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クリスマスは束の間の休息だった。今年は僕の実家で、家族全員が集ってのパーティが開かれた。僕はステラとクリスを連れて参加し、結婚後初めて、新しい家族と古い家族、両方一緒にクリスマスを祝った。姉も夫と小さな息子と一緒に来て、文字通り全員が勢ぞろいした、にぎやかな集いだった。大晦日と元旦は年越しコンサートで再びミュージシャンに戻り、同時にステラとクリスは里帰り。僕は実家から仕事に通った。
コンサートを終えた翌日、僕が二人を迎えに行くと、義父母はいつものごとく、(何をしに来たのだ、この男は)という目で見る。でも、もうむっとするのはやめた。彼らはこういう人たちなのだ。どうしてもわかり合えない人間というのも、この世には存在する。そんな悟りの気分だった。わかりあえなくとも、お互い傷つけあうことなく、少なくとも僕の方から無礼は働かないようにして、やっていくことは出来る。表面だけでも礼儀正しく。この二、三年で、いろいろなインタビュアーを相手にして、忍耐を学んだのだろうか?
五日は、去年に引き続き二回目の新年パーティだった。顔触れはそんなに変わっていないが、昨年生まれた赤ん坊が二人増えている。
一月半ばに生まれたジョージの子は男の子で、ジョーイ・ロバートと名付けられた。上の娘プリシラの時にはヨーロッパでのサポートツアーが始まったばかりで二か月近く会えなかったが、今度はオフ中だったので無事出産に立ち会え、しかも待望の男の子だということで、ジョージの舞い上がりぶりは尋常ではなかったようだ。その夜遅く電話がかかってきて、まるで酔っぱらったように上機嫌で、一時間近くも出産の様子や、赤ん坊の話を聞かされた。他の三人に聞いたところ、やっぱり同じだったようだ。どうやら弟のロビンも含めたメンバー全員に電話をかけまくり、同じ話を四回繰り返したらしい。
ジョーイはもうじき一才になる、ほっぺの赤い丸々と太った健康そうな赤ん坊で、くしゃくしゃの鳶色の巻き毛と、まん丸い茶色の目が悪戯そうでかわいい。とりわけ人懐っこい方ではなさそうだが、姉ほど激しい人見知りはなく、ジョージが何ヶ月ぶりかで帰って来た時も泣いたりせず、おとなしく抱っこされていたという。そのためか、ジョージの溺愛ぶりもかなりのもので、ずっと息子を抱きっぱなしだ。プリシラは大の男嫌いで人見知りが強かったため、どんなにそうしたくてもなかなかできなかった、その反動もあるのだろうか。でもジョーイはやはり男の子なのだろう、じっと抱かれていると飽きるらしい。ときおり父親の腕からもがき出て、両手をついてハイハイをはじめていた。そのちっちゃな弟を、今年四才になるお姉ちゃんプリシラが、一生懸命あとを追いかけていた。彼女の人見知りは多少改善されたらしく、おとなしい子ではあるが、去年遊んでもらったエステルには目を輝かせて近寄って行き、僕らに話しかけられても返事をするようになった。もっとも、彼女の一番のお気に入りは『エリィおねえちゃん』なのには、変わりないが。
エアリィも三月に自分自身の娘が生まれ、父親になった。彼もオフの間だったので出産に立ちあえたらしく、こんなメールを送ってきた。
【昨日、三月十日のお昼、そう、十二時ジャストに女の子が生まれたよ。二三七六グラムで、けっこうお産は軽かったらしい。医者の話だと。(僕には、そう思えなかったけど)出産に立ち会って、実際赤ん坊が出てくるところ見たら、一瞬『わ、グロい!』って思ってしまったけど、こんなことアデルには言えないね。でも凄く感激したし、それに子供ってこういうふうに生まれてくるのかって、妙に納得したりもしたんだ。名前はロザモンド・ミランダ。金髪の美人さんです。よろしく!】
ジョージと違って、本当に要点だけという感じだが、エアリィらしいメールだ。当時まだ十七歳の若い父親に、その自覚があるかどうかはわからないが、元々双子の妹たちの世話をずっと手伝ってきたというから、赤ん坊の扱いは慣れているらしい。
メールには写真が添付されていた。白い産着に包まれた赤ん坊。まつげが長く、パッチリした大きな青い目と、きれいに整った顔立ち。生まれたての新生児にしては、それほど真っ赤でもなく、くしゃくしゃでもない。明るい金色の巻き毛が綿毛のように、ふわふわと小さな頭を覆っていた。『可愛いな』――写真を見て、思わずそう言ってしまうような赤ん坊だった。
アデレードは妊娠がわかった時にモデルを引退して、しばらくは縫い子に戻り、そのあとは通信制の学校に入って、自宅でファッションデザインの勉強をしているらしい。子供が生まれたあと、お世話になったデザイナーの先生にあいさつをしにいった時、マダム・クロフォードは赤ん坊を見るなり、こう言ったそうだ。
『あら、この子の十六年後を予約するわ! ぜひ、うちのモデルにしてね!』
あの生まれたての時の写真からも察せられるように、ロザモンドは美しく、とびきりかわいらしい赤ちゃんだった。えくぼのある丸いピンクのほっぺ。くりくりした大きな青い目に栗色の長いまつげ。くるっとカールした、明るい金髪の巻き毛。ちょっと尖った小さな口元。まるで芸術的なお人形のようだけれど、生きた赤ん坊だから、さまざまな愛らしい仕草を見せてくれ、それがまたまわりを魅了する。えてして美男美女カップルの子供は、たいしたことがなかったりするものだが、ロザモンドは完全な例外だ。この二人の子供だったら、かくあれかしと思うとおりの、まるで天使のような赤ん坊である。どこへ行っても人気のまとになることは間違いなく、今年のパーティの花形も紛れもなく彼女だった。次から次へと抱っこされても、あまり人見知りしないし、泣き出しもしない。最後には抱かれているのに飽きて、むずがりだしたが。エアリィが「じゃ、ちょっと運動する?」と、娘を床に下ろしてやると、ぱあっとハイハイを始める。早い早い、下手をすると大人が歩くよりスピードがある。このスピードで這われると、こっちはよほど気をつけて歩かないと、踏んづけるか躓いてしまいそうだ。時々立ち上がって、壁につかまり、つたい歩きもしている。まだ十ヶ月たらずなのだが、もうそろそろ歩き始めてしまうかもしれない、そんな感じだ。
一才三ヵ月になるクリスは、この中ではもうお兄ちゃん格だ。息子が生後半年の時、僕の休暇が明けた。それ以後は、一ヶ月か二ヶ月おきくらいにしか会えない。レコーディング終了時の半オフには、いくぶんまとまって家にいられたが、一才になった頃ロードが始まり、中盤を過ぎてトロント公演で家に戻ってきた時には、二ヶ月ぶりの対面だった。その時、クリスは最初、不思議そうな表情で僕を見ていた。(これは忘れられたかな?)と思ったが、次の瞬間、息子は小さな手を僕に差し出し、にこっと笑ってくれた。僕はその時、息子が世界一かわいく見えた。多少は、親ばかだろう。冷静に見ればクリスチャンは、ロザモンドのように誰もが『ああ、かわいい!』と振りかえって見るほどの容姿は、持ち合わせていない。でも、僕の目にはこの上なく愛らしい天使のように映る。きらきら輝く青灰色の瞳。くるくると渦を巻いているダークブロンドの髪。健康そうなピンクの頬。ステラ譲りの片えくぼ。丈夫そうな、まるっこい手足。時折うれしそうな笑い声をたてながら、おぼつかない足取りで懸命に歩くわが子を見るたびに感じる、喜びと誇らしさ。
ロードに出かける直前、まるで僕のいる時を見計らったかのように、歩き始めた息子。おぼつかない足取りで、芝生の上に最初の一歩を踏み出した時。クリスマスに、初めて「マーマ」と言葉を発した時。そしてつい昨日、初めて僕のことをかわいらしい片言で、「パーパ」と呼んでくれた瞬間。その一つ一つが、どれほどの喜びと驚きを、僕にもたらしてくれたことだろう。
クリスマス−新年の休暇は、繰り返される非日常の中で、ほんの束の間、僕らを現実に引き止めてくれた、短いやすらぎだった。一月いっぱいは中南米を回り、二月から極東へ。東南アジア地区まで足をのばして、一ヵ月半の日程だ。四月からはヨーロッパサーキット。ロードにはすっかり慣れたし、それ自体は嫌いではない。家族から離れているのは淋しいが、僕らには音楽がありステージがあり、観客がいる。それが非常な喜びであるかぎり、ロードが好きだ。
でも音楽だけに専心していられない煩わしさ、それもロードにつきものだが、僕にとって(たぶん、ほかの四人にとっても)、まったくありがたくない。取材や外野の雑音、まとわりついてくるファンや、夜ときたま部屋をノックする女の子たち――最後のものは、たいていセキュリティがカットしてくれるが。
最初に、いわゆるグルーピーと遭遇したのは、デビューして二度目の全米ツアーが始まって、一週間くらいがたった時だった。公演が終わって、モーテルに帰るためにバスに乗り込もうとした時、数人の派手に化粧した女の子たちが近づいてきて、僕らに言ったのだ。
「ねえ、ホテルに帰るなら、一緒に部屋に行ってもいい?」と。
その時、僕は驚くと同時に、ああ、これが噂に聞くグルーピーなのか、とピンときた。ジョージやミックも気づいたようで苦笑いを浮かべ、ロビンは真っ赤になって首を振り、僕の後ろに隠れてしまっていた。ただエアリィだけはよくわからないようで、「え? 泊まるとこないの?」などと、思い切りあっけらかんとした口調で聞いていた。
「おまえな、これがいわゆるPなんだよ。だがおまえには、まだ早すぎる。淫行になっちまうからな」と、ジョージが慌てたように言い、エアリィは「ええ? ああ、そうなんだ。これがグルーピーさん? 話には聞いたけど、ホントにいたんだ」などと、珍しい新種の生物を見るような感じだった。
もちろん僕たちは、彼女たちの誘いを断った。モーテルは相部屋だし、仮に一人部屋でも、部屋ではくつろぎたい。それに僕はステラに他の女の子とべたべたしないと約束していたし、ジョージやミックも妻や彼女がいるので、忠誠的な思いもあったのだろう。ロビンはなにをかいわんやだし、エアリィは理解不能という感じで「それの何が楽しいの? 普通に話だけしたいな」などと言う。こっちも完全に論外だ。
それ以降も、僕たちはずっと断り続けてきた。しつこければ、ロブやスタッフたちが追い払ってくれた。バンドが大きくなると、その数も増えていったが、セキュリティが来てからは、撃退は彼ら任せにして、僕らはさっさと移動のバスや車に乗り込んでいた。ホテルには決して僕らの部屋番号は教えないように要請していたし、厳しいガードを巧みにすり抜けてくる強者がいても(覚えている限りでは、ヘッドラインツアーを初めてから、四、五回くらいあった)、ちょっと話しても帰ってくれない場合、もしくはあまりに夜遅くて常識を疑うような場合は有無を言わさず、僕はセキュリティのマイクに連絡して、彼女たちを排除してもらっていた。
セックス・ドラッグ・ロックンロールなんて、陳腐なお題目だ。僕らは、それに落ち込むつもりはなかった。僕はこの業界に入る時、姉ジョアンナに約束した。アルコール中毒、乱れたセックス、危ない薬――どれも恐ろしい罪だ。僕はその悪徳に染まることなくやっていくと。それに僕は結婚する時ステラに、『絶対に浮気はしない』と誓った。僕は自分の言葉に責任をとるつもりだった。
男としての欲望は、僕らみな、ないと言ったら嘘になるだろう。まあ、エアリィだけは、まったくなさそうな気がするが。よくこれで子供の父親になれたものだと思うが、彼にしてみれば奇跡的な譲歩らしいし、アデレードさんも大変だとしか言葉がない。でも、僕ら他の四人はたぶん、まっとうな欲は持っているだろう。でも同時に僕は(たぶんジョージやミックも)、愛というものに対する責任感は持っているつもりだった。ロビンの場合は、人見知りもあるし、羞恥心もあるだろうし、『知らない人となんて無理!』と、恐怖心に近い思いがあるようだ。
僕はグルーピーとして現れる女性たちに、魅力を感じたことは、ただの一度もなかった。彼女たちは、ミュージシャンと寝られさえすれば誰でもいいのだ、それは何かブランドを身につけるのと同じようなものなのだろう――そんな蔑みにも似た思いを感じていたせいかもしれない。それゆえ、その誘惑を退けるのにたいして努力はいらなかった。これからも、きっとそうだろう――僕はそう思っていた。バンドが活動を終わる時まで、僕はグルーピーと寝たりしないと。だが繰り返される非日常の熱狂は、そうした固い決心をも、徐々に揺るがせていったのかもしれない。僕の初めての破戒、それはロンドンでの四日連続、すべて売り切れとなったアリーナ公演、その二日日の夜が発端だった。
コンサートを終えてホテルに戻ってきた僕は、軽い夜食をつまみ、ハイボールを少しずつ飲みながら、ステラに手紙を書いていた。ロード中、電話もよくかけてはいたけれど、後に残るものもほしいから、一週間に一度は手紙を書いてと二年前に言われて以来、レコーディングやツアーの途上で、毎週の通信を欠かさず続けてきていたのだ。古風だが、メールよりずっと味わいもあるように思える。
手紙を書き終わり、封筒に入れて宛名を書いた。明日、ロブかレオナか専属クルーのジミーに頼んで、投函してきてもらおう。
最後の酒を飲み干し、伸びをした。心地よい疲労感を感じた。その時、ドアをためらいがちにノックする音が聞こえた。
「はい。誰?」
返事はなかった。でも戻りかけると、ノックが繰り返される。軽く舌打ちをすると、僕は携帯電話を片手に持ち、チェーンをかけたまま、細目にドアを開けた。
立っていたのは二十歳前後の女の子だった。フリルのついた白いブラウスに、赤い花模様のフレアスカート。全体にふくよかというほどではないが、胸は豊かに膨らんでいて、背も高い。白い花で飾ったカチューシャをつけ、黒い髪がウェーブをうって背中に流れている。おしろいを塗った白い顔に紅をさした唇の赤さが、妙に目を引いた。美人とは言えないが、見開いた濃い灰色の眼が印象的な子だ。
「君は誰? 何の用?」
僕は眠かったせいもあって、少し不機嫌な声を出した。
「ごめんなさい。こんな夜おそくに、お邪魔して……」
彼女は小さな声で、口ごもるように謝った。耳まで真っ赤になりながら、おずおずと目を上げて、言葉を継いでいる。
「わたし、どうしても、あなたにお会いしたかったんです。どうしても、お話がしたくて……あなたは疲れていらっしゃるし、ご迷惑だってわかってるんですが……ごめんなさい。図々しくて! やっぱりわたし、帰ります! お顔を見られて、ちょっとでもお話ができただけで、夢のようですから。すみませんでした!」
最初は、ああ、またいつものたぐいか、と半ばうんざりしながら思っていた。すぐにマイクを呼んで、外に連れて行ってもらおうと。でもこの子は、グルーピー的な感じはしなかった。その言葉も反応も初々しくて、ただ僕に会いたい一心で、必死にここまで来た熱心なファンという印象だ。こんな夜遅くに訪ねてくるのは、たしかに非常識だが、きらきらと輝いている瞳には、純粋な熱意だけがあるようだ。邪険に追い払うのが、少しかわいそうに思えてきた。
「ここまで来るのは、結構大変だったんじゃないかい」
僕は軽く微笑しながら、ドアを開けた。
「いいよ。ちょっと話をするだけなら、おいで。それで君の気が済むんだろう?」
「いいんですか?!」
彼女は目をますます大きく見開き、半開きにした口元に両手を当てたまま、サクランボよりも真っ赤になった。目には、じわっと涙さえ浮かべている。
「そんなに大げさに構えないでよ」僕は思わず苦笑した。
「ただ、本当にちょっと話すだけだよ。僕は疲れているし、グルーピーは好きじゃないんだ。君はそういうたぐいの娘じゃないんだろう?」
「ええ。ほんのちょっと話ができたら、それでいいんです。ああ、夢みたいだわ!」
少女は相変わらず目を潤ませたまま、うわずった調子で言っている。僕はちょっと肩をすくめ、苦笑を浮かべながら、彼女の背中に手を当てて部屋に招いた。
彼女はニコレット・リースという名前で、ロンドンの郊外に住んでいる、十九歳のデパート店員だという。僕たちは十分ほど、たわいない話をした。正直に言ってしまえば、僕は彼女に好感を持った。外見はまるで違うが、話をする時に小首を傾げる仕草がなんとなくステラに似ていた上、時々はにかんだように笑う顔が、ひどくチャーミングだ。彼女のためらいがちな態度も気に入った。でもその日は、本当にただ話をしただけだった。帰りの交通機関は大丈夫かと僕が問うと、同じホテルに部屋を取っているから平気だと彼女は答え、僕が書いたサインを大事そうに抱えて帰っていった。
ロンドン最終日の夜にも、彼女は来た。僕は以前の印象が悪くなかったので、その夜もまた少し話ができたらいいのだろうと思い、部屋に入れた。だが今回は、部屋に入るなり、真剣な表情で手を胸の前に組み合わせ、僕とじっと見ながら、こう言ったのだった。
「ジャスティンさん……明日はもう、マンチェスターに行ってしまうんですね。それであと一週間で、カナダに帰ってしまう。わたしがあなたにこうして会えるのは、これがきっと最後ですね。それを思うと、悲しくて仕方がないの。ええ、あなたは大スターだし、わたしは一介のファンだから、それで当然なんでしょうけど、こうしてお話ししていると、あなたがとても身近に思えてしまって、なんだか本当に愛してしまいそうで、だから……」
彼女はうつむき、ついで激しい勢いで僕に抱きついてきた。消え入りそうに小さな声で、しかし熱心に訴えてくる。
「お願いします。わたしを抱いてください。わたしはグルーピーじゃないけれど、でも……今夜だけ。誰にも言いません。わたしの一生の思い出にしたいんです……」
なぜ、そんな気になったのかわからない。僕は彼女の熱意に負けてしまった。身体に感じる柔らかさと、微かな香りと、男としての欲望にも。僕たちはその晩ともに過ごし、目が覚めた時には、もう彼女はいなかった。洗面所の鏡の隅に小さく『ありがとうございました』と、口紅で走り書きがある。
その朝の気分を、単純に言葉で説明するのは難しい。彼女の初めての男になってしまった戸惑い、妻に対する後ろめたさと後悔、たった一夜の交わりがすべての道徳に背くとか、裏切りであると思い詰めることはないのではないかという思いも、少しだけ。でも僕の良心の声は、やはり妻への裏切りだと主張している。鏡についたルージュをふき取りながら、僕は頭の中で議論を戦わせた。そして次の公演地へ向かうバスの中で、結論を出した。黙っていればわからないとか、一夜限りだとか、そんなものはただの言い訳だ。僕は妻を裏切ってしまった。それは苦い事実だ。ロックミュージシャンなのだから当たり前だなんて、甘えてはいけない。どんな立場だって善は善だし、罪は罪だ。妻を本当に愛しているのなら、誠実であるべきだと。
一週間後、ヨーロッパツアーが終わって家へ帰った時、僕は一瞬ステラの顔をまともに見られないような、後ろめたさに襲われた。彼女は信頼しきった笑顔を見せ、僕の腕に手をかけて見上げている。
「お帰りなさい!」
ステラは目を輝かせ、嬉しそうに声を上げた。その瞳には、その声には、何の疑いも感じられない。僕が帰ってきた喜びだけが、伝わってきた。
「会いたかったわ、ジャスティン! おつかれさま! 本当に疲れた顔をしているわね。ゆっくり休んでちょうだいね」
「ああ、ステラ!」
僕は思わず妻を抱きしめた。彼女はずっと、ここで僕を待っていてくれたのだ。僕を信頼し、寂しさに耐えながら、ずっと――。
「君が一番だよ、ステラ。愛してる。会いたかったよ」
思わずごめんよ、と続けそうになって、あわてて言葉を飲み込んだ。謝ったりしたら、変に思われるだろう。彼女の信頼を傷つけたくない。でも妻に秘密を持ってしまったことは、まるで鉛のように僕の心を重くさせた。もう二度と、ステラを裏切ったりはすまい。絶対に――僕は密かに心にそう誓った。
でもツアーという非日常の中では、素面の誓いなど、すぐに揺らいでしまうのだろうか。六月半ばから始まった二度目の全米ツアーで、中盤を過ぎた七月下旬に、僕はあっけなく他の女の子と交渉を持ってしまった。彼女の名前はシンディ。そうとしか名乗らなかったので、姓は知らない。ブロンドの小柄な女の子だ。どこをどうやって潜り込んだのか、ホテルの部屋の前に立っていた。にこっと微笑まれ、ちょっと小首を傾げて、「入っても良いですか?」と言われた時、断れなかったのは、コンサートツアー独特の熱気のせいと、外見や仕草の癖も含めて、数年前のステラに印象が似ていたせいかもしれない。
だが、この娘は当然のこととは言え、中身は決してステラと同じではなかった。いや、むしろ正反対だ。外見にしても、金髪の根元五ミリほどは茶色で、目を大きく見せる青のカラーコンタクトをつけている。十八歳と半年という年齢のわりに、相当に手馴れていて、かなり経験もありそうだった。おまけに避妊具も、しっかり用意していた。ロンドンのニコレットの方が、この娘より一年近く年上だが、比べ物にならないほど慎ましげで初々しい。化粧は濃くなく、いわゆるグルーピー的な雰囲気は漂わせていなかったので、うっかり入れてしまったが、もしかしたらこの娘はそうなのかもしれない。そんな疑いが頭をもたげ、僕は思わず聞いた。
「君はよく、こういうことをするの?」と。
彼女はハンドバッグの中から煙草を探していたようだったが、振りかえるとちょっと肩をすくめた。まるで、(そんなことを聞いてどうするの。わかっているくせに)と言っているような表情だ。僕がパジャマを着ている間に彼女は煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら、ニコっと笑って答えた。「ええ、時々ね」と。
「君はグルーピーなのかい? 相手は誰でもいいのかい?」
彼女はちらっと僕に視線を投げた。誘っているような、どこか軽蔑しているかのような眼差しだ。(そんなことを聞いて、どうするの?)──さっきと同じ答えを、暗に語られているような気がした。彼女は再び煙を吐き出し、艶然と笑った。
「誰でもよくはないわよ。あたしにだって、選ぶ権利はあるわ。寝てみたいな、と思う人だけよ。さもなければ、寝る価値のある人だけね。あたし、自慢できるわ。エアレースって、ガードの固さでも有名だから。もっともブーちゃんやゴリや背景クンじゃ、価値はガタ落ちだけど」
「ミックやジョージやロビンを、そんな風に呼ばないでくれ!」
僕は思わず頭に血が上ってしまった。彼女は肩をすくめ、笑う。
「あら、でもあなたにも、誰が誰だかわかってるじゃない。わりと普通に呼ばれてるわよ、特にネットじゃ」
僕は返事が出来なかった。怒りと当惑で思わず顔が火照る。ようやく言葉を見つけた。
「三人とも、大事なメンバーなんだ。もっと敬意を持って欲しい」
「はいはい」シンディは肩をすくめ、再び笑う。
「それにしてもね、なぜあなたたちは、そんなにガードが固いの? 他のバンドは、たいていフリーパスなのに。不思議なのよね。その気になれば、あなたたちならハーレムが出来ると思うのに。仲間内じゃ、エアリィが実は本当に女の子だから、ばれないようにガードしてるって、もっぱらの噂だけど」
「そ、それは嘘だ、絶対。都市伝説だ! そんな理由じゃないさ!」
僕は即座に首を振った。 「それに、彼が仮にもし女の子だったとしても、そんなに躍起になって隠さなければならないものじゃないだろう。女性ヴォーカルが悪いわけじゃない」
「あら、でもあなたたちは嫌がったっていうじゃない。最初にヴォーカルを募集した時、女の子は不可という条件だったって。だから男の子だって言って入ったんだって噂よ」
「ああ。そういえば……」
たしかに女性は不可と言ったな。ごく最初、バンドが四人のころ、ヴォーカリストの条件を話した時に。しかし、そんなことまで伝わっているのか? ああ、そういえばインタビューで、ちらっと言ったかもしれない。誤解して欲しくはないし、変な意味でもないけれど、と慎重に前置きして。ただ、それを言ったのは、セカンドアルバムが出た頃だったはずだ。
それでもネットが発達している現在、その伝播力は強いのかもしれない。エアリィがアリステア・ローゼンスタイナーの孫だということも、ミックがカナダで大臣を歴任している人の息子だということも、ジョージとロビンの実家の大財閥のことも、大ブレイクしたとたん、あっという間に知られてしまったし、僕自身も去年バハマでステラやクリスと三人一緒に写真を撮られ、ネットで拡散されてしまったらしい。幸いステラも彼女の両親もネットとは無縁なので、わからずにすんでいるようだが。
それにしても、エアリィに女性説が根強いのは知っていたが(まあ、あの外見と声では無理もないが)、噂は決して事実にはならない。
「いや、彼にはガールフレンドとの間に子供がいるんだ。そんなはずはないだろう」
「その赤ちゃんについても、いろいろ言われているけど。本人が生んだっていう説もあるし。オフ中でしょ、だって」
「馬鹿な!」
あまりに予想外のばかばかしさに、僕は絶句した。
「なぜ、そんな説が出るんだ。ありえないよ。第一、僕らは前の年の十二月までツアーしていたんだ。普通にその頃は七ヶ月だ。わからないはずはないだろう」
「でもあの人、いつも身体の線が出ない服着てるじゃない。わからなくない?」
「いや、それでも七ヶ月の妊婦を隠しおおせるほどじゃないさ。ありえないよ、それは、絶対。第一、誰の子だよ?」
「メンバーかスタッフの誰かじゃないの?」
ここに至って、僕は再び絶句した。無責任な噂にもほどがある。それなのにシンディときたら、「あら、赤くなった、怪しい」などと、嬉しそうに言う。違う! これは怒りと当惑と……あまりの破廉恥さに、あきれているだけだ。
「ぼ、僕はアデレードさんが、おなかが大きい頃を見たことがある。エアリィは女の子じゃない。彼はあの時のロードも、ずっと最後まで体型に変わりなかった。ロザモンドちゃんが生まれる間際にも会ったけれど、いつもどおり細かった。第一、妊婦があんなハードスケジュールで行ったら、とてももたない。長距離のバス移動も良くないし、彼のステージアクションは、わりと大きい方だ。間違いなく、途中で流産になる。ありえない! まったく、ふざけた噂にもほどがあるよ」
「他にもあってよ。あの赤ちゃんのうわさは。仮腹したとか、別の男の種だとか」
「どうして十七歳で、わざわざ他の女性に仮腹する必要があるんだ。ましてや他の男の種とか、アデレードさんに失礼だろう」
あまりにいろいろ勝手なことを言われすぎて、自分のことではないが、本当に腹が立ってきた。エアリィにはとても聞かせたくない話だ。アデレードさんにも。
「そんなに怒らなくても良いじゃない。ああ……あなたたちももしかしたら、本当のことは、わかってないんじゃないの? ますます怪しいわね」
シンディはまるで面白がっているような笑みを浮かべている。
「それに、あのアデレード・ハミルトンって女、評判悪いのよ。たしかに美人でスタイルもいいけど、それだけの三流モデルで、誰とでも寝るあばずれが、まんまと出来婚にもちこんだって。まあ、これはエアリィが男だっていう仮定の上だけど。結婚はしてないけれどね、まだ。結婚なんかしたら、石を投げられそうね。でも逆に、結婚できない事情っていうのも噂されているのよね。同性婚になるからとか、あの女の本性に躊躇しているとか」
「もういい加減にしてくれ! そんなひどい言い方はないだろう」
僕は思わず怒鳴りそうになり、慌ててトーンを下げた。あばずれにあばずれと言われるなんて、アデレードさんが気の毒すぎる。失礼、そんな言葉は使うつもりじゃなかった。母やホプキンスさんに聞かれたら、今でもお尻を叩かれかねない。
「あらあ、十七歳で『子供が生まれました』なんて、さらっと報告しちゃったら、騒ぎになるの、当たり前じゃない。天下のアーディス・レインが。今一番ホットな人がよ。あなたはまだ良かったわね。バンドでは二番手だし、ブレイク前だったから、奥さんと出来婚したの、そんなに騒ぎにならなくて。まあ、あなたの奥さんも評判は悪いけど」
「なんだって? なぜ、ステラが評判良くないんだ」
「あら、ぶりっ子のお嬢さんは、受けは良くないに決まってるじゃない。可愛くもないし。ブスっていうほどでもないけど、せいぜい十人並みよね。それなのに、ぶりっ子でお高くとまってるって、けっこう嫌われてるわよ」
僕は憤りのあまり、言葉を忘れた。なぜ妻を侮辱されなければならないんだ。ロビンたちを馬鹿にした呼び方をされ、エアリィとアデレードの無責任な噂話を散々聞かされただけでも、十分怒り心頭なのに、それだけでは飽き足らず。これが世俗的な見方なのか? 下世話なレベルでの。バンドの名声と同時に、こんな低いレベルでの噂話やゴシップにも晒されなければならないのか。しかも僕はこんな女と、妻を裏切って関係を持ってしまった。激しい自己嫌悪に襲われ、思わず言葉が出てきた。
「すまないけれど、もう帰ってくれないか」
「あら!」彼女はわざとらしく目を見開き、困惑した表情をする。
「奥さんの悪口を言われて、怒ったの? 本当に評判どおりの愛妻家なのね。でも、もう二時近いのよ。こんな真夜中に、か弱い女の子を一人で放り出す気?」
何がか弱い女の子だと言いたかったが、軽率にこんな娘を部屋に入れた責任は僕にある。それに相手は何と言っても、まだ十八歳の女の子だ。万が一何かあったら、後味が悪い。僕はため息をついた。
「じゃあ、君は隣のベッドで休んでくれ」
「ありがとう」 シンディは小首をかしげ、最初と同じようにニコっと笑った。
「本当ね。仲間が教えてくれたのよ。ジャスティン・ローリングスを落とすには、小柄なブロンドの女の子で、ぽっちゃりまではいかない体型で、でもあまり胸はふくよかじゃない子が、お化粧を控えめにして、うまくぶりっ子すれば、いけるかもしれないって。奥さんタイプだから。あたしなら多少似てるから、いけるかもって言われたの。あまり嬉しいとは言えなかったけれど、それでもチャンスがあるならって、一か八かトライしたのよ。だって成功したら、自慢できるじゃない?」
僕は言葉を忘れ、再び頭に血が上るのを感じた。完全に彼女にはめられたわけか。
「汗かいちゃった。もう一度シャワーを浴びてくるわ」
彼女は煙草を灰皿でもみ消すと、けだるそうにあくびをし、ベッドから這い出ていった。バスルームからの水音を聞きながら、僕は怒りのあまり目がさえていたが、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。七月の暑い空気の中を野外で三時間演奏したあとだったので、元々かなり疲れていたのだろう。
翌朝目が覚めた時、もう彼女はいなかった。僕は思わず何かなくなっている物はないだろうかとチェックし、大丈夫だとわかると、すぐバスルームへ飛び込んだ。
ロンドンのニコレットの時と同じように、洗面所の鏡に、ルージュで何か書いてある。しかし今回は言葉にしたくないほど卑猥な、馬鹿にしたようなものだった。しかも、ど真ん中にでかでかと。僕は憤りのあまり顔が熱くなるのを感じながら、ティッシュを水に浸し、乱暴に鏡を拭いた。そしてシャワーを浴び、体を拭いたタオルでもう一度鏡を拭き、着替えると、ため息をついてソファに座った。
再び、自己嫌悪感が襲ってきた。妻を裏切った。またしても。それも相手がニコレットのように純真な子だったら、まだいくぶん救われるような気がするが(それはそれで、別の罪悪感を覚えるが)、今度の相手は最低だ。低俗で浅はかで、品がない。でも、十八歳の女の子相手に本気で憤る自分も、相当大人げない。だから彼女も、こんな浅ましい方法で報復したのか。ああ、僕も彼女のくだらない噂話や下品なものの見方を聞かされているうちに、同じようなレベルになってしまったのかもしれない。まるで泥がついてしまったように。もう本当に止めよう。昨日シンディと出会ったことは、僕がこれ以上妻を裏切らないよう、その戒めの意味だったにちがいない。
その朝、僕は専属セキュリティのホッブスに会った時、つい強い口調で言ってしまった。
「僕の部屋にこれ以上変な客が来ないように、もっと気をつけてくれないか」と。
「気をつけていたつもりでしたが……誰か来たのですか?」
ホッブスは怪訝そうな顔で、そう問い返してきた。
「ああ、昨日はね。まあいい。僕も君に連絡しなかったのが悪いんだ。連絡したら、すぐに来てほしい。いいかい?」
「ええ、いつでもどうぞ。ちゃんとお引き取り願ってもらいますよ」
生真面目な口調だったが、口元は笑っているようだ。僕はなんとなく不快な気分を感じながらも、「頼んだよ」と頷くしかなかった。
でも僕の心の泥は、その後も少しあとを残していたかもしれない。次の公演地に移動するバスの中で、思わずエアリィに「おまえ、本当に男だよな?」と、きいてしまったのだから。彼には思い切り怪訝そうな顔で、「えっ、なんで今頃、そんなこときくのさ?」と言われたが。
「いや、ネットで噂になってるって聞いたからさ。冗談だよ、気にしないでくれ」
僕は肩をすくめた。
「あー、ネットね、知ってる。見ないけどね、あんまり。前は時々公式フォーラムのぞいてたんだけど。もう、自分の更新以外やめた」
エアリィも小さく肩をすくめていた。
「ああ。自分たち関連は、見ないほうが得策だよ。僕も最初は少し見てみたけれど、もう追いきれないと思った。気にしたら、翻弄されるだけだよ」
ミックがちょっと苦笑して、言葉を添えている。
「うん。ネットってさ、特に不特定多数の人たちが集まるところって、ものすごーく大きな段ボール箱に、いっぱい新聞紙やティッシュがちぎって入ってるっていうイメージなんだよね、僕には。で、その中に時々コインとかちっちゃい希石とか、価値のあるものも少し混じってるけど、針も一杯あるって感じ。針に刺されてまで、紙くずかき分けてちっちゃい宝石捜すのも、僕はちょっとめんどくさいかな〜って思うんだ」
エアリィは少し首を傾げて、少し考えるように言い、
「うん。イメージ的にはそうかもね。わかるよ。僕は怪我で入院してたころ、おっかなびっくり掲示板を見てみたんだ。そしたら震え上がっちゃって、自信喪失しちゃって。それから怖くて、読めないんだ。自分たちのフォーラムさえ」
ロビンも小さく頷いている。
「おまえは止めとけ、ロビン。本当にな。気にしたら精神病むぞ。俺だって、あまりいい気持ちはしないからな。一度見たら、俺はゴリラ扱いされてたぜ。サルの玩具がドラム叩いている、あのイメージだ。まったく、やってられないよな」
ジョージは肩をすくめていた。
「ええ〜、ひど! ファンで? アンチじゃないの、それ?」 エアリィは声を上げ、
「ファンつってもな、俺はそんなもんさ」と、ジョージは再び肩をすくめる。
「そういう点は、僕もそう変わりはないよ」 ミックも苦笑していた。
「ネットは匿名性が高いだけにね、本音や誇張が多く出るんだと思う。あと、僕らみたいに売れてしまうと、反感ややっかみも多くなるんだろう。がやがややかましいだけだと思って、気にしないようにしたほうが良いよ」
「ああ……そうだね、たしかに」
僕は頷いた。もともと僕は一日にPCに触る時間は、一時間もない。メールをチェックして、ニュースをざっと見るくらいだ。あとは時々公式サイト内にある自分のページを時々見て、近況をたまに更新するだけだ。ファンたちとの交流窓口として。
「あっ、でもこれって、曲の種になるかな! ネットの真実って」
エアリィがそこで、ぽんと両手を打ち合わせた。
「今はまだホントに種だけど。あとで形になりそうなら、やってみよっと」
曲のインスピレーションか。そこにつながれば、僕がこの話題を持ち出したことも、そう無駄ではないな。僕は密かに苦笑した。
次の公演地に着くころには、僕の心も平常に戻ってきたように感じた。世俗的な低俗さでついた傷も泥も、なんとか払い落とされたようだ。そして改めて心に誓った。低きに身をかがめるような機会は、もう絶対に作るまいと。
八月半ばに、二度目の北米ツアーも終わった。その五日後にベルリン、二日おいてロンドンで開かれるロックフェスティヴァルに出演すれば、一年近くに渡る長いロードも、ついに終わりだ。最後の一仕事に出る前、つかの間の休日を、僕らは自宅で過ごしていた。
休日二日目の朝、一晩ぐっすり眠って気分良く目覚めた僕は、シャワーを浴びて着替え、朝食のテーブルについた。クリスを幼児用の椅子に座らせ、専用のエプロンをつけてから、クリームをかけたミルク粥を食べさせてやるのも、僕が家にいる時の、いつもの習慣だ。でも僕が夏のロードに行っている間に、息子は一人で食べることを覚えたらしい。小さな手にスプーンを握り、一生懸命お粥をすくって口に運ぶ。まだトレーの上にかなりこぼすが。いつも帰ってくるたびに、息子の成長に驚かされる。
「へえ、えらいね、クリス。一人で食べられるんだね」
笑いながら声をかけると、クリスも得意げににっこり笑い、再びお粥に挑む。ストローカップの中のオレンジジュースも一人で飲み(コップを持ち上げないでテーブルに置いたままだから、少し屈みこむ感じになるが)、器に盛られたカットフルーツを、手を伸ばしてつかみ、頬張ってもいる。息子の食事にあまり手がかからなくなったので(後始末は、少し手がかかりそうだが)、僕も自分の食事に専念していた。
そこへ出勤してきたトレリック夫人が、コーヒーのポットと、カップを二つ載せたワゴンを押してきた。ステラはそれをポットからカップについで、僕に手渡そうとした。ちょうどその時、ふっとクリスが手を伸ばした。果物を取ろうとしていたのかも知れない。その小さな手が、運悪くコーヒーカップとぶつかってしまった。
「あっ、危ない、クリス!」
僕はとっさに手を伸ばし、息子を後ろに引き戻した。同時に、空いた方の手でカップをつかむ。そのとたん、焼けるような痛みを感じた。
「あっ!」僕は思わず短い叫びを上げて、手を引っ込めた。
「ジャスティン、大丈夫!?」ステラが叫ぶ。
「ごめんなさい。火傷したの? 急いで冷やさないと……」
「ああ。大丈夫だよ。気にしないで。僕のことはいいから、クリスを頼む」
べそをかいている息子に「大丈夫だよ」と笑ってみせた後、僕は急いで洗面所に飛んでいき、水道の水を流して冷やした。冷たい水が心地良いが、熱いコーヒーをかぶってしまった手全体が、赤く腫れてひりひりする。
「困ったな……」
ひと通り手当が済んだあと、思わずそう呟やかずにはいられなかった。まだロードは終わりではない。ヨーロッパで開かれる大きなフェスティヴァルに、二回出なければ。しかも、僕らはメインアクトだ。それなのに、ギタリストの命とも言える手をケガするなんて。
次の日には、かなり腫れと痛みはひいたが、まだ手を動かすと痛い。水泡にもなりかけているようだった。その翌日の午後、空港でバンドのみんなと落ち合った時も、やっぱり左手の包帯が驚かせたようだ。
「ちょっとドジを踏んだよ。コーヒーをかぶっちゃって」つとめて軽い口調で僕は、火傷の経緯を語った。みんなは、「それじゃ仕方ないけど、プレイは大丈夫?」と、聞いてくる。
「大丈夫さ。大したことはないんだ。演奏はちゃんとやれるよ」 僕は頷いた。
それから二日後、いよいよ本番の日を迎えた。フェスティヴァルの一回目は、ベルリン。手は本調子とは言えないが、リハーサルでは、なんとか演奏はこなせた。
野外フェスティヴァルに出るのは初めてだが、独特の雰囲気だ。広いバックステージエリアに出演者用のモーターホームやテントがたくさん並び、出演者やその関係者、それぞれのスタッフとクルー、さらに主催者側のスタッフたちなど、かなり大勢の人たちがいる。観客席側とはステージをはさんで高いバリケードで仕切られ、警備の人もいて、隔離されている。その様子をモニターしたものが出演者スペースにいくつかあるため、こちらからでも見られるが、まるで広大な人の海のようだった。後ろのほうの観客たちのために、ところどころにスクリーンが立てられ、スピーカーを吊り下げた柱が、いくつも立てられている。両側はフードコートとトイレが並び、どこも長蛇の列だ。観客たちはビーチボールを飛ばしたり、座ったり立ったり、食べ物や飲み物を求めて移動したり、今のところはまだかなり動きがある。
この日は木曜日だが、まだ八月のバケーションシーズンでもあり、学校も夏休みであることもあって、三時ごろには相当な密度になってきていた。座っている人もかなりいるが、隣の人と身体が密着している。主催者いわく、ここはキャパ上限の二十万人、ロンドンではやはり上限いっぱいの二四万人が来るという。一度にそれだけの数の観客を相手にするのは、僕らにも初めてだった。
この日は僕たちを含めて六組が出演する予定で、最初の出演バンドは、四時から演奏がスタートする。僕らが出るのは夜の十時くらいなので、それまでの時間、かなり暇だ。それに他の五組の出演者たちとは、ほとんど面識がない。五組のうち四つは、音楽的にもたいして興味をそそられなかった。僕らの三つ前に出演するアーティスト以外は。去年話題になった天才ギタリスト、シルーヴァ・バーディット率いる三人組のインストバンド、彼の名を冠してシルーヴァ・バーディッツ・クエイサー、略してSBQ。一昨年のクリスマスに出た彼らのデビューアルバムは、全米やヨーロッパで、インストアルバムとしては異例の枚数を売っている。デビュー一年半の新人というのは、今回の出演者の中で一番キャリアが浅い。それにも拘わらず出演順が三番目なのは、彼らのアピールや人気度が強い証拠だろう。
でも、彼らに謙虚さや礼儀はまったくないな。それが、僕の第一印象だった。三時半ごろ、バンド用のモーターホームを出て、全体に用意されている大きなケータリングテーブルに飲み物を取りに行った時、僕はシルーヴァ・バーディットとすれ違った。腰まで届くような長い黒髪、フレンチスリーブの真っ赤なシャツからのぞく浅黒い腕には、派手なタトゥーが刻まれている。左腕にドラゴン、右はバラの花と蝶の意匠だ。右の手首にぴったり密着した、黄金の蛇をかたどったブレスレット。胸にかけた首飾りは、合わせて三つ。膝が抜けたジーンズ、素足にサンダル。これでも普段着なのだろうが、その存在感は圧倒的だ。
彼はドリンクテーブルから戻ってくるところで、同じような格好をして同じように背の高い、二人の男を従えていた。バンドのリズム隊だ。彼らはラテン系の双子らしく、顔は似ているが、ベーシストは派手にパーマをかけ、ドラマーの方は見事なモヒカンだった。
シルーヴァは左手に持ったカップを飲みながら歩いていたが、すれ違いざま、僕の方をちらっと見た。向こうの方が背は高いので、なんとなく見下ろされるような感じだ。おまけに一緒にいる二人も同じような背格好なので、まるでセキュリティに囲まれているような錯覚さえ覚える。
僕も目を上げ、挨拶程度は言おうとした。「初めまして」とか、「よろしく」そんなようなことを。だが彼は、こちらが何かいう前に左手の包帯に視線を投げて、口を開いた。
「ふん。ギタリストのくせに手にケガするなんて、不注意だな」
思わずむっとした。たしかに僕もそう思うが、いきなり挨拶も抜きで初対面の同業者、しかも後輩に言われる筋合いはない。彼は僕よりたしか二才ほど年上だし、デビューが早いだけで先輩面をするつもりはないが、それにしても礼儀知らずだ。
僕は頭を上げ、言おうとした。『たしかに不注意なのは認めるけれど、絶対プレイに響かせたりはしない。第一、君にそんなことを言われる筋合いはない』と。
しかし、彼は立ち止まらなかった。すたすたと自分たちのホームに向かって歩いていく。リズム隊の一人が何か言い、彼らは一斉に笑った。何を言ったか知らないが、自分のことを言われたようで感じが悪い。でも追いかけていって反論するほど、事を荒立てるのもいやだった。僕ら二人が接触したと、回りにいた取材陣が一斉にこっちを見ている。これ以上関わったら、彼らに絶好のネタを提供するだけだ。
僕は肩をすくめ、テーブルに行った。回りにいた人たちがさっと道をあけ、僕はセットされた紙コップを取ると、ビールのタンクから注ごうと手を伸ばした。その時、一人だけどかないでそばにいた人が同時に手を伸ばしたので、僕は思わず手を引っ込め、相手の顔を見た。もうベテランの域に達している、僕らのすぐ前に出るバンドのギタリストだ。このバンドは知っているが、僕の趣味には合わなかったので、音楽はほとんど聴いたことはない。でも彼らは僕らより、十年以上先輩のはずだ。
「あっ、どうぞお先に」僕は反射的にひいた。
「いや、これは悪いね」
相手は満足そうにビールをカップに半分ほどつぐと、ゆっくりと中身をすすっている。
「君は礼儀を知っているね。トリだからと言って威張らないし。さっきの奴とは、えらい違いだ。まだ新人のくせに、ちょっと人気が出たからっていい気になって、俺を押しのけたんだ。でかい図体で、弾き飛ばされるかと思ったよ。あの男、半分ニ○ロのくせに。ジミ・ヘンドリックス気取りなのかね。まったく気分が悪かったよ。そこへ行くと君は良くできているね。さすがに育ちが良いと、違うものだね」
「あっ……ああ、そうですか? それはどうも、ありがとうございます」
僕は曖昧に笑い、自分の分をついだ。その人とは話をする気が起こらず、そのままテーブルを離れた。その後ろから、微かな声が聞こえた。「ち、あいつもお高くとまってるな」と。僕がさっさと場を離れたので、気を悪くしたのだろうか。
あの人はずっとあそこでビールを飲み続け、誰か来るたびに鉢合わせをして、相手がどう出るか試しているのでは――なんとなく、そんな気がした。それで、自分のステータスを確認しているのだろう。まったく、このフェスティヴァルの同業者には、ろくなのがいない。出演者エリアを出ようものなら、すぐに取材陣が追いかけてくるし、カメラマンはフラッシュを浴びせてくる。僕は他の出演バンドの面々より、かなり格好はシンプルだから(オリーブグリーンの絵つきTシャツにフェードブルーのジーンズ姿だ)、普通の写真しか撮れないだろうが。他の出演者には話をしたい相手もいない。早く帰ろう。
モーターホームに戻る途中で、ちょうど出てきたエアリィに会った。彼も僕らの例に漏れず、服装はシンプルだ。フードとワンポイントのついた水色のTシャツにインディゴブルーのストレートジーンズ、白いスニーカーというスタイルだ。彼は元々細い上に、いつもトップスは一、二サイズ大きいものを着るので、かなりゆったりしていて、丈も長い。胴が短く、その分足が長いこともあってか、いつも太ももの上部まで来る。それも彼の女性説を裏付ける疑惑の一つらしいが――いつも前を隠しているという。だが、体型と好みゆえの、偶然に過ぎないのだろう。今やこのバランスのスタイルはアーディス・レインのトレードマーク的な感があるが、仮にどんな地味な格好をしていたとしても、他の派手な格好の連中より目立って見えるだろう。彼は何度か「外へ行きたい」と言っていたが、ロブやカークランドさんが止めていた。それでもやっぱり、出てきたのだろう。ただ一人ではなく、二、三歩ほど離れたところで、セキュリティのジャクソンが見守っている。そういえば、僕のセキュリティ、ホッブスはどこにいるんだ?
「あれ、ジャスティン。なんだ、もう帰るの? さっき出てったばっかじゃないか」
エアリィは僕を見ると、ちょっと怪訝そうに聞いてきた。
「ああ。ビールも取ってきたし、もう用はないから。おまえは今、出てきたのか?」
「うん、僕も飲み物取りに行こうかなって思って。せっかくいい天気なんだし、オープンエアなんだから、出ないのも、もったいないし」
「いい天気っていうより、暑いだろう。おまえ、暑いのは苦手なんじゃないか?」
僕はちょっと肩をすくめた。
「うん。でも、こういうからっとした暑さは、そう嫌いじゃないよ。夏なんだな! って気がするし。この中でプレイするわけじゃないし」
「まあな。僕らが出るころには、いくぶんは涼しくなっていそうだな」
僕は苦笑して、再び肩をすくめる。
「でも、おまえが出てきたら、プレスの餌食になりそうだな。ここはまだ出演者エリアだからいいけれど、あのラインを超えると、きっと来るぞ」
「どのライン?」
「ドリンクテーブルの前の、銀色のテープラインさ」
「ああ、あれがそうなんだ。じゃ、ドリンクテーブルは取材フリーか」
「ああ。だからドリンクはジャクソンにでも、持ってきてもらったほうがいいと思うぞ。僕もついヒマだから取りに行ったけれど、そうすればよかったと思ったな。他の出演者とも、全然顔見知りじゃないし、話も出来ないから」
「そうなんだ。でもどんな人たちか、僕は興味あるな。話す機会があるかどうかわからないけど。最初は誰でも初対面なんだし、いろんな人と知り合いたいなって思うよ」
こんなリアクションをするのは、うちのバンドではエアリィとジョージだけだ。二人とも、僕らにもそうすべきだとは言わないが。いや、ジョージは最初のころはそう言ったが、今は諦めたのだろう。エアリィは元々、人に意見は押し付けないが、彼のこの『人の輪を広げたい』傾向は、最近では周りに押さえられることが多いのが、本人曰く『ちょっと憂鬱』らしい。しかし、業界を揺るがすモンスターになってしまった以上、周りに妨害者や悪意を持つ人がいる可能性が排除できないため、無防備に飛び込んで行くのは危険なのだ。
彼は何気ない調子で、こうきいていた。
「じゃ、ジャスティンは他の人とは会わなかった?」と。
「いや、会ったよ。そうだ、もしケータリングテーブルに行くなら、一人粘っているのがいるんだ。きっと同時に手を伸ばして来るぞ。まあ、おまえは、ビールは飲まないだろうけど、他のでも、手を出してくるかもな」
「へえ。なんで? よっぽど、のど渇いてるのかな?」
「違うと思うな。内心面白くないんじゃないか? 僕らのような若造がトリで、しかもシルーヴァ・バーディットにまで見下されたんだから。あっ、おまえは知ってるか?」
「SBQのリーダー? うん、名前だけは聞いたことはあるよ。そういえば、今回一緒だったっけ? 会ったの、ジャスティン?」
「ああ、ついさっきね。いきなり挨拶も抜きで、『手にケガするなんて、ギタリストとして不注意だ』なんて言うんだ。ずいぶん失礼な奴だよ」
「へえ。ま、それは、たしかかもしれないけどさ。初対面でそれはきついなあ。ジャスティンの場合、ケガしたのは不可抗力みたいなもんだから、しょうがないと思うんだけど」
「どんな不可抗力だい?」
いきなり僕らの後ろで声がした。驚いて振り向くと、当のシルーヴァ・バーディットだ。そういえばこの場所は、SBQのモーターホームの入り口がすぐそばだった。彼はいつの間にか、僕たちの話を聞いていたのだろう。だが僕たちはモーターホームに背を向けて話していたので、相手が出てきたことに気がつかなかった。
僕は不意を討たれ、思わず驚いて返事を忘れた。こういう場はエアリィの方が強い。彼も驚いただろうが、相手を見上げ、ちょっと笑って「こんにちは」と言った後、言葉を継いでいる。「ジャスティンには、もうじき二歳になる子供がいるんだけど、その子が三日前の朝食の時、コーヒーで火傷しそうになったのを、かばったんだよ」と。
「ほう。でもまあ、それでも不注意だな」
「小さい子ってさ、時々危なっかしいことやっちゃうんだ。僕も一歳半の子がいるから、よくわかるけど、ホント、予測不能なことやっちゃうから、油断ならないよ」
「ほう。君も人の親なんだ。子供が子供を作ってしまったんだね」
「ええ、そう言われちゃうと、きついなぁ。否定は出来ないけど」
エアリィは苦笑しながら流したが、僕の方は思わずかっとなった。この男、どこまで無礼なんだ、と。何かお返しに言ってやろうと言葉を捜している間に、相手は手を伸ばし、エアリィの頭の上に置くと、くしゃっと髪をつかんだ。それほど強い勢いではないのだが、セキュリティのジャクソンが少し気色ばんで、こっちへやってこようとする。が、シルーヴァはニヤっと笑い、一転して穏やかな口調になって、言葉を継いだ。
「君は変わってないな、小さな天使ちゃんだった頃と。時代のスーパースターになった今は、多少人が変わったかもしれないと思ったんだが、やっぱり君は君のままだった。覚えてないかい? いや、君は忘れないんだろう。君に初めましてと言われたら少し寂しかったところだが、そうは言わなかったな、さっきは」
「えっ?」
エアリィは少し驚いたように、相手を見た。Little Angelie――小さな天使ちゃんという言い方に、明らかに覚えがあったのだろう。しばらく相手をじっと見つめていたが、やがて半信半疑のような口調で、問いかけた。
「もしかしたら……バーンズさん? サニーサイド農場の……?」
「やっと思い出してくれたかい、アーディ?」
シルーヴァの表情に、笑みが上って来た。
「えっ? シルヴィー? 君はシルヴェスター・バーンズ!? ホントに!? うわぁ、久しぶり!」
感極まったような絶叫に近い叫びは、周りの注意を今以上にひきつけるのに、十分過ぎるくらいだった。僕は慌てて周りを見回したくらいだ。
「その呼び方をしないでくれって、前にも言ったよな、アーディ。それをいうなら、僕も君をアンジェリィと呼んでしまうぞ。それに君が叫ぶと、会場中に響く」
シルーヴァは苦笑し、自分たちのモーターホームを指した。
「続きは中でやろう。まあ、バンドの他の連中もいるが、やつらも君のことは知っているから、気にしなくていい。一対三になるのを君のマネージメント側が気にするなら、公平を期して、君のとこのギタリストくんも一緒に来て良いよ。ボディガードは遠慮したいが」
「ああ、ごめん。びっくりして、つい叫んじゃったよ」
エアリィは肩をすくめて苦笑し、次いでセキュリティを振りかえった。
「ネイト、ちょっと僕は、SBQのモーターホームへ行ってくるから」
「大丈夫なのか?」
ジャクソンは、ちょっと心配げに問いかけている。
「大丈夫だよ。彼は旧友なんだ」
「わかった。だが君は、ドリンクを取りに行くんじゃなかったのか? 俺が取ってくるから、それまで待っていてくれ」
「うん。ありがと。軟水のミネラルウォーターがあったら、お願い」
ミネラルウォーターのボトルは、ビールとは別のテーブルだな。じゃあ、ジャクソンにしろ、エアリィにしろ、あの人と鉢合わせすることはないわけか。まさかそっちのテーブルにも出張してこないだろうし――まあ、エアリィの場合は、『はい、どうぞ』と、にっこり笑って相手にボトルを渡しそうだが。
やがてジャクソンがヴォルヴィックのボトルを手に戻ってきて、渡していた。
「俺はここで待っている。用があったら、声をかけてくれ」
「ありがと。でも、待ってなくても大丈夫だよ。退屈じゃない? それと……ジャスティンはどうする?」
「ああ……」
僕は考えた。どうやらエアリィとシルーヴァは昔の知り合いなのだな、ということはわかった。アンジェリィ――天使ちゃんはわからないが、アーディというのは、プロヴィデンス時代の呼び名だ。アーディと、ミドルネームからとったレーニィというのが、このころの愛称らしい。プロヴィデンスでの公演時、パーティに来た人たちが、そう呼んでいるのを聞いた。その時にはいなかったが、その頃の友達の一人なのかもしれない。だったら、僕が行っても話には入れないだろう。シルーヴァ・バーディットは、僕に対して、さして友好的な奴とも言えなさそうだ。用がないなら、僕はここで自分たちのモーターホームに帰っても何ら問題はないのだろうし、エアリィも気にはしないだろうが……。
「一緒に行くよ、かまわないなら」
いくら旧友らしいとはいえ、相手のモーターホームに一人残しておくのも心配だ、というのもあるだろう。SBQが妨害者である確率は低いとは思うが、万が一ということもあるので、相手の正体を見極めるまでは、僕も傍にいたほうがいい。それに、このいささかぶっきらぼうな、しかしギターの腕前は天才級といわれるシルーヴァ・バーディットという人物に対する好奇心も、少しあったかもしれない。
「まあ、べつにいいさ」
シルーヴァはチラッと僕を振りかえると、僕らの先に立って、自分たちのホームに入って行った。
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