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SBQのバンド専用のホームは、僕らのものより、かなり小さかった。三人しかいないので、スペースは充分にあるが。他のバンドと同じように、スタッフ用には別にテントが用意されていたから、中にいたのはリズム隊の二人だけだった。テーブルには飲みかけのドリンクや食べ物が散らかっていて、煙草の匂いがする。リズム隊の二人が、予備の椅子を持ってきてくれた。
「ね、ところでシルヴィー、じゃなく……君はシルヴェスター・バーンズなんだよね。サニーサイド農場の」
エアリィは椅子に座るや、すぐに話の続きにかかっていた。
「そうだよ」相手は頷く。
「雰囲気、全然変わったね。それに顔も。最初、わかんなかったよ」
「顔はいじったからね。デビュー前に整形したんだ」
「そうなんだ……でも、なんで顔変えたの?」
「僕は、君のような天然の美貌には恵まれていないからね、アーディ」
「それ、関係ないと思うけど。いろんなバリエーションがあるからいいんだと思うし」
出た、バリエーション論。おまえは本当にそうだよな、と僕はちょっと苦笑いした。優劣ではなく、バリエーションに過ぎない、と。ただ、そういうことは持てる側から言うと、一つ間違えば嫌味にとられるぞ、とも思える。まあ、持たない側が言ったら、単なる負け惜しみにしか聞こえないだろうし、難しいところだが。
シルーヴァも苦笑に近い笑いを浮かべていた。
「いや、本当のところは、レーベルの担当者とマネージャーが言うんだ。もう少し精悍な顔になったら、その方が売れると。僕も、その路線なら悪くないかなと思った。だからさ」
「そうなんだ、でも、顔だけじゃない。ほんと、雰囲気変わったよ。シルヴィー、昔はおおらかでフレンドリーな感じがしたんだけど」
「今は違うと。君には、どんな風に見える?」
「うーん。なんか、尖った感じ。あと、すごく影が出来た……ように見える」
「鋭いね。まあ、あれからいろいろありすぎたからな」
「あれから、どうしてた、シルヴィー? ごめん、どうしてもそう呼んじゃうけど、君に会ったら、聞きたかったんだ。あれからどうなったかなって……」
そこまで話して、エアリィも僕の存在を思い出したのだろう。
「ああ、ごめん、ジャスティン。おまえには、わけわかんない話、先走っちゃって」
「まあ、なんとなく察しはついたけれどな。知り合いなのか、彼と」
僕はそこで、やっとそう聞くことができた。
「うん。しばらく彼の家でお世話になってたことがあるんだ」
「いつごろ? プロヴィデンスでか?」
「いや、プロヴィデンスに行く前だよ。ニューヨークでなんだかんだあったあとで、しばらく静養しなさいって、病院の先生に勧められて。それで退院してから、母さんの知り会いの、そのまた知り合いの人の農場にお世話になったんだ。教会より、そっちの方が効果的だろうって言われて、それでね。自然セラピーとか、牧場セラピーとか、そういう奴。僕が行ったのはサウスカロライナにある、サニーサイド農場っていう所だったんだけれど、そこの家の子が彼だったんだ」
ニューヨークにいたころ――エアリィにとっては母親の愛人にひどい虐待を受けた、地獄の時代だった。それが幼かった彼に及ぼした心身への影響を考えれば、そのリハビリ的な意味でしばらく農場に預け、のびのびさせてトラウマを和らげるというのは、たしかに頷ける療法ではある。そこで彼らは、出会っているわけなのか。今から十二年前。エアリィは当時六、七歳で、シルーヴァは十一、二歳くらいだった計算か。
そういえば、エアリィの部屋に行った時、壁のコルクボードにとめてあった何枚かの写真の中に、農場をバックにしたものが一枚あったことを、僕は思い出した。がっしりした中年の、髪が半分白くなった黒人男性と、ふくよかな体型の、同じような年頃の黒人女性、その間に立った十二歳前後の少年。それが今のシルーヴァの子供のころだとしたら、たしかにあまり面影はない。浅黒い皮膚にウェーブがかった黒髪を後ろで結び、クリっとした目とふっくらした頬の、どちらかといえば可愛い感じの少年だった印象がある。そして三人とも、にこやかに笑っていた。
「ただし、僕は父さん母さんの実の子ではなくて、養子だったんだが」
シルーヴァはそう言い足していた。
「えっ、そうだったんだ?」
「ああ。僕も知らなかったよ。父さん母さんがあんなことになって、親戚の連中が事実を暴露するまではね。僕は生まれて間もない赤ん坊のころ、父さん母さんに引き取られたらしい。僕は半分白人だということも、その時知らされたんだ。どおりで父母より色が薄かったし、髪もさほど縮れてなかったわけだな。だが血縁なんて、どうでもいいことだ。僕にとっては、父さん母さんが実の親だ。見も知らない生みの親なんぞ、知りたくもないさ」
「そうなんだ。うん、ホントにいい人だったね、バーンズの小父さん小母さん。小父さんはジミ・ヘンドリックスのフリークで、君にも良く教えていたっけ。シルヴィーはそのころから、もう結構ギター上手だったし。小父さん、君のために左利き用のギター、用意したって言ってた。こいつは才能がある! なんて喜んでたっけ。小母さんは朝から晩まで、歌いながら働いてたね」
「そう。父さんは昔、ギター少年だったらしいんだよ。ファンクとかソウルとか、そっちには行かないで、ロックをよく聞いていたらしい。ジミ・ヘンドリックスが彼のアイドルだった」 シルーヴァは懐かしげな表情になっていた。
「君が来ると聞かされたのは、一月の終わり頃だった。夕食の時、母さんが『知り合いの知り合いの子を、夏まで預かることにしたのよ』と言って。家では今までにも三人、何ヶ月かの間、農場体験で子供を預かっていたが――母さんが世話好きなのと、お金が入るのと、その子のためにも良い、一石三鳥だ。そう言っていた。僕は一人っ子で、まあ、養子だから当然だったんだが、兄弟が出来るみたいで、最初は期待したんだが、今まで来た奴は、なかなか一筋縄では行かないやつらばかりで、ろくなことをしなかった。だから僕もうんざりしていて、もうこれ以上よその子を預かるのは止めてくれよ、と母さんに言ったんだ。そうしたら母さんは、今までの子たちも、それまでに大人たちに歪められてしまったから、ああなったので、その子が悪いわけじゃない。それに今度の子は、その子たちより小さいのよ。白人の子だけれど、まるで天使みたいにかわいくて、でもとてもかわいそうな目に合ってきたの。だから、面倒を見てあげてね、と言った。僕は『白人かよ。また二番目の奴みたいに、黒んぼって見下すんじゃないのか』と内心思ったが……」
「ええ? そうなんだ。僕が最初じゃなかったんだ。今までの三人って、どんな子だった?」
「最初の奴はハリーって言って、プエルトリコ系の奴で、十歳だった。僕は当時八歳だったから、こいつの方が大きかったんだな。こいつは盗癖があって、なんでもかんでもかっぱらって、ベッドの下に溜め込んでた。言われても、しらを切りとおして。僕も金はもちろんだが、本やら鉛筆やら玩具やら、散々盗まれた。こいつは春に来て、二ヶ月半で母親のところに返されたが、その後のことは知らない。盗癖が直ってなけりゃ、今頃刑務所じゃないかと疑っているが。二人目はその二年後の三月に来た奴で、ジョナサンという、十一歳の白人だった。こいつはさっきも言ったように僕たちを黒んぼと見下し、触られるのも嫌がった。そして殺生が好きだった。ひよこを踏み潰したり、ウサギを蹴ったり。牧場の動物を苛めるんで、二ヶ月もたたないうちに、たまりかねて親元に返した。僕たちが期待をかけていた、生まれたての子牛を殺されたことが、とどめだったな。『どうせ必要なのは、牛乳だけだろ。厄介払いしてやったんだ。今日はステーキ食わしてくれよ』と平然と言っていた。こいつは二年くらい前に、女の人を殺して捕まった。いつかはやるんじゃないかと思っていたんだが、新聞記事を見て、やっぱりなと思ったよ。三人目はコールというアフリカ系の奴で、九才だった。極端におとなしい奴で、何もしゃべらないんだが、何かちょっとしたことがきっかけで、突然暴れだすんだ。手のつけられないほどに。おかげでいろいろと物を壊された。約束の三ヶ月で親元に帰った後、一年もたたないうちに、殺されたらしい。暴れたところを親も含めた数人で地面に抑えられて、窒息したそうだ」
「うわぁ、本当に……かなり歪んじゃってたんだ。最後の子は、生まれつきの障害みたいだし……なんか救いようがなくて……悲しいな。大変だったんだなぁ」
「そうさ、だからもうよその子供を預かるなんて、こりごりだと思っていたんだ。でも君を預かったことは大正解だったと、僕らはみんな思ったんだよ」
シルーヴァはにやっと笑い、指を振って話を続けた。
「君は農場に来た時には六歳八ヶ月で、でも四、五歳に見えるほど小さくて、折れそうに細い身体で、本当に絵に描いた天使が抜け出てきたような、芸術的な子供だったな。それに男の子と最初からわかっていなかったら、女の子だと思っただろうな、僕らも。でも、最初はわりとおとなしかったな。僕らが君の部屋に入っていくと、怯えたような反応を見せた。『遊ぼう』という言葉も怖がった。『やだ!!』って、首を振って。そのわけを、僕らは知っていたが。その前の年の九月半ばから十二月半ばまで、その間に君が受けてきた仕打ちを、君の仲介者が全部話してくれた。僕らは……父さんも母さんも僕も、言葉を失った。『あんな可愛い天使ちゃんを、そんなむごい目に合わせることが出来る人間がいるなんて信じられない。そいつはきっと悪魔だね!』と、母さんは涙を浮かべて言っていた。『でももう、そんな悪夢は終わったんだっていう事を、あの子にわかってもらわなきゃ。ここにはあなたを傷つける人は、誰もいないって』母さんはそうも言っていた。だからあえて僕らは君が怖がることをわかっていて、そうしたんだが。出来るだけ、なんでもないようにね。虐待された子供の心のケアというのは難しいと、僕らも覚悟したんだが、君は幸いなことに、相当に立ち直りが早かった。部屋へ入っていっても平気になり、『遊ぼう』って言っても『うん』と返せるようになるまで、二週間くらいしかかからなかったな。その頃、母さんが作ったとうもろこしのケーキを君が食べて、『おいしい!』とにっこりした時には、僕らは本当に嬉かった」
「あー、あのケーキ。ホントおいしかったな、ふわふわで。搾りたての牛乳と、とうもろこしのケーキ……懐かしいな、すごく」
「あれは母さん特製レシピなんだよ。家のかまどで焼くんだ。材料はコーンミールと卵と水と、黒砂糖だけだがね。素朴だけど、あれを超える味を僕は知らない。僕も時々、懐かしくなるんだ」
シルーヴァは再び懐かしげな表情を浮かべ、話を続けた。
「それから君は、笑うようになったんだな。君は本来明るくて人懐っこい子だったんだなと知って、君が本来の君に戻れて、僕らは嬉しかった。母さんは文字通り、君に夢中だったな。小さな天使ちゃん――Little Angelie――母さんは君をそう呼んでいた。でも僕がそう呼ぶと、君は嫌がったな」
「うん。ちょっと違和感だった。天使、じゃないし、僕は。本当に女の子っぽくなるし、その呼び方だと。まあ、シルヴィーもそうだね。僕が早くに立ち直れたのは、サニーサイド農場のみんなのおかげだよ。あそこに来て十日目くらいに、夜中にうなされて、叫び声をあげて飛び起きた時、バーンズの小母さんが部屋へ入ってきて。僕はまだ少し、部屋に誰かが入ってこられることへの怖さが抜けなかったけど……ぎゅって抱いて言ってくれたんだ。『かわいそうに。でも大丈夫よ、大丈夫。もう終わったの。安心して良いのよ』って。おばさんも泣きながら。僕も(ああ、終わったんだ、本当に……もうあいつの元に戻されることはないし、母さんもいてくれるんだ。この人たちは本当に、僕のことを心配してくれるんだ。良い人たちなんだ……おばさんの胸は、すごくあったかいな)って、本当にほっとして、納得できた。そうしたら、涙が止まらなくなった。『泣けば良いのよ。泣いて良いのよ』って、小母さんが髪を撫でてくれて……小母さんは本当に優しかったし、小父さんもそうだった。でも、あんなことになっちゃったなんて……」
インドの高原で僕に話してくれた時には、淡々とした口調で事実の積み重ねのように言っていたが、でも具体的な内容については、何も語らなかった。そこから、どうやって立ち直ったかについても。虐待者のところから逃げ出して、ストリートで生活しているうちに克服したのか、と僕は漠然と思っていたが、おそらくその期間は生存のために気が張っていて、心理的なダメージに蓋をした状態だったのだろう。当然のことながら、いくら精神力は強いとは言え、六歳の子供の心身に及ぼしたダメージは相当に大きかったのだな、と改めて思った。『僕もおとなしくて怯えていた時期もあった』と、あの時も言っていたし。でも、最後の言葉が気になる。
「あんなことって……?」
僕はためらいがちに、そうきいた。
「ああ、また先走っちゃった。ごめん、ジャスティン!」
エアリィはちょっと肩をすくめ、答えた。
「二人とも、亡くなってしまったんだよ、その一年後に」と。
「サニーサイド農場に、僕は四ヵ月半くらいいたんだ。そこで七歳の誕生日を迎えて、みんなでお祝いしてくれて。それから十日後に、母さんが迎えに来たんだ。今の継父さんと結婚して、プロヴィデンスへ行くことになったって。継父さん、そのころはブラウン大学で教授やってたから。それで、シルヴィーたちと別れたんだ。でも、来年の夏にまた、きっと遊びにおいでって三人とも言ってくれて、僕もきっと行くって約束したんだけど……車のリアウィンドウから、小父さん小母さんとシルヴィーが、農場の門で手を振ってくれてたのが見えた。それが、僕が見た最後の小父さん小母さんの姿だったんだ」
「僕らが君の母親に会ったのは、あの時が最初で最後だが、母さんも父さんも『へえ〜、まるでお姫様みたいな、べっぴんさんだねぇ。あの人の子供なら、天使ちゃんがあんなに可愛いのも、とてもわかるわ』と言っていたものだ。そしてね、君が行ってしまったあとの二週間ほどは、僕たち三人は本当に落ち込んだんだよ。『ああ、あの子がいなくなって、あかりが消えたみたいだわ』と、母さんがよく言っていた。僕もそんな気がしたもんだ。君のために精一杯のことをしようと、僕たちはそう思っていた。だけど僕たちが与えた以上に、君が僕らにもたらしてくれたものは、大きかったんだよ。でも、君はまた来年の夏に来てくれる、君が大きくなって大人になるまで、毎年来てくれれば良いと、そう思っていた。そうして一年がたとうとしていた頃、あの事件が起きたんだ」
シルーヴァが話を引き取った。
「発見したのは、僕なんだ。六月最後の日、暑い日だった。僕は父さんに頼まれて、村の店に買い物に行っていたんだ。そして、帰ってきたら……あの時の光景は、今でもはっきり覚えているよ。居間が一面血の海になっていて、斧で頭を割られた父さん母さんの死体が、床に転がっていた。強盗に襲われたんだ。しばらくして犯人は捕まったがね。近くの農場の雇い人で、金欲しさのつまらない動機だった。僕は養子だったんで、両親の親戚に引き取る筋合いはない。だが僕はその時十三にもなっていなくて、まだ独り立ちは出来なかった。いろいろもめた末、そのくらいの年になってりゃ、良い働き手にはなるだろうってことで、父さんの遠縁の男が――従兄の嫁の従兄の子とかいう、本当に親戚でもなんでもないが。そしてこいつは四分の一くらいアフリカ系の血が混じった白人だった。まあ、ともかくその男が、僕の面倒を見てくれることになったんだ。ジョージアの南部で農場をやっていた男で、もうすぐ四十になる独り者だった」
「僕はそのこと、七月になってから知ったんだ。七月の三週から一ヶ月、僕はそっちに行くことになってたんだけど、八歳の誕生日のお祝いカードをもらって以来、手紙が来なくなってた。連絡もつかない状態で、どうなったんだろうって、母さんがその知り合いに問い合わせてくれて……母さんは妹たちがまだ赤ん坊だったから、その知り合いの人が、僕をそこまで連れて行ってくれたけど、農場はもう閉鎖されてた。僕は小父さん小母さんのお墓参りをして、近所の人に彼のことを尋ねたんだ。そうしたら、遠縁の人を頼って、南部に行った。たしかジョージアあたりだと思うが、詳しい場所は知らないって。それで僕からは、もう連絡しようがなくて。『きっと落ち着いたら、また手紙をくれるわよ』って、母さんは言ってくれたけど、それっきり彼から手紙は来なかった。どうしてるかなって気にはなったけど、元気で幸せに暮らしていたら良いな、って願うしかなくて……」
「ああ、あの事件は全国紙には載らなかったからな。ローカル新聞だけだ。マスコミ連中にとっては良くある、つまらない事件だったんだろう。でも君は、うちまで来てくれたんだな……」
シルーヴァは煙草に火を付けようとして、途中で止めた。
「あっ、君は煙草を嫌いかい、アーディ? 僕らは普段、シンガー族とは一緒にいないから、その辺は気にしていなかったんだが」
「煙草はねぇ、あんまり好きじゃないな。でも体調の良くない時以外は、我慢できるよ」
「君が好きじゃないなら、やめとこう」
シルーヴァは煙草をケースにしまい、話を続けた。
「その後のことだが……聞きたいかい?」
「うん。でも……無理にとは言わないけど」
「話したくないようなことだったと、思うのかい?」
「ん……わからない。けど、なんか今、ちょっとやな予感がしてるんだ。あの時も不安だったけど……その新しい養い親の人、良い人だったらいいなって思ったんだけど」
「君のカンには敬意を表するよ、アーディ」
シルーヴァは苦笑を浮かべていた。
「察しのとおりさ。良い人どころか、新しい養い親は、とんでもない奴だった。酒飲みで怠け者で、乱暴者だった。学校へも行かせてくれず、さんざん人をこき使って、ちょっとでも失敗すると、殴る、蹴る、棒や鞭でぶちのめす。飯抜きで部屋に閉じ込める。僕も君が受けた苦痛を実感できたよ、アーディ。でも、君ほどではなかったかもしれないな。君は身体の小さな、華奢な子供だったから。でも、最低野郎っていうのは、似たようなものなのかもしれない。自分より力の弱いものを痛めつけて、楽しむ奴は。おまけに奴は、性的倒錯者だった。僕があいつの家に行ったその晩に、あいつは部屋にやってきて、眠っている僕をたたき起こし、裸になれと命じた。僕は今でこそでかいが、そのころはそうでもない。あいつは今の僕と同じくらいでかくて、屈強な男だった。抗うすべはなかった。おかげで僕は、地獄を見たわけさ」
僕らは言葉を失い、何も言えなかった。シルーヴァは話を続けている。
「君に連絡できなかったのも、そのせいなんだ、アーディ。僕は荷物の中に君の手紙と写真を持っていたのだが、あいつはそれを見て、君のことを気に入り、夏に遊びに来るというのなら、ここに来させたらいいと言った。あいつの顔を見て、僕は本気でぞっとした。君が来たらあいつが何をする気か、手に取るようにわかったから、僕は君の手紙をみんな、台所のかまどに突っ込んで焼いた。あいつは頭が良くないから、君の住所など覚えてはいない。だから手紙がなくなれば、君を招待はできない。そのことで、あとでひどく折檻されたが……だが僕は、絶対に君を巻き込みたくなかった。まだ君はその時、八歳になったばかりだ。せっかく笑顔を取り戻して、新しい家で幸せに暮らしているだろう君を、これ以上非情な大人に傷つけさせたくない。『もう終わったから、大丈夫』という母さんの言葉を、嘘にしてはならない――そう、君が言ったあの場面、僕も見ていたんだ。父さんと一緒に、ドアのところから。だから絶対に、母さんのその言葉を守りたい。それしか考えられなかったんだ、僕には」
「えっ?」 エアリィは驚いたように目を見開き、そして一瞬後、その意味がわかったのだろう。怯えたような、戸惑ったような表情で、ぶるっと震えた。
「そうなんだ……君は僕を、守ってくれようとして……ありがとう。だから、手紙が来なかったんだね。知らなかった」
彼はしばらく沈黙し、少し頭を振って、言葉を継いだ。
「その人も……闇の住人だったんだ。それで、いつまで……続いたの? いつそいつから、解放された?」
「半年までは、いかなかったな。新しい年が明けてまもなくだ」
シルーヴァは淡々とした口調で、そう答えた。
「それまでも何度か逃げ出そうとはしたんだ。でもそのたびに捕まって、ひどい目にあわされた。僕はもう、逃げるだけではだめだと悟ったんだ。たいそうな犠牲が必要だったよ。どうやって僕が奴から自由になったか、わかるかい?」
「いや。どうやって……?」
「殺したんだよ」
バーディットは相変わらず淡々とそう答えたが、それを聞いてエアリィだけでなく僕も思わず絶句し、身震いしてしまった。
「真夜中ならあいつも寝こんでいるが、僕は外には出られなかった。奴が玄関のドアに鍵をかけて、その鍵を自分の枕の下に入れて寝ていたからね。僕の部屋にも外鍵がかかっていたが、ラッチ式の鍵だったから、細い定規を突っ込めば、なんとか開けることができるんだ。それで、あいつがしたたか酒を飲んで酔っ払って寝込んだ後に、あいつの部屋の前に台所のストーブの石油をまいて、火をつけたんだ。僕も逃げるすべはない。僕の部屋の窓には格子がはまっていたし、家の出入り口の鍵は閉まったままだった。他の部屋の窓から逃げることもできなかった。あいつの部屋の前を通らないと行けないし、そこはもう火の海だったからね。僕は自分の部屋に戻り、ベッドにもぐりこんで、すべてが終わるのを待っていた。あの時には、自分も助からないと思っていたよ。冬のからからに乾いた空気の中、火が燃え広がるのも早かったからね。だが、あいつと一緒の生活より、死の方がはるかに耐え易いと思えた。天国で、また父さん母さんに会えると思って、祈りの言葉を呟きながら、震えていたんだ。でも結局、僕は助かった。幸い近所の誰かが気づいてくれて、消防署に通報がいったからね、僕の部屋に火がまわった直後に収まったのさ。だから少し火傷をしただけだった。でも、あいつは死んだ。僕は放火の罪で少年刑務所に送られ、四年間そこで過ごした。それだけの短い刑期ですんだのは、たぶん陪審員が同情してくれて、殺人罪にはならなかったせいだろうな。だが刑務所の方が、あいつの農場より何百倍よかったさ」
シルーヴァはそばにいたリズム隊の二人を指さし、にやっと笑って言葉を継いだ。
「こいつらとは、その少年刑務所の中で知り合ったんだ。ネッドとニックは見てわかるとおり双子で、アトランタに住んでいたんだが、こいつらの母親っていうのが自堕落な女でね。次から次へと男を取り替え、いろいろな男のもとを点々としてきたわけさ。最近の男というのがアル中の乱暴者で、二人はそいつに耐えかねて、ある日共同でそいつに抵抗し、窓から突き出したんだよ。ところがあいにく、そこは五階だったんでね。その男は死んでしまった。つまり、言ってみれば僕たちは、人殺しのバンドさ。君のバンドの他の連中のようなお坊っちゃんたちとは、大違いだな」
ロック界ではその経歴も決して致命傷にはならないだろうが、それにしても壮絶すぎて、言葉がない。エアリィも同様だったらしく、最初は言葉を出しかねていたようだが、しばらく沈黙の後、言った。
「けどそれって、もう終わったことなんだから。他の解決法があったら本当に良かったんだけれど、でも罪は償ったんだし、今は成功して、もっとも将来有望な新人なんだし。良かった、ホントに……」
シルーヴァはしばらく黙ってじっと見ていたが、やがて、にやりと笑った。
「本当に変わっていないな、君は……」
そしてしばらく黙ったあと、話を続けた。
「僕はそれから、少年刑務所を十七歳と半年の時に出所して、ちょうど同じ時期に出たネッドとニックと一緒にフロリダへ行き、アパートを借りて、三人で暮らし始めたんだ。いろいろな、時には人に言えないような半端仕事をしながら――薬の売人とかの、違法なものじゃないがね――食いつないで、バンドを組んで、クラブを回った。かなりローカルでは成功した。そして三年目にスカウトされ、今に至っているわけさ」
「そうなんだ……」
「君のことは、一昨年の大爆発の時に知ったよ」
シルーヴァは、再びにやっと笑って言葉を継いだ。
「大爆発って、すごい言い方」
エアリィは少し肩をすくめている。
「いや、他に言いようはないだろう」
シルーヴァは首を振っていた。
「二月の終わりごろだったかな。僕らは今のレーベルと、ようやく契約にこぎつけたところだった。そのレーベル担当はその時、こう言っていた。君たちのデビューを夏にしようと思ったが、時期が良くなさそうだ。年末まで待とう。そのころには、落ち着くだろうから、と。どうして時期がよくないのかと聞いたら、その担当は言った。今、他のバンドがものすごい勢いでブレイクしつつある。たぶんその勢いは確実に夏まで続くだろう。その中でデビューしたら、かすんでしまう可能性がある、と。レーベルの言うことには従うしかないが、僕は内心面白くなかった。インストミュージックは歌ものに比べれば広く浸透はしないかもしれないが、インパクトという点では負けない自負があった。そのバンドはなんというのだと担当に聞いたら、彼は答えた。『AirLace。カナダ、トロント出身のバンドだ。二年半前にデビューしていて、今三枚目なんだが、そのサードで大化けした。バンド全体の力量も飛躍的に上がったが、特にヴォーカルが……まだ、本当に若い子なんだが、モンスターになりそうな勢いだ。本当にとんでもないんだ』と。それで僕はそのヴォーカリストの名前を聞いたら、彼は答えた。アーディス・レイン。仰天したね。なにー! という感じだった、まさに。まさか同姓同名の別人では――まあ、姓はないが、ミドルまでだな――ないだろうなと思いながら、僕は動画サイトで検索して、『Evening Prayer』のビデオを見た。そして間違いなく、君なんだとわかった。あれから十年がたっていても、あの小さな天使ちゃんの成長した姿が今の君なのだなと、すぐにわかる。父さんや母さんがもし今生きていたら、きっと同じようにいうだろう。君はプロヴィデンスから、トロントに引っ越したんだな。そういえば君は、カナダ生まれだったか」
「うん。生まれはたぶんニューブランズウィックだから、国籍はカナダだよ。今でもまだ、アメリカにいた時代の方が長いけど」
「そうだな。かなり片田舎だな。僕も人のことは言えないが」
シルーヴァは肩をすくめた。 「少年刑務所を出所した半年後の十一月に、ようやく旅費が溜まったんで、僕はプロヴィデンスまで君を探しに行ったんだ。僕は君の住所を覚えていようとしたんだが、君と違って、一度覚えたことをずっと忘れない頭は持っていない。ストリート名までしか覚えていられず、それもかなりうろ覚えだった。だから、手紙が出せなかったからね。君の新しいお父さんの姓は、ステュアートだということだけは覚えていたんだが。だいたいこのあたりだろうと見当をつけた場所を探したんだが、君はいなかった。『ステュアートさんの一家は、八月末に引っ越したよ。六月に奥さんとお嬢ちゃんの一人が事故で亡くなって、それから二ヵ月で。ご主人の連れ子さんは、大学の関係でボストンにいるけれどね。奥さんの連れ子さん? 一緒に引っ越していったよ』と近所の人が教えてくれたが、僕の見た目が怪しすぎたのか、それ以上は話してくれなかった。まさかその三年半後に、パソコンの画面で再会することになろうとはね。そして君は僕との約束を忘れてしまったのか――いや、君は忘れないんだったな。本気にはしていなかったのだな、とわかって、少々悲しくもなったもんだ」
「約束? ああ、あれ? うーん、ごめん。本気だったとは思わなかったんだ。君もどこでどうしているのか、まったくわからなかったし。それに、このバンドに入ったのって、半ば成り行きだったけど、今は僕のホームなんだって思ってる。君がもしまじめに取っていたとしたら、申し訳なかったけど」
「仕方がないな。あれは子供同士が『大きくなったら結婚しようね』と約束したような、そんな類だからな。それで実際結婚したカップルは、そう多くない」
「すごいたとえだけど……当たってるかもね」
「約束って、なんなんだ?」
この疑問をシルーヴァにぶつけるわけにはいかなかったので、僕はエアリィにそうきいてみた。
「音楽をやるなら、いつか一緒にやろうねって、彼と言ったことがあるんだ、昔」
エアリィは頭を振りながら、小さく肩をすくめて答えた。
「僕がサニーサイド農場にいた頃、バーンズの小父さん小母さんは二人とも音楽好きだったんで、僕も小母さんが歌ってる歌を覚えて。で、歌ってたら、ちゃんと聞かせてくれって言われて、毎週日曜日の夕方に、居間で歌ってたんだ。『アメージンググレース』とか『アニーローリー』とか、『カントリーロード』とか、まあ、小母さんの好きな歌をね。シルヴィーがギター弾いてくれて。で、いつか二人でこうやってプロになれたらいいな、ってシルヴィーが言って、でも僕は、大きくなったら何になりたいのか、わからないって言って」
「君は素晴らしい声をしているし、人の心に訴えかける歌が歌える。君がその気になれば、大きくなったら、きっと有名な歌手になれる。だから、もし君がプロになる気になったら、僕に声をかけてくれ。僕は君のそばでギターを弾くから……君にそう言ったんだったな、アーディ。で、君は『うん!』と、思い切り頷いていた」
シルーヴァが苦笑しながら、そう引き取った。
「だって、七歳前くらいの頃だし……」
エアリィは頭を振って、苦笑している。
「でもまあ、ここで再会できて嬉しいよ、アーディ。僕らはこういうフェスティヴァルは、本来あまり好きじゃないんだが、君たちが出るというから、引き受けたんだ。僕はあの頃からかなり外見が変わったから……名前も変わったし、君が気づいてくれるか、百パーセントの自信はなかったがね。それに今の君はガードが固いだろうし、そもそも君に接触できるかどうかさえ、怪しかったんだが。外に出てきてくれて、ちょうど僕らのホームの前で立ち話をしてくれて、ありがたかったよ。君の声はすぐにわかるからね」
「そうなんだ? ここが君たちの楽屋だって知らなかったけど……でも、ずっと気になってたから、僕もここで君に会えて、ホントに良かった。僕らも本当は、こういうフェスティヴァルって、ちょっと苦手な部分もあるんだ。でもマネージメントが、一回くらい出てみたらって言うから。それでまあ……でもみんな、誰もモーターホームから出ないし、僕は出たいって言ったら、ロブやモートンが『あまり動くな』って止めるし……でもジャスティンが出てったから、じゃあ僕も、って出たんだ」
「そうか……じゃ、僕が出なかったら、おまえも出ては来なかったのか?」
僕は思わずそう問い返した。
「わかんないけどね。わがまま言って、出ちゃったかもしれない。せっかくのオープンエアだから、やっぱ外に出てみたいって気はあったし」
「時間の問題、か」僕は苦笑した。
「おまえの性格だと、あるだろうな。でも、僕らは当然だが、おまえもフェスティヴァル参加がさほど乗り気じゃなかったのは、少し意外だったけどな」
「んー、雰囲気そのものとか、お祭りっぽい感じとかは、わりと好きなんだけど、ざわざわし過ぎって感じが、あまり好きじゃないんだ。それに、拘束時間とか長いから、暇だし。だって今、四時過ぎだけど、やっと最初のバンドが始まったくらいで、僕らが出るのって、十時だよ。それにこの会場、大きすぎ。後ろが遠すぎて、全体をつかみにくいな」
「それは言えるな」
僕は肩をすくめた。それでも彼は全体を――二十万超の観衆を掌握してしまうんだろうな、と思いながら。そしてころあいと見て、僕は立ち上がった。
「僕はそろそろ戻るよ。おまえはどうする?」
「んー、もうちょっといたいな。ここにいてもいいなら」
「おいおい、十二年ぶりの再会なんだから、君までそう慌てて帰らないでくれよ、アーディ。まだ僕らの出演時間まで、二時間あるんだ」
シルーヴァは苦笑して肩をすくめている。
「うん。じゃあ、ジャスティン。戻ったら、悪いけどみんなに言っといてくれる? 僕はまだ、しばらくここにいるって」
「いいよ」僕は頷いた。
「でも、あまり長居すると、みんなが心配するだろうから、早く帰ってこいよ」
本当は、言う必要のない言葉だったかも知れない。でも、思わずそう口から出てきた。
「わかった。一緒に来てくれて、ありがと、ジャスティン」
エアリィは特に気にした風でもなく、片手を上げていた。僕は頷くと、「邪魔したね」と、シルーヴァ・バーディットとリズム隊の二人に言い、彼らのホームを出た。シルーヴァも他の二人も、なにも言わなかった。腕を組み、ふっと笑みを浮かべただけだが、その笑みには友好性のかけらも感じられなかった。そういえば、彼はここに来てから、本当に一、二度チラッとしか、僕に目を向けていなかった。直接僕に向かって、言葉をかけてもいない。最初から、僕は招かれざる客だったわけか。
SBQのモーターホームを出ると、すぐ近くに、セキュリティのジャクソンがまだ立っていた。隣には僕のセキュリティ、ホッブスもいて、二人で何か話している。ジャクソンが僕を見て、「どんな感じですか?」と聞いてきたので、「ああ、大丈夫だよ。本当に彼らは旧友みたいだ。まだエアリィはしばらく中にいるらしいけど、そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな」と答えた。
「そうですか。ありがとうございます」
ジャクソンは少し頭を下げてそう答えたが、その場を動こうとはしなかった。
僕は自分たちのモーターホームへと、足早に向かった。ホッブスはそのままジャクソンと話していて、ついてはこない。振り返ると目が合うので、僕を見てはいるようだが。
モーターホームに戻りながら、内心あまり愉快ではなかった。でも、なぜだ? エアリィとシルーヴァ・バーディットが、昔農場で一緒に過ごした幼なじみだったからと言って、僕には関係のないことだ。エアリィにとっては、長いこと音信不通になっていた幼友達と再会できたのだから、良かったのだろう。相手がもう少し僕に対しても友好的でいてくれたら、これほど気分が波立たないのだが。
シルーヴァ・バーディットの境遇には同情できる。でも彼は僕の同情など、決して求めていやしないだろう。彼は、僕にあまり良い感情を持っていない。はっきりそう感じる。僕があまりに苦労知らずに育っているせいか? それとも、昔の約束をそれほど真剣に思っていたのか? 自分の立場を奪ってしまった僕に、ライバル的な意識を持っているのか? 子供の時の約束など当てにはならないと、本人も認めてはいたが。
僕は頭を振り、楽屋に戻った。そしてみなにこの訪問の顛末をすっかり話した。みなもどことなく複雑な表情を浮かべていたが、ミックが肩をすくめて言った。
「仕方がないね。エアリィはプロヴィデンスにも友達がいるし、僕らの中では交友関係が広い方だから。彼らがこちらに妨害を仕掛けてくるとかでない限り、あまり気にしない方がいいよ」
「まあ、思ったより世間は狭いということだな」と、ジョージも肩をすくめている。
それはそうだ。僕は納得し、それからずっと自分たちのモーターホームで過ごしたが、結局エアリィが帰ってきたのは、僕らの出演時間の四十分前だった。途中何度かセキュリティのジャクソンがロブに携帯電話で状況を報告してきたから、そしてその電話をロブが僕らにも聞こえるように設定したため、僕らも彼の動静を把握は出来たが。SBQの出演直前までは『まだモーターホームから出てきません』で、彼らの出演時には『今、ゲストボックスで見てます。俺も一緒にいます』その後は『またモーターホームへ行きました。外で見てます』そして九時過ぎになってようやく『これから戻ります』そしてその直後に、『あ、エリアの外から知り合いのジャーナリストに呼ばれてしまって、そっちへ行ってしまいました』
僕らはその報告を聞いたとたん、いっせいに「おいー!」と声を上げ、ロブはたまりかねたように立ち上がって、「こっちは準備もあるんだ。プレスに捕まったら、いつ帰れるかわからないぞ。早く戻ってくるようにエアリィに言ってくれ! いや、僕が行く!」と、携帯電話を片手に、出て行ってしまった。専属スタッフのカークランドさんは苦笑いを浮かべ、「やれやれ、きっと、ろくに食べていないんだろうな」と言いながら、いつも持ち歩いているブレンダーに果物を放り込んでいる。十二年ぶりの再会で、積もる話もあるだろうが、相変わらずだ。『わかった』なんて言ったくせに、『早く帰って来いよ』という言葉は、全然気にとめていないのだろう。
ロンドンでは日曜日だったこともあり、二時スタートで、僕らが出るのも八時だったが(その時間帯は、このあたりではまだ明るい)、ディナータイムに戻ってきたのと、出演一時間前に帰ってきただけまし、という程度で、それ以外はベルリンの時とそう変わりはない。セキュリティのジャクソンがずっと見守っているので、完全な一人ではないのが幸いだが、妙にアクティヴなのは困りものだ。
コンサート自体はベルリンも、三日後のロンドンも、ともにいつも通りやれた。僕も包帯を取ってステージに立つと、手の痛いのは忘れた。火傷も忘れ、いつになく気合が入ったのは、ゲスト用ボックスに立って僕らのステージを眺めていた、SBQの面々を意識したせいもあるだろうか。特に、シルーヴァ・バーディットには負けたくない。無様なプレイだなんて、せせら笑われたくない。ステージの陶酔の上に、その思いがスパイスのようにふりかかっていたためかも知れない。
ベルリンとロンドン、二度のフェスティヴァルが大盛況のうちに終わり、同時に、僕らのワールドツアーも終わった。去年の秋からほとんど一年にわたる、長いロードが。帰りの飛行機の中で、思わず深い深いため息がもれた。これでやっと長い夢からしばらく解放される、と。
休暇の最初の二ヶ月ほどは、夢のように楽しく過ぎていった。二週間ずつバハマとプリンスエドワード島に滞在し、家にいる時は、妻と小さな息子と一緒に緊密な時間を過ごした。どこにいても、楽園のようだった。穏やかな幸福感とともに、時間はのんびりと過ぎていく。僕の心は身体と一緒に大きくのびをし、家族という安住の地に身を横たえた。
休暇があと一ヶ月足らずとなった十月後半、僕は少しだけミュージシャンに戻り、四、五日ほどの予定で、ロンドンに飛んだ。ディーン・セント・プレストンという有名なロック歌手のために一曲ギターを弾いてくれというオファーを、引き受けていたからだ。
基本的に僕は出来るだけ休暇を優先したいし、他のバンドでギターを弾くことも、やったことがない。僕は基本的に人見知りだし、今の仲間たちとの関係があまりにも心地よすぎ、それに慣れきってしまったので、他の人たちと演奏することは、かなり違和感があるだろうと思ってしまうためだ。だから、課外活動はしたくないし、興味もない。でも、今回参加したアーティストだけは別だった。彼が以前在籍していたバンドは、僕が最初に好きになったバンド。ローレンスさんたちのバンド、スィフターに出会うまでは、一番のお気に入りだったからだ。僕がファンになった時には、すでに彼らは解散した後だったので、リアルタイムに新譜を追いかけたことも、コンサートに行ったこともなかったが(スィフターも、最後のアルバムが、ぎりぎりリアルタイムだった)、もう少し早く生まれたかったと、痛切に思ったものだ。
どうしても同業に目がいくので、一番好きだったのはギタリストなのだが、シンガーも嫌いではない。DVDで見ただけだが、以前の彼は素晴らしいエンターティナーだったと思う。今はソロ名義で数年に一度アルバムを出し、短いツアーを散発的に行うだけで、以前の輝きはほとんどないようだ。それでも僕にとって、あこがれの人の一人だった。
ロンドン行きに同行したのは、専属クルーのジミー・ウェルトフォード一人。ロブは少し心配だったらしく、自分も一緒に行こうかと言っていたのだが、別に彼の手を煩わせなくとも大丈夫だろうと思った。四日ほどロンドンに行ってちょっと仕事をするのに、物々しく行く必要はない。相手によけいな負担をかけてしまうかもしれないし、もったいぶってと思われるかもしれない。僕自身も身軽に行きたい。本当はギターのメンテナンスくらい自分で出来るので、ジミーの同行も、あまり必要を感じてはいない。でも一人だけで行くのは、ロブが許可しなかった。チームJ、僕の専属セキュリティとクルーを、両方が嫌なら、せめてどちらか一人を同行させろと。マイクとジミー、二人のうちのどちらかと言うなら、断然ジミーだ。ギターテクがそばにいた方が何かと便利だし、ジミーは以前ロンドンにいたこともあるので現地に詳しい。それで、僕は彼と一緒に行くことにしたのだった。
トロントをたったのは朝でも、六時間のフライトでロンドンに着いた時には、すっかり夕方だった。ヒースロー空港に降り立った僕を迎えたのは、プレストン氏のマネージャー補佐と名乗る、三十代半ばくらいの穏やかな印象の男性だ。そして大きな黒塗りのリムジンで、市内の高級ホテルの一つに案内された。広いスイートルームに、大きなダブルベッド、それに控えのシングルルームがついている、立派な部屋だ。部屋のドアは一つで、スイートルームから連結ドアで、シングルに行くようになっていて、僕は大きいベッド、ジミーは控えのシングルルームを使うことになる。食事については『ルームサービスかホテルのレストランで、お好きなものをご注文して下さい。お部屋番号をおっしゃっていただければ、すべてチェックアウト時に精算になりますから、その時に私どもでお支払いいたします。あなたは一切手続きをしていただかなくとも、大丈夫です』とのことだった。
その夜は時差ボケで、なかなか寝つかれなかった。友人がライヴハウスに出るので一緒に見に行ってくれないかとジミーに誘われたが、あまり気乗りがせず断った。ライヴハウスなんかに行って、正体がばれたら騒がれるに決まっているし、煩わしい。ジミーだって自分ひとりのほうが、僕と一緒よりも気楽だろうと思えた。
ルームサービスでともに食事をとった後、彼は出かけ、僕はホテルに一人残った。眠れない長い夜に、退屈を紛らわせる相手もいない。仕方がないからルームサービスでスコッチの水割りを頼み、映画のDVDで時間を潰した。やっと眠れたのは四時近かった。
寝るのが遅かったせいで、翌日起きたのは十二時ごろだった。でも約束は三時からだから、あわてる必要はない。ルームサービスで遅い朝食をとり、シャワーを浴びて着替える。時間は充分あった。
再びリムジンで連れていかれたスタジオで、僕は初めてプレストンさんに会った。彼は僕と同じくらいの背の高さだったが、結構厚底のブーツを履いている。それを差し引けば、エアリィやロビンより数センチ高いだけかもしれない。昔のスリムな体型はどこへやら、今は相当以上に押し出しが良くなっていた。縮れた黒い髪には金色のメッシュを入れているが、どうやら白髪隠しの意味もあるようだ。派手な模様のついた絹のシャツに黒いレザーパンツ、黒いサテンのベスト、その上から銀色ジャガードのジャケットを羽織っている。スタジオワークなのに、この人は普段からこんな格好をしているのだろうか。ぷっくりとした手には指輪が三つはまり、蛇をかたどったブレスレットを付けていた。たぶん銀ではなく、プラチナだろう。蛇の目には、ダイアモンドがはまっている。時計もどうやらカルチェの純金らしい。首には、太い鎖に編んだ金のネックレスを二重に巻いていた。だが、その顔ははっきりと年令を感じさせ、少したるんでもいて、おまけに二重顎だ。
なんとなく幻滅を感じた。二十代の頃はあれほどかっこよかった人なのに、年には勝てないのだろうか。僕ももし何事もなく二十年が過ぎたら、その時にはこんな風になるのだろうか。あまり想像したくなかった。いや、若さをとどめながらも、熟成されたように年齢を重ねることだって、できるはずだ。ローレンスさんのように。
「これはこれは、ジャスティン・ローリングス君だったね。エアレースのギタリストの。いや、あまりに普通の格好だから、新しいローディーかと思ったよ」
いきなりこの挨拶だ。たしかに僕はフードのついた黄色いプルオーバーにブルージーンズと濃いオリーブ色のブルゾンというまったくの普段着だったが、ステージやフォトセッションならともかく、スタジオではこの方がリラックスできて好きだ。時計も銀のダイバーウォッチだし、アクセサリーもほとんど付けていない。靴もナイキのスニーカーだ。バンド全員がそんな感じなので、他のアーティストがどうかなどとは、まったく考えていなかった。少しはドレスアップした方が良かったのか。あまりにもラフな格好だから敬意が足りないと、イギリス人らしく感情を害したのだろうか。でも、今さら仕方がない。
「初めまして。お目にかかれて光栄です。どうかよろしくお願いします」
せめて言葉は丁寧にと気をつけながら、頭を下げると、
「ああ、よろしく頼むよ」と、相手も笑って手を差し出してくれた。
握手を交わしたあと、彼は自分のスタジオでの苦労話やら全盛時代の話を、たっぷり一時間はしゃべっていた。僕にとっても、かつての憧れのバンドの現役時代のエピソードなどは、それなりに興味深く聞けたのだが、あまりにも見方が彼中心で、自分のことしか語らず、おまけにかなり自画自賛風味が混じっているように感じられた分、少しうんざりした気分も感じた。
そのあと、やっと曲を聴くことができた。リズムトラックからヴォーカルまで全部録音が済んでいて、リードギターパートだけが仮音になっている。あとは僕がギターをかぶせるだけというところまで完成された音源を聞いた正直な第一印象は、なんだかつまらない曲だな、というものだった。しかし、そう言ってしまっては、身も蓋もなさ過ぎる。だが考えてみたら、バンド時代の彼らに惹かれたのは、曲もさることながら、ギタリストの力量と、ヴォーカルとギター、タイプは全く違いながら、一緒になると生まれる調和と緊張感、それが魅力的だったからだ。それゆえ僕はプレストンさん単独の作品は、ほとんど聞いていないほどだった。僕がそのギターの代わりを、と思ったが、僕はそのギタリスト、カール・シュミットさんとは少しタイプが違うと自分でも思うし、今のプレストンさんに全盛期のパフォーマンスも期待できないだろう。
微かなため息を押し殺し、もう一度曲を聞いてみた。やっぱりつまらない。最近の彼のレパートリーにしては、比較的ロック味がある部類だし、リズムセクションも、そこそこグルーヴしているが、でも、本当にそれだけだ。
「譜面は出来ているんだよ。その通り弾いてくれればいい。ただイントロとギターソロは、君にお任せするよ」
「わかりました」
僕は頷き、譜面どおり弾いてみた。三回ほど通して練習し、本番は一発OKとなった。僕の自由裁量になったイントロとギターソロは、なかなかインスピレーションが湧かず、何回か試行錯誤を重ねたのち、ようやく『これが一番まともかな』と思うものを本番で弾いた。すぐにOKが出たものの、満足が行く出来とは、とても言えない。僕はひそかにため息をつき、頭を振った。バンドでソロやイントロを考えている時、レコーディングをする時、そこには多くの刺激や喜びがあり、高揚感があり、達成感があった。でも今は無味乾燥だ。リズムセクションは上手なだけで平凡だし、リズムギタリストもしかり。ディーン・セント・プレストンさんもたしかに上手いシンガーには違いないが、上手いだけで感動がない。それに年齢のせいか、その声は全盛期より明らかに劣化している。
ああ……僕は気づいた。AirLaceというバンドは、特別なのだ。僕は未踏の領域へたどりついたバンドに、今はいるのだ。アーディス・レインという人間を超えたシンガーが作り出す、特異な音楽空間にずっとこの身を晒されている今の僕が、たとえどれほど卓越したシンガーであろうと、所詮ただの人間である他の人たちと組んで、刺激を得ろという方が無理なのだ。ディーン・セント・プレストンさんが悪いわけではない。
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