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その夜、テントとシュラフの寝心地の悪さに寝つかれなかった僕は、寝袋を抜け出して、外へ出ようと起きあがった。エアリィはもう寝てしまっていたが(彼は本当に、どういう環境でも眠れてしまうようだ)、ローレンスさんとフレイザーさんは、まだ寝に来ていないようだった。テントの入り口から、うっすらと明かりが漏れてくる。僕も仲間に入れてもらっていいかどうか、ちょっと様子を見てみよう。
そっとのぞいてみると、二人の講師はたき火をしながら、両側に据えたパイプ椅子に座っていた。ローレンスさんが吸っているらしい、煙草のにおいも流れてくる。二人ともこちらに背を向けた姿勢で、低い声で話していた。
「それにしても、ずいぶん思い切った提案でしたね、フレイザーさん。僕もこれからどうしようかと思案はしていましたが、こんなに大胆な手までは、なかなか実行に移せませんでしたよ。あなたがあそこまで強固に、ロブに主張しなければね」
ローレンスさんが、ちょっと感嘆したような口調で言っているのが、聞こえてきた。
「私としては、これしか思いつかなかったのでね」
フレイザー氏は淡々とした口調で答えている。
「もっと有効な手があれば、是非ともそうしていたところだが。果たしてこれで私の望む結果を引き出せるだろうか。今までのところ、あまり分は良くないようだ」
「そうですか? 僕は、やって良かったと思っていますけれど。ジャスティン君は非常に誠実で繊細な性格ですから、いろいろなことに感銘を受けて、吸収していますよ」
「君の方は、そうかもしれない。見聞を広め、感情の幅を広げるということは、君の生徒には有益だし、それだけの余地もあるわけだ。だがね、私の生徒については、一応ああは言ったものの、本当はさして重要課題ではないんだ」
「そうなんですか? それならなぜ……」
フレイザー氏がそれに答えないので、ローレンスさんはしばらく間をおいて、別の問いを投げかけていた。
「ところであなたは、アーディス君の母親とは、お知り合いだったと聞きましたが」
「ああ、アグレイアか。よく知っているよ。彼女が出演していたミュージカルの監督を何本か、手がけていたからね。あくまでビジネス上の付き合いだったが……ああ、でも二度ほど、彼女と関係を持ったことはあったな」
「え、そうなんですか!?」
「だが私は、アーディスの父親ではないよ。あの子が二歳くらいの頃だ。どうしてそういう成り行きになったのかは、よく覚えていないが、まあ、お互い納得済みだった」
フレイザーさんは、苦笑しているようなトーンだった。
「私たちは監督と女優の関係で、よく一緒に仕事をしていたからな。アグレイアは言ってみれば、恋多き女だった。美しかったし、性格も明るく、周りが放っておかなったからな。君は彼女を知っていたのかい?」
「いえ、僕は個人的に会ったことはないです。でも若いころの彼女を二度ほど、舞台で見たことはあります。僕らがツアーでニューヨークにいた時に。バンドメンバー全員が、映画や芝居、舞台を見るのが好きでしたから、機会があれば見に行っていたのです。最初に見たのは、もう十八年くらい前のことです。五番手くらいのクレジットでしたが、あのアリステア・ローゼンスタイナーの一人娘が出ていると注目していたので、覚えています。ハービィが……僕らのバンドのドラマーですが、『へぇ、やっぱり血筋かな。あの娘には華があるね。きっと大スターになれるよ』と言い、僕もそう思った記憶があります」
「そうだな……」
フレイザー氏は少し沈黙したあと、懐かしむような口調で言葉を継いでいた。
「アグレイアは美しかった。才能もあった。それに君の友人が言ったとおり、華もあった。父親の知名度があったため、スポンサーの受けも良く、配役にはたしかに恵まれたが、それだけではない。まともに精進していれば、きっと大スターになれただろう。それだけの素質は持っていたんだ。だが結局、彼女はそうならずに終わってしまった。当然、そうなるべきだったのに。彼女は不運だった。トラブルが多すぎたんだ。売り出し中の一番大事な時期に失踪する、結婚して引退する、そういった度重なる中断が彼女のキャリアの積み重ねや、それによって得られる芸の向上を阻害し、最後には、事故で舞台生命を奪われてしまった」
「ああ、そうでしたね。舞台照明が足の上に落ちたのでしたっけ、たしか」
「そう。だが、君も知っているかもしれないが、あれは上演中の事故ではなかった。開演前になぜか彼女は舞台に上がり、そこで照明が落ちたんだ。誰かに口実をつけて、ステージ上に呼び出されたのだな。その事件の真相を、私は知っている。彼女はレーサーのカーディナル・リードと結婚して、二年ほど舞台から遠ざかっていたが、復帰後すぐに、大舞台のとても重要な役に抜擢された。それを妬んだ連中がやったことなんだ。元々彼女は敵が多かった。父親の知名度のおかげもあって、度重なるキャリアの中断にもかかわらず、配役に恵まれたことが多かったからね。七光りなどと陰口を利くものもかなりいて、本人もそれを気にしていたが、そんなものは良い演技をすれば一蹴できると、私はよくアグレイアに言ったものだ。だがね、やはり面白く思わないものもいたのだろう。その首謀者が誰だったか、それも私は知っている。ただ、はっきりした証拠はなかったし、彼女の将来も考えてね……スキャンダルを嫌って、表沙汰にしなかったんだ」
「彼女……ということは、首謀者は女性だったんですか?」
「ああ。アグレイアの事故後も公演は続行したが、その女性が代役を務めたんだ。そこまで言ってしまうと、君もある程度はブロードウェイに興味を持っていたようだから、資料を調べれば、名前はわかってしまうだろうな」
「あえて調べようとは思いませんよ。もう時効でしょうしね」
ローレンスさんは苦笑が混じったような声だった。
「ブロードウェイも厳しい世界だとは聞いたことはありますが、本当にずいぶん複雑な事情があるんですね」
「ああ。こんなことは氷山の一角さ。だが音楽界も、似たようなものだろう。君も以前は現役ミュージシャンだったのだから、彼らの業界については、君の方が詳しいだろうな。どちらにしろ、あらゆる魔物が住んでいる世界だ」
「まあ、たしかにいろいろありますよ、音楽界にも。同業者、エージェント、マスコミ、そして同じバンド仲間さえ……僕らは幸い、そうではなかったですが、いろいろな敵がいますからね。人気という当てにならないものに頼って行くしかない世界で、有形無形の誘惑も多いとなれば、その中で自らの精神を犯されず、クリエイティヴな熱意も失わずに渡っていくのは、ほとんど不可能と言ってもいいくらいです」
「君たちはどうだった、ローレンス君? 君たちのバンドは、比較的そういう業界の悪徳に染まらずに来ていたのじゃないか、という評判だったが」
「そうですね。基本的に僕らはみな古くからの友人でしたし、気心は知れていましたから。ベースのエドウィンとは幼稚園の頃から、ドラムのハービィとヴォーカルのグレンは、小学校四、五年からの付き合いですから、みな幼馴染のようなものです。ハイスクールでバンドを組んで、それからずっと活動を続けてきたんです。僕らはオフでも良く一緒に飲みに行ったり、芝居や映画を見に行ったりしましたし、何でも言い合える仲でした。それゆえに意見が衝突することも多かったですが、それで決定的に険悪になることもない、安心感がありました。メンバー間での人気格差がそれほどなかったのも、幸いしたのかもしれません。飛び抜けたスターはいないけれど、みなそれぞれに存在感がありましたから。まあ、僕らも人間ですしね。プロのミュージシャンとしてやって行く上では、さまざまなストレスがありますし、ケンカはかなりしました。『やめてやる』という台詞も、僕も他のメンバーも、何度か言いました。でもそれは一時の表面上の波立ちに過ぎず、根本では、僕らはいつも固い絆でつながっていられた。最後まで親友でいられたし、一緒にプレイすることを楽しむこともできました。そういう点では、非常に幸福だったと思います……」
「君たちのバンドは、本当に理想的な関係を築いていたんだな。そうか……つい、君には酷な話をさせてしまったようだ。すまない……」
「いえ……もう大丈夫です。すみません」
ローレンスさんは、ちょっと詰まったような声だった。涙ぐんでいるのかもしれない。僕も大きな塊が、咽喉をふさぐのを感じた。事故の知らせをニュースで見た朝に感じた、あの思いがよみがえってくる。ローレンスさんはしばらく沈黙の後、言葉を継いでいた。
「願わくば、彼らにもそうあって欲しいと、僕は思っています。絶対的に信頼できる基盤がバンドにあれば、業界の悪徳にひどく染まることなく、渡っていけると思うので」
「しかし不幸なことに、その絶対的に信頼できる基盤を持たない人間が、圧倒的に多いのが現実だな。君のバンドは、幸運な奇跡だったのだろう、ローレンス君。我々の生徒たちのバンドについては、そうだな……九十パーセントくらいは確立できているように見受けられるが、まだ完全ではないとも思える。だがまあ、彼らとて、難しい業界だと覚悟はしていただろうし、それでもあえてその道を選んだ。これから彼らがこの世界を、どうやって渡っていくか、それは私たちの管轄外だ。君は今後も彼らのプロデューサーとして関わっていくと聞いたから、多少は関係するのだろうがね。だが今の我々の課題は、それぞれの生徒の才能を、できる限り引き出すことだ。私は個人的にアーディスの母親と知り合いだし、あの子自身も知っている。まだ一人でアパートにおいておけないほど小さかった頃、アグレイアがレッスン場に連れてきていたからね。あの子はレッスン場の隅でコットに寝かせられて、もう少し大きくなると、毛布の上でおもちゃをあてがわれて、練習が終わるまで遊んだり眠ったりしていたが、時おり何時間も飽きることなく、レッスン風景を眺めていたものだ。身体を揺らしてリズムをとってみたり、手を叩いたり、歌おうとしてみたり……あの子はまるで天使のようにかわいい赤ん坊で、それにとても人懐っこく、活気に満ちていたが感情は非常に安定していて、泣いたりぐずったりすることは、まったくなかった。それで現場のぴりぴりした空気を、ずいぶんなごませてくれたものだ」
「そうですか。なんとなくわかりますよ」
「だが、その可愛い天使のような赤ん坊を思い出す時、彼がその後に通らなければならなかった道を思うと、私は少々心が痛む。今のアーディスを見る限り、乗り越えられているようだが」
「それから……何が……?」
「あの子は、いくつかの暗黒時代を潜り抜けて、今に至っているんだ。並みの子供だったら、トラウマになりそうな悲惨な状況を。彼が男の子として比較的小さいのは、五、六歳のころの悪環境も影響しているのだろう。アグレイアも、悪気はなかったのだろうが……いろいろあったからな。彼は地獄も底辺も潜り抜けている。だから君の生徒のように、この世界の闇を見せる必要はなかった。もともと良く知っているのだから」
「そうなんですか。あの子はなんというか……屈託なく明るい子だから、僕は知らなかったです。再婚家庭で、母親を三年前になくしているということは、ジャスティン君から聞いて、知っていましたが」
「そう……アグレイアも三年前に亡くなったのだな、事故で。双子の娘を乗せて車を運転中に、雨でスリップして反対車線に突っ込んできたトラックと正面衝突し、ハンドルで胸を強打して、心臓破裂で即死らしい。娘の一人も、その時に死んでしまったという。初めて彼女に会った十九年前には、こんな結末になるとは思いもよらなかった。運命は、残酷だな」
そう。これも後で知った知識だった。まだデビュー前、隣同士のワンルームに住んでいたころ、彼の部屋を訪れた時に。壁にかかったコルクボードに飾られた写真を何気なく眺めていて、その中に二、三歳くらいのエステルと思しき女の子を見つけた。だけど、その子は二人いた。まったく同じ顔で、同じ服で。二人を抱きかかえるようにして、若く美しい金髪の女性が微笑んでいた。訊ねた僕に、エアリィは説明してくれた。そこに写っているのは母親と妹たちと。エステルは見分けのつかないくらいそっくりな双子だったこと。二人はバレエ教室に通っていて、レッスンの送り迎えは母親がしていたこと。その帰り道、事故に会って、母親と双子の一人が死んでしまったことを。その時に僕は改めて、エステルの受けた衝撃の大きさを知った。思っていた以上に、はるかに厳しい局面を、あの子は潜り抜けてきたのだ。そのショックで兄べったりになるのも、余計に無理はなかったのだと、改めて納得できた。
フレイザー氏はしばらく沈黙したあと、再び口を開いた。
「だが、誤解してもらっては困るが、私はあの子と個人的に知り合いだから、コーチを引き受けたわけではないよ。才能のないものには、いくら知り合いでも、いや、知り合いだからこそよけいに、手はかけたくないからね。アグレイアの息子が、あの時の赤ん坊が、果たして彼女や、その父親の才能を受け継いでいるか、たしかに興味はあった。それにあの子は二歳になるまで、そういう環境で育っている。ダンスのステップと音楽を子守歌にして。幼児教育の観点からは問題ありかもしれないが、あの子の天分を引き出すためには、これ以上ない初期環境だよ。私はダンスレッスンの時、あの子が一歳前後の頃にアグレイアが練習していた曲を、試しに聞かせてみた。彼はその曲を知っていると言った。私は思いつくままに踊ってみろと命じたのだが、あの子のダンスを見て心から仰天したね。あの時のアグレイアの踊りそのものだ。完璧な再現だった。さらに言えば、彼女より明らかにダンスの天分もある。アーディスはあとで言っていた。『これ僕が一歳のころ、母さんが練習してた曲ですよね。だからそのイメージで踊っちゃったんですけど、僕独自の奴にしたほうが、良かったですか?』と。そして、こうも言った。『フレイザー先生、あのころとあまり変わってない! 厳しい先生だなーって思ってたけど、僕には優しくしてくれてて。でも、実際生徒になると、やっぱ厳しいんだって』と」
「ほう……でも、その時の彼は一才前後だったのでしょう? そんな頃の記憶を……?」
「ああ、本人に言わせると、赤ん坊のころから覚えているらしい。それにしても、アーディスの天分には驚かされる。記憶力もそうだが、音楽に関する才能も、運動神経も知能も、天才という以上のものがある。そう。そして彼は、音楽理論はだいたい知っていた。他の四人に教えてもらったらしいな」
音楽理論は僕らに教わったというより、未来世界でアイザック・ジョンソンとヘンリー・メイヤーに教えていたのを聞いていただけだな。間接的には、僕らが教えたことにはなるのだろうが。でも、はたして実践に生かされているのだろうか。あの時も、理論が変だの根拠がわからないだの、まぜっかえしてばかりだったし。
フレイザーさんは話を続けている。
「アーディスは楽譜の読み方や、楽器の演奏はほとんど出来なかった。しかしためしに教えてみると、まるでスポンジに水がしみこむように、あっという間にマスターしてしまった。あの子は一度見たり聞いたりしたことは決して忘れないし、やり方さえ理解できれば、頭で意図したとおりに、身体を動かすことが出来るようだ。運動にしろダンスにしろ、そして楽器演奏にしても。反復練習など必要ないほどに。たとえばピアニストの演奏風景を頭上から撮った映像を一度見ただけで、その通り弾けるんだ。今までピアノを弾いたことがなくとも、写実的記憶と運動神経が連動して、再現できてしまう。実際に私は練習の息抜きにと、二度ほど試してみた。一つはピアノ、もう一つはヴァイオリン――どちらも、かなり難易度がある曲だ。それでも、二度とも完璧だった」
「……そうなんですか。あの子はIQも運動神経も並はずれていると、ロブが言っていたことがあったけれど……なんだか人間業とも思えないほどですね」
「そう。アーディスは私が予期していた以上の天分を持っていたよ。私が今まで手がけてきた中で、最大のものだ。だからこそ私は自分に貸せられた課題を、最大限実現させたい。それは、君と君の生徒に関しても、そう変わりはしないだろう、ローレンス君?」
「ええ、たしかにそうですね。そう……初めて僕があの子たちの音楽を聞いたのは、まだリハビリ中のことでした。バンドもなくなった。仲間たちもみな逝ってしまって、もういない……。その事実を受け入れるのに、かなりの時間を要しました。いえ、今でも乗り越えられたとは言えないかもしれないと思います。まるで世界が空っぽになってしまったようで、自分の半分以上がもぎ取られてなくなった。もう永遠に戻らないだろう……そんな気分でした。僕は運命を呪い、音楽への情熱も失いかけていました。妻だけが唯一の支えでした。レイモンドが――マネージメント会社の社長ですが、彼も僕らの昔からの友人なんですよ――コンテストで優勝した新しいバンドと契約して、すっかり夢中になっているという話を聞いた時も、僕は不愉快でした。僕たちがいなくなったら、すぐに後釜を見つけようとしているのかって。まあ、彼も会社を運営して、スタッフを養っていかなければならない身ですからね、当然なんですが、僕には仲間たちを軽んじられているように思えて、絶縁を考えたくらいです。その十月初め――事故からほぼ一年近くがたって、ようやく退院のめどが立ったころ、彼がニコニコしながら病室に来たんです。『ローリー、我が社期待の星のデビュー盤が完成したんだ。ぜひ聴いてみてくれ。まだ本当に若い新人だが、大きな将来性を感じるんだ。君たちを失った痛手を、埋め合わせてくれるかもしれない』と。僕は気が進みませんでしたが、聴くだけは聴いてみようと思い――実際、それほどレイモンドが入れ込むほどの器かどうか、試してやろうという気もあったんですね。そして聴いて、驚きました。うわっ、これは本当に、とてつもないポテンシャルを持ったバンドだな、と。僕たちと同じような精神性を底流に持っているけれど、僕たちより大きな才能と、さらにプラスアルファの魅力がある。若々しいエネルギーもある。それゆえ、この子たちは僕たちより、はるかに伸びる要素がある、と。聴いているうちに、僕は気力がよみがえってくるのを感じていました。仲間たちはみな、いなくなってしまったけれど、もう一度、音楽へ立ち戻ろうと。それが仲間たちへの供養にもなるはずだ。エドウィンやハービィやグレンの分まで。でも、一緒に音楽をやる仲間は彼ら以外いないと決めていたから、僕に出来る範囲のほかの方法で。そう思ったのです」
「そうなのか。君に情熱が戻って、良かったと思う」
「ありがとうございます。だからこそ、同じマネージメントの後輩でもある彼らに、僕に出来るだけの助力が出来たらと思って、今回の集中練習に参加したのです。これからも及ばずながらプロデューサーとして、彼らと関わっていこうとも思いました。それに僕は、ジャスティン・ローリングス君という僕の生徒の素材にも、惚れ込みました。まれな才能を持つギタリストとして。そのために僕たちも、はるばるこんな所まで来ているわけですし、少なくとも僕は自分の試みは、ある程度成功したと思っています。はっきりと目に見える進歩はなくとも、きっと今後、彼のプレイに何らかの形で反映されていくでしょう」
「まあ、それが君たちの目的なのだからね。はっきりした形には現れなくても、広い見聞を吸収できればよい。しかしね、それなら何もわざわざ世界旅行などしなくとも、これから彼らが生きていく間に出会う様々な出来事が、きっとそれ以上に何かを与えてくれると思うのだ。言ってみれば、どうしても今必要ということではない。スタジオで練習をしているよりは、少しは有意義だろうという程度だ」
「う……まあ、そうかもしれませんが……」
「私はそれが目的で来ているのではない。感情に深みを与えるのではなく、私は殻を打ち壊したいのだ。今なら、それができる時期なのかもしれないと思った。トレーニングで、私がアーディスを気力体力の限界以上にまで、あえて追いつめたのは、単に体力増強のためだけではない。体力的な極限を超えると、精神状態も普段と同じではいられなくなるからね。さらに今までいろいろな所で史跡や景観を見せてきたのは、精神に感動を与えて、高まったテンションをさらに引き上げさせる、それだけのためなのだ。あの子は非常に感受性の高い子だし、自然に対する憧憬も強いからね。そうして精神を強く揺さぶり、そのテンションを臨界まで上げてやれば、いつかその殻が壊れるだろうと期待していた。しかし、アーディスはなかなか手強いよ。セレンゲッティではその一歩手前まで行っていたが、破れはしなかった。あの子の精神の殻は、私が想像していたより遥かに強靱だ。あれだけの過去を乗り越えてきた人間なのだから、きっとそうだろうとは思っていたが、予想以上だ。なかなか壊れそうにないんで、困っているのだよ」
「壊すというのは、ちょっと物騒な表現ですね、フレイザーさん。それではまるで、あなたは彼をパニックに叩き落としたいように聞こえますよ」
「そうしたいと思っている。あの子に真の成長を望むなら」
「それは、どういう……?」
「アーディスは今でも、超一級のシンガーだよ。あの子の声は、他の誰にもまねのできないものだ。個性的な声は好き嫌いが分かれがちだが、彼の声質はたぶん嫌いと言う感情を持つ人は、ほとんどいないだろう。そして声量も、表現力も、デリバリーも素晴らしい上に、あのルックスだ。天は二物を与えずというが、あの子は完全な例外だ。デイヴィスが言ったように、あの子は一人でも、ロックアイコンになれるだろう。それは確かだ」
デイヴィス氏というのは、あの人か。エアリィにソロとして独立するよう、引き抜きをかけてきた凄腕業界人。僕はあまり良く知らないが。
「そういえば、ドワイト・デイヴィス氏が引き抜きをかけてきたことは、僕もレイモンドから聞きました。断るのに勇気がいったが、引き下がってくれたので助かった、そんなことを言っていましたっけ。あの人も業界の実力者ですからね。でも、デイヴィス氏には言われたらしいですよ。では君のところで、私ができる以上にあの子を成功させられるのか? 五年以内にスタジアム・アーティストになれなかったら、君も覚悟をしておけよ、と」
「デイヴィスの父親は、君も知っているかもしれないが、アリステア・ローゼンスタイナーを最初に見初め、ずっと手がけてきた監督だからな。彼にとっても、特別な存在だったのだろう。その孫ということで、デイヴィスなりの思い入れがあるのだろうな」
フレイザーさんは少し苦笑しているようなトーンで言い、そして続けた。
「だがそれは、彼なりの『では、責任をもって育ててくれ』というのと同義だろうから、そう心配はせずともいいと思う。アーディスには、充分な才能があるからな。それに今度の訓練で、課題だった耐久力も身につけた。連日公演が続いても、何時間歌い続けても、損なわれない声をね」
「そうですね。それがヴォーカル訓練においての最重要課題だったと、僕も聞きました」
「そうだ。そしてそれは達成できた。だから、それで十分といえばそれまでだが、しかしね、そこで満足するべきではない。あの子の真の天分は、こんなものではない。彼こそ、未踏の領域へ行けるアーティストかもしれない。それを発見した時の私の喜びが、君にわかるだろうか。長年私が夢に見、しかしそんなものはしょせん現実には存在しえないとあきらめていたものが、ついに現実になるかもしれないのだよ」
「それが、あなたの真の目的だったんですね。だから……あなたは、あれほどロブに主張して引かなかったのですね。この旅行を」
ローレンスさんはしばらく黙り、比較的長い沈黙のあと、再び口を開いた。
「未踏の領域に行けるアーティスト……それは、たしかに見果てぬ夢ですね。僕たちには実現出来なかった。僕が知っている、どのミュージシャンも。それは、すべてのアーティストが目指す夢。だが決して実現しない夢なのだと思っていました。彼らにはたしかに、大きな可能性を感じることは認めます。アーディス君もジャスティン君も、紛れもない天才ですよ。でも彼らに、僕たちが夢見て実現できなかった領域にいつか行ける可能性が、あるでしょうか? やはり無理だと僕は思っています、正直に言って。領域の壁は、想像以上に厚いですから」
ローレンスさんはまたしばらく黙ったあと、熱っぽい調子で言葉を継いだ。
「未踏の領域へ到達するためには、天才と言うだけじゃ、だめなんです。二十年以上音楽と関わってきて、それがどんなに実現困難なことかも、いやというほど思い知らされました。長いキャリアのうちには、真の天才と言える人も何人か見てきました。でも、彼らでもやはり、そこまでは到達できなかった。未踏の領域、すなわち人間の領域を突き抜けるためには、それ以上のものが必要なのです。何か人間を超えた、そう、モンスターのようなものが。でも人間である限り、人間を超えるものなどあり得ないというのが、現実です。実際この二ヶ月間、ジャスティン君の才能をじっくりと見極めてみました。彼は真の天才です。でも彼の中にモンスターを認めることは、幸か不幸か、僕は出来ませんでした。やはり彼も人間ですからね。フレイザーさん。僕はアーディス君については、この集中練習では直接の担当ではないので、じっくり面と向かってその才能と向き合ったことはありません。音源といくつかのライヴだけしか判断材料がなく、僕もヴォーカルについてはギターほど詳しいわけじゃない。彼が非凡な才能の持ち主だということは、僕にだってわかりますが。でも、あなたならわかるでしょう、フレイザーさん。どうですか? 正直、あの子の中に、モンスターを発見できたのでしょうか?」
「人間を超えるモンスターか。言い得て妙だな……」
フレイザーさんはしばらく黙ったあと、そう返答した。
「まさにその通りだ、君の洞察は正しいよ、ローレンス君。さすがに君自身、卓越したミュージシャンだっただけのことはある。そう、夢を実現させられるとしたら、それは単なる天才ではない、人間を超えたモンスターが必要なのだ。そして人間である限り、それを超えるものが内在するなどあり得ない。そう、普通はね。芸能界に関わるようになって四十年近くの間、私もそう思っていたよ。だがアーディスに会って、その信念はぐらついた。あの子には、人間を超える何かがある。君もさっき言ったじゃないか、ローレンス君。なんだか人間業とも思えないほどだ、と。そう、彼の中には、まぎれもない人間以上のモンスターが存在する。私ははっきりとそう感じた。その力が完全に解放されれば、彼は万人の心に届く、究極のスーパーシンガーになれるだろうと。わかるかね? いや、君ならわかるだろう。それは、完全なコミュニケーションだ。聞く者すべてに作用し、感化させることの出来る力。すべての人に感銘を与え、情景と感情を伝えられる力。たとえ言葉が通じなくとも、メッセージははっきりと伝わり、相手を揺り動かせる。たとえ相手が心を閉ざしていても、こじ開けることが出来る。流行に乗るのではなく、自らが流行を作り出せる。いや、流行などという流れやすいものではなく、確固たる広い道を自ら作っていける。それが未踏の領域なのだ」
「ええ、ええ……そうですね……わかります」
「だが、彼のモンスター、そう言って悪ければ、内なる超人は、まだ眠っている状態なのだ。いや、起きているのかもしれないが、まだ外には出ていない。彼の心の奥深くに、隔離されているような状態だ。彼の精神の外殻、自我を形成している意識領域といってもいいが、それはいってみれば卵の殻、さもなければ蛹の繭のようなものかもしれない。それを破らないと、内なる超人は出てはこられない。メタモルフォーゼは起こらないんだ。だからこそ、壊してやる必要があるんだよ。そのために私は、この旅に出た」
フレイザーさんは熱っぽい調子でそう言ったあと、少し黙った。そしてトーンを落として、言葉を継いだ。
「君はさっき、幸か不幸か、君の生徒にはモンスターを発見できなかったと言ったね。そう、まさに私も同じ気持ちだ。幸か不幸か、私は自分の生徒の中に、それを発見してしまった。それを目覚めさせること、そっと眠りにつかせたままにしておくこと。どちらが彼にとって本当に幸せなのかはわからないと言うのが、正直な気持ちなのだ。アーディスとて、人間離れした能力の持ち主とはいえ、やはり人の子だ。自我の殻を破るのは、危険な行為だ。たとえ、どれほどの精神力の持ち主であれ。その時にどんな状態になるのか、私もよくわからない。その時の衝撃が精神の限界を越えてしまったら、元に戻らない可能性もある。その超人に精神を乗っ取られてしまうか、それに抵抗を試みて破綻する危険もある。確実にそれは彼の人格にとっての、大きな危機となるだろう。かりにそれを乗り越えられても、これからの人生を、自らの内なる超人、人間以上の何かと共存して生きていかなければならない。それは非常に不安定な、鋭い薄刃の上を歩くようなものかもしれないと思う」
「そうですね……それは非常に危険な賭けであることは、たしかでしょうね。でも、あなたは迷いながらも、本心は目覚めさせたいのですね」
「ああ。たしかに迷いはした。なにも今でなくとも良いのではないか。時期が早すぎるかもしれない、と。内なるモンスター、もしくは超人と折り合うには、まだ若すぎる。アーディスは、やっと十六になったばかりだ。よりによって一番多感なこの時期に、そんな危険を冒すこともないだろうと。でも、だからこそ今なのだという気もしているのだよ。大人になってからでは、遅いのかもしれない。私の長年の夢が実現されるのを見たいのなら、これが唯一のチャンスだ。私の職業魂がそう囁き、実現を渇望している。だからこそ、私は今ここにいるんだ」
「そうですか……」
吐息と一緒に言った後、ローレンスさんはしばらく黙った。
「僕もにわかに興味が湧いてきましたよ。怖いもの見たさ、でしょうかね。そう……本当にそうなったら、怖いでしょうからね。それに、成功しても失敗しても、アーディス君本人にとっては、今までの自分ではいられなくなるわけですから。あの子は十六になったばかりで、これからの人生はまだ長いんです。あなたが言われるように、過去の逆境を乗り越えて、今の彼があるのだとしたら、せっかくここまでの安定にたどり着いたのだから、そのまま行かせてやりたい、幸福に。僕はそう思います。あなたの気持ちもわかるのですが、申し訳ないけれど、賭けに外れることを僕は願いたいです。彼のためにバンドのために、そして音楽業界全体のためにも……未踏の領域とは、業界にとって一つの理想であって、なおかつ決して冒してはならないタブーなのですから。今のままでも、彼らは相当に成功できると思います。この時代でもミリオンを充分狙えるし、それ以上の人気アーティストに、きっとなると思います。精神破綻の危険を冒してまで、あえて業界のタブーを破らなくても、充分に……」
「そうだろうな。君の言うことは、おそらく正しい。マネージメント側の望みも、きっとそうなのだろう。限界の壁を突き破ってモンスターになることなど、望んではいないはずだ。ましておや、失敗のリスクを考えると……そうだな。確率の悪い危険な賭けには、負けた方がいいのかもしれない。だが……」
――これは、僕が話に入れる雰囲気じゃない。ついずっと聞いてしまったが、やっとそう気づいて、僕はテントの奥に戻り、再び寝袋に潜り込んだ。二人の講師たちの話し声はまだかすかに聞こえてくるが、もう何を話しているかはわからなかった。僕は寝袋ごと窮屈な寝返りを打ち、今聞いたことを考えた。
未踏の領域へ行けるアーティスト? それは、すべてのミュージシャンの夢? そんな大きなスケールでの成功なんて、まったく想像したことさえなかった。僕らがそんな可能性を秘めているなんて……いや、僕ではない。僕の中にモンスターはいないと、ローレンスさんもはっきり言っていたし、自分自身でもそんなものが隠れているとは、とても思えない。でも、エアリィにはそれがある……? わからない。エアリィはたしかに人間離れした能力の持ち主だし、そのポテンシャルの底は、なおうかがい知れない。彼はまだ音楽においては、ほんの一部分しか自分の持てる力を解放していない――それは僕もずっと感じていた。もし彼が力をフルに解放したなら、僕はとても太刀打ちできないのでは。勉強やスポーツやゲームではすでに次元が違いすぎて、とても敵わないのと同じように。
彼が転入してきたハイスクール最後の一年間で、僕が彼の上を行けたことはない。僕はそれまでも学年主席ではなかったけれど、ベスト5、悪くても10位までには、ずっと入っていた。でもエアリィは転入してきてからずっと一位をキープし、卒業試験も主席だった。すべてフルマーク――満点で。スポーツテストも主だった分野で記録更新し、もちろん僕のスコアの遥か上。僕が彼に勝てたのは基礎体力や持久力系の、わずかな項目だけだった。テニスやボーリングや他のゲームにおいても、僕が彼に勝ったことは一度もない。ボーリングは記憶している限り、エアリィはストライク以外出したことがないし、テニスも完全に遊んでいる感じでいながら、ポイントを落としたことはない。他のスポーツでもそうだし、ゲームにおいても(トランプでもモノポリーのようなボードゲームでも、コンピュータ・ゲームでも)同様だった。とにかく、異次元の強さなのだ。それなのに音楽の分野まで、完全に水を開けられることになるとしたら――。
今のままで、ずっと行けたらいいな――ふと、そう思った。今の快適なパワーバランスを崩したくない。エアリィと僕とは、多少彼の方が優性であるにしても、まだある程度は対等なフロントパートナーだ。お互いに力が接近している方が、刺激しあって高めあうことができる。こんどの集中練習のおかげで、みんなパワーアップできたし、このまま行っても、十分成功できるのではないか。ローレンスさんもそう言ってくれた。でも――それは僕のわがままだろうか? 対等でなくなるのが、置いて行かれるのがいやで、パートナーの発展を妨げることを願うのか? それは卑しいことではないか? いや、それだけではない。それ以上に、僕は漠然とした恐れを感じていた。エアリィの内なる超人とは、いったい何なのか? モンスターなどという物騒な表現でしか言い表せないほど、それはとんでもないものなのか。彼の中に眠る巨大な何かが発動すること、それは僕らにとっても、何か非常に怖いことなのではないかと。
草のにおい。シュラフとマット越しに感じる、固い地面の感触。そういえば外で眠るというのは、生まれて初めてだ。やがて講師たちがテントに帰ってきた。その気配を感じてまもなく、僕は眠りに落ちていったらしい。
ここは……薄暗い洞穴のようなところだ。足元はごつごつした固い感触で、無数の小石が転がっている。そこに身を伏せながら、僕は外をうかがっている。湿った土の匂いがする。わずかに開いた隙間から、上空を何機も飛行機が飛んでいくのが見える。みな戦闘機らしく、時折爆弾を落とし、それが建物や地面にぶつかっては、激しく火柱をあげる。
どうやらここは防空壕らしい。中には二十人ほどの人たちが、肩を寄せ合って避難しているようだ。僕のそばには、三人の女性がいた。母と妹、それにもうすぐ結婚するはずの、僕の婚約者らしい。母と妹は、僕自身の母親やジョイスとははっきり別人だ。小柄で黒髪に半分白いものが混じり、口元や目じりにくっきりと皺がきざまれた母親は、まったく見覚えのない女性だ。黒い髪を後ろで一つに束ね、大きな灰色の瞳に、美しく整った顔立ちの妹の方は、どこかで見たという覚えがかすかにある。でも、どこでだったかは思い出せない。夢の中では、彼女たちは僕の肉親だと確信していた。
恋人の顔には、はっきりと見覚えがあった。未来世界で見た夢に出てきた女性、ステラではないがステラだと感じた、金髪のあの女性だ。怯えた小鹿を思わせるような、見開いたブルーグレイの瞳。長い髪を編んで頭に巻きつけ、茶色更紗のワンピースを着ている。白い首筋に、小さな赤い蝶のようなあざが見える。
僕たちは最後にここに避難してきたから、入り口付近にいた。少しでも女性たちを奥に入れようと、僕は一番入り口に近い場所に位置を占めた。妹も青ざめた顔ながら、気丈に僕の横に出てきて、壕の入り口をふさぐような形で背を向けて座り込むと、一歩奥に入ったところにいる母の手を握っていた。僕も同じように、母と並んで座っている恋人の手をしっかりと握った。
でも、ここはどこの国の、どこの地方なのだろう。戦争をやっているようだが、いつの戦いだろう。わからない。わかっているのは、そこに避難している全員が、ひどく怯えているような感じだったことと、僕は絶望と怒りが交錯したような感情を味わっていることだ。その僕は、ここに避難するまでのことを思い返していた。家は焼けてしまった。年老いた父はそこで倒れた家具の下敷きになり、逃げられずに死んだ。一番上の兄は、前線で戦死した。妹の若い恋人も、出征した一年後に乗っていた船が撃沈され、やはり戦死してしまった。僕も一度は戦いに出た。でもすぐに病気にかかり、除隊されたのだ。上官から『まったく情けないことだぞ』と、軽蔑を込めて言われた。でも、そのことを僕自身は憤っていただろうか、恥じていただろうか。いや、むしろほっとして、喜んでいた。僕は戦いたくない。たとえ見知らぬ敵とはいえ、他の人間を殺すのはぞっとするほどいやだった。
爆撃がだんだん近くなってきた。激しい衝撃音、振動と熱が伝わってくる。恋人が怯えたようにすり寄ってくる。僕は両腕を回して抱きしめ、それから再び彼女をもとの位置に座らせると、その両手を握った。
「大丈夫だよ、僕がついている」
でも、声がかすかに震えるのを止められない。つないだ手が震えている。外からの光――爆撃の炎に微かに照らされて見えるその顔は、赤みがかかったその光の下でさえ、青ざめて見える。僕は握りしめる手に力を込めた。この人を守らなければ。傍らで、妹と母が抱き合って祈っている。僕も我知らず祈る。
すぐ近くで、何かが破裂したような衝撃音が響いた。次の瞬間、僕と妹の間を通って、こぶしよりふた周りほど大きい石のようなものが、壕の中にころころと転がるように入ってきた。石? いや、あの形は違う! 不発弾だ! そう認識したとたん、突然それは爆発した。あたりに赤い閃光が飛び散った。世界がジグソーパズルのピースのようにバラバラにはじけ飛び、僕たちの上に落ちかかってきた。世界が真っ白になり、意識が途切れた。
気がついたら、すっぽりと土の中に身体が埋まっている。爆発の衝撃で、天井が崩れてきたらしい。うつ伏せになった状態で、顔の下にはわずかな空間があった。でもこのままでは、窒息するのは時間の問題だ。出なければ――誰かが僕の服をつかむのを感じた。他にも誰か生存者がいるのだ。僕にはその手を取ることはできないが、離さないでくれ――そう念じながら息を止め、身体を動かそうとしてみた。土が動いた。思ったより軽いのかもしれない。それほど深くは埋まっていないのかも――僕は身体をよじり、四方にぶつけた。左側なら動ける――左手で土をかき分け、身をよじるように、その方向に進んだ。そして転がるように身体をぶつけると、周りの重さがなくなり、空気を感じた。
僕は目を開けた。夜空が見えた。飛び去っていく何機もの戦闘機が見えた。僕は大きく息をついた。ずっと僕の服をつかんで一緒についてきていたらしい誰かも、その後から転がり出て来た。妹だった。顔も洋服も体中土で汚れ、地面に両手をついてせき込んでいたが、生きていてくれた――彼女は顔を上げて僕を見た。その目に喜びの色が上り、なにかを言いかけたが、口に入った土に、またむせたようにせき込んでいる。僕は無意識に左手を伸ばし、妹の背中を軽く叩いた。
見ると、壕の入り口は土砂で埋まっていた。でも僕たち二人が転がり出た分、軽くなっているはずだ。掘り出せれば、助けられるかもしれない。母と、そして婚約者を――そう、彼女はどうしたのだろう。埋まってから僕は左手だけを使って土をかき分けていたのは、左側に進んでいたからと同時に、右手に婚約者の手を握りしめていたから。その感触をずっと感じていた。だから彼女も僕と一緒に来てくれているはず――混乱した心の中で、僕は漠然とそんな思いを抱いていたのだろう。改めて僕は周りを見回してみた。彼女はいない。どこへ行ったのだろう。まだ、この中なのか――でもそれなら僕はどうして、彼女の手の感触をまだ感じているのだろう。
僕は改めて、自分の右手を見つめた。そう、まだ僕は恋人の手を握りしめていた。彼女の細い指も、僕の手をきつく握っている。小さなサファイアの婚約指輪が、その薬指に輝いている。でも、手首から先はなかった。僕は彼女の名を、狂ったように絶叫した。
「シルヴィアー!!」
衝撃で飛び起きた。実際、本当に飛び上がったのだろう。寝袋ごと上体を起こした姿勢で、僕は目が覚めた。身体中が汗でびっしょり濡れている。夢だ。戦争なんて遠い世界の物語で、自分には直接関係のないことだと思っていたのに、なんてリアルな怖い夢を見たのだろう。テントの床が堅かったせいだろうか。それに、また同じ名前を呼んでしまった。未来世界の夢で見たステラに呼びかけた名前、シルヴィア。その女性はいったい誰なのだろう。
まだ真夜中だ。もう一度眠ろうと思ったが、なんだか妙に目がさえて、僕は寝袋を抜け出し、再び起きあがった。吊り下げられたランタンのかぼそい光が、テントの中をぼおっと照らしている。その光で周りを見回すと、講師たちは眠っていたが、隣で眠っているはずのエアリィの寝袋は空だった。
僕も外に出ていった。日中は暑かったが、夜の風はかなり涼しい。空には一面の星、あと少しで満月になる月が、西の空に、かろうじてかすかな光を投げている。足には、柔らかい草の感触。ふと思い出した。新世界に飛んだ時の、最初の印象を。どこまでも続く草原と一面の星のほかは何もなく、ただ静寂のみがあったあの場所を。
思いに耽りながら歩いているうち、僕はふいに何かにつまずいて倒れた。同時に、下から声がした。
「痛っ!!」
僕はあわてて起きあがった。すぐ隣で、誰かがむくっと起き上がったような感じがしたが、月明かりだけで、まだ暗闇に目が慣れていない僕は、何が何だかわからない。ぽっと明かりがついた。エアリィだった。彼は携帯用ランタンを持って外へ出て行ったようだが、途中で消したのだろう。彼はそれを掲げ、僕を見た。
「なんだ、ジャスティンか。びっくりしたぁ!」
「ごめん。でも、こっちも驚いたよ。つまずいたのは悪かったけど、おまえもこんな所に寝てるんじゃないよ。暗いから、見えなかったんだ」
僕は草の中に座りながら苦笑した。
「だって寝ながら見ると、空が高く見えるから。それに、こんなとこに人が歩いてくるなんて思わなかったし」
彼は空を見上げた後、携帯用ランタンをつけたまま地面に置き、僕を振り返った。
「ジャスティンは、なんで起きてきたのさ。テントじゃ、よく眠れない? それともトイレ? でもここのトイレ、反対側だよ。すごく遠いし。灯りも持たないで出たら、迷子になるんじゃない?」
「ああ、忘れてたよ。それに、違う、トイレじゃないんだ。眠りが浅いのはたしかだけどさ。すごく怖い夢を見たんだ。戦争の夢で、防空壕の中に爆弾が転がり込んで、爆発するんだ。僕は家族と恋人らしき人と避難していたんだけれど、爆弾が爆発して、生き埋めになって。それで僕は、恋人の手だけを握っていたんだ」
僕は詳しい夢の内容を話した。
「手だけって……本当に手だけってこと? 他のパーツは? なんか怖いな」
「そうなんだよ。それで飛び起きてしまったんだ。なんだか寝つかれなくなって、まわりを見たらおまえがいなかったから、僕もちょっと外へ出てみたんだ。おまえはどうして、ここへ出てきたんだ? やっぱり目がさえたのか?」
「うん、僕も夢見て。ジャスティンの夢ほど衝撃的でも怖くもないけど、たぶん……頭の上には星空が広がっていて、何もない空間に立っているんだけど、いつの間にか足元も抜けてて、宇宙空間の中に一人で立ってるような視点だった。それで、内側から湧きあがってくるように、声が聞こえるんだ。女の人の声が。そう、いつか未来世界で、帰る二日前の明け方に見た夢と同じ声だった。その人が言ってたんだ。『時は満ちてきています。思い出して。あなたはわたしで、わたしはあなたなのだということを』って」
「それは……どういう意味だ?」
「よくわかんない。わかんないけど、内側からわーっと怖さの感情がわきあがってきた。それで目が覚めたんだ。そんなにショッキングな夢ってわけじゃないのに、起きたらすごくどきどきして。それで寝れなくなって、外へ出てみたんだ。星が見たくなって。ほら、よけいな光がこのあたりはないから。きれいだよね、ほんとに。都会じゃ、光に邪魔されて、こんなに見えないよ。もう、これも消していいかな」
彼は手を伸ばし、ランタンの光を消した。再び闇があたりを包んだ。そして頭の上の、降るような銀のスクリーンと。僕も空を見上げ、感嘆の気持ちを覚えた。
「そうだな。本当に降るような星空だ、って、ちょっと陳腐な表現だな」
「うん。使い古されたフレーズだけど、なんかわかる。雨になって降ってくるとか、黒いキャンバスに、いっぱい光のかけらを撒いたみたいだとか」
「歌詞に使うか? 『星空の歌』とか」
「いや、それはさすがに、ちょっとクサイ気がする」
「それは否定できないな」
僕も笑って肩をすくめ、きいた。
「でもおまえ、星を眺めるのが好きなのか? 新世界でも、そんなことを言っていただろ。彗星でも発見する気か?」
「彗星じゃないよ。けど、探してるのは確かなんだ。僕の星を」
「えっ! 本当か?! おまえ、やっぱり結構センチメンタルなんだな。僕の星を探すなんて、まるでティーンズノベルの世界だぞ」
「えー、なんか誤解してない、ジャスティン? ほら、あの星が僕らの希望の星だ! とか、あれを二人の誓いの星にしよう、なんて状況を想像してない? そう言うんじゃなくてさ。それに、具体的な何座の何星っていうような、目に見える星じゃないんだ。この空のどこかにあるはずの、見えない星を探してるんだ」
「見えない星?」
「そう。見えなきゃ探せないはずなんだけど、小さい頃から夜空を見るたびに思ってたんだ。見えないけど、どこかに僕の星があるって。自分でもはっきりわかんないんだけど、なぜかいつも、そんな気がしてたんだ」
「見えざる星を探す意味がわからなくて、それでも探しているって? それじゃ、本当に見つからないぞ」
「見つけることは期待してないよ、僕も。でもさ、見つけられなくても、星空を見てると、なんとなく落ち着くんだ。ちょっと切ない気分にもなるけどね」
「僕は北極星が好きだな」
空を見上げながら、僕は言った。
「変わらないからさ。いつも、どんな時も、変わらず、道しるべになってくれるから」
「ジャスティンらしいなぁ。けど、宇宙に変わらないものなんて、何もないんだよ。北極星だって、いつまでもこの天の中心ってわけじゃないじゃない。あと何万年かすれば、別の星が新しい北極星になるんだから」
「それはそうだろうけどなあ。何万年先だろうが。まぜっかえすなよ、エアリィ」
僕は肩をすくめた。それからしばらくの間、お互いに黙って草の上に座り、夜空を見上げていた。西の地平線上に月は沈んでいき、風がときおり吹いてくる。草の鳴る音がかすかに聞こえる。あちこちで虫の鳴き声がする。あとは静寂。空は広く、大地も広い。改めてそう感じた。自然の中で僕たちは、なんて小さな存在だろうと。西部平原あたりでもやはり感じられるだろうが、この異郷の地での思いは、また別種のものだ。
言葉が思わず、湧いてくるように漏れた。
「なんだかこんな中にいると、細かいことで悩むのは、ばからしくなるな」
「うん。それもまあ、使い古された言葉だけど、真実かもね。自然の中じゃ、僕ら一人一人の存在なんか、すっごく小さいかも。何十億の中の、一つの命。この瞬間にも、この世界の中で、誰かが死んで、誰かが生まれて、誰かが嘆いていて、誰かが喜んでる。でもそれは、何十億分の一でしかない。この地球も、宇宙に存在する一千億の銀河のうちの一つ、しかも、その中にある一千億の星の一つに過ぎないわけだし」
エアリィは空に目を向けたままの姿勢で言った。僕も暗闇に目が慣れてきたので、星明りの下、薄いシルエットのようにその姿が見える。その髪はかすかな夜の光の下で、銀色がかった輝きを放っていた。
「天文学者が日常生活に興味なくなるのと同じ原理だな、それは。でも、それを言っちゃうと、おしまいだぜ」僕は肩をすくめた。
「まあね。でもさ、何千兆何千京、いやたぶんもっとたくさんある星の中でも、地球は『生命の星』だから、たとえその『生命の星』が他にいっぱいあっても、それぞれにユニークで、貴重なんだと思う。それに地球にはたしかに数十億の人間がいるけど、数が多いから一人ひとりは軽い、とは思えないんだ。どういう風に生きたかは、その人にとって、きっと価値を持つはずだって。まあ、運命って時々結構残酷なこともするけど、でも嵐の中を生き抜くことが出来れば、その魂は大きく成長できるって。これはマインズデールのシスターの受け売りだけどね。知ってる? お祖父さんの育ての親だった、マインズデール・カトリック教会のシスター。部屋の写真でも見たことあると思うけど、その人が母さんの後見人でもあるんだ。母さんは実のお母さんをまだ小さいころになくして、それからずっとシスターに育てられたから。十六歳でニューヨークにいくまで。僕も六歳くらいまで時々、二ヶ月とか三ヶ月とかだけど、母さんに仕事がある時、お世話になってたんだ。今はもう八十すぎのおばあちゃんなんだけど、まだ元気なんだよ。で、彼女が言ってたんだ。試練は神に試されているのだと思って、がんばりなさいっって。リード父さんが死んで何ヶ月かあとに、しばらく教会に預けられてた時に。僕もたしかにそうだなぁって、妙に納得してた部分もあったんだ」
「ああ、カーディナル・リードさんか。おまえのお母さんの、最初の結婚相手だっけな」
僕はモータースポーツのことはあまり詳しくないが、ジョージは好きで、よく知っている。カーディナル・リードという人は、九十年代後半に活躍していたインディのレーサーで、何処までも速く走ることに喜びを感じるという、純粋なレーサータイプの選手であり、カリスマ性もあったため、かなり人気だったと言う。だが二一世紀に入った最初の年、シリーズチャンピオンを決めた次のレースで、クラッシュして死亡。彼はチャンピオンが決まった後もアグレッシブな走りを貫き、その結果命を落とした、それがかなり伝説的なステータスをもたらした、と、ジョージが話していたことを思い出した。そのカーディナル・リードさんはエアリィのお母さん、アグレイア・ローゼンスタイナーさんと結婚して、一年半の幸福な結婚生活を送っていたらしい。
「母さんとリード父さんは、ニューヨークで、二千年の二月に、スポンサーのパーティで会ったらしいんだ。それで、僕がもうじき四歳になるころ、二千年の六月五日だけど、僕はその三週間前から、マインズデールの教会に預けられていたんだ。母さんの舞台があったから。その日に迎えに来ることになってて、その時リード父さんと二人で来て、シスターに結婚の報告をしてた。知り合って四か月足らずの電撃結婚だったんで、シスターもびっくりしてた。でも、リード父さん、にこっと笑って、言ってくれたんだ。『やあ、僕が君のお父さんになることになったよ、よろしく』って」
エアリィは草原に視線を移したように姿勢を変え、しばらく沈黙した後、再び言った。
「リード父さんのことは、今でも大好きだよ。死ぬまでレーサーを貫いたとか、生まれながらのレーサーだとか、よく言われるけど、あの人はたしかに、そうだったと思う。とにかく、スピードにとりつかれた人だった。普段はいろんな意味で良い人だったし、僕にも良いお父さんでいてくれたけど、ハンドル握ると人格変わるタイプ。で、僕が『お父さんはいつも限界ぎりぎりを走ってるけど、どうして?』って聞いたら、言ってたんだ。『そうだな。スピードの限界を極めてみたいんだ。それは光だ。光の向こう側にあるものを見てみたい。それが僕の見果てぬ夢なんだ。いつかおまえが大人になって、もしレーサーになったら、この気持ちがわかるかもしれないな』って。まあ僕はレーサーにはならなかったし、まだ免許とってないから、スピードぎりぎりも試してないけど……」
「おまえはレーサーじゃないんだから、やるなよ。免許とっても。危ないからな。でも、光の向こう側を見てみたい、か。かっこいいな」
「でも、それで死んじゃったわけだし、それってホント、危ないエッジじゃないかなって思うんだ。だって、光速超えたら異次元だよ。現実にはありえないって点じゃ、あの世と変わらないと思う」
「ああ、まあ、それはそうだな……」
光の領域の先は、あの世か。ある意味、的を射たメタファーかもしれない。
「でも、おまえは……」僕はいったんそこでためらった。
「おまえは、スタンドで見てたんだろう、リードさんの最後のレースを。おまえはその時五歳で、お母さんと一緒に応援していたって……『妻子の目の前での事故だった』って、そんな記事を読んだ覚えがあるって、ジョージが言ってたけど……ショックじゃなかったか?」
「ショックって以上に、人生最初の衝撃だった、あれは」
エアリィは僕の方を見、微かに頭を振って答えた。
「あれはシーズン最後のレースで、来年はF1入りが決まってて……シーズンが終わったら、三人でカリブ海にクルーズに行こうって、レース前に言っていたんだよ。笑って。それが、あと三周ってところで車がスピンアウトして、壁に激突して、火を噴いて。何が起こったのか、最初は思考ストップ状態になって、次に思ったことは、これは悪い夢なのかなって。母さんの悲鳴が、今でも聞こえてくるみたいだ。リード父さんは、もういなくなってしまったんだってことが、信じられなかった。あっという間に……」
「そうか……」僕はあとの言葉が続かなかった。
「なんか命って、終わる時にはあっけなさ過ぎて怖い。その時、初めてそう思ったけど、後になって、また思い出させられたな。母さんとメイベルが死んだ時」
「メイベルちゃんっていうのは……もう一人の妹だったな。エステルちゃんの双子の」
「うん。そう言えば、母さんが亡くなった時、リード父さんが母さんを呼んだ、って言っていた人もいるらしいけど……でもたぶん、父さんはそんなことしないよ。本当に偶然が重なったっていうか、二人の宿命なのかな。もともと縁の深かった二人だったんじゃないかなって思う。リード父さんと一緒の時が、母さんは一番幸せそうだったって思えるから」
エアリィは言葉を切り、風で乱れた両サイドの髪を、両手で押さえるように後ろにやっていた。かなり風が出てきたようだ。僕も前髪がばさっと目にかぶさってきたので、手でどけた。彼は再び話し出した。
「あれは、僕の十三の誕生日から五日後の、六月十九日だね。あの日も、普通の朝だったんだ。いつもと変わりなかった。『いってらっしゃい、気をつけてね』って。それで、『学校から帰ったら、お父さんのお食事を温めてあげてね』って。継父さん、時々研究で徹夜してるから、朝寝て午後遅くに起きるって、わりと普通だったんだ。講義のない日は。その日は、妹たちのバレエ教室がある日で。玄関から振り返った時、手を振ってくれたのが最後だった。メイベルもエステルと二人で手を振って、『来月発表会なの。お兄ちゃん、絶対来てぇ!』って。そういうのって、ホント心の準備も何もないから、きついよ。僕は学校から帰って、継父さんに遅めのお昼を届けてから、友達の家に遊びに行ったんだ。その時まで晴れてたんだけど、途中で急に雨が降ってきて、帰るとき傘貸してもらって、帰ってきた時は六時近かったけど、まだ母さんたちは戻ってなかった。バレエのレッスンは五時に終わるはずだけど、買い物してるのかなって思って……それから三十分くらいたって、電話が来たんだ。警察から。それでも、エステルが助かったのは、救いだった。偶然、窓から外へ飛び出したらしいんだ。それで路肩の草の上に落ちて。チャイルドシートにちゃんと座ってなかったのが、かえって幸いするってのもあれだけど、おかげでたいした怪我はなかったんだ。医者が奇跡だって言ってたよ。心の傷の方は、部分的に記憶が飛んじゃうぐらい、大きかったんだけど」
「そうだろうなあ。エステルちゃんも五歳だったんだろ、その時」
僕は同情を込めて頷いた。そして、アグレイアさんの死亡記事を、新聞で読んだことを思い出した。その時にはただ、母が言っていたように『アリステア・ローゼンスタイナーの一人娘が事故で死んでしまった』という認識でしかなかったが。母はその時、やはり『前の旦那様に呼ばれたのかしら』というようなことを言っていた。その二ヵ月半のちに出会った新しい友の母であったことなど、その時には思いもしなかった。
「ああ、なんかこれって、身の上話になっちゃってるなぁ!」
エアリィは話の方向性に気づいたのか、少し照れたようなトーンで声を上げ、首を振った。「身の上話とか、一番話したくない話題なのに。でも、なんかすごく鮮明に……昔のことが上がってくる。意識に。なんでだろうな」
「思い出しついでに、聞かせてくれるとありがたいな、エアリィ。おまえ、トロントへ来るまでのこと、ほとんど何も話さないからさ。お母さんと妹さんの一人が亡くなったことは、おまえが話してくれたから知っていたけど、カーディナル・リードさんのことだって、『おまえのお母さんがあのアリステア・ローゼンスタイナーの娘さんなら、その人って、カーディーの奥さんじゃなかったか?! おまえはあの人に会ったのか? ってか、小さなアールって、おまえのことか?』って、ジョージが目を白黒させて言っていたくらいだからな。リードさんのファンだったから、彼のプライベートも知っていて……それで僕らも、わかったくらいだ。それに、そもそもアリステアさんの孫だっていうことも、おまえ自分からは言わなかっただろう」
「『Little Arele(小さなアール)』か……リード父さんやクルーの人たちが、そう呼んでたっけ」
幸せな、過ぎ去って取り戻せない時代を、懐かしんでいるような口調だった。
デビュー前、ファーストアルバムを作っていたころに、ジョージが古いモーター雑誌を持ってきたのを、僕も思い出した。その雑誌に写真が載っていた。長身で、均整の取れた身体を青いレーシングスーツに包み、少し長めに伸ばした茶色の髪と整った顔立ちのカーディナル・リードさん、その隣に立って笑みを浮かべた金髪の美しい女性、そして二人に手をつながれてにっこり笑っている、四歳くらいの子供。男の子か女の子かはわかりづらいが、この子の髪の毛に光が当たって、まるでそれ全体が輝いているように見える。陳腐な表現だが、まるで天使のような子だった。
『こうしてみると、たしかに面影あるな、おまえ』
ジョージがその写真をエアリィの横にかざして見比べながら、言っていた。
『あー、懐かしい! 2001年初戦のピット前で撮った奴だ!』
エアリィはその雑誌を見て声を上げたが、一瞬微妙な表情になったことを覚えている。微かな悲しみのような、寂しさのような。そこに写っているリードさんも母親も、二人とももうこの世にいないのだから、当然なのだろう。本当にその表情は一瞬だけだったが、僕ははっとしたような感じを受けたのだった。
『大切な人を失くしたことならあるよ、何人か』
彼は今年の初めに、そう言っていた。僕が『でも、おまえだって、もし大事な誰かをなくして、おまけに仕事が不本意だったら、多少は落ち込まないか?』と聞いた時に。
わかっていても良かったはずだ。少なくともアーディスは、大事な人を三人なくしている。母親と妹と、リードさんと。それはわかっていたのに、どうして僕は暗に(おまえにはわからないだろう)的な問いかけをしてしまったのか。僕の精神状態が悪かったとはいえ。エアリィがロビンたちの事故の時、警察からの電話と聞いて、一瞬動揺した理由もわかった。母親と妹が死んだ時のことを思い出したのだろう。
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