクを負っています。そして、損失することと利益を得ることの不確実性につねにつきまとわれ続けます。そうした損失のリスク、利得の不確実性のもとでの、行動パタンを、是非磨いて、リスク社会で巧みに、リスク計算をしつつ余裕で生きていかれることをりをし続けたこと、このことは、実は、リスクということを知らなかったということ、そしてそうした社会であり続けていられた時代であったということであり、そして今やそれが終わったというこ
とだと考えています。リスク社会で巧みに、リスク計算をしつつ余裕で生きていかれることをお祈りして、お祝いの言葉とさせたいと考えております。


  なお、証券奨学同友会は、毎年、東京においては11月第1週の金曜日、大阪においては11月の第3週の土曜日に総会・懇親の会を開催しております。今年も、その予定です。揮って御参加下さい。そして、皆さんそれぞれのリスク分散と計算の処世術を ご披露下さい。


  最後に、自らにとっても難しい時代、皆さん方の学業を、まさに黙って応援してくれてきた証券業界の善意を理解し、そしてこれからの日本社会の変貌の姿を、この業界そのもの変化として、われわれに垣間見させてくれる、そういう時代の、そういう会、それが証券奨学同友会の今の役割かと私は感じております。


  11月、皆さんの御参加をお待ちしております。


1999年3月17日


証券奨学同友会代表幹事

森  元 孝

 


 

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