Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

四年目(4)





 食堂のドアは開いていて、中から声が聞こえてくる。どうやらすでに先客がいるようだ。声のトーンから判断すると、ロブとローレンスさんだろう。ドアのすぐそばまで近づいた時、ローレンスさんの声が言葉となって、僕の耳に飛び込んできた。
「……ジャスティンは、気づいたかもしれないね……」
 僕は思わずドキリとして、そのまま足を止めた。驚いたのもあり、自分のことを話しているのが明らかな中に、当の本人登場というのも何となく気まずいだろうと思ったせいもある。立ち聞きというのも行儀はよくないが、何の話をしているのか気になった。ロビンもその後ろから、同じように足を止め、聞こうとしているようだった。
「まあ、ジャスティンも天才ですからね……」
 ロブが嘆息するような口調で言っていた。
「そう。彼はまれな天分の持ち主だ。それに気概もある。忠実なバックバンドとなることなど、決して望まないだろう。だが、好むと好まざるとに関わらずそうなってしまうという危機に目覚めたら、心中は決して穏やかではないだろうね」
「ギタリストって、結構自意識は強そうですからね」
「おいおい、僕にそれを言うかい?」
 ローレンスさんは笑っているようだった。
「でも、たしかにギタリストは自意識の強い人が多いよ。プライドもね。才能のある人なら、なおさらだ。それと同様に、シンガーもたいていは自意識が強い。だから、お互いにぶつかりがちなんだが。いや、僕らはそうではなかったがね、幸い。グレンとはよくケンカもしたが。彼は見た目と違って、わりと短気な奴だったからね。でもあとには引きずらない、さっぱりした奴だった」
「そうでしたね、本当に……」
「それに、必ずしもすべてのシンガーとギタリストが、仲が悪いわけではない。逆に切っても切れないコンビもいるわけだ」
「そうですね。そういうバンドは強いと思います」
「そうだね。ただエアレースの場合、もうそういうレベルは超えてしまっているが」
「ええ……まあ、たしかにそうですね」
「ジャスティンほどの天分の持ち主なら、ギターインストバンドをやったとしても、立派に成功できるだろうと思う。一昔前にスーパーギタリストを次々と発掘して名を馳せたプロデューサーが、去年の暮れに出したバンドが、いきなりブレイクしただろう。究極のインストバンドとか言われて。もっともインストバンドというのは、あまり広く一般受けはしないものだから、成功のレベルには限度があるというのが、正直なところだけれど。たしかに、そこのギタリストは凄いよ。真の天才だ。でもジャスティンだって、傾向は違うが、同じくらい天才だよ。しかし彼の場合、現実にはそのギタリストほど、評価はされないかもしれない。プレイの傾向と、自らが主導になれないためにね」
「しかし、それはあくまで自己顕示欲の強いギタリストなら不満に思う、ということでしょう、アーノルドさん」ロブの口調は真剣だった。
「ジャスティンは、そんなことは思いませんよ。彼は他のギタリストのことなんて気にしていないし、ギターヒーローになりたがっているわけでもありません。とても友達思いで、誠実で純真で、良い子なんです。彼の願いはバンドの成功と自らの技術の向上、それだけです。名声など望んじゃいないし、妙な野心などないはずですよ」
「たしかにあの子たちは、本当に理想的な関係を築いている。メンバー全員が信頼と友情で結ばれ、一緒にいることを楽しんでいる。アーティストとしても成長し、大成功を納めた。ああ、本当に……バンドとしては最高に幸福な境地だろうね。だが、これからが本当の正念場だ。この業界は魔物だらけだからね。アーティストが大きくなればなるほど、その魔物も大きくなるんだ。君は彼らをそういうあらゆる敵から守りたいと言っているが、君や僕やレイモンドたちの力にも、限界はある。本人たちにしてもね。ジャスティンだって、決して聖人じゃないんだ。彼だって人並みの欲望を持っているだろう。ロブ、思い入れは必要だ。アーティストに惚れぬいてこそ、マネージャーとして真に理想的な仕事が出来る。だがね、思い込みと現実を混同してはならない。忘れてはいけないんだ。彼らだって人間だということを。人間的な弱さはあると思うべきだ。それぞれにね」
「え……ええ」
「ただ、はっきり言ってしまえば、エアレースというバンドにおいて、ミック、ジョージ、それにロビンについては、ほとんど心配はないだろうと思う。別に変な意味じゃない。彼らは、自分たちが置き換え可能な部品だとは思っていないだろうし、あとの二人も決して、彼らに対してそんなことは思っていないだろう。僕もそうは思っていない。彼らはエアレースというユニットには、必要不可欠なパーツだ。だからこそ彼らは自らの立場を誇りに思えるのだし、また実力上の距離をはっきり感じているから、忠実なフォロワーとなることに、さほど心理的な抵抗はないんだと思う。だがね、ことジャスティンになると、話は別だ。彼ほど飛び抜けた能力の持ち主に、プライドはないだろうか? 嫉妬心はないだろうか? それも相手の力に、自分が努力すればなんとか手が届くというのなら、まだ救われる。その思いをバネにして、いっそうの精進に励めるし、良きライバルとして健全な友情がはぐくめるだろう。しかしこの場合、はっきり言って次元が違う。相手はモンスターだからね。だが、だからといって他の三人のように感嘆しながらあきらめるには、彼の天才が邪魔をするかもしれない」
「ですが、アーノルドさん。ジャスティンにそんなこだわりはないと、僕は思っています。彼は非常に謙虚ですから、妙な嫉妬心など、持たないと思うのですが。少なくとも、僕にはそう見えます。マネージャーとしての欲目もあるのかもしれませんが、それでも……」
 しばらく沈黙があった。かちっと小さくライターをつける音がし、再び煙草の匂いがかすかに漂ってきた。ローレンスさんは再び口を開いた。
「そうだね。彼もきっと、そう思っているだろう。もし彼が今僕らの話を聞いていたら、冗談じゃない、そんなことは思っていない、と、少し気を悪くするかもしれないな」
 再びどきっとした。別に気は悪くしていないが、僕はまさに、(そんなことはない。取り越し苦労だ)と、思っていたところだったのだから。
「だがね、ジャスティンは本当に、プライドを持たないのだろうか? 本当に自分の実力を認めていないだろうか? そんなはずはないと思うんだ。なるほど、彼ほど育ちの良い子ならば、自慢や勝ち誇りは人間として恥ずかしいことだとしつけられ、謙虚さを身につけるだろう。同時に友達に対して悪い考えを持つなど恥ずかしいことだと、教えられてきたのだろう。その通りだと思い、育った良い子なんだ、彼は。だが良い子の本当の心は、当人にすら、わからないのかもしれない」
「じゃあ、ジャスティンが誠実で謙虚で、誰にでも親切なのは、作られた良い子だからとおっしゃりたいんですか」
「いや、そうは言わない。だが、彼はすくすくと伸びてきた大木のようなものだ。強い突風や嵐にあったら、ぽきりと折れてしまう危うさを持っていると、僕は感じてしまうんだ。その危険性を、君も頭に入れておいたほうがいいよ、ロブ。その危うさゆえに、かりに僕が妨害者の立場で、エアレースに1−2分裂をしかけるとしたら、まず確実にジャスティンの方から崩していくことを狙うだろうからね」
「そうですか……やはり」
「ただ、今のエアレースに1−2分裂を仕掛けるメリットがあるかどうかというと、かなり微妙だろうね。1−2分裂というのは、ツートップ型には非常に有効なんだが、今のようだと、2を離反させても仕方がない、と思う可能性は高い」
「……そうなんでしょうね。去年の最終公演での、ジャスティンへの脅し内容を聞いている限りでも……分裂ではないんでしょうね、妨害者の狙いは。エアリィの存在は、業界のある種の人間やアーティストたちには、非常に脅威なのだろう。それだけは、僕にもはっきりわかります」
「タブーを犯してしまったのだからね。業界のタブーを」
 ローレンスさんは声を落とした。
「未踏の領域は、それだけ怖いということだ。前作のデモを聞いた時も衝撃を受けたが、今回はそれ以上だ。未踏の領域に入っただけじゃない。彼はさらに奥へと突き進んでいるように思える。今日の『Abandoned Fire』にしてもだ。ヴォーカルを録っている間中、僕は全身に鳥肌が立っていた。あれだけの感情とイメージと力を放散するシンガーは、いや、他のあらゆる芸術家を含めても、彼しかいないだろう。あの子のオンとオフには少しギャップがあるが、スイッチが入ってオンになると、もう誰にも止められないし、周りをすべて霞ませてしまう。本当に次元が違う。それが未踏の領域なのだろうが」
「そうですね……本当に」
「それにね、僕は気づいた。その中にいると、自分の能力も最大限に引き出されるようなんだ。インストの四人も、ベストな演奏を決めるのに、ほとんど時間がかからない。前作のデモを聞いていて、もしかしたらと思ったので、ガイドヴォーカルを本気で歌ってもらったんだが、これほどの効力だとは思わなかった。それに監修している僕たちのほうも、感覚が研ぎ澄まされ、ベストの判断が苦もなく出来る。ミキシングでもベストの音バランスが、ほぼ迷わず出来るんだ。だから前作のミックスダウンも、実質の作業は十日ほどで終わってしまったほどだ。よほど自分の調子がいいのだろうかと思ったが、他のアーティストではその現象は起きない。AirLace限定だ。今回のレコーディングも非常に楽だった。ミックスもきっとそうだろう」
「ええ。コンサートスタッフも、同じようなことを言ってしましたよ。サウンドチェックでの音決めが容易だと。他のエフェクトもそうです。本当に特異な空間なんですね」
「ああ。彼らのコンサートスタッフは、半分以上僕らの元スタッフだから、話をする機会は何度かあったが、同じことを言っていたね」
「そうですね。スタッフはかなりの部分、Swifterから引き継いでいますから。美術、照明、音響、ヴィジュアルのそれぞれの監督、何人かの助手、モニターミキサー、プロダクションマネージャー、パイロテクニシャン、音響設計、ドライバー。社長が一昨年の暮れに、完成したアルバムを聴いて、声をかけたらしいですね。『来年の夏には、うちでもう一度アリーナツアーが必要になる。賭けてもいい。準備もあるから、出来たら春から身体を空けておいてほしい』と。社長は先見の明がありました。彼らもみな喜んで来てくれて、それからずっとお世話になってます。実際にはそれより早くなってしまったので、最初の全米で合流できなかった数人も、ヨーロッパからは無事参加できましたし、次からは料理人とレーザー担当の人も入るそうです」
「君とレオナ、それにレイチェルも移行組だろう。最初から関わっているだけに、僕らのクルーだった頃より、三人とも出世しているけれどね」
 ローレンスさんは少し笑っているようだった。
「そうですね。レオナはツアーコーディネイターに、フォーリー女史はステージマネージャーになっていますし。一番出世しているのは、僕ですがね」
「最初に彼らのことをレイモンドに報告したのは、君だからね。一番くじも君が引き当てたわけだし。良かったじゃないか、ロブ。素晴らしいアーティストを君の手で育ててみたいというのが、君の夢だったんだろう?」
「ええ。本当にそれはうれしく思っています」
「本当に良かった。そのおかげで、僕らの元スタッフたちにも、新たな居場所ができたんだ。もっともみんな口をそろえて、『Swifterの時より三倍はハードですよ。七連続公演、全部違う都市とか、移動が一晩で七百マイルとか、鬼畜なスケジュールを組まないでくださいと、レイモンドに言ってもらえませんかね。バンドは若くても、僕らはもう若くはないんですから』と苦笑していたけれどね」
「最初のヘッドラインツアーですね。最初に彼らの手を借りた。あれは本当に、エージェントもマネージメントも、かなり興奮状態だったのだと思います。まるで熱に浮かされたような。それで、与えられたチャンスを最大限に生かそうと、とんでもなく詰め込んだんでしょう。僕も同行していて、途中で後悔しました」
「そうらしいね。それからは、まあ、七連続はなくなったが、でもその後のツアーも、四連続五連続は当たり前だからね。オーバーナイトの長距離移動も変らないし、厳しいよ。スタッフ連中は、全部のツアーが終わってから疲れが抜け切るまで、一ヶ月かかったとぼやいていたからね。ギャラに恵まれているから、それでも大丈夫なのが幸いだ、と言っていたけれど。まあ、僕らも二十代前半くらいまでは、そのくらいのペースで回っていたけれど、数千人級のシアターだったから、それほど大掛かりなプロダクションではなかったし」
 ローレンスさんは懐かしむような口調で言い、一呼吸入れた。おそらく煙草を吸っているのだろう。少し匂いが強めに漂ってくる。そして再び続けていた。
「しかし、それはともかく……あの子の力は、周りをすべて昂揚させるんだな。未踏の領域……そう考えると、畏怖に近い思いを感じてしまう」
「そうですね。僕も時々そう思います……」
「このパワーは使いようによっては、非常に怖いものだ。回りを昂揚させるだけならいいが、聞いているものを揺り動かし、考えを変えさせるほどの……リスナーへの作用が、非常に強烈だからね。あの子は今に世界を変えるかもしれない、そう思えるほどに。それまでにどんな音楽を好んで聴いていても、それを霞ませ、押しのけて、非常に熱心なファンに変える。今まで愛好していたものは二番手に落ちるならまだいい方で、完全に捨ててしまうことも多々あるようだ。そのせいか、今までメインストリームだったアーティストたち、このCD不況でも強い売り上げを記録していた人たちが、軒並み売り上げが激減している。彼らにとっては、本当に死活問題なんだ。そんな一極集中を、業界は歓迎しない。しかしそれとは別に、その潜在的な危険性を指摘する人もいるんだ」
「潜在的な危険とは?」
「それは、洗脳だ。リスナーを感化する力だ。善に向かっている分にはまったく問題はないが、仮に邪悪な人間だったら、とんでもないことになる」
「ああ……そうですね」
 ロブは一瞬黙ったが、すぐに続けていた。
「でも、エアリィなら大丈夫でしょう」と。
「そうだね。僕もそうは思う。前作も今作も、非常にあの子らしい前向きなパワーに満ちている。だから、逆に思うこともあるんだ。彼だからこそ、その力を使いこなせるのだと」
「ああ、それはあると思います、僕も。その力が彼を選んだ、そんな気もしますから」
「エアリィはなんというか……不思議な子だ。外見のインパクトも凄いが……世界で最も美しい少年とか、そんな形容はマスコミのキャンペーンにありがちだが、あの子の場合は本物だろうと思う。もっとも、世界中の美少年を全部見たわけではないけれどね」
「まあ、そうでしょうね。でも、僕もそう思います。今まで見た中で最大で、最強の美の持ち主じゃないかと。彼がもし女の子だったら、とんでもなかったでしょうね」
「たしかにそうだね」
 アーノルドさんは少し笑っているようだった。
「それにあの子は初対面の人に対しても、ほとんど構えないね。だから僕も明るくてポジティヴで、フレンドリーな子だな、という印象を最初は持っていた。言ってみれば、ロビンと対照的な感じだ。どちらが良いとか悪いとか、そういう問題じゃないが。はじめのころ、エアリィの性格は自己肯定意識が高いからなのだろうか、と僕は思った。才能にしろ容姿にしろ、あれだけ桁外れのものを持っていて、自分に自信が持てないなどということは、ありえないだろうからね。しかし、すぐに僕は思いなおした。いや、違う、そういうレベルの問題じゃないと。それに、いわゆる外向的な子というのは、まあ、偏見かもしれないが、人間的にはあまり深みはない、という感じが多いんだが、それにも当てはまらない。歌詞だけを見てもね。あらゆる意味で、あの子は規格外なんだ。常人の常識では、当てはまらない子。それゆえ、モンスターが覚醒したのかもしれないが。あの時の異様さは、その場にいなければわからないだろうが、本当にぞくっとした。彼がオンになった状態というのは、その内なる超人が覚醒して、一体化している時なんだろうと思う」
「そうなんでしょうね。あなたのおっしゃることは、僕も完全に同感です。まあ……僕は、そのエアリィの異常な状態を見てはいないんですが、ジャスティンの話を聞いていても、尋常ではなかったことだけはわかります。そしてその後から、エアリィは変わったような気がします。オン状態の時だけでなく、オフの時でも、少し」
「そう……どこがどうとは、言いづらいんだけれどね。でもたしかに、それは僕も感じる。あの子の覚醒前に十日ほど一緒に旅をして、覚醒した後の二回のレコーディングで、ミックスダウンも含めて、トータル三ヶ月弱一緒にいて、その少し変化した部分と、変わらない強靭な核というべき部分があるのだということもわかってきた。あの子は大いなる無垢の心、そんなイメージだ。およそ世俗的なものやネガティヴな思いというものにも、縁がないように思える。それゆえに、その力の使い手たる資格を持ち、そしてそれゆえに、価値観や物の見方も、他の子たちと少し違う気がする。だから他の人が気にすることに対して、少し無頓着になってしまう部分も否めない。ネガティヴさは皆無でも、ナチュラルすぎて、周りを振り回してしまうような感じだね」
「本当にそうですよ、それは。僕も手を焼かされています」
 ロブは苦笑しているようだった。
「いい関係を築けているうちは、そういうナチュラルな無頓着さも、笑い話で流せるんだ。でも、その関係が軋んでくると、相手の神経を逆なでする要因になってしまうかもしれない。そこだけは注意が必要だね」
「そうですね……」
 ロブは真剣な調子で、頷いているようだった。
「二年前、フレイザーさんから未踏の領域へ到達する可能性を聞かされた時、僕はそれが実現しなければ良いと願った。天才であっても普通のアーティストであるならば、ここまでモンスターにはならなかっただろうが、ここまで妨害者を作ることもなかっただろう。生存危機にさえ直面するかもしれない妨害に。そう、反対勢力にとっては、アーディス・レインというのは消し去りたい対象以外の、何者でもないだろうからね。そういえば……君は気づいているだろうか、ロブ。あの子がオフで少し変わったといえば、時々……ふっと人が変わったような表情をするということを」
「いえ……どのような感じなのですか、それは」
「隔絶された孤独……失ったものに対する悲しみ……そう、いってみればそんな感じだ。僕にもその思いはあるから、よくわかる。いや、同情はしてくれなくて良いよ、ロブ。それにたぶん、エアリィの場合は同じ精神性を有する人、同類のいない寂しさかもしれない、そう思うんだ。今日も、そう……インスト陣が一生懸命パート練習をしていた時、コントロールルームから見ていて、ふっと一瞬そんな表情をした。彼はあまりに何でも出来すぎ、能力も突出しすぎているから、おそらく努力してなにかをやり遂げる喜びとか、力が拮抗した相手と競う喜びを知らない。それはある意味、不幸なことかもしれないと、僕もふと思った。僕が声をかけたら、一瞬でその表情は消えた。そして肩をすくめて言っていた。『こういう時って、見てるだけで、なんか僕にも他にやることあったらな、って思う。ついよけいな、ほかのこと考えちゃうし』って」
「まあ、退屈しのぎに苦労するというのは、わかりますね。ロードにしろレコーディングにしろ、時間が半端に空く時、他のみなは本を読んだりゲームをしたり、テレビを見たりするんですが、エアリィは本一冊を五分で読んでしまいますから。ゲームにしても、RPGは『あー、レベル上げがだるくてやだ!』と言いながら最速クリアするし、アクション系もとんでもないスコアで、あっという間にクリアしてしまうし、ガチャ引きのレア率も異常ですね。おまけに、飽きるのも早いです。テレビや映画を見ていても、それだけでは退屈みたいで」
「あの子の場合、ロードやレコーディング中の暇潰しの読書には、一日百冊以上の本がいるだろうね。このスタジオの蔵書も二、三日で全部読んでしまったようだし、一度読んだら完璧に記憶できるから、読み返すこともないわけだしね」
 ローレンスさんは苦笑しているようなトーンだった。
「でもそういう突出した能力は、モンスターの覚醒前からあったわけだから、避けられないものではあったのかもしれない。未踏の領域へ入らなかったら、これほど業界の脅威にはならず、ジャスティンにとってのフラストレーションの種も起きなかっただろうと思っても、それはもう実現しなかった仮定でしかない。起きてしまったことは、覚悟を決めて受け入れるしかないからね。ではその中で、彼らにとって何が最善なのか、何が一番幸せなのか。それをレイモンドも僕も、そしてもちろん君も考えていかなければならないんだ」
「そうですね。ええ……本当に僕もそう思っています」
「そしてたぶん、妨害者が仕掛けてくるとしたら、ジャスティンを使った、エアリィ潰しなのだろうと思う。去年の脅迫のように」
「でも、ジャスティンがそこまでするとは、僕は思えないです。いくら……仮に、もし今後フラストレーションが存在してくるとしても……去年にしても、どちらもできないと、彼は非常に悩み苦しんだのですから」
「今の段階では、たしかにそうだ。それに将来的にも、彼がそこまで行くとは思えない。性格的にもね。ただ、多少の潜在的な火種があることは認識すべきだと思う」
「でもアーノルドさん、僕はどうしたらいいのでしょう」
 ロブは訴えるような口調になっていた。
「そんな事態が万一起きるようなら、僕は耐えられません。せっかく今彼らは幸せに、満足して……このエアレースという共同体を築いているのに、そんなことが起きたら双方にとって、非常に悲劇的な結末になってしまう。僕は何としても、彼らを守りたいのです。今のまま、彼らの純真さを曇らせることなく、友情を損なうことなく、業界の魔の手からも守って、行かせてやりたいのです。なんとしても……」
「それは難しいと思うよ、ロブ」
 ローレンスさんは厳粛な口調で答えていた。
「君はさっき三つのことを言ったね、ロブ。彼らの純真さを曇らせることなく、友情を損なうことなく、業界の魔の手から守りたいと。そんなにいっぺんに全部は無理だ。特に最後のものについては、まず避けられないだろう。だが最初の二つは、もって行きようでなんとかなる。ひと波乱ふた波乱は、きっとあるだろうけれどね」
「そうですか……」
 ロブはいくぶんほっとしたような口調だった。
「だが、波乱につぶれないようにしなければ、どうにもならないよ、ロブ。僕が今一番気になるのは、ジャスティンのプライドだ。才能ある人間が、本気で自分を認めないなんていうことがあるだろうか? その謙虚さが人間としての自然な感情、もっと認めてもらいたいとか、人より劣るのはいやだかと、そういう思いを封印してはいないかが気になる、それだけなんだ。だからこそ、君も思いこみを捨てて正直に彼らに向き合わないと。彼らの純真さと友情を失わせたくないと思うなら」
「そうですね……」

 そこまで聞いて、僕はそっとその場を離れた。
「行こう……」
 声には出さずにロビンを呼び寄せると、食堂には入らず、そのまま部屋に戻った。
「ジャスティン……」
 部屋の前まで来て、ロビンはためらいがちに僕を見た。
「ねえ……僕の部屋にチョコレートならあるんだ。ココアじゃないけれど……良かったら来て、チェスでもしない?」
「そうだな……」
 僕はしばらく考え、頭を振った。
「いや、いいよ。あまり気が乗らない。ごめんな」
「そう。そうだね……寝た方がいいね」
 ロビンは微かに笑ったあと、遠慮がちな口調でこう聞いてきた。
「ねえ、ジャスティン……気には、していないよね?」
「気にするって、何を?」
 そう問い返したものの、その意味ははっきりわかっている。
「いや、いいんだ……」
 ロビンは首を振り、そして訴えるように付け足した。
「大丈夫だよね、ジャスティン。僕たちこのまま……五人とも変わらずに行けるよね」
「大丈夫さ。心配するなよ!」
 僕は強く請け負ったあと自分の部屋に入り、ベッドに寝ころんだ。だが、漠然とした軽い苛立ちも感じていた。ロビンはなぜあんなに心配そうに、僕に念を押すのだろう。ローレンスさんの言ったことは、たしかにショックだが、彼もロブも決して悪口を言っていたわけじゃない。僕らを心から心配し、気遣っていてくれる。僕らに好意を持っていてくれる。それゆえの言葉なのだ。それにローレンスさん一流の鋭い分析は、かなり当たっているのだろうと思える。自分のことは、今一つ納得がいかないが。
 僕は起きあがり、灯りを消してから、もう一度ベッドに寝転んだ。眠ろうとつとめながら。でも、なかなか寝つかれなかった。今のところバンドは順風満帆だ。前作の大ブレイク、そして今度のアルバムもきっと成功できそうな、たしかな予感がある。二作続けてのモンスターセールスということになったら、バンドのステータスはさらに舞い上がるだろう。もはや一過性のブームとは言えなくなる。外敵もますます多くなるだろう。でも、僕らは負けたくない。ただでさえ外敵の多いこの世界で、内側からぐらついたのでは、行き着く先は、きっと転落しかない。信頼と理性、友情と向上心、誠実さ。それは絶対に離してはならない命綱だ。だから僕も、しっかりしなくては。業界の魔物につけ込まれるような心の弱さを、見せてはだめだ。まわりに飲まれたくない。信頼も友情も失いたくはない。

 七月下旬に新しいアルバム、四作目『Eureka』が完成し、九月第三週にリリースされた。新作は驚異的な初週セールスをたたき出して一位になり、五、六週キープした後、年明けまでずっとベスト5に留まり続けた。結果的に年内のうちに、前作を上回るセールスを記録した。シングルも出したものは、すべて一位に送り込んだ。
 九月下旬から始まった全米ツアーでは、音響、照明などの部門スタッフが一人ずつ増え、レーザーが追加され、プロダクションが前回より大きくなった。セキュリティも一人ひとりに――以前はファーギー・パターソンだけでカバーしていたロビン、ミック、ジョージの警備を二人増員して、それぞれの専属がつく形になった。ツアー日程は、四連続公演のあと一日休み、たまに三連だったり五連だったりするが、それが基本ペースだ。前回より緩いが、それでもかなりのハードスケジュールだろう。移動距離も長い部分がある。会場はすべて大規模アリーナ、チケットは全公演即日完売らしい。どこへ行っても、客席には、まったく空席が見えない。観客は一人残らずといっても過言ではないくらい、熱狂しているようだ。コンサートを制御しているはずのセキュリティ関係者まで、後ろを振り向いてはならないという規則を無視して、完全に見入ってしまっているらしい。
 今の僕らは、巨大な津波に乗って進んでいる船のようなものだった。目もくらむような高さと速さの中で、墜落の恐怖と戦っている。この波がいつ終わるのか、無事穏やかな流れの中に再びランディングできるのか、決してわからない。だからこそ、僕たちはバンドという共同体の中で、結束しなければならなかった。エアレースという船の、安全な運行のために、お互いの友情と信頼を失ってはならない。幸い今のところは、まったく順調だった。みんながお互いを理解し合い、腐らず嫉まず驕りもせずに、友情が保たれている。少なくとも僕にはそう思えるし、きっとみんなもそうだろう。そのおかげで僕たちは船酔いもせず、海に落ちることも難破することもなく、渡っていくことが出来ていた。
 僕たちの関係は、去年の大ブレイク前から今も、変わってはいない。少なくとも、僕にはそう思える。僕にとってバンドの他の四人ほどくつろげる親友はいないし、一緒にいて楽しい友もいない。それはきっと、みんなも同じだろうと思う。ともにステージに立つことが無上の喜びであるだけでなく、バスで移動する時も楽屋で出番を待っている時も、話は尽きることなく、会話が途切れてみんなバラバラのことをしている時でさえ、決して気まずい沈黙にはならない。心が通いあう楽しさは、なお共有できている。移動中にはみんなでゲームを楽しんだり、空き時間にショッピングに行ったり、地元のおいしいレストランに食事に行ったり、時にはボウリングやテニスもする。一緒に参加するメンバーはもちろん、参加しなかったメンバーとも、同じつながりと時間を共有していることが感じられる。僕らはそういう関係だ。エアリィもロビンもジョージもミックも、僕にとってはそういう仲間なのである。特にエアリィに関しては、ローレンスさんに多少の懸念をされたけれど、二年前と関係はまったく変わっていない。そう、僕にとってエアリィとロビンは親友であり、同胞だ。前者は僕を引っ張り、後者は僕が引っ張るという力関係はあるが。そしてジョージとミックは仲間であると同時に兄代わりであり、保護者でもある。
 この幸福な関係が壊れることなど、あり得るのだろうか――。時おり、ふとそんな懸念を感じるのは、ローレンスさんの話が、どこかに引っかかっているせいだろうか。でもそれは僕だけではなく、一緒に話を聞いていたロビンも、さらにジョージやミックをも悩ませている懸念だということを、ふとしたことで知った。

 全米ツアーが半分ほど進んだころだった。その日はリハーサル後に一本、取材が入っていた。それが終わると、付き添っていたロブはスタッフルームへ行き、僕は一人で楽屋に戻った。ドアは完全には閉まっておらず、中の話声が聞こえる。
「えらいところまで来ちまったな、俺らも。五年半前にバンドをスタートさせた時には、まさかこんなに短期間で、天まで届く派手な成功を収めるなんて、まったく夢にも思わなかったがなあ」
 ジョージがまるで嘆息するような口調で言っていた。
「うん、本当だね。恐いくらいだよ」
 ロビンがそう同意している。
 エアリィも今取材中で、連続して二本入っているので、たぶん僕より三十分くらいは遅れて来るだろう。だから今楽屋の中にいるのは、ロビンとジョージ、それにミックの三人だけだ。その三人が話している。
「僕には最初から、成功の予感はあったけれどね。だけど、まさかこれほどまでとは、さすがに予想できなかったよ」
 ミックが言い、しばらく間を置いて続けた。
「でも僕たちは、どこまで行くんだろうね。これから……どうなるんだろう」
 その言葉に、ロビンもジョージも長いこと黙り込んでいた。明らかに二人も同じ疑問を感じているように。やがてロビンが小さな声で、真剣な口調で言う。
「僕は……人気が落ちる心配より、バンドが壊れる方が怖いよ。今僕たちは、みな仲が良くて、楽しいのに」
「同感だな。売れなくなるかも、失敗するかもなんぞという恐れは、正直言って俺はほとんどないんだ。極端な話、これだけ売れればもう生活の心配は完全にないんだから、趣味に走ったって暮らせるわけだしな。バンドのステータスは、あまり俺たちには関係ない。ただ待遇が良くなって、金が儲かるだけの話だ。だが金を儲けたいだけなら、じいちゃんの会社に入ればすむことだ。俺がこのバンドにいるのは、そんな理由じゃない」
「僕もまったく同感だよ、ジョージ兄さん。でも……でもこんな幸福な状態が、いつまで続くだろう。なんだか怖いんだ。これだけバンドのステータスが大きくなると、僕らでさえ激動の波が押し寄せてくる。ジャスティンには、もっと大きな波がかぶる。だから心配なんだ。彼が今の状態に満足できなくなったらって……」
 つい話を聞いていて、部屋に入るのが遅れた僕は、その時まさに話に入るべく、ドアに手をかけていたところだったが、このロビンの言葉に思わずびくっとして手を離した。
 三人は僕が聞いていることなど知らずに、話を続けている。ロビンはあの夜ローレンスさんが言っていたことを、二人に話していた。
「うーん。さすがにローレンスさんだ。鋭いね」
 ミックがうなるように言い、
「ああ。見事に図星かもな」
 ジョージも苦笑しているようなトーンだった。
「だが、かといって俺たちに何が出来る? 今のところ、あいつらの関係は申し分ない。それを今から心配の先取りをしてあれこれ騒いだら、かえって余計なひびを入れかねない。とりあえず様子を見守るしかないんじゃないか?」
「そうだね」
 ロビンとミックも頷いているようだ。
「でも、ジャスティン自身がその話を聞いてしまったのは、ちょっとまずかったかもしれないね」
 ミックがそう言い足している。
「そうだな。考えもしなかったことを、いきなり指摘されたようなものだからな。ショックはあるだろうし、今後の引っかかりにならなきゃいいが……」
「ジャスティンは気にしないって、言っていたけれどね。でも、本当にまったく気にならないかって言ったら、それは嘘だろうって思う。だってあの時は、やっぱりいつもと様子が少し違ったもの。あの晩だけで次の日には普通だったから、ほっとしたんだけれど」
「完全にプライドのない人間がいるとしたら、そいつは単なる腑抜けだぜ。俺たちはみんな、それぞれプライドを持っているさ。たとえばファンやレビュアーたちに、俺たちがバンドのおまけだとか、俺たちでなくてもエアレースとしては何ら差し支えないとか言われると、カチンとくるだろう。そいつが俺たちのプライドってものさ。エアリィは……どうだろうな。でもきっと、あいつにもあるような気はするぜ。俺たちのとは、完全に種類が違いそうな気がするが。ジャスティンのプライドは……俺はあると思うぜ、絶対に。でもそれは、俺たちに近いんだろうか? たとえばこの間のギター専門誌のファン投票でシルーヴァ・バーディットに負けたのを、悔しいと思っただろうか?」
 シルーヴァ・バーディットというのは、レコーディングの時ローレンスさんが言っていた、去年の暮れにデビューし、即ブレイクしたインストバンドのリーダーだ。僕自身はあまり同業者に対しての思い入れはなく、せいぜいこの人は上手いとか凡庸だとか、そういう評価を冷静に下すだけで、それ以上の印象は持たないのが常だ。でも初めて彼の動画を見た時、ある種のインパクトを感じた。それはたしかだ。長身に波打つ長い黒髪、黒人の血が半分入ったゆえの浅黒い肌、精悍で整った顔立ち、そういう外見上のアピールもさることながら、卓越したテクニック以上に際だった存在感や音の衝撃度は、たしかに彼は本当の天才だとローレンスさんが言っていただけのことは、あるかもしれない、そんな思いを強く感じたものだ。左利きで、黒人ハーフであることから、ギター業界では、ジミ・ヘンドリックスの再来と言われていることも知っていた。
 だが彼に対しライバル意識など、僕は持っていないし、ある大手ギター雑誌の人気投票で、初登場の彼に僅差ながらトップを持っていかれたことに関しても、さほどショックは受けていないつもりだ。ページを開いて結果を見た時、『あっ!』という軽い衝撃は感じた、それだけだ。バンドの人気やCDの売り上げ枚数から見れば、圧倒的に僕らは勝っている。はっきり言って、その点では現在の音楽界に太刀打ちできる敵は、いまいとさえ思う。でもバンドの人気と自分個人のギタリストとしての評価は別物だとはっきりわかっているし、総合誌ではなく、多くのギターフリークたちが読む専門誌で僕がシルーヴァ・バーディットに負けたのなら、ギター少年たちの間では、彼の方がアピールはあったのだろうし、僕のプレイにはまだまだ改良の余地があるということなんだろう。それだけのことだ。第一、人気投票なんて、チャートと同じく当てにならないものだ。そういうものの動静に一喜一憂しても始まらないと、とっくに悟ったことじゃないか。
「実力は、同じようだと思うけれどね」
 ミックはそんな感想を言っていた。
「そのギタリストも、たしかに天才だと思うよ。ただ、同じ天才でも、ジャスティンとはタイプが違う。バーディットのスタイルは、いかにもギターフリークが喜びそうだしね」
「でも、自分が一番になりたいためにバンドを飛び出して、インストバンドを組むなんて、ジャスティンは絶対しないと思うよ。彼はそんな人じゃない」
 ロビンはそう熱弁する。
「そう。それに、そんなレベルでもめている場合じゃないかもしれないね、僕らの場合」
 ミックは重々しい口調になり、続けた。
「ジーノ・フレイザーさんが言っていたという未踏の領域を、僕らは今突き進んでいるんだ。そのことで僕らが感じている不安は、バンドの内部分裂の危険性以上に大きい。内側からぐらついている場合じゃないんだよ」
「そうだね……ああ、本当にそうだよ。バンドが壊れる危険性以上に、今の状態って、とても怖いって思っていた。それなんだね」
「そう。単なる芸術や娯楽以上のものになりつつある音楽、その影響力の大きさに、俗な言葉で言えば、僕らはびびりはじめていると言えるんだろう。未踏の領域に入るというのは、つまりそういうことなんだ。それだけの力を持つということは、すごく怖いことさ。人にどんな影響を及ぼすか、その作用と反作用を考えるとね。その力は諸刃の剣なんだ。ローレンスさんがおっしゃっていたように、おそらく僕ら側以外の業界にとっては、脅威以外の何物でもないし、その力自体、非常に使い手の資質を問うんだ」
「ああ。ローレンスさんの話を今聞いて、俺も思ったぜ。そうだ、考えてみたら怖いんだよな、と。もし仮にエアリィがロビンに輪をかけて悲観的な奴だったら、聞いてる奴もすべて鬱になっちまうぜ」
 ジョージの口調は、半ば冗談のようにも聞こえた。
「止めてよ」ロビンは苦笑しているようなトーンだ。
「でもだから、ローレンスさんもおっしゃっていたように、エアリィがああいう人だからこそ、その力が目覚めたんだって思うんだ」
「僕も同感だよ」
 ミックが静かな口調で同意している。
「今のところ、その力はポジティヴな、善なる力になっている。その力はファンたちにも、そう作用している。だからその辺は問題ないんだ。でもその強すぎる力ゆえに、僕たちはこちら側の利権者以外をすべて、敵に回したのかもしれない。そう思えるんだ。だから、去年は最後に大きな妨害が起きた。これからもきっと……来るかもしれない」
「そうだよな。本当に中からぐらついている場合じゃないんだよな、俺らは」
 ジョージは再び嘆息するような口調になっていた。
 まったく同感だ。ふっとため息をつきながらも、僕ははっきりそう思えた。それにみんなの懸念も、ありもしない心配だ。僕はバンドの現在に不満などない。これだけ天文学的な大成功を治めて、なにもかもが順風満帆で幸せだし、バンドの中の恵まれた自分の役割に満足している。自分の能力にうぬぼれてはいないし、このバンドを愛する気持ちも、みんなに負けないほど強いつもりだ。
 僕は決然と頭を振り、大きく息をつくと、ドアを開けて中に入っていった。今戻ってきたようなふりをしながら。

 九月下旬からクリスマスの直前まで続いた北米ツアーは、各地でソールドアウトと熱狂の嵐の中、続いていった。新しいサイクルになっても勢いは衰えず、増大し続けていくように思われた。上昇気流がどんどん強烈になり、巨大な竜巻となって、僕らを舞い上げる。その中で正気を保ち、理性を保ち、なおかつ自分の信じた道徳と誠意を守って生きることは、大変なことだ。でも、その思いが僕らを現実に結びつける錨になって、みんななんとか足を地に着けていられる――僕はそう感じる。でも、一番輝かしい夢が現実となった時、僕らを戸惑わせるものはなんなのだろう? もう夢ではなくなった、現実の重みと束縛なのだろうか?

 成功の規模が大きくなるにつれ変化の激流は強くなり、危険も大きくなるのかもしれない。今回の全米ツアーも、行程の三分の二ほどは無事に過ぎたが、その後、立て続けに事件に見舞われた。
 最初は、三日連続で行われたロサンゼルス公演の最終日に起きた、センター照明装置の落下事故だ。イントロの途中だった事もあり、エアリィの並外れた反射神経が幸いして、すぐに避けられたため(結果的に、前代未聞のステージダイヴをやる羽目になってしまったが)、難を逃れた。
 照明が落ちてその下敷きになり、結果的に二度と舞台に立てなくなってしまった彼の母親、アグレイアさんのことが頭をよぎったのだろう。一度飛び降りたステージ下から戻り(三メートル近い高さをジャンプ一発で、ステージの縁を中継点にして、アクロバティックに戻って来た。未来世界で四メートルの段差を飛んで上がれたのだから、不思議ではないが)、現場の惨状を見たエアリィの第一声は、「あー、母さんの二の舞にならなくて良かった」だった。落ちた照明はセンターマイクのほぼ真上に位置していて、その一トン近い重さの装置がマイクスタンドを倒すように落下し、壊れた破片があたりに飛び散っていた。僕もその光景を見、本当にその可能性は十分にあったことを悟って、背筋に寒気に似たものを感じた。同時に、僕もギターソロの時にはこの位置までくるので、その時に落ちたら、確実に避けられなかっただろうと思い至り、さらに冷たい震えを感じた。幸いにも僕は自分の定位置にいたので、壊れた照明装置の破片が服の上に飛んできた程度で済んだが。
 コンサートはまだ半分ほど進行したところだったが、片付けのために一時間ほど中断せざるを得なかった。幸いマイク自体はエアリィが持っていて、一緒にステージ下に避難していたので壊れずにすんだが、マイクスタンドは途中でぽっきり折れていた。そのため、中断後はセンター照明なしで、マイクスタンドは僕の前に立っている、コーラス用のものを使って再開した。ロビンはたまにコーラスに使うが、僕のは完全にお飾りだから、持っていっても支障はない。『このマイクスタンド、重い』と、エアリィは文句を言っていたが。彼のものはスタンドアクション用に、中空構造で軽くなっているからだ。『仕方ないだろ、今日は』と、僕も苦笑して言い返した。一時間の中断にもかかわらず、観客たちはずっと手拍子をしながら待っていてくれ、コンサートはその分遅れて幕を閉じた。その後、新しいセンター照明が届くまで、一週間ほどは照明プログラムを少し変えなければならず、監督さんは大変だったらしい。
 事故から三日後、ミーティングの席で、ロブから調査結果を聞かされた。照明装置を接続する部分のボルトが緩んでいたのが、原因らしいと。ステージの天井に設置されているトラスロッドには五機の照明装置が吊るされていて、ライティング卓から、上下に稼動できるようになっている。それがメインライトだ。その五機の照明は、右、中央、左のものはステージ前よりに、その間の二機は後ろよりに取り付けられている。その他に三機のフロートと呼ばれる、前後左右に動くものがある。五機のメインライトには短いアームがついていて、トラスロッドに接続されている。その接続には、十二か所のボルトを使っていたが、落下現場では、そのボルトが抜けて散らばっていたらしい。セットを組み上げた時には、何も異常はなかったそうなのだが――照明スタッフ数人と監督さんで確認しているので、間違いはないと思う。
 だが同一会場での複数回公演の時には、セットは最終日まで組んだままだ。その間に誰かが、ということは考えられなくもないが、会場は終演後、誰もいなくなった時点で厳重に施錠されるし、それにはスタッフの誰かが必ず立ち会っている。会場には夜間警備員たちもいるし、防犯カメラもある。その中でアリーナ内に入り、ステージのかなり高い場所に設置されている照明装置の接続部のボルトを全部緩めるというのは、かなり時間もかかるし、面倒なはずだ。実際には、その不可能が起こってしまったのだが――。僕たちはぞっとしながらも、なすすべはなかった。会場設営の外部の人たちも含め、みなを信頼するしか。

 それから十日後、第二の妨害が起きた。サウンドチェックとリハーサルが終わり、みなで夕食をとっていた時、エアリィが「気持ち悪い。めまいがする」と、立ち上がろうとして、突然倒れたのだ。呼吸不全の症状もあり、真っ青な顔になり、手が冷たくなり――症状は典型的なアナフィラキシー・ショックなのだが、彼の場合、なぜか皮膚症状はほとんど出ない。アレルギーのメカニズムも、少し違うのだろうか。
 すぐにエアリィの医療トレーナーも勤めるカークランドさんが状態を確かめ、「アナフィラキシー? まさか……」と青ざめて呟きながら、アドレナリン注射を打った。それで最悪の事態は逃れたが、ショック症状が治まると同時に発熱し、あっという間に四十度に達した。その時にはもう開演一時間前だったが、とてもそんな状態ではショウはできない。キャンセルも考えたが、もうオープニングアクトが演奏を終えようとしている段階でのキャンセルは、きっと騒ぎになる。振替公演もスケジュールが押し詰まっているこの時では、かなり難しい状態だった。エアリィ自身も『大丈夫……やるよ』と、明らかに大丈夫でない状態ながら、そう主張したので、点滴をしながら彼の回復を待ち、開演時間を一時間遅らせ、さらに二十分ほど、僕ら四人でインスト曲をジャムしながら場をつないだ。それでも熱は三九度半ばまでしか下がらなかったが、これ以上遅らせると、終わるのが遅くなりすぎてしまうため、見切り発車でステージに出、ショウ自体は最後までやりきった。その精神力には感嘆したが、終わったとたんに、また倒れた。最後の一時間は、ほとんど意識が朦朧状態で、本能でやったようなものかも、と、あとで本人も言っていたほどだ。
 その後、公演日程はなんとかキャンセルせずにこられたが、一週間ほどはひどい体調不良が続いた。もともとエアリィは体質的に弱く、多少は体力増強訓練でましになったものの、疲れがピークに来ると熱を出しやすい。専属スタッフのカークランドさんが健康管理についていても、元々かなりハードスケジュールのため限界があるようで、ツアー中も時々それでダウンするのだが、公演キャンセルはしない。出来れば見に来てくれた人たちに対して責任を果たしたい。それがポリシーだからだ。エアリィ本人は辛いだろうが、でもその当の本人が、一番キャンセルを嫌がる。
 ただ、『なぜ急にアナフィラキシーを起こしたのか』ということは、カークランドさんやロブ、レオナにとって、大きな疑問だったのだろう。それは、僕らみな同じだったに違いない。食べていた夕食は、いつもと変わりない。ツアーに同行している料理人さんが作ってくれる、日替わりのグリルと温野菜、スープ、パンとコーヒー、オレンジジュース。それだけだ。ロブとレオナはそのすべてを少しずつとって、検査を依頼していた。
 三日後、その検査結果をロブがミーティングの席で、僕らにも教えてくれた。コーヒーからアスピリンの成分が検出されたという。だが、誰が――誰がそんなことをした? 去年のツアーのような劇薬ではなかったが、誰かが入れたことになる、故意に。楽屋のコーヒーは料理が来た時に、料理人さんがメーカーをセットする。出来上がると近くにいる誰かが(僕らは食事中なのでロブかレオナかセキュリティたちだが)、ポットに入れて食卓に置く。そして、カップについで配る。
 あの時、誰がコーヒーを用意しただろう。毎日のことではっきりとは思い出せないが、たぶんセキュリティが二人くらいいて――メーカーからポットに注いだ。誰だったか、いまいち記憶がはっきりしないが、僕の専属マイケルともう一人、たぶんロビンかミックについた、新しい人だ。ロブがそれを受け取り、テーブルに置いた。実際カップには、エアリィがついで回してくれたわけだが――彼はよく、そういう雑用をやってくれるのだ。それでは薬はカップではなく、ポットに入っていたのだろうか。僕らはアスピリンを飲んでも、なんともないだろうから――。
 ああ、やめよう。疑心暗鬼になるのは。ニューヨークでの劇薬混入事件と同じように、疑いは信頼を曇らせる。僕らは犯人探しをしてはならない。それはマネージメントに任せよう。しかしそれでも、暗い海のような悪意を感じずにいられない。僕らの周りにたしかな悪意が存在し、じわじわとまわりに打ち寄せ、足元をすくおうとするのかもしれない。ぞくっと寒気を感じた。それでも、僕らは進まなければならない。妨害には屈しない。屈したくはない。

 クリスマスの四日前にツアーが一段落し、我が家で妻と小さな息子の笑顔に迎えられた時、僕は心の底から安堵のため息をついた。ここに僕の家庭がありやすらぎがあり、生きがいがある。ステラとクリスがここで待っていてくれるかぎり、僕は安全だ。僕は長い間力のかぎり飛び続け、やっと巣に帰ることの出来た鳥のような気分を感じていた。





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