Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

二年目(3)





 集中練習が始まった。マネージメント会社のオフィスに再び集まり、トロントから北へ百マイルほど離れた合宿所へと、マイクロバスで向かっていく。緑の野原の中に農家が点在するこの地域は、一番近い人家までさえ二、三百メートルは離れている。その建物は野原を前景に、うっそうとした混合樹の林を背景に建っていた。
 その建物は、二年前までは簡易宿泊型ゲストハウスだったらしい。今は、スポーツなどの合宿用貸し別荘となっているようだ。特別練習と、その次のプリプロダクション作業のために、マネージメントはここを今から九月一杯まで四ヶ月半ほど、借りきってくれたという。一階には大きなホールがあり、その他に小さめの部屋が三つと、DVDデッキやテレビ、本などが置いてあるラウンジ、食堂、台所、トイレと洗面所がある。二階にも洗面所とトイレ、シャワールームがあり、廊下を挟んで個室が四つずつ並んでいる。そして、広い地下室と庭にある二五メートルプール。それがすべての施設だ。
 ここには、もう専門の職員はいないらしいが、利用前にクリーニングを依頼すれば、すぐに使えるようになっているらしい。建物の中はすでにきれいになっていて、プールも水が新しく張り直されているようだ。僕たちは一階のホールに機材をセットし、レンタルしたアスレチック関係の機材は、地下室に運び込んだ。滞在中の食事の支度や洗濯などの雑用は、ロブのお母さんが引き受けてくれていた。ロブと、奥さんで僕らのロードマネージャーでもあるレオナは、時々連絡のためにマネージメントのオフィスに帰るが、基本は現地で訓練を見守ることになっているらしい。

 講師たちは、その日の夜にやってきた。みな、それぞれの分野で名前を知らない人はいないという顔ぶれだ。彼らがこんな不便なところに二ヶ月も、僕らのためにつきっきりでいてくれるなんて、信じられないほどだ。ことに僕は自分の講師に引き合わされた時、驚きのあまりのけぞりそうになった。この二ヵ月間僕を指導してくれるのは、長い間ずっと憧れていた人。スィフター唯一の生存メンバーで、ギタリストの、アーノルド・ローレンスさんだったのだから。彼が次回作のプロデューサーを引き受けてくれたことは知っていたが、僕の専属コーチまで引き受けてくれていたとは。
 スィフター自体、終わりになった時点で、すでに二十年以上のキャリアを持つベテランバンドだったから、彼ももう四十代半ば過ぎのはずだが、現役時代からかなり若く見える人だった。僕がコンサートで最後に見た時から、もう三年以上たっているが、あの頃とほとんど見た目は変わっていない。長身で均整の取れた身体も、肩にかかったストロベリー・ブロンドの髪も。でも薄緑色チェックの半袖シャツから出た腕と、前髪の間から見え隠れする額に走る白い線(やけど治療の植皮跡らしい)、それに歩く時に微かに引きずる左足が、三年前に彼らのバンド生命を断ち切った、その事実を伝えている。彼は事故の際、複数個所の骨折と体表十五パーセントに及ぶ火傷を負い、植皮と一年近いリハビリで、ここまで回復したのだという。少し青みがかった灰色の瞳も、写真やDVDで見る限り、もっと明るい表情だったようだ。でも、その笑みは穏やかだった。
「ジャスティン・ローリングス君だね。はじめまして、よろしく」
 その声は暖かく、低く柔らかな響きだった。
「僕はプロデューサーとしても、引き続き君たちに関わっていく予定だけれど、君のコーチもやってくれないかと、レイモンドに頼まれたんだ。僕もそんなに理論をみっちりやったわけではないから、たいして君に教えられることはないかもしれないが、先輩として、出来るだけのことはやってみようと思うよ」
「はい。ありがとうございます。僕はずっとあなたのファンだったので、凄く光栄です。あなたの期待にそえるかどうかわかりませんが、できるだけがんばります。どうかよろしくお願いします」
 僕は緊張して少し声がうわずるのを意識しながら、その手をおずおずと取った。
 ローレンスさんは少し照れたような笑みを作り、僕の手を握った。
「そう言ってくれると、うれしいね。僕も、君たちには期待しているよ。君は天性の才能に恵まれている。それを完全に開花させる手伝いが、少しでも僕に出来たらいいと思うよ」
 僕自身、ある程度はギターがうまく弾けるという自負はある。でもずっと憧れていた人からそんなことを言われると、うれしいと同時に、むずむずしてきそうな、妙な気分だ。

 その夜、夕食をとりながら全員の顔合わせをし、そのあと簡単な能力検査があった。翌日からはそれぞれに割り当てられた部屋で、本格的な特別練習が始まった。みなで朝食を済ませた後、僕の練習部屋となった小さな個室で、改めて自分の講師と向かい合った時、僕は再び緊張に襲われた。思わず一ファンに戻って、『サインをください!』と言いたい衝動に駆られたほどだ。でも今、僕は彼の後輩であり生徒でもある、曲がりなりにもプロだ。不思議な気分だった。
 その部屋は小さなテーブルと、二客の背もたれのついた木の椅子が置いてあるだけだった。そこにギターとアンプを持ち込み、椅子に腰かける。ローレンスさんは僕がギターのチューニングをしている間、黙って見守っていた。終わるとそのギターを手に取り、弾いてみている。
「ああ。マシンや音叉を使わなくても、チューニングはきれいにあっている。やはり君も絶対音感の持ち主だね」
 彼は軽快に弦を弾きつづけ、言葉を継いだ。
「僕もね、まだギターは弾き続けているんだよ。手が駄目にならなかったことを、心から感謝しているんだ。もうバンドを組むことも、現役のギタリストとして誰かとセッションすることも、ないだろうけれどね。でも、僕は死ぬまでギターを弾き続けていくだろう。もう僕の一部なんだから、どうしてもやめられないんだよ」
 ローレンスさんはギターを僕に返しながら、穏やかな口調で尋ねた。
「君もギターが好きかい?」と。
「はい。大好きです」
 自信をもって言える返事だった。
「じゃあ、大丈夫だ。その愛情があれば、道はおのずと開けてくる。君は今十九才だっけ? まだ十代なんだね。本当に若いんだな。ギターを弾き初めて、どのくらいになるんだい?」
「十二才の誕生日からですから、七年とちょっとです」
「最初からエレクトリック? それともクラシックかフォークから始めたのかい?」
「最初はクラシックギターです。学校の演奏会でギターをやることになって、ケントのクラシックギターを買ってもらったんです。弾いているうちに面白くなって、親に頼んで、スクールで二年習いました。週一回、二時間くらいですが。エレクトリックギターを買ったのは、十四歳の時です」
「どのギターを使っていたんだい?」
「フェンダーのストラトキャスター、レッドです」
「ほう、いきなりストラトか。たいしたものだ」
「楽器店に行って、いろいろ弾いてみたんですが、これが一番しっくり来るかな、と思って。少し高かったですが、貯金をはたいて買いました」
「そのギターは、今でも使っているのかい?」
「いいえ、なくしてしまいました」
 このギターは未来に――二四世紀の博物館にあるはずだ。
「ああ、そうか……君たちの機材は最初のツアーで盗難にあったと、レイモンドが言っていたな。災難だったね」
 ローレンスさんは思い出したように、微かに首を振った。
「ええ。でも、仕方ないですから」
「その後は?」
「同じストラトの白を買いました」
「そうか。このギターだね。君はストラトが好きなんだね。僕も一時期フェンダーは使っていた。今でも持っているよ」
「スィフターの四枚目から六枚目のアルバムが、フェンダーですよね」
「良く知っているね、ありがとう」
 ローレンスさんは穏やかに笑う。
「それで、他のギターは試してみたかい?」
「ええ。まだそんなには持っていないんですが、今は四本あります。フェンダーが二本と、PRS、それにギブソンのレスポール。メインはこの、白のフェンダーストラトなんですが。今のところ他の三本は、ライヴの予備以外あまり使うことはないんですが、少しずつ音色が違うんで、今度のアルバムからは試してみたいと思います」
「そうか。でもストラト、PRS、レスポール……聞き覚えのあるラインナップだね」
「貴方が使っていたギターです。ローレンスさん」
 彼は再び照れたような笑みを浮かべた。そして微かに肩をすくめ、再び言った。「ありがとう」と。
「まあ、ともかく、それでは今、ギター暦は七年。エレクトリックは五年か。それでもう、それだけ弾けるんだね。たいしたもんだ。僕も始めたのは十二歳の時だった。クラシックからスタートしたのも同じだ。僕はもう、三四年くらい前になるけれどね。君の手をちょっと見せてごらん」
 彼は僕の手を取り、引っ繰り返したりしながら、じっと見ていた。
「ふうん。もう多少ギタリストの手になっているね。それに指が細いし、手も大きい。ギターを弾くには有利だよ。僕はあまり指が長くなくてね。ほら、君の手より一回り小さい」
 ローレンスさんは僕の手に自分の手を重ねた。たしかに少し小さい。でも手のひらから伝わってくる感触は、かなり堅かった。しかるべき位置にできたタコが、堅く感じさせている。それは僕が生まれるはるか前から、毎日ギターを弾き続けてきた人の手だった。
「煙草を付けていいかい?」
 彼はそう聞いてから一本取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「ところで君は、煙草は吸わない?」
「ええ。一応今年の誕生日から、吸っていい年にはなったんですが、吸いたいとは思わなかったので」
「そう。それはどうしてだい?」
「一つには、バンドに喫煙者がいないこともあるんでしょうね。ロビンは子供のころ喘息があって、そのせいか煙草の煙をまともに吸うと、少しだけ息が詰まる感じがすると言います。ミックも同じだし、ジョージもロブも吸わないから。エアリィも煙草の煙があまり好きではないようだし、僕も……まあ、嫌いじゃないんですが、あまり慣れていないんで。僕は実家が病院だから、その影響もあったのかも知れません。よく父が言っていたんです。煙草は麻薬と同じだ。百害あって一利なしだ、そんなものに手を出すなって」
「医者はよくそう言うよ。僕も主治医の先生には、いつも叱られていた。でも僕はヘビースモーカーで、どうしてもやめられないんだ。病院で一番つらかったのは、それだね。だから少し自分で移動できるようになったら、喫煙コーナーへ行って吸っていた。この機会に禁煙できたら、よかったんだけれどね。それじゃ……君たちの目の前では、できるだけ控えた方がいいかな」
「あっ、僕は全然かまわないです。すみません。失礼なことを言うつもりは……」
「気にしなくていいよ、ありがとう。たしかにその通りだからね」
 ローレンスさんは微かに笑うと、また聞いてきた。
「ところで、君は自分のバンドが好きかい?」と。
「ええ、大好きです」
 これも自信を持って言える答えだ。
「音楽的にも、人間的にも、両方の意味で、本心からそう言えるかな?」
「はい」
「そうだね。あのスティールローザからのオファーを断ったほどだ。君のバンドへの愛着は本物なんだね。とても幸運なことだよ。どんなに優れたプレイヤーだって、一人で音楽はできない。仲間が集まり、複数の個人がブレンドして、一つの音楽を生み出すんだ。バンドっていうのは、おもしろい共同体だよ。A+BがCにもなる。君が自分の属している共同体をしんから愛しているなら、君の音楽キャリアにとって、これ以上の味方はないよ。ずっとそれが維持できたら、最高だね。かつては信頼しあっていたバンドの仲間たちが、内部から崩壊していくのを見るほど、悲しいことはない。そういう例も、幾度も見てきた。みなが自分の基盤を見失うから、そうなってしまうんだ。君のバンドへの愛情が、これからもずっと続いていくことを願うよ」
 そして、長く煙を吐き出しながら、ローレンスさんはこう付け加えた。
「外側からの不幸によって引き裂かれることのないようにも、祈っているよ」と。
 彼のバンドは、文字どおり外からの不幸によって、崩壊してしまった――ローレンスさんの静かな口調は、かえって鋭い悲しみを感じさせ、ずきりとした痛みを覚えた。僕は言葉を探したが、励ましも同情も言えそうにない。
「僕も本当にそう思います……」
 ただそう言っただけだ。でもアーノルドさんは、微笑して頷いてくれた。軽く僕の手を叩きながら、話を続けている。
「君たちのバンドは、典型的なリードセクション先導型だね。二人ともまだ十代のコンビで、非常に若いだけに、将来は本当に未知数だ。レイモンドやロブが言っているように、君らはまだまだ発展途上なんだよ。アーディス・レイン君も君も、図抜けた才能の持ち主だ。だから目の鋭い音楽関係者も、見逃さなかったのだろうが……でも君たちの決断は正しい。たしかにアーディス君はソロでも十分成功できるだろうし、君もビッグネームのバンドに入っても、負けてはいないだろう。でも君たちは別々にやるより、今のバンドで一緒にやっていくほうが、はるかに輝けるよ。君たち二人のステージ・コンビネーションは、見ていて思わずぞくぞくと嬉しくなるほどだ。僕らはああいう美しさとは、あまり縁がなかっただけにね」
「そ、そんなもんですか……?」
 僕は思わず照れ笑いしながら、頭をかいた。
「でもエアリィはともかく、僕はあんまり自分の容姿が美しいなんて、思ったことはないんですが……」
「いやいや、彼とは比較出来ないが……あの子はデビュー当時から『世界で最も美しい少年』と言われていたくらいだからね、巷で。でも君だって、立派にハンサムだよ。それに、背も高いしスタイルもいい。そう謙遜しなくてもいいよ。それにあの子がブロンドで君がブルネットというのは、コントラストとしても理想的だしね。彼が光と風の精霊なら、君はさしずめ、大地と森の精といったところだね。君たちは本当に、絵になるフロントコンビだよ」
 僕が大地と森の精だって? そんなことを言われたのは、初めてだ。まあ、エアリィはたしかにそのニックネームの由来が“風の妖精”なのだし、淡いブロンドは光そのものだ。だから光と風の精霊というのはイメージとして当たっていると思うが、僕はいったいなぜ大地と森の精なんだろう? 茶色の髪が大地で、緑の目が植物だろうか? ステージではよく緑系の服を着ているからか。でも赤やクリーム色もよく着るが――。
 ローレンスさんは僕の表情を見てか、少し笑いながら話を続けている。
「ただね、サウンド的にもヴィジュアル的にも、君たち二人が主導し、突出している感があるから、他の三人が目立たないという点は否めないけどね。でも、バンドにはいろいろな型があるものさ。リズム主導型もあれば、リード主導型もある。エアレースというバンドには、今の型が一番あっていると思う。だからといって、あとの三人が劣るというわけでは、決してないからね。ストレイツ君もスタンフォード兄弟も、良いミュージシャンだ。派手ではないが安定感はあるし、君たちを支えていけるだけの音楽的資質を、十分備えている。リズム隊のグルーヴはとても安定していて、気持ちがいい。ストレイツ君の音楽センスも群を抜いている。バンド全員がそれだけの資質を持っているのは、意外と貴重な例なんだよ。だからリードする君たち二人がこのことをしっかり自覚し、彼らを軽視することがなければ、バンドは最高に幸福な共同体として、長らえていくことができるだろう」
「そうですか。そうできたら嬉しいです、本当に。僕はこのバンドが好きだし、みんなと一緒にがんばって成功したいんです。そうできたらですけれど」
「君は純真な子だね。それが君の良さでもあるんだ。それを失くさないようにね。さあ、これから練習だ。リズムセクションは安定感とタイトさをより重視し、キーボードはよりセンスをアップし、ヴォーカルとギターはより強力に。これが今回の重点事項なのさ」
「はあ……そうなんですか」
「生返事をしている場合ではないよ。君にはこれからキツーイ練習が待ってるんだからね。看板に磨きをかけるって言うのは、なかなか難しいことなんだよ」
 ローレンスさんは笑いを含んで言うと、灰皿にぎゅっとたばこの火を押しつけた。

 それが集中練習の始まりだった。部屋数がないので、練習時間はおろか部屋まで講師と一緒だけれど、部屋には文字通り寝に帰るだけだ。ラウンジにもほとんど用はなかった。来る日も来る日も、三度の食事以外、ずっと練習漬けだ。朝の七時に起床し、七時半から朝食、八時半から練習開始。十二時から一時間の昼食休憩を挟んで、午後の練習は六時半まで。そこでまた一時間ほどの夕食休憩があって、その後十時半までまた練習。シャワーを浴び、十一時過ぎに部屋に引き取ると、もうあとは寝るしか気力が残っていない。
 僕のメニューは毎朝二時間のジョギングと水泳から始まり、午後にまた二時間程、握力アップの為のハンド・グリップや指立て伏せ、ストレッチや整体などの運動プログラムが入る。残りの時間は、すべてギターの練習だった。
 最初はテンポを決めたスケール練習やコードカッティングが朝から晩まで延々と続き、二週間半ほどで完璧、とのお墨付きをもらった後は、課題演奏だ。ランダムにいろんな課題がでてきて、それについて感じるままにギターで表現する。課題は“犬”、“猫”、“電車”などの具体的なものから、少し抽象的になって“花”、“星”、“風”、“空”、“水”のたぐいになり、さらにはもっと抽象的に“希望”、“夢”、“愛”、“失望”、“悲しみ”というようなものになっていく。それをテーマにして、三分ほどの即興演奏をする。課題演奏が十日ほどで終わったあとは、一発コピー中心の練習になった。いろいろなタイプの曲の一部分を一回だけ聞き、ギターパートをコピーしていく。前に聞いたことのない曲だと、本当に文字どおり一発コピーだ。必死で覚えようとするとかえってわからなくなるので、ただ聞いて頭の中に映し取り、弾いてみるだけだ。コピーが終わると、今度は僕ならどう処理するかという課題になる。考える時間は一〜二分しか与えられなくて、ほとんど即興に近い。
 運動は一日トータル四時間で、十キロのジョギングや一キロの水泳はたしかに厳しいが、体力的な消耗は、それほど激しくはなかったと思う。でも一日中ずっとギターを弾いているので、弾きなれているはずの指も、四、五日ほどたつ頃には、水ぶくれができてきた。つぶれることはなかったが、それが再び硬い皮膚になるまでの一週間ほどは、ギターを弾くのが多少苦行に感じられた。ベース弦のように太くないだけ、まだましだが。それに最初のスケール練習は比較的単調なので、集中力を途切れさせないようにするのが、結構大変だ。しかし、それはずっと見ているローレンスさんの方が、もっと大変だっただろう。
 それぞれのパートに専属講師がつき、独自のスケジュールで進めているので、ほかのメンバーたちが、どういう練習をしているのかは、わからない。まともに顔を合わせるのは、食事の時くらいだ。リズムセクションという性格上、半分は合同練習だというロビンとジョージ以外、最初の一ヶ月あまりは、メンバーがそれぞれ一種の隔離状態にあったようなものだった。だから、みんなそれぞれに、体力や気力いっぱいの大変な練習をこなしていたのだろうということしか言えない。食堂で会う時、彼らはいつも張りつめた、もしくは疲れ切った表情をしていて、ほとんどお互いに話す気力もなかったから。

 集中練習は二ヶ月間の予定だった。でも僕がみっちり練習漬けになったのは、最初の五週間だけだ。六月もあと一週間になった日の朝、朝食後にいつものように練習部屋へ行こうとする僕を、ローレンスさんが制した。
「ちょっと待った。今日は練習しなくて良いよ」
「え? 今日はお休みですか?」
「そうじゃないんだ。でも、詳しいことはロブと相談してからじゃないと何も言えないから、それまでここで待っていてくれないか?」
「はい……」
 頷きながらも、一瞬わけがわからず、不安を覚えて講師の顔を見た。
「何か……お気に触ったんでしょうか? 僕の態度や進歩に」
「そういう意味じゃないよ。とんでもない。君の態度は申し分ないし、進歩も著しい。たいしたものだよ。本当さ」
「は……あ」
「そう。だからこそなんだ。もう僕が君に教えることは何もない。ここで君のために教えられることは、この五週間ですべて練習し尽くした。君の反応は予想以上だった。もうこれ以上ここにいて練習していても、さらなる進歩はさほど望めないだろう」
「じゃあ……ひょっとして、これで練習は終わりということですか? まだ予定では、あと一ヶ月近くもあるのに」
「まだ半分ちょっと来たところだからね。君の休みを増やして、喜ばせてあげてもいいけれど、どっこい、そんなに甘くはないのさ。ここでは教えられないことでも、まだ君には進歩の余地があると思う。だから、それをこれから話し合いに行くんだ」
「と、言いますと?」
「僕は昨夜、ロブにその話をしたんだ。そうしたらフレイザーさんも同じような状況にいるらしくて、同じような相談を受けていると言っていたんだ。あの人には、何か考えがあるらしくてね。それで今朝もう一度、三人で話すことになっているんだよ」
「フレイザーさんが?」
 ジーノ・フレイザー氏は、ヴォーカル担当の講師だ。五十才くらいの年輩で、長身で均整の取れた身体をいつもスーツに包み――さすがにこの季節なので、上着は脱いでいるが、ネクタイは常に締めている。薄い口ひげを生やし、半分くらい白くなった黒い髪を、きっちりとオールバックに整えている。その外見は、ロマンスグレイの洗練された紳士という感じの人だ。本業はミュージカル監督で、相当有名な人だが、ヴォイストレーナーとしても業界屈指の人だという。同時に、生徒の人選もそのトレーニングも、非常に厳しいので有名らしい。
 そういえばレッスン初日の朝以来、僕はほとんどエアリィには会っていない。彼らの場合、ロードトレーニングで外へ行っていることも多かったらしく、戻るのが遅れて食事時間がずれることも珍しくなかったが、それでも講師の方は時々食堂で見た。でも生徒の方は、と聞かれると、『ああ、部屋で寝ている』と答えていたものだ。だからちょうどこの時、食堂のドアが開いて、エアリィがこう言いながら入ってきた時、僕は隣の部屋に寝起きしていながら、まともに彼に会ったのは五週間ぶりだったほどだ。
「ローレンスさん、ロブとフレイザーさんが、ラウンジで待っていますって」
「ああ、そう、ありがとう」
 ローレンスさんは立ち上がって出ていった。
「あ、ジャスティン、久しぶり!」
 エアリィは僕を見てそんなことを言い、
「久しぶり、か。本当にそうだよな」
 僕も苦笑して返した。そして思わず続けた。
「おまえ、また少し線が細くなってないか?」
 青い半そでTシャツから出ている腕はかなり細くなり(もともと細い方なのに)、胴回りには少しフレアが出ている。ジーンズも、ここに来る時にはもっとフィットしていた。
「うーん、体重計には乗ってないけど、かなり落ちたかもね」
 エアリィは小さく肩をすくめ、苦笑を浮かべていた。
「だって、ずっとアスリートやってたから。シャトルランにマラソン、カーディオ、水泳、階段ダッシュに体操、縄跳び、腹筋運動って。すごいきつかった」
「うわっ、本当に、それじゃ運動選手だな。歌の方はやらなかったのか?」
「発声は死ぬほどやったよ。四時間連続の、超鬼畜なやつ。あとはダンスと朗読。運動以外っていうと、それだけかな。まあ、ダンスも運動の一種かもしれないけど。あ、あと風船百個、一息で膨らましてくっていう変なのがあった」
「風船百個?」
「うん。肺活量鍛えるためらしいけど。けっこうきつい。最後はいつも立ち眩み起こしてたよ」
「そうか。まあ、百個続けてじゃ、目の前が暗くなるのもわかるな」
 僕は思わず苦笑して頭を振り、そして続けた。
「それじゃ、おまえの練習って、ほとんど体力と持久力増強目的だったのか?」
「そうかもしれない。それも、けっこうな量やらされるんだ。シャトルラン二百本とか、マラソン……うーん、相当大回りだから、三十キロくらいは軽く走ってるかもしれない。フレイザーさんは電動自転車だけど。水泳だと往復百本とか。やばいよ。殺意感じるくらい。途中で倒れたら、水かけられるんだ。あ、水泳だと溺れるからって、引き上げられるけど」
「なんだよ、そのスポ根みたいな無茶な特訓は。オリンピックの強化選手じゃないんだからな。いや、今時オリンピックでもやらないだろう」
「うん。毎日そんな調子だったから、おかげで全然、固形物がのど通んなくなって。疲れすぎたんだと思う。無理に食べようとすると吐くし。それでもう諦めて、寝てた方が楽だって思って、食事時間に行かなかったから、みんなと全然会わなかったし。ロブのお母さんが心配してくれて、毎回スムージー作ってきてくれたからそれと、あとは果汁百パーのジュースだけ飲んでたんだ」
「おまえ、それだけ消費カロリーが激しいのに、補給をろくにしなかったら、痩せるのは当然だろう。ただでさえ体脂肪率一桁で、減量の必要はないだろうが。これ以上、体重落とすなよ。体力増強も逆効果になるぞ。今は大丈夫なのか?」
「うん。まあ、だいぶましにはなったよ。体が慣れたのかな。まだ固形物は食べてないけど。あ、ジャスティン、コーヒー飲む? いれるけど」
「ああ、ありがとう。おまえ、朝は食べたか?」
「うん。スムージーだけだけど。バナナとミルクと蜂蜜の」
 エアリィは僕にコーヒーを渡してくれた。自分の分には、半分くらいミルクを入れ、砂糖も一つ入れている。
「ここにクッキーあるぞ。そろそろ固形物食べろ。バナナミルクとミルクコーヒーだけじゃなくて」
 僕は笑いながら、テーブルの上においてあったクッキージャーの蓋を取り、押しやった。ロブのお母さんが休憩用に焼いて、入れておいてくれていたものだ。
「あ、クッキーならいけるかも、今は」
 エアリィは手を伸ばし、一口食べて、声を上げた。
「あー、なんか一ヶ月ぶりの固形物って感じ。おいしい」
「おまえ、大変だったんだなぁ、本当に」
 僕は思わず苦笑した。
「おまえの唯一のウイークポイントだもんな、体力がないって。でも、フレイザーさんがローレンスさんと同じようなことで、ロブに会ってるのなら、目的は達したってことか」
「と思う。これからもし毎日三時間のコンサートが続いても、七連投ぐらいはできるだろうって、言われたから」
「そうか。それなら安心だ、僕らも」
 僕は頷き、思い出して付け加えた。
「そういえばおまえ、先週、誕生日だったんだよな。十六だよな。この合宿終わったら、遅ればせながらお祝いしようか?」
 ロード中やレコーディング中など一緒の時に誰かの誕生日がきたら、全員でお祝いをするのが僕らの恒例だったが、今回ばかりは余裕がなく、当の本人にもほとんど会えない状態だったため、完全に見送ってしまっていたのだ。
「ありがと。でも、もう九日たっちゃったし、今さらだから、いいよ。あのへんって、もうホント、体力的にどん底状態だったから。六月の十二日から熱が出て動けなくなって、四日間寝てたんだ。さすがにその時には、先生もレッスン休みにしてくれたけど。だから今回の誕生日は、ほとんど寝て終わった感じ」
 エアリィは苦笑して首を振り、手にしたクッキーを食べてから、言葉を継いだ。
「でもさ、最近ようやく、なんとか一晩寝たら回復できるかな、ってとこまで来たから、これからは少し楽になったらいいな、って思ってたんだけど、今日になって急に先生が、『これからは方針を百八十度変える。もう直接的にも間接的にも、歌の練習はしない。体力作りも、もういいだろう。第一段階は終了だ』って言って。じゃ、これからどうすんだろって思ったら、第二段階のプランはあるんだけど、ロブやマネージメント側と相談しないと、決定できないって」
「そうか。実は僕も今朝、似たようなことをローレンスさんに言われて、驚いていたところなんだ。これから、どうなるんだろうなあ。フレイザーさんとローレンスさんが一緒ということは、合同練習かな?」
「合同練習? リズムセクションじゃないんだし、僕らが何を一緒にやるわけ?」
「ヴォーカリストとギタリストじゃな。せいぜいアコースティック・セットくらいしか出来ないな」
 僕も思わず肩をすくめた。
「それに、一緒にやるかどうかって、まだわかんないんじゃない? 別々のプランがあるのかもしれないし」
「ああ、まあ、そうだな、たしかに」
「ちょっと早く終わりになったらラッキーだけど、そう甘くもないだろうし。けど、おまえも休み期待してそう、ジャスティン。彼女と仲直りできたんだし、会いたいな〜って顔してる」
「そんなにはっきり出てるか? エアリィ。おまえには、このあたりの気分はわからないだろうが」
 僕は図星を指されて、思わず頬が赤くなるのを感じた。僕は最初の日に、ここへ来るバスの中で、ステラとの仲直りの顛末をみなに話しているので、全員周知の事実なのだ。
「ああ……うん。仲直りできてよかったねとは思うけど、僕には、たしかにその気分はわからないかも。仲たがいしちゃった友達とまた仲良くなるっていうのと、どう違うのか」
「まあ、おまえもそのうち誰かに恋したら、わかるようになるさ」
 僕は肩をすくめるしかない。
「誰かに恋を……かぁ。なんか、考えられないな。フレイザーさんにも言われたっけ。燃えるような恋をしてみろ。そうすれば、愛について、より深く歌えるようになるって。けどさ、僕には友情と愛情の区別が、よくわからないんだ。それに愛って概念はまあ、わかるよ。大事だとも思う。ビートルズじゃないけど、『愛がすべて』ってのは、正解かもしれないって思うんだ。みんなが愛を持てば、世界は救われるっていうのも、陳腐な台詞だけど真実には違いないって思う。ただし、あくまで愛だよ。精神的な愛。相手を好きだ、大事だって思う気持ち。でも恋ってなると、気持ちの問題だけでもないみたいだし、物質的なことが絡んじゃうと、なんかやだって思う。僕は、エロスは理解できない。アガペは大事だと思うけど」
「おまえ、まるで聖者みたいなこと言ってるな、エアリィ。そうやって言えるうちは、まだ恋を知らないってことだな」
 僕は苦笑した。十六にもなれば、ある程度恋愛問題を考え出すころじゃないのか? 実際僕も、ステラと付き合い始めたのは十六の時だし、単なる愛情と恋愛の区別は、その前からわかっていたつもりだ。今だけなのか、彼にも誰か素敵な恋人でもできたら、変わってくるのか――ロビンとは別の意味で、晩生なのだろうか。でもひょっとしたら、『知らない』というよりは、気にしていないというか、ある意味超越しているのかもしれない――そんな思いも湧いてきた。実際、相手がロビンなら『いつかおまえも、素敵な恋に巡り会える』と、ためらいもなく言えるけれど、エアリィ相手には、どことなく場違いな台詞のようにも思えてしまうのだ。
「えー、別に知りたいとは思わないな。めんどくさそうだし、複雑そうだし。その人を好き、っていうのはわかるけど、実際好きな人はたくさんいるけど、恋愛、ってなると、なんかあまり踏み込みたくない感じがするんだ。で、フレイザーさんがさ、僕はエロスって良くわからないし、あまり踏み込みたくないから語れない。アガペは大事だと思うけどって言ったら、こんなこと言うんだ。『では君は、君のアガペを語るといい。エロスを語る連中なら、他にたくさんいるからな』って」
 僕もフレイザーさんのその意見には、完全同意だ。
「それは正解だろうな。僕らもあまりラヴソングは、やりたくないし。まあ、今度のプロデューサーはローレンスさんだから、ラヴソング書けって強制はされないと思うぞ」
「あれ、ホントやばかった。どうやって書けばいいの、って感じで」
「悪夢が去って、良かったな、お互いに」
 僕は笑って肩をすくめた。
 それから二時間ほど、僕らは食堂で講師たちを待った。しばらくは二人で、途中から合宿中のお世話をしてくれているロブのお母さんも含めて三人で、コーヒーを飲んでクッキーをつまみ、雑談しながら。これだけのんびりしたのも、集中練習に入って初めてだ。

 十一時少し前に、二人の講師とロブが食堂に帰ってきた。
「待たせたね。第二段階が決定したよ。君たちは、これから課外授業だ」
 ローレンスさんがテーブルを挟んで腰かけながら、そう告げた。
「そう、ここではできないことを学びに行くんだ」と、フレイザーさんは頷き、
「そこまで思い切るには、少し勇気がいったがね。あくまでここで五人一緒にというのが、そもそもの大前提だったのだから。社長とも電話で協議して、決めるまでに少し時間がかかった」
 ロブが少し首を振りながら、付け足している。
「一緒とはいっても、今まではバラバラだったけどね。本当は今から二週間後から、全員の合同練習に入る予定だったんだ。ロブにしろレイモンドにしろ、最初に決めた美しいプランを、きっちりと実行したかったんだろうけれどね」と、ローレンスさんは苦笑し、
「だが合同練習なんて、今でなくとも、プリプロダクション段階ででも、できるだろう」
 フレイザー氏はその顔つき同様に、有無を言わさぬ口調だった。
「それよりも、今しかできない、ぜひ今やっておきたいことがあるんだ、私には。もしそれができれば、もう一段飛翔できるような予感がしてならない。それを試してみたい。是非ともね」
「僕も彼の提案を聞いて、自分の生徒にも、試してみても悪くないんじゃないかと思ったしだいさ」ローレンスさんが、そう付け加える。
「って、そっちだけで納得しないでください、フレイザーさんもローレンスさんも。具体的にこれからどうするのか、僕らにもわかるように言ってほしいんですけど」
 エアリィがちょっと笑って抗議し、僕も苦笑して頷いた。
「そうだ。君たちには、はっきりとは言っていなかったな、たしかに」
 フレイザー氏は少しだけ表情を緩め、僕たちを見た。
「君たちの第二課題は、世界を知ること、広げることだ。より具体的に言うなら、これから一ヶ月ほど、旅行に出かけることにする」
「旅行?」
「そう、広い世界を見聞すること。単なる観光客の目ではなく、心から共鳴できるように。史跡、自然、いろいろの人々、そういったものを見るんだ」
「音楽と旅行って、それほど関係あるんですか?」
 エアリィが少し怪訝そうに、講師に問いかけている。
「ミュージシャンとロードは切っても切れない関係だろうが、今回はそれとは違う。その地を知って、見ること、体験することが主点だ。音楽は感情の産物だ。それは君も認めるところだろう。だからいろいろな体験をし、見聞を広めた方がいい。それは決して、マイナスになるようなことはないだろう」というフレイザーさんの言葉に、
「そしてそれはきっと、僕の生徒にもプラスになると思ったのさ」と、ローレンスさんも頷いていた。
「ローリングス君の場合は、今までかなり順風満帆にきているからね。広い世界を知ることは、きっとためになるよ。ここでギターに向き合っているよりね」
「ええ……それはなんとなく、わかります。でも、どういう日程で行くんですか? 出発はいつですか?」僕は聞いた。
「これから荷物をまとめて、昼食をとってからトロントへ行き、ビザの申請をしてくる。その後飛行機の切符を買って、今日中には、最初の目的地に向かう予定だ」
 フレイザーさんの言葉に、僕らは驚きを浮かべて、顔を見合わせた。
「ええ? ずいぶん急な。予約とかは……」
「基本的にあまり前から、予約は取らない。一応、ざっと予定は組んでいるがね。現地に着いてから宿や交通機関の手配をする。その方が自由度はきくし、いろいろな体験も出来るだろう。その間、携帯電話の電源は切っておく。帰国するまでね。日常からは完全に離れるんだ」
「日程やコースについての調整を、さっき一時間ほど話していたんだが」
 ロブが手帳に目をやりながら、説明を始めた。
「基本は、七月中に帰ってくること。今のところ、帰国は七月の二七日か二八日を予定しているが、まあ遅くとも七月末だ。おまえたちも多少は休みたいだろうし、合同練習もあるから、それがぎりぎりのリミットだな。最初の半月ほどは、それぞれの講師と一緒に別行動。二組とも、一週間後に一度トロントへ帰って、ビザを受け取らないといけないな。エアリィはカリフォルニアからメキシコ、ペルー、オーストラリア、それからケニア、エジプトと来てトルコのイスタンブール、ジャスティンはニューヨークから始まって、メキシコ、ブラジル、スペイン、ギリシャ、そしてイスタンブール。ここで合流になる。そこから先はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、中国。どっちのコースを行っても、これを一ヶ月で回るのは、かなり強行軍だな」
「でも君たちにとって、何らかの感情が動きそうな予感のあるところ、と言っていいかな。そういう場所をピックアップしていったら、こんなコースになってしまったんだよ。旅費に関しては、これ以上レイモンド、いやマネージメントに負担をかけるのも悪いから、自己負担になる。僕らもそうだが、君たちもね。まあ、大丈夫だろう?」
 ローレンスさんが微かに笑いを浮かべながら僕たちを見、
「できるだけ貧乏旅行で行くつもりだがね」と、フレイザーさんが付け加えている。
 音源の収入やツアーのギャラで、かなり貯金は出来たから、自己負担なのは別にかまわない。でも、いくら自腹の貧乏旅行とはいっても、ほかの三人がまだハードな練習を耐えている真っ最中に、のんきに世界漫遊なんてしていていいのか。そんな気もしてしまう。見聞を広めるのが、音楽に深みを与える助けになる。それはわかる。理論的には正しいのかもしれない。でも単なる観光で終わってしまったら、講師たちの期待に背いてしまうわけだ。それではローレンスさんにも、ロビンやジョージ、ミックにも申し訳ない。どういう心構えで旅すればいいのだろう。
「まずは、リラックスだよ」
 ローレンスさんが、ぽんと僕の背中を叩いた。
「構えてしまったら、感受性はほとんど死んでしまうよ。心を開いて、目に映るものを見、耳にするものを聞いたらいい。それだけだよ」
 まるで僕の心の中を読まれたようだ。その言葉に励まされ、その日の夕方、僕はローレンスさんと一緒に、最初の目的地、ニューヨークへと旅立ったのだった。

 ニューヨーク。ここが最初に選ばれたわけが、はじめはわからなかった。ビザが必要なほかの国の手続きを待っている間だけ、とりあえずアメリカにいるのだろうか、そう漠然と思っただけだ。この街は、何度かツアーで来ている。もちろんビザ待ちの意味もあったのだろう。でも空港を出て乗ったタクシーで、ローレンスさんが、「ハーレムへ」と告げた時、思わずぎょっとしてしまった。通りを歩いていても、怖いという意識だけで冷や汗が出そうだ。それに、多くのホームレスやストリートチルドレン。
 次に行ったメキシコでも、さらにブラジルでもスペインでも、生活のために苦闘する多くの人を見た。そのころには、僕は悟っていた。このコースが選ばれたのは、いわば温室育ちの僕に、現実の厳しさを感じさせるため。人生の苦闘や影の部分、やりきれない側面などを、まざまざと見せるためだということを。
「これが多くの現実なんだよ。福祉や慈悲でも及ばない世界のね」
 ローレンスさんの言葉に、ただ頷くしかできなかった。やりきれない思いを感じた。『かわいそう』というだけでは、救えない世界。でも、もしかしたら――僕の思いは、もう一つのやりきれなさに飛んでいった。もしこの世界に終末がくるなら、恵まれている人もそうでない人も、等しく救われない。でも、もし新世界が訪れたら、あの世界では、もうこういった“影”はなくなるのだろうか。
 ギリシャ。ここは前からあこがれていた場所だ。石畳の街、神殿、紺碧の海。僕の心は大きくのびをした。日差しと海がまぶしかった。でも町の裏側ではやはり、生活に苦労する人々がいた。

 カナダを出てから十六日が過ぎ(途中、一回ビザの受け取りに戻ったが)、僕らはイスタンブールへとやってきた。ここからはエアリィの組と一緒だ。その日の夕方、僕らは小さな旅館で再会し、マーケットの屋台で夕食をとった。
「おまえはどこへ行って、何を見たんだ?」
 僕は串に刺したケバブを食べながら、そう問いかけた。エアリィは、肉は最終手段的にしか食べないため(『嫌いってわけじゃないけど』とは言っていたが)、エビとピメント、玉ねぎという串を探し出し、それを手にしながら答えた。
「えーと、まずはデス・バレーへ行って、ヨセミテを見て、それからテオティワカンにマチュピチュ、ウルル――エアーズロック。ゴールドコーストでダイビングもしたし、セレンゲッティ保護区ではサファリツアーに参加したんだ。それから、ピラミッドとスフィンクス。そんなとこかな。どこも凄かったよ、たしかに。特にサバンナに夕日が沈んで、一面に星が出て、風が吹いて草原が揺れて、遠くにライオンが走ってったのを見た時には、なんか震えが来るくらい感動しちゃたなあ。自然の神を感じた、そんな気分だったよ。けっこう弾丸ツアーだったから、疲れたけど。だから飛行機の中では、ほとんど寝てたし。でも、すごく良かった! ジャスティンはどうだった?」
「いいなあ、サバンナの夕日か。でも僕は感動するような所へは、ほとんど行かなかったよ。貧民区のダウンタウンばっかりだったんだ。観光地にも多少は行ったけれどね」
「あー、わかる、なんとなくそれって。おまえの知らない世界を見せてやる、ってな感じじゃない。まあ、たしかにジャスティンには貴重な経験だろうけどさ、無事だった?」
「神のご加護のおかげでね」
「へえ、ずいぶん奇跡的だなぁ。でも、ひったくりやカツアゲにでも一回くらいあってたら、より『見聞』が広まったかもね。惜しいことしたなぁ」
「冗談じゃない。簡単に言うなよ、エアリィ。本当に冷や汗ものだったんだから」
 僕は串を振りながら、思わずそう抗議した。
「けど、そういうとこ行って、ストリートチルドレンや大道芸人とか、ホームレスなんかを見たんだ? で、そういう人たちと話してみた?」
「いや。たかられたことはあったけど。お金ちょうだいって」
「それで?」
「小銭はあげたよ、一応。かわいそうだから。でも、話はしなかったな……」
「ハンパだなあ、それじゃ、ハンパ。そういうストリートの現実を知りたいんなら、ちょっと旅行して上っ面撫でたくらいじゃ、あまりよくわからないと思うよ。どうしてそうなったのか、一人一人の物語って結構興味深いから、聞いてみれば良かったのに。ジャスティンにもローレンスさんにしても、そこまでは出来なかったのかな、やっぱ」
「そう……まあ、本気で理解しようと思ったら、そうすべきだったんだろうけどなあ」
 僕は渋々頷いた。
「でも、エアリィ。おまえも結構きいた風なことを言うなあ。おまえだって、ああいうストリート系の社会って知らないだろうに」
 彼は黙って串を半分くらい食べた後、僕を見て、小さく頭を振った。
「知ってるよ、ある程度は。子供のころ、少しだけニューヨークのダウンタウンにいたころにね。ストリートチャイルドのガキ大将や、コールガールのお姉さんとも、知り合いになったし。あのへんは別世界だよ。まあ、みんなの方が特殊なのかもしれないけど」
 僕は多少驚きながらも、なぜここまでエアリィと僕が別コースになったのか、なんとなくわかった気がした。彼は僕がしてきたような旅は、もうすでに経験済みだから必要なかった。そのかわり、今までに体験していない、広大な自然が課題だったのだろう。そしてここからは、共通の課題に入る。エアリィには前半の続きかもしれないが、僕にとっては新しい経験だ。

 イスタンブールでは市場に行ったり、現地の食堂や店に入ったり、屋台を見て歩いたり、いくつかの遺跡を見に行き、それから飛行機でアフガニスタンへ。まだ昔の戦火の名残があったが、復興途上の学校や町を見、村や農場の生活を見学し、モスクや遺跡を訪れた。その後、パキスタンのインダス川流域の町へ、それからインドへと、旅は続いていった。何度かは民泊で、現地の村人の家に泊めてもらったりもした。そこで地元の料理を作り、向こうの家族と一緒に地べたに座って、食事をするという機会にも恵まれた。
 この旅行では、エアリィの度胸のよさにも改めて感嘆させられた。彼は異環境にも決して物怖じしないし、見知らぬ人たちの中にも平気で飛び込んでいく。語学にも驚異的な才能があるようで、たった一日で現地語をマスターしてしまい、通訳を介さずに相手の話に反応し、自分も話しかける。だからコミュニケーションには、ほとんど不自由しなかっただろう。民泊の時も例外なく、その家の人たちと仲良くなっていた。
 ただ、その外見のために、相手にはほぼ例外なく女の子と認識されてしまい、男だと言っても信じてくれない。「ここからは、女の子は入れないよ」「女用はそっちだよ」などと何回となく言われ、モスクに入る時には「チャドルは外人さんには無理だろうから、せめてスカーフで頭を覆いなさい」と注意され、店に入れば、女物のドレスを勧められた。民泊先でも向こうの家族と一緒に料理を作るし、給仕も手伝ったりするので、よけいにそう思われたのだろう。現地の若者に「僕とデートしてください」と迫られたことも、一度や二度ではない。エアリィもその手の申し入れには、「無理です!!」と、当然のことながら、片っ端から断っていたが、『女の子だから云々』という注意は、何度も言われるうちに、「もういいや、いちいち訂正するの、めんどくさい! 言っても信じてくれないし」と、途中からあきらめるようになってしまった。それゆえ、寺院に入る時には頭からスカーフをすっぽりかぶり、女人禁制エリアでは、入り口で待っているようになった。
「もう少しぴったりした服を着て、胸がないのを見せたら、相手も納得するんじゃないか?」と、一、二回言ってみたこともあるが、本人は「えー、なんかあんまりフィットしすぎるのって、好きじゃない」と、相変わらず一、二サイズ上の、身体のラインの出ない服ばかり着ている。さらに市場で、「あ、これ涼しそう」と、水色更紗と、白に裾模様の入った、どうみても女物だろう薄い綿のチュニックを二枚、買って着ている始末だ。間違えられるのも、ある意味自業自得だろう。
 でも現地の人からは、外人という以上に『あの四人は、どういう関係なんだろう。かっこいいおじさん二人と超絶美少女と(かっこいい?)男の子と』と、かなり好奇に満ちた目で見られている上に、『あの美少女の彼氏?』とたびたび見られる、または言われることが、僕にも相当悩みの種だった。おかげで現地の若者に、冷たい目で見られたりする。まったく、とばっちりで、いい迷惑だ。さらにロスでのロビンの告白を思い出すと、今エアリィと二人で、いや、フレイザーさんとローレンスさんがいるから四人だが、秘境の旅をしていることに対して、以前のロビンなら、きっとやきもちを焼いたのだろうな――僕ら二人にはおそらく気づかれないままに、などとも思い、少なくともロビンが今はある程度その気持ちを乗り越えてくれた状態であることに、ほっとしてもいた。
 僕にとっては、やっぱりこの異国の旅は不思議な体験だった。異世界の入り口で立ち止まり、中をうかがい、エアリィに引っ張られて、やっと入っていくという感じだ。そうして旅は続いていった。合流してから十二日目のその日、僕たちはインド中心部に近いハイダラーバードまで飛行機で行った後、車で五、六時間ほどかけて、高原の野営地にテントを張って泊まった。のどが乾ききった時に飲んだ湧き水の味が本当に甘いことを、生まれてはじめて知った。





BACK    NEXT    Index    Novel Top