Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

二年目(2)




 数日後、カウンセリングを担当した医師も、こう保証してくれた。
「少し不安症の傾向は認められるけれど、病的なものではないし、精神的な異常はまったくない。かなり内気だが、健全な若者だよ。自信を喪失したのがきっかけだろうが、今は建設的な考え方に向かっているようだし、家族や友人たちとの信頼関係も良好と見うけられる。また繰り返す恐れは、ほとんどないと言って良いね」
「ああ、よかったです。ありがとうございます」
 僕はロスに留まり、毎日病院に顔を出していた。カウンセリング当日も。そして医師からこの言葉を聞き、安堵していた。ここでは自殺未遂者は、この保証がなければ退院もかなわない。患者のプライバシーにかかわることなので、基本的に部外者の僕には、カウンセリングの内容を詳しく知ることは出来ない。でもきっと、このメイヤー医師のカウンセリングでも、ロビンは僕に言ったことをすべて正直に打ち明けたのだろう。未来への恐怖以外は。そして僕にしたように、将来への希望をはっきり言ったに違いない。
「もう一度退院の時にカウンセリングをするけれど、それで大丈夫なら、晴れて退院だね。ところで、君は患者の一番の親友らしいね」
「ええ、そうです」
「すべてを理解しあえ、信頼できる友は貴重なものだよ。特に君は彼にとって、自分のより良き分身とみなしている感じだしね。できればずっと、そうあってもらいたいね。ところで君の名前は、ジャスティン・クロード・ローリングスさんといったね。患者も君もカナダのトロント出身で」
「ええ、そうですけれど」
「いや……もしかしたら君は、セント・テレジア総合病院院長の、ジョン・クロード・アーヴィングさんを知っているかい?」
「あ、父ですけれど……」
 メイヤー医師は一瞬驚いたように目を見張り、ついで僕の手をとった。
「おお、君はやっぱり、アーヴィングの息子さんか!」
「父をご存じなのですか?」
「ああ。昔、マッギル大学で一緒に学んでいたんだ。僕らは大学の寮のルームメイトで、親友だったんだよ。いや、これは奇遇だね。君は若いころのアーヴィングの面影があるんだ。それに彼の奥さんと同じ姓で、彼と同じミドルネームだから、つい聞いてしまったのだが。そうか、やっぱり息子さんだったのか」
 メイヤー先生は僕の顔を、改めてじっと見ているようだった。
「うん。髪の色や顔立ちが、よく似ているよ。君の目は、アーヴィングの母親似だね。あの人も、きれいな緑の目を持っていたんだ。一度休暇中に一週間ほど、彼の家に遊びに行ってお世話になったことがあるが、その眼がとても印象的な、美しい人だった。僕の母親より、十歳くらい若かったしね。アーヴィングも目の色は父親譲りだが、他は母親に似ていたから、君は彼より、もっとその血を受け継いでいるのかもしれないね。いや、アーヴィングは医師としても有能だったが、若い時にはずいぶん好男子でね。女の子によくもてたものだ。君もきっとそうなんだろうね。彼はトロントで勤務していた大病院で、院長先生の一人娘と恋に落ちて結婚し、戸籍の上では奥さん方に改姓したが――そうしないと、子供たちが奥さんの姓を名乗れないからね。でも仕事の上ではずっと自分の旧姓を使い続けていて、今はそこの院長だという話を聞いていたんだよ。やっぱり、そうだったのか。もしやと思ったんだが。ここ十年ほど、すっかりご無沙汰だが、彼は元気でやってるかい?」
「ええ! じゃあ先生、あなたは学生時代、父の親友だったのですか?」
「そうだよ。私はノヴァ・スコシアの生まれなんだが、マッギルを卒業して、すぐLAに来たんだ。こっちで結婚して、もう三十年以上ここに住んでいるがね」
「そうなんですか。ええ、父は元気でやっています。院長になっても、外来と病棟、両方を受け持って、忙しい人ですよ。経営の方は、事務長に任せっきりで。医者という仕事が好きで、誇りに思っているって、よく言っています。でも兄は、自分は医者には向いていないって言ってコンピュータ関係の仕事をしているし、僕もトロント大の医学部へ行く予定だったんですが、結局行かないでミュージシャンになってしまって、父には親不孝をしてしまいましたけれど」
「そうか。アーヴィングらしいな。彼ほどの熱意と精力を持った医者を、私は知らないよ。もっとも、あのおかたい頑固者アーヴィングの息子さんの一人がロックミュージシャンとは、たしかに少々意外だったがね」
 メイヤー先生はにやっと笑っている。
「だが、そういう点は、私もたいして変わらんよ。うちのひとり息子は、ハリウッド志望だからね。そのうちに有名なシナリオライターになるんだと、夢みたいなことを言っているが。まあ、子供の進路まで親は口出しできないからね。頭の痛い問題だよ」
「そうなんでしょうね……」
 僕は苦笑するしかなかった。そして言葉を継いだ。世間の狭さに驚いたが、父の友人だったら頼みやすい。
「あの……ドクター、ロビンがこんなことをしてしまったと……できれば誰にも知られたくないんです。マスコミはもちろんですが、家族や友達にも。それはできますか?」
「医師には守秘義務があるからね。看護婦も無論、そうだ。だから我々の側から、外部の連中にその事実を告げることはないさ。ただ、患者の家族に関しては、当然別だがね。今回は患者の家族が来ず、君がその家族に依頼された看護人ということだったから、家族に準ずるものとして報告したわけだが、もちろん最優先は患者の家族だ。もし問われたら、断る権限は我々にはないんだ」
「そうなんですか……」
「ただ、カウンセリングに患者の家族が来なかったのは……もしかしたらご家族は、まだ知らないのかい? 彼が自殺未遂したことは」
「ええ。でも彼の家族と昔からの知り合いで、彼のことを頼まれたというのは本当です」
 ロビンに請われたので、僕はスタンフォード家には何も知らせなかった。担当の医師には、『僕は彼の家族と懇意だから、代わりに報告しておきます』と言っておいたが。『今いろいろと忙しいらしいので、僕が彼のことは引き受けたと伝えたら、お願いしますとのことでした』とも言った。後者の方は嘘ではない。そのいきさつを、僕は正直に話した。
「整形外科も、いろいろチェックが甘いね」
 メイヤー先生は苦笑を浮かべていた。そして、しばらく考えているように黙って僕の顔を見た後、再び口を開いた。
「私は何も聞かなかったことにしよう。家族に問われなければ、あえて語ることもない」
「ありがとうございます!」
 僕は思わず医師の両手を取り、頭を下げた。あとは整形外科の担当者がその結果をスタンフォード家に報告しないよう、僕がメイヤー先生から聞いた話を報告しておいたと、またもや嘘をついた。すっかり共犯者だが、乗り掛かった舟だ。スタンフォード夫人には、少しロビンが精神不安定になってカウンセリングを受け、その分退院が遅れるけれど、今は大丈夫、と電話で報告した。ちょうどスタンフォード家では、長兄ブライアンの奥さんが最初の子供を流産してしまったらしく、家の中があわただしいので(スタンフォード夫人がロビンの看病途中でトロントに戻っていったのも、そのためだった)、ロビンのことは僕が面倒を見るという申し出を、感謝して受けてくれていた。往復の交通費とロサンゼルスでの滞在費はこちらで払うから、退院までロビンをよろしく、と夫人は本当にありがたそうな口調で言っていたものだ。
 それで僕は家族代理として、退院までロビンの病室に通った。退院前のカウンセリングでも、無事『もう繰り返す恐れはない』と判定された。その翌日、トロントからスタンフォード家の副執事さんがやってきて、諸手続きを済ませた。胃洗浄という処置項目に、真相を知られはしないかとびくびくものだったが、副執事さんは領収書にちらっと眼を走らせた後、表情を変えずに書類をクリアファイルに入れ、アタッシュケースに収めていた。そして『ジャスティン様、本当にお世話になりました』という言葉とともに、交通費とロサンゼルス滞在費用にしては多いのでは、というくらいの金額が入った封筒を渡された。そして三人で、ファーストクラスを使ってトロントまで帰った。『ロビン坊ちゃまは、まだお身体が弱っておられるから』らしい。僕にとっては、初めてのファーストクラス経験だった。
 家に帰ってきたロビンは、腕の骨折が完治し、医師の許可が下りるとすぐに、再びベースを取り出して毎日練習に励んでいたようだ。僕も時々彼の家に行き、一緒に練習をした。そして聞いた。「結局、あれは知られずにすんだのか?」と。
「うん。お祖父さんと父さんには聞かれたけれど、薬を間違えて飲んだって言ったら信用してくれたよ」と、ロビンは答えていた。うちでは間違いなく、それで納得はされないだろうけれど、彼らも知ってか知らずかわからないが、それ以上触れないでいたようだ。そしてジョージやほかの家族には、何も言わないでくれたらしい。
 そのころにはジョージやミックもすっかり本復し、練習を再開していた。僕もよけいなことは考えないよう、毎日無心にギターを弾き続けた。することがなかったせいもあるし、僕自身もう一度自分と音楽を、しっかりと見つめ直したかったからだ。

 五月上旬のある日、実家に帰っていた僕の携帯電話に、ロブから連絡がきた。
「ジャスティン、悪いんだが、マネージメント事務所に来てくれないか。協議しなければならないことができたんだ」
「ああ、別に予定はないから、良いけれど。今からかい?」
「いや……明後日の昼過ぎくらいでいい。エアリィが一昨日からボストンのお継兄さんのところに行っていて、明日の夜帰ってくるらしいから。まあ、おまえたち別々に話をしてもいいと思ったんだが、ことはバンドの将来に関わるからね。おまえがその日でいいなら、ほかの三人にも連絡しておくよ。当事者だけでなく、やはり全体の問題だろうからね」
「どういうことだい、ロブ?」
 バンドの今後を協議するというにしては、なんだか変な言い方なのが気にかかる。
「詳しいことは、その時に話すよ」
 ロブはそれだけ言った。

 二日後、再び顔を会わせた僕らバンドの五人は、マネージメント会社の一室、会議室の椅子に座り、ロブと社長氏に向きあった。コールマン社長はテーブルの上に置いた書類に目を落としてから、僕らを見、口を開いた。
「君たちを召集したのは、ほかでもない。今後のことを協議したかったからだ」
「すみません、本当にご迷惑をおかけして。せっかくのプロモーションツアーを、三か月もしないうちに終わらせてしまった上、こんなにブランクを作ってしまって、申しわけありませんでした」
 ミックが僕らを代表して頭を下げ、謝った。
「まあ、それは君たちのせいではないんだ。しかたがあるまい。運が悪かったんだよ」
 社長氏の口調は穏やかだった。そのまなざしも。ついで少しだけ難しい顔をした。
「だが、たしかに痛手には違いない。プロモーションがろくにできなかったことも、影響しているのだろう。新作は初週こそ一位を取れたが、それは前作の貯金だ。そこからの伸びは、かなり弱い。デビュー作の半分くらいの売り上げで、終わりそうな感じなんだよ。まあこのご時勢に、三十万以上売り上げられたら成功とは言えるが。それに、シングルもヒットはしているが。だがデビュー作で成功した新人で、次回作が前作の売り上げより半減したバンドは、まず十中八九衰退していく。そういう点で、君たちは結構難しい局面にきてしまったんだ」
「ええ。わかります」
 僕らはみな、いっせいに頷いた。
「それに、あのアルバムは、少なくとも全米で五十万枚くらい売り上げなければ、我々にとって赤字になる。アドバンス以上に、あのプロデューサーへのギャラがかかってしまったからね。でも、今のままでは間違いなく赤字だ。それに、君たちはあのレーベルと契約した時のノルマ数字を覚えているかい?」
「全米で、三枚合わせて二百万。CD実売と、ダウンロード販売を含めて。だから、え、けっこうきつくない? って思ったんだけど、まあ、結果が出てから考えればいいやって思って」
 エアリィがちょっと肩をすくめ、答えた。
「そうだね。それで今のところアメリカ市場のみで、ファーストが七十万、セカンドが三十万。そうすると、残りは百万だ。それを次回で達成しなければならない」
「あと百万……ですか?」
 僕は改めて驚きを感じ、思わず呟いた。最初のノルマ数字はたしかに高いと思ったけれど、それほどまでに届かないとは思わなかった。でも現実には、恐ろしく高い壁だ。あの時には半ば浮かれていて、そこまで思う余裕がなかったのだが。
「そうだ。プラチナディスクだ。そのレベルの数字が必要なんだ。あそこは新人と契約する時には、A、B、Cと三つの条件を分けてオファーしてくる。君たちはAオファー、アドバンスも原盤率も、ノルマも最高レベルだ。つまり、それだけ相手も期待してくれたわけだ。そして、アルバム三枚分までは待ってくれる。私は君たちがそこを選んだ時、そのノルマの高さだけは警告しようかと思ったが、百パーセント無理だとも思わなかったのでね。君たちなら、あるいはやれるかもしれないと」
「もしそのノルマが達成されなかったら、僕らはレーベルをクビになるのですか?」
 ミックが心配げな口調で聞いている。
「そうだね。その次からは、新しいところを探さなければならなくなるだろうね。まあ、贅沢を言わなければ、引き受けるレーベルはあると思うが、数字にもよるだろう」
 社長氏は首を振り、デスクの上に目を落として、広げてある書類をチラッと見た。その後、再び目を上げて言葉を継いだ。
「だがノルマ自体は、非常に厳しい数字だ。そしてだ、その間に移籍話が持ち上がってきた。引き抜きといっても良いが」
「引き抜き……?」
 僕らは当惑気味に、顔を見合わせた。
「そうだ。まずは君だ、ジャスティン・ローリングス君」
 社長は僕に目を向けた。
「君にスティールローザからオファーがきた。彼らとは去年の夏、一緒にロードしたから知っているだろう。十数年前『ダブル・イン・ミラー』のメガヒットを飛ばし、それ以後もコンスタントに作品をチャートの上位に送りこんでいる。そこのギタリストの一人が、最近脱退した。それで彼らは、君に白羽の矢を立てたらしいんだ。若く、テクニックとフィーリングがあって、ヴィジュアル面も悪くないギタリストが欲しい、とね。君のことはよく知っているから、オーディションはいらない、と言っている」
「ええ?」
 僕は思わず言葉を失った。普通のミュージシャンなら、それだけのビッグネームから誘われたら、夢のような話と躍り上がるかもしれない。しかもバンドは難しい局面に来ていることは、否定できないのだから。でも、僕は当惑しか感じなかった。
 彼らがそれだけ僕を評価してくれているのは、もちろんうれしい。それにスティールローザのメンバーたちは、二ヶ月半一緒にツアーをしていたから、知らないわけではない。ちょっとリーダーさんは気難しそうだが、ドラマーさんは気さくだったし、抜けた方でないギタリストさんはひょうきんな人だった。基本、わりと良い人たちだと思う。でもバンドを抜け、みんなと別れて彼らの一員になるなんて。そんなことは考えられない。僕らはエアレースとして、アイスキャッスルでコンサートをしなければならない。仮にその条件がなかったとしても、他のバンドへ移籍するなんて考えたくない。あの人たちは良い人たちではあるけれど、仲間とは言えない。僕はみんなと一緒の共同体で、ずっとやっていきたい。第一、彼らの音楽は、僕の好みとは言えない。志向する路線が違うから、乖離は目に見えている。彼らに対し、新参者の僕が、このバンドに対するように遠慮会釈のない意見を表明するわけにはいかないだろう。どう考えても、問題外だ。
「とりあえず良く考えて、返事を聞かせてくれ。そして、アーディス・レイン君」
 社長は、今度はエアリィに向かって告げる。
「君へのオファーは、バンド移籍ではない。ソロへの誘いだ。かつて何人もスーパースターを輩出してきた敏腕業界人が、君を見初めた。君はバンドの中の一人ではもったいない。絶対にスタジアムを一人で埋められるような、スーパーソロシンガーになれる、育ててみせると、その人は言うんだ。だからバンドを抜けて、彼のマネージメントに移籍してきてくれないかと。今よりもはるかに好待遇で迎えることができる、と彼は言うんだ。君の望むものは、可能な限りすべて与える、と。一流のコーチとスタッフをつけて……」
「わあ、やだ!! なんか寒気がする!」
 エアリィは即座に声を上げ、首を振っていた。
「すごくそれ、変なイメージしか思い浮かばないんだけど。ファッショナブルで、トレンドど真ん中ってやつ?! バックダンサーいっぱいつけて踊るような?! やだ、やだ!! 絶対、やりたくない!」
「すごい嫌がり方だな」
 僕は思わず苦笑した。
「だって、やだよ。なんか、ああいう人たちって、まあ、偏見はないつもりだけど……でも、すごく華やかだけど、僕にはマリオネットにしか見えなくて……」
 エアリィは再び首を振り、社長氏を見て、言葉を継いでいた。
「僕はマリオネットにはなりたくない。バンドの中の一人、One of Themで良いです。だからその人には断ってください。僕はバンドを離れたくないから、抜けませんって」
 そうだ。僕もつい驚いてしまって返事を忘れていたが、ちゃんと意思表示をしなくては。
「僕も、みんなと離れたくありません。先方がそれだけ評価していただけることはありがたいんですが、僕はこのバンドが好きです。だから、断っていただけませんか」
 見ると、はっきりとした安堵の表情が、みんなの顔には浮かんでいた。
「そうか。本当にそれでいいんだね」
 社長氏はそう問い返す。
「ええ」
 僕らが同時に頷くと、コールマン氏は大きなため息とともに言った。
「よかった」と。
「エアリィ! ジャスティン! おまえたちは絶対そう言ってくれると信じていたぞ」
 ロブはテーブル越しに身を乗りだし、両手を伸ばして僕らの手をそれぞれつかんだ。
「ああ、本当に良かったぜ! おまえら二人に抜けられたら、バンドがぺしゃんこに潰れてしまうところだった」
 ジョージは立ち上がって僕らの肩に手をかけた。嘆息するような口調だった。
「本当にね。よかったよ」
 ミックも深くため息を吐きながら、何度も頷き、
 ロビンは一言、だが万感の思いを込めたような声で言った。
「本当に、ありがとう……二人とも」と。
「実を言えば、最初に話が来た時、私はどちらも君たちには知らせないで、断ってしまおうと思った。君たちには社運をかけているからね、我々は。どちらか一方でも大ダメージだが、両方抜けられでもしたら、実質上終わりだ。とんでもない、とね。だが普通に考えれば、これは君たちにとって大きなチャンスだろう。だからその決定権は、君たちにゆだねたいと思っていたんだ。君たちが断ってくれて、本当に助かった。これで私たちも、今進めている計画に本腰を入れられる」
 コールマン社長は再び僕らを見回した。
「君たちの決断を後悔させないためにも、我々の夢を実現させるためにも、エアレースをこのまま失速させてはならないんだ。それで、どうすればいいか。道は二つあると私は思う。まずは今からでもツアーに出て、プロモーションをすることだ。だが今すぐには無理だろうな。けが人が回復して、いきなりツアーというのは、少し無茶だ。準備期間が最低でも、あと二週間は必要だろう」
「すみません、ご迷惑をおかけして」
 ミックが再び静かに謝った。
「いや、何度も言うようだが、君たちのせいではないさ。運が悪かったんだ。仕方あるまい。そしてツアーに関して言えば、六月からのオファーが一つ、二つ入ってきている。だが、次のアルバムの期限があるから――レーベルの要望は、来年一月末までに、ということだった。だから、せいぜいツアーは八月末か九月頭までしか出来ない。それ以上引っ張ると、また次の製作が慌しくなるからね。しかし六月から二、三ヶ月プロモーションツアーに回っても、たいして成果は期待できないだろう。もともと一回失速したアルバムの勢いを回復するのは、これまでの経験から見て、難しいんだ。特に作品そのものが、君らの本質とは少しかみ合っていないという印象を受けるのでね。あのプロデューサーとのマッチングは、明らかに失敗だった。君らにどこにでもあるようなバンドには、なってもらいたくないのだ。シングルがヒットしたことだけは、救いだがね。私の言っているのは、第二弾の『Take into the Flame』の方だよ、もちろん。あれはセカンドの曲の中では難しい方だが、あの曲には非常に君たちらしさがある。複雑だがあまりそれを感じさせず、タイトでグルーヴィー、そしてハートのあるインストルメンタル、一見聞きやすくキャッチーだが少しひねりのあるメロディラインの、透明でエモーショナルなヴォーカル。そう、この融合が君たちの真骨頂だと思うからね。そこに単純なラヴソングや軽薄さなど似合わない。それに十代の感性や苦悩、戸惑いなどをリアルタイムで訴えられることが、君らの最大の強みでもあるのだ。それが、デビューアルバムが成功した一因でもあるし、今度のアルバムでも、光っているのはそういう曲だ」
 社長はたばこを取り出し、一服つけると話を続けた。
「だが、あまりに安直だと思えるものも、数曲ある。ことに最初のシングルなどは最悪だと、私は思うよ。いや、まあ楽曲としては悪くないが、君たちではない方がはまりそうだ。あの曲にはまったく、君たちらしさがない」
「ええ。僕ら自身もそう思います。あの曲はセカンドアルバムの中でも、僕らが一番嫌いな曲です。そもそもあのアルバム自体、僕ら全員にとって、不本意な出来だとしか、言いようがありませんし」
 ミックの言葉に、僕らはみな頷く。
「そうだろうね。今度のアルバムはプロデューサーに押し切られて、半ば捨てるつもりで作ったという話は、私もロブから聞いているよ。そんな作品なら、それ以上プッシュしても仕方がない。もう一回ツアーしたところで、赤字を免れることも出来ないだろう。だから思い切って今作は本当に切り捨て、次の作品に集中した方がいい」
「ということは、新作のレコーディングですか?」
 僕がそう問い返すと、社長は首を振った。
「いや。すぐにそれは考えていない。次のハードルは、とてつもなく高いんだ。ノルマはプラチナディスク。ひと昔前ならともかく、このご時勢には容易なことではない。ロック系では、今では年に一、二枚出れば良いくらいのありさまなのに。そして先方が指定してきたリリース期限は、来年一月だ。幸いセカンドと違い、四ヶ月で作れ、などという無茶は言ってこないだけましだが、なにぶんにもノルマが高い。だが、今はその数字を、そう意識しなくとも良い。数字をあまり意識してしまうと、どうやったら売れるか、ということが意識に先行してしまう。それは経験上、あまり良い結果を生まないことはわかっているからね」
 コールマン社長はタバコをもみ消すと、コーヒーを一口飲み、言葉をついだ。
「でも、良いかい。数字は意識しなくて良いが、今回は絶対に、捨て作は作らないで欲しい。売れる作品じゃない。君たちにとって心から満足でき、自信が持てるような、良い作品を作って欲しいんだ。今年はこれ以上ツアーをしなければ、ゆっくり作る時間はある。八月くらいから初めて、じっくり作って欲しい。ただ、今回は我々としても、あまりプロデューサーに割ける金の余裕はない。前回のような有名プロデューサーには、もう頼めないだろう」
「あの人とは、もう死んでも組みたくないです」
 僕たちはいっせいに声を上げた。
「まあ、結果的には、私もそう思う。あれは失敗だった。金の無駄だ」
 社長は苦笑した。そして再びコーヒーを飲み、一息おいて、言葉を続けた。
「それで、次回作のプロデューサーは、アーノルド・ローレンスにやってもらうことにしたんだ」
「えっ?!」
 その名前を聞いて、僕は(おそらくエアリィ以外、全員がそうだろう)固まった。
「君たちも知っていると思うが、彼は――私は昔からの友達でもあるので、ローリーと呼んでいるが、スィフターの元ギタリストだ。あの事故での、バンド唯一の生き残りだ」
「ええ、知ってます、知ってます!」僕は夢中で頷く。
「ローリーはあの事故で半年ほど寝たきりになっていたが、やっと一昨年の暮れに退院して、今は普通の生活を送っている。それで去年の夏くらいから、プロデューサー稼業を始めたんだ。まだ三作くらいしか実績がないが、それもほとんどカナダローカルのバンドばかりだが、なかなか良い仕事をしている。ミュージシャンとしての才能も非常に卓越していたから、音楽を見る目も鋭いんだ。その彼が君たちのセカンドアルバムを聴いて、言っていた。気の毒に。このプロデューサーは明らかに、彼らの美点がわかっていない。僕ならもっと全然違う風に出来た、彼らの魅力をもっと輝かせられるように出来たのに、と。『では、次を君にお願いできるかい? たいしてギャラは払えないが』と聞いたら、彼はにっと笑って答えた。『ええ、僕でよければ喜んで』と」
「わぉ!」
 僕は思わずその場で飛び上がり、叫んでしまった。ミックとロビンも頬が紅潮し、目がきらきらしている。
「でも、八月から製作と言うと、その間のスケジュールはどうなるのですか?」
 ミックが我に返ったように、そう問いかけていた。
「我々は今、ある計画を進めているんだ」
 ロブが社長に代わって、話を引き取った。
「休息とは違う、充電期間だ。おまえたちはバンドを結成してからここまで、駆け足できた。AirLaceはデビューしてからまだ一年半ちょっとで、結成してからデビューまでだって、一年半だ。しかもフルラインナップになってからデビューまで、たかだか十ヶ月ちょっとだなんてね。本当に異例の速さだ。おまけにミックとジョージ以外の三人は、これが最初のバンドだ。おまえたちは見事にはまりすぎたために、ろくに考える余裕もないまま、プロに押し出されたわけだな。おまえたちは、まだまだ若い。若すぎるくらいだ。みんなこれから伸びていく、いわば発展途上なんだ。だから、我々は考えたんだ。ミュージシャンとしての自分を見つめなおし、発展させる時間が必要なのではないだろうかと」
「それはどういうこと、ロブ?」
「君らはロックミュージシャンとしては、ほとんど独学でここまで来たのだから、そろそろこのへんで誰か信頼のおけるプロの講師について、基礎から音楽を学び直したまえということさ」
 コールマン社長が後を引き取って続けた。
「でも、誤解してもらっては困るがね。君たちの音楽がなっちゃいないと言っているわけではないんだよ。逆だ。君たちの音楽には、とても光るものがある。ただ、まだそれが前面に出切っていない。ここで基礎知識や技術をしっかり身につければ、表現能力の向上に役立ち、君たちの音楽が持つきらめきを、より輝かせることが出来るだろうということなんだ。君たちは若い。まだまだ才能的にも伸びしろがあるからね。だからアルバム製作に入る前に、君たちには二ヶ月ほど、集中練習をしてもらうことにした。一人一人専門の講師をつけて、ただ練習だけに専念するんだ。スポーツ合宿のように。場所も用意した。私たちにとっても、大英断だよ。講師たちの招聘費用も大変なものになった。今度のアルバムのアドバンスをつぎ込んでも、とても足りなかったから、その分はうちで持ち出しなんだ。セカンドのプロデューサー料のように。失敗したら、うちは潰れるかもしれない。まさに背水の陣だ。でも私たちは、君たちに賭けてみようと思った。君たちの将来性を信じてね」
「ありがとうございます! 願ってもないことです!」
 ミックが熱心な口調で声を上げ、身を乗り出していた。
「実は僕も、同じことを考えていたのです。今の僕らに一番必要なことは、それではないかって」
「そうか。では、他のみんなもこの提案を受け入れてくれるかな?」
 僕たちはお互いに顔を見合わせた。意外な展開だったが、これこそは望むところだ。アーティストとしての本質に帰る、自分自身を見つめ直す。はっきりと口に出さなかったけれど、それはここ一年ほど、ずっと僕も心の中で抱き続けていた願いだった。みなもきっとそうなのだろう。
「はい、喜んで!」
 僕たちはいっせいに頷いた。
「よし、じゃあ講師のスケジュールの都合で、練習開始は二週間と少し先になる。五月の二二日朝九時に、ここに集合しよう。それまでもう一度休んで、英気を養え。かなりハードな練習になるそうだから、覚悟して、病み上がりの三人は、とくにちゃんと今から体力作りをしておけよ」
 ロブの言葉を最後に、ミーティングは終わった。

 この思いがけない休暇も、あと二週間あまりで終わる。その間、何をしよう。毎日ギターを弾いていようか、それとも――不意にどこかへ行きたくなった。どこか落ち着ける場所へ。好きな所、憧れる場所は――海外ならロンドン。でも、あそこはツアーで行った。ギリシャは? エーゲ海もいい。でもあそこはどちらかといえば、一人で行くところじゃない。新婚旅行か何かの方が。そう思った時、僕の心のどこかが、ずきっと痛んだ。新婚旅行という言葉に、それまで意識していなかった、夢の残像を感じた。いつか、いつかステラと二人で行けたらいいと。もう決して実現しないだろう、現実の痛み。ギリシャはやめだ。スイスやフランス、地中海リゾートか、さもなければバハマなどのカリブ海も行ってみたい場所だけれど、同様の理由で、やっぱり気が進まなかった。それに海外へ行くには、あまり時間の余裕もない。そうだ、あそこがいい! プリンスエドワード島だ。
 次の日、シャーロットタウンまで飛行機で行き、そこからレンタカーを借りて、キャベンディッシュ・ビーチにある実家の別荘へと向かった。
「本当にお久しぶりです、ジャスティン坊ちゃま。ようこそいらっしゃいました。お一人でこちらに?」
 別荘の管理人をしている昔馴染みの老夫婦が、穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「うん。ちょっと来たくなって、一人で来たんだ。五、六日くらい、ここにいようと思って。でも、坊っちゃまは、やめて欲しいな。僕も来年には二十歳なんだから」
 彼らもホプキンスさんと同じで、こっちが抗議しても、なかなか慣習が抜けないらしい。相変わらずにこやかな調子で返してくる。
「まあ、もうそんなになりますか。本当に大きくなられたんですね、ジャスティン坊っちゃま。ごゆっくりなさってください。ここ数年間はローリングスのお家の方々が、ちっともお見えにならないんで、とても淋しく思っておりました」と。
 赤い砂浜に下りると、目の前に海が広がっている。季節は春のため、子供時代の記憶にあるような抜けるような青い色ではなく、いくぶんミルク色がかかったような、穏やかな色をたたえて。白い飛沫をあげて寄せては返す波。髪を吹き抜けていく潮風。
 幼い日の光景が脳裏に甦ってくる。はじめて見た海、その青さにその広さに、目を丸くして見入っていた僕。兄はさっそく泳ぎはじめ、姉は砂浜で貝を拾い、妹は母に手をひかれて波と戯れていた。裸足に感じる砂の熱さ、波の冷たさ。
「ジャスティン、こっちへいらっしゃい」
 母が手招きし、僕は駆け出していく。風が吹いて、かぶっていた麦藁帽子が砂浜に飛んでいく。三つか四つくらいのころの記憶だ。
 僕が小学校を卒業するころまで、夏になるとここに来て、数週間を過ごしていた。いつも忙しかった父は数日しか一緒にいられなかったが、母や兄妹たちと、時には母方のまた従兄たちや父方の従兄姉たちも合流してきて(母は一人娘だったので、母方の従兄姉はいなかった)、ここで多くの楽しい夏を過ごした。時が流れ、子供だった僕たちもだんだんと大人の領域を持つようになって、家族ぐるみの避暑の習慣は、いつしか消えてしまった。ここに最後に来てから、もう何年になるだろう。
 今も、海は相変わらず穏やかな雄大さと親しみをこめて、僕を迎えてくれた。子供のころよくお伽話をしてくれ、泳ぎや貝堀を教えてくれたり、はっかドロップやクッキーをくれたりした気のいい管理人、トムとルースのエバートン夫婦も、ほとんど変わっていない。
 僕は浜辺に座り、海を見ていた。子供のように、きれいな貝を拾い集めたり、カニを追いかけて捕まえたり、砂の城も造った。潮が満ち、大きな波に洗われると、城はすぐに崩れていく。日の光にさらされて、乾いてしまった時も。
 太陽の光を浴びながら砂浜に寝ている時、波の音を聞きながら潮風と磯の匂いを感じる時、自然のリズムを身体に感じた。キャベンディッシュにいた間、僕はただ感じ、考え、思いを巡らせていた。
(前に進むしかないんだ。どんなことがあっても。たとえすべてが砂の城のようにはかなくとも、この自然の広大なリズムの中で踊らされるのが人間だとしても、僕たちはその中で進んで行くしかない。勇気を失わず。希望を持って)
 今は考えまい。壊れた愛も、失敗するかもしれないという恐れも、あと十年で世界が滅亡するという悪夢も。未来には限りがあるかもしれないけれど、その中にも多くの希望と夢があるに違いない。

 僕は燃え立つ気分、高揚感を感じていた。迷いが晴れ、自分の周りのすべてのものが、水晶のように透明に、はっきりと感じられた。少なくとも帰りの飛行機に乗っている間までは。でもトロントへ帰りついたとたん、僕はもう一つの現実に直面したのだった。
 空港に降り立ったのは夜の八時前、そこから駐車場に停めた自分の車でアパートメントに帰りついた時には、九時半を回っていた。地下駐車場の契約スペースに車を停め、荷物を持って自分の部屋に戻り、床にバッグを置くと、灯りをつけた。それからカーテンを開け、窓を開けて外を見た。無数の灯火、多くのビル。特に何も意図があったわけでなく、また家に帰ってきたんだなという思いを、確認したかっただけだ。いつもツアーから帰ってくると、そうしていた。今回は一週間足らずの短い旅だったが。
 僕は何気なく、視線を下に落とした。アパートの前に、白っぽい洋服を着た女性が一人で佇んでいる。じっと建物を見上げていた。街灯に照らされて見えたその顔は、見まごうはずもない、忘れようとしても忘れられない面影だ。僕の心臓は一瞬飛び上がった。
「ステラ!」
 僕は思わず下を覗き込んだ。その瞬間、女性は身を翻して、小走りにその場を立ち去った。僕は再び窓を閉め、玄関のドアを開けた。廊下を走り、エレベータホールへ。しかし、エレベータがなかなか来ない。僕は階段を駆け下りた。
 外へ出た時には、もう彼女の姿は消えていた。僕は通りを見回し、その女性が走っていった方角へ、しばらく歩いていってみた。でも、それらしい人は見当たらない。僕は頭を振りながら、部屋へと戻った。
 なぜステラが今頃、しかもこんな夜遅くに、僕のアパートの前にいたのだろう。見間違いや幻想でなければ、たしかにあの女性はステラだった。でも冷静に考えれば、そんなはずはない。ステラの門限は、午後九時。僕らがつきあっている間、ずっとそうだった。彼女はそれをただ一度として、破ったことがなかった。もっと一緒にいたいと願っても、夜九時にはパーレンバーク家の玄関に着いていなければならない。それが絶対の掟だった。別れてから半年たった今でも、きっと変わってはいないだろう。
 僕は頭を振って、思いを断ち切ろうと努めた。でも振り切ろうと思っても、落ち着きのない気分が支配し続け、何度も自問自答を繰り返す。あの女性は、本当にステラだったのだろうか。もしそうだとしたら、なぜ彼女が僕のところへ来たのだろうと。そのたびに甘い期待を抱いている自分に気づき、自らを叱りつける。この間抜け、お天気野郎! ジャスティン・ローリングスよ、なぜおまえは、そう自己中心的なんだ。どうして自分に都合の良い解釈をする。おまえの元に戻ってきてくれるかもしれないなどと、惨めったらしい期待をするんじゃない。仮に万が一よりが戻ったとしても、また同じことの繰り返しになることが、わかっているのに。再び彼女は淋しくなり、離れていってしまうだろう。今度は永久に。ああ、第一元に戻ることなんて、もうできはしない。ステラにはどこから見ても申し分のない、新しい恋人がいる。おまえがそんなに未練たらしくしているから、見間違えただけに決まっている。僕の部屋は七階だから少し距離がある上に、あたりは暗い。僕は自分が見たいものを、無意識に似た女性に投影してしまっただけだろう。あの人がステラのはずはないじゃないか。
 僕は深いため息をついて、ベッドに寝転んだ。せっかく振り切ったはずなのに、未練が逆戻りする。早く集中練習が始まればいいのに。仕事をしていれば、まだ気を紛らわすことが出来る。でも自由な時間は、退屈でもどかしいだけだ。
(休みいっぱいいれば良かったかな。キャベンディッシュに)
 そんな思いすら感じた。

 それから三日間は、ステラの姿を見なかった。あの夜ステラを見かけたのは、やっぱり僕の見間違いだったのだろう。そう思い始めた頃、再び偶然が訪れた。いや、それは偶然ではなく、陳腐な言い方だが、運命だったのかもしれない。
 キャベンディッシュから帰って四日目のお昼過ぎ、少し新しい服を買おうと、歩いて近所に買い物に出かけた時だった。アンティックショップの前に、彼女は一人で佇んでいた。今度は見間違いじゃない――通りの向こう側を歩いていた僕は、日の光の下で、はっきりそう認めた。ステラだ。でも髪をアップに結い、白い小花を散らした紺のワンピースを着て、白いレースのカーディガンを羽織った彼女は、僕の知っていたステラより、少し大人っぽく見えた。新しい恋人の影響だろうか。心が微かに波だった。
 ステラはショーウィンドウを眺めているようだった。僕は道路を渡り、彼女に近づいた。気づかれないように、後ろの方から。何を見ているのかも、気になった。ウィンドウの正面に飾られていたのは、アンティックドールだった。柔らかい栗色の巻き毛に緑色の瞳、濃いローズピンクのドレスを着たその人形に、僕も見覚えがあった。去年の十一月に、二人でこの通りを歩いている時、ステラはその人形に目を止め、一目で気に入ったのだった。僕は、『じゃ、今度のクリスマスにプレゼントするよ』と言った。でも僕らはそれから十日もたたないうちに別れ、その約束は果たされなかった。
 声をかけていいものだろうか、決心がつかなかった。ステラは深いため息をついていた。僕には気づいていないようだ。だが僕が躊躇している間に、彼女は振り返り、僕らは目が合った。ステラの顔に、驚いたような表情が上ってきた。頬がみるみる赤くなり、何か言いかけているように、唇が動いた。しかし声にはなっていない。僕は微笑もうとした。こんな時、なんと言ったらいいのだろう。
「久しぶりだね、ステラ」
 できるだけ感情を押さえた言い方が、非情に響きはしなかっただろうか。でも僕は動揺し、その心の乱れを、彼女に気づかせたくなかった。ステラは目を見開いたまま、じっと見つめている。今にも逃げ出してしまいそうな様子で、でも立ち去るのもためらわれる、そんなふうに感じられた。胸の鼓動が、息苦しいほど早くなる。千年もの時間が経ったように思えるほど長い沈黙の後、ステラは弱々しく微笑んで、小さく呟いた。
「こんにちは、ジャスティン……」
 半年ぶりの再会は穏やかだ。でも今の僕たちの間に、昔のような親密さは望めない。僕は彼女に話しかけようとした。昔のように。でも、何も言葉は出てこない。ステラも何か言おうとしているようだった。でも彼女も、言葉が思いつかないようだ。僕らはしばらく無言でウィンドウに目をやっていた。やがてステラが、小さな声で言いかけた。
「この人形……」
 そして言葉を途中で止め、首を振った。
「ううん、なんでもない……」
「約束を果たせなかったね」
 僕はそれだけ言って、頷いた。
「覚えていてくれたの、ジャスティン?」
「ああ」
 それからまたひとしきり沈黙。やがて、ステラがもじもじと居心地悪そうに身動きした。
「ジャスティン、わたし……」
 そしてまた、あとの言葉を飲みこんでいるように沈黙する。
「ああ、引きとめちゃったかな。ごめん」
 僕は微かに笑って、踵をかえそうとした。そう、ここは紳士然と立ち去るべきだ。
「待って」ステラは小さな声を上げた。
「えっ?」
「ううん。ごめんなさい。何でもないの」
「そう。じゃあ、元気で……」
 僕は言葉を飲みこんだ。ステラの瞳から涙が溢れ、頬にこぼれそうになっている。彼女は慌てたようにその涙を手でぬぐうと、ひくっと小さくしゃくりあげた。
「どうしたんだい、ステラ」
「なんでも……ないわ。ごめんなさい。泣くつもりはなかったのに……」
「ステラ……」
 僕は言葉を捜した。なんと言っていいかわからない。彼女がなぜ泣いているのかも、わからない。ただ、このまま別れてはいけない。そんな思いだけは、はっきりと感じた。僕は二、三歩近づき、手を伸ばして彼女の腕に触れた。触ったとたん、ステラは小さくぴくっと震えた。僕は手を離した。
「ステラ」僕はもう一度呼びかけた。
「君がいやなら、無理にとは言わないけれど、少し話をしないか。僕は……」
 一瞬ためらったあと、思い切って正直に続けた。
「ずっと、君に会いたかったよ」
 ステラは一瞬、驚いたような顔をした。微かな笑い顔になり、こくっと頷く。
「ええ、わたしもよ。とっても……」
「じゃあ、どこかでお茶でも飲もうよ。君さえ良かったら」
「ええ……」
 ステラは頷き、少しためらうように黙ったあと、続けた。
「でも、喫茶店ではなくて……」
「ああ、そうだね。喫茶店より、もう少し落ち着ける場所がいいかな。今は暖かいから、公園でもいいけれど……」
 でも、完全に外からの干渉を排除したいのだったら──また去年のように、邪魔が入っても困る。僕はちょっとためらってから、思い切って提案した。
「僕の部屋へ来るかい? ものすごく散らかっているけれどね。もちろん紳士でいるって、約束するよ」
「ええ……」
 ステラの表情に、かすかな苦い微笑がよぎった。去年の、決裂した話し合いを思い出したのだろう。

 歩いてアパートに行き、大慌てでざっと片付けて座る場所を作るまで、ステラに玄関ホールで待っていてもらった。それからあの時と同じように、僕はステラを部屋に招きいれ、お互いに少し距離を置いてリビングのソファに座った。同じように、僕は紅茶を二つ運んできた。その金色の飾りがついた赤い両手カップに目を止めると、「あら」と、ステラは小さな声を上げた。
「カップを変えたの?」
「ああ、前のもけっこう気に入っていたんだけれど、一つ割れちゃったんだ」
 本当は、割れたわけじゃない。ただ使う気になれなくて食器棚の奥にしまい込み、新しいのを買っただけだ。でもステラは、何も疑問には思わないようだった。
「そう。前のもお上品で良かったけれど、これもかわいいわ」
 彼女は両手でカップを持ち上げ、少しだけ口をつけた。
「紅茶をいれる腕は、あまり上がっていないだろう?」
 僕は肩をすくめてみせた。
「そうね。今度は少し渋いわ。お砂糖とクリームを入れたほうがよさそうね」
 ステラはかすかに笑うと、角砂糖を二つとクリームをたっぷり入れた。僕もカップを取り上げて一口飲んだ。ああ、たしかに少し渋い。今度はティーバッグを長く入れすぎたか。僕もクリームを入れ、お互いにしばらく無言で紅茶を飲んだ。
 やがてステラはふっと床に目を落とし、口を開いた。
「あら……絨毯を敷いたのね」
「ああ。フローリングのままじゃ殺風景だって、君も言っていたしね」
「そう……すてきになったわ。でも……少し派手かも」
 ステラは床に目を落としたまま言った。大きな花柄が浮き出たオレンジの絨毯は、男の一人暮らしには、たしかにちょっと面映いかもしれない。
「その意見に反対はしないよ」
「誰の好みなの? あなたの趣味でも、なさそうな気がするけれど」
「新しい彼女の、と言いたいところだけれど、そうじゃないよ。妹の趣味さ」
「ジョイスさんね。言われてみれば、そういう感じね」
 ステラはかすかに笑みを浮かべた。
 僕たちは再びひとしきり黙って、お茶を飲んだ。
「去年の暮れに、君を見かけたよ」
 僕は思い切って話を切り出した。
「二三、四歳くらいの、ブルネットのハンサムな男性と一緒だったね。あの人が君の新しい彼氏なのかい?」
 ステラは驚いたように僕を見、カップを下に置いた。
「そう……見ていたの」
 呟くように言うと、かすかに頷く。
「ええ。あの人がそうなの。あの時あなたに言った、わたしに交際を申し込んできた人。アーマンド・トラヴァースという名前で、二四歳で、大学院で法律の勉強をしている人なの。今年試験を受けて、弁護士さんになるらしいわ」
「そう。弁護士さんの卵か。なんとなくわかるな。真面目そうな人だったから」
「でも、ジャスティン……わたしは、たしかにあの人と半年くらい付き合ったけれど、今はなんでもないの」
「えっ? 別れたっていうことかい?」
「ええ」
「どうしてだい? 彼も、やっぱり仕事が忙しかったのかい?」
「そういうわけではないわ。彼はたびたび、わたしをデートに誘ってくれたし。お休みの日には、よく車で家まで迎えにきてくれて、有名なレストランでお食事をしたり、クラシックのコンサートやお芝居に連れていったりしてもらって、門限までには、ちゃんと家まで送ってくれたの。彼は、とても礼儀正しい人だったの。それにお父様が大きな司法事務所を開いていらしていて、彼も弁護士の資格を取ったら、お父様の事務所に入ることが決まっていたから、パパやママも喜んでいたのよ。とても良い人だって。もともとは、彼のお父様とパパがお仕事の関係でお付き合いがあったから、アーマンドのことも知っていて、ゆくゆくはわたしと一緒にさせたいと思っていたようなの、お互いに。一人息子なのが残念だがって、パパが言っていた覚えがあるわ。でも、子供の一人を養子にもらえばいいからって、そんなことも言っていて。だから、わたしのお勉強を見てもらうということで、うちに来てもらったらしいの」
「そう。じゃあ、パーレンバーク夫妻の肝いりなんだね、彼は。本当に理想的な、花婿候補だったんだね」
「ええ。彼は良い人だったわ。わたしにも優しくて、紳士で、頭も良くて、趣味も似ていて、家柄も良くて、経済的にも安定している。本当に、わたしなんかにはもったいない人だったわ。でもね……」
 ステラは小さなため息を漏らした。
「わたしは寂しかったの。あなたのお仕事が忙しすぎて、長いこと会えなくて。だから、会いたいと思ったときに会える人がいい、そう思ったのよ。あなたに他の人を好きになれって言われた時に。それなら、アーマンドなら……きっとわたしが会いたいと思ったときに会ってくれる、って。でも、アーマンドはあなたじゃない。わたしはあなたに会いたいと思う半分も、彼に会いたいとは思えなかったの。いえ、わたしがあの人に会いたいと思ったことなんて、いったい一度でもあったのかしらと感じるほど。ドレスアップをして、お食事をしたり、コンサートやお芝居を見たり、そんなデートが、わたしにはあまり楽しく思えなかったわ。きれいに着飾るのも、クラシックや演劇も好きなはずなのに。あなたと一緒に映画を見に行ったり、お食事をしたりお茶を飲んだりしていた時には、本当に楽しかったのに。それに、あなたにはもっと話をしてと、わたしは言ったけれど、彼は話しすぎるのよ。それも、自分のことばかり延々と。ああ、わたしのおしゃべりを一方的に聞かされたあなたの気持ち、少しはわかったわ。そう思えてしまうほどだったわ」
「そうか。じゃあ、彼も君の理想ではなかったんだね」
「ええ」
「それで、別れたのかい?」
「ええ。決定的に別れたのは、四日前なの。ホテルでお食事のあと、アーマンドはわたしにプロポーズをしたの。指輪も用意して。結婚を申し込まれる瞬間というのは、どんなにうっとりするかしらと思っていたのだけれど、実際は、ただ困っただけだったわ。わたしはこの人を愛していない。この人と結婚なんてできない。そうはっきりわかったの。だから、申し込みを断ったのよ。彼はわたしが承知してくれるものと疑わなかったらしくて、本気で断られたとわかったら、怒って、一人で帰ってしまったわ」
「君を一人残してかい? ひどい奴だな」
「だって仕方がないわ。悪いのはわたしですもの。それで一人で帰ろうとしたのだけれど、なんだか家にも帰りたくなくて、反対方向の地下鉄に乗って、まるで引き寄せられるように、あなたのアパートメントの前に立っていたわ。どれがあなたのお部屋だかわからなかったけれど、七階のどこか……そう思って、建物を見上げて、しばらく立っていたら、部屋に灯りがついて、あなたが窓辺に出てきたわ。窓を開けてわたしの方を見たから、わたしは驚いて逃げたの。それで近くの電話ボックスに飛び込んで、隠れていたのよ。あなたが建物の入り口から出てきて、もう一度中に入っていくまで、ずっと」
「そう。そうだったのか……」
 僕は言葉を切り、そして問いかけた。
「それで、そのアーマンドという彼からは、それきり音沙汰がないのかい?」
「いいえ。次の日に電話がかかってきたわ。時期早々なら待つから、もう一度良く考えてくれないかって」
「それで?」
「わたし……ごめんなさい、としか言えなかったわ。本当につらくて。もうわたしのことは忘れてください。お願いしますって……」
「そう。でもステラ、それで本当によかったのかい?」
 本当は『それは良かった』と言いたいところだったが、口をついて出てきた言葉は、気持ちとは裏腹なものだった。ステラは僕をチラッと見上げ、頷いた。
「本当に、これでよかったのよ。だって、愛してもいない人との結婚なんて、出来ないもの。彼には、本当に悪いことをしてしまったと思うわ。一方的にだまされたようなものですもの。わたしは結局、そもそも彼を愛していなかったのよ。一度だって。あなたに別れを切り出されてしまったから……他の人を好きになれっていうのは、そういうことでしょう? わたし、本当にどうしていいかわからなくて……それならパパとママも望んでいたことだし、アーマンドとおつきあいをしてみようかしらって、自棄になったような気持ちで、彼との交際をはじめたのですもの。好きだったとか、そんな思いは、最初からなかったわ。いいえ、好きではあったけれど、好意でしかなかった。でも、おつきあいをするからには、アーマンドを愛そうとしたわ。アーマンドとあなたとでは、何もかも違うから、慣れていないだけかもしれない。そのうちに、あの人を愛することができるに違いない。わたしが努力すればと、そう思っていたの。でもね、わかったわ。結局、誰かを努力して愛そうなんて、できはしないのよ。本当に愛する人なら、努力なんてしなくても、好きでたまらなくなるわ。わたし、あの時には、それがわかっていなかったの」
 ステラは弱々しく首を振ると、片頬に手を当てて、寂しげな笑みを浮かべた。
「わたしは結局、何もわかっていなかったの。ただ、自分のことしか考えていなかった。あなたにわがままばかり言って、結局一番大事なものをなくしてしまったのかもしれない。そんな気が、ずうっとしていたわ。あれから、あなたと別れてから。わたしが会いたいから、わたしが話したいから、わたしが楽しく過ごしたいから。そう、わたしはわたしの気持ちばかりで、あなたのことを、口では理解しようとしたと言いながら、本当はまったく考えていなかった。そう気づいた時には、遅すぎたのよ」
「ステラ……」
 僕は戸惑いながら手を伸ばし、その指を握った。
「僕は君を失いたくないと思っている。去年あんなことを言って、僕はその瞬間から後悔したんだ。でも、君のために音楽を捨てることは、どうしてもできない。だから君が会いたいと思うときに、そばにいることもできないんだ。僕は、やっぱり引くべきなんだろうか、ステラ。いつかは、君の理想の人がきっと現れるだろうから……」
「わたしの理想の人?」
「そう。社会的に立派な職業についていて、資産家で、いつも君のそばにいてくれる人。それが君の理想なんじゃないのかい、ステラ」
「立派な職業についていて資産家の人というのは、パパやママの希望だわ。わたしはそれほど重要には思っていないの。それに、いつもわたしのそばにいて欲しいとか、わたしが会いたい時にはいつでも会える人とか、それは、わたしのわがままなんだって、わかったから。そうでしょう? たとえば夜中にわたしが不意に会いたくなったとしても、それですぐに来てもらうわけにはいかないわ。相手にだって生活があるのですもの。わたしも少し学んだし、現実的にもなったつもりよ」
「そうだね」
「わたし……わかったの。たしかにお金には不自由しない方がいいし、会いたい時には、できるだけ会える人が良い。でも、それはあくまで二番目、三番目の理想に過ぎないわ。一番大切なことは、その人のことを、わたしが心から愛せるかどうかということだと思うのよ」
「そうだね。君が愛せる人、そして出来れば二番目、三番目の希望も叶えてくれる人が、いればいいんだけれど」
「いるのかしら。そんな人が」
 ステラは小さくため息をつき、首を振った。
「君は今、愛している人っているのかい?」
 僕は思い切って聞いてみた。
「ええ」
 ステラは頬を紅に染めながら頷き、うつむいている。その言葉に、僕は小さな痛みを覚えた。
「そうか……その人が、君の二番目三番目の理想も、叶えてくれたらいいね」
 ステラは僕を一瞬見上げた後、すぐに視線を落とし、相変わらず頬を紅に染めながら首を振った。早口に、小さな声で言う。
「いいえ……その人は華やかだけれど不安定なお仕事についていて、会えない時には、本当に何ヶ月も会えないし、パパやママにも交際を反対されてしまうけれど、でも、その人はそのお仕事が好きだから、転職する気はないの。でもわたしはやっぱり、その人が好き。ずっと好きだったの。初めて会った時から……でもその人は、今はきっとわたしのことを好きではない……かもしれない。わたしが、わがままばかり言ってしまったから。だから一回、別れてしまった。でも、その人が今わたしを好きでなくても、わたしはやっぱり……愛する気持ちが止められないの」
「その人って……」
 僕は驚きのあまり、言葉が出なかった。それは――僕のことか? まさか彼女は今も、僕を愛してくれているのか? こんな僕を――? 僕は両手を伸ばし、彼女の小さな手を包み込んだ。
「ありがとう、ステラ……僕も君が、忘れられなかった。ずっと。でも君はもう新しい彼氏と幸せにしているのだと思って、あきらめなければならないって思っていたんだ。君の気持ちを知った今も……僕はまだ、迷っているんだ。もう一度付き合おうって言う権利が、僕にあるかどうか。僕は君の言った通り、今の仕事をやめる気はないから。休みの日には、出来るだけ君に会いたい。僕の世界だけでなく、君の世界にも出来るだけ興味を持ちたい。それだけしか、僕は変われない。だから、自信がないんだ。やっぱり君は僕がミュージシャンを辞めない限り、戻ってきてはくれないかい?」
 ステラはしばらく黙ったあと、静かに言った。
「職業とか、会いたい時にはそばにいて欲しいとか、それは、二番目三番目だって、さっきも言ったわ。一番大事なのは、その人を愛していること、それだけよ」
「……僕は、自惚れてもいいのかな」
「自惚れじゃないわ。本当のことよ」
「じゃあ、もう一度付き合ってくれるかい?」
「ええ、よろこんで……」
 頷いたステラの頬の色が、赤さを増していった。その瞳から、涙がひとしずく、糸を引いてこぼれ落ちた。
「よかった……わたし、あの夜、電話ボックスの中から、あなたの姿を見て……泣いてしまったの。わたしはなにを……していたのかしらって。わがままばかり言って……あなたを失ってしまった。わたしは……なんてバカだったのかしら。そう思ったら、涙が止まらなかったわ。でも……やり直せるなんて、夢のようよ。そんな夢を……何度も見たの。でも……これは、夢じゃないのよね、ジャスティン。わたし、もうわがままは言わないわ……寂しくても……我慢できるわ。あなたのお仕事を……理解できるように、するわ。絶対に……」
 途切れ途切れに言う彼女の肩は、小さく震えていた。
「ステラ、ありがとう。僕も君への思いやりが足りなかった。ごめんよ。でも、本当に嬉しいよ。君を取り戻すことが出来て」
 僕は衝動にかられ、彼女を強く抱きしめた。身体の震えとぬくもりが伝わってくる。その暖かさが、いとおしかった。失くしたものを取り戻すことが出来た。去年の暮れから今まで、僕は自分の一部分、大事な何かが欠けてしまった、そんな空虚感を心のどこかで持ち続けていた。それを今、取り戻すことが出来た。
 暖かい喜びの波が身体を駆け抜け、急激に心を満たして行くのを感じた。そして世界が再び鮮やかな色を帯びてきたことを。もう彼女を失いたくない、二度と。その思いの中、僕はステラにキスをした。

 翌日、あのアンティックドールをステラに贈った。果たせなかった去年のクリスマスプレゼントのかわりに。それから集中練習が始まるまでの五日間、毎日会った。でも、五日間というのが、いかにも短い。せっかく長いお休みがあったのだから、もう少し早く仲直りしたかったと切に思ったが、現実は無情だ。
 瞬く間に日々は過ぎていき、明日は再び仕事という日の夕方、僕たちはアパートメントの近所にあるレストランで、一緒に食事をしていた。小さな店だけれど、緑とベージュで統一された内装と観葉植物の緑が心地よく、料理も凝ってはいないが、上品でおいしい。最近お気に入りのレストランだ。
「また当分、会えなくなるのね……」
 ステラは食後のコーヒーを飲みながら、小さなため息とともにつぶやいた。
「そうだね。これから二ヵ月は集中練習があるし、そのあとは次のアルバムの作業があるから。たぶん十一月くらいまでは、二ヶ月に一週間くらい戻ってこられたら、いい方だと思うよ」
「本当に忙しいのね。なんだか、まるで船乗りさんを恋人にしたようだわ。でもわたし、もう覚悟を決めて待つことにしたの。寂しいは禁句にするわ。今は携帯電話もあるし」
 ステラは今年に入って、やっと携帯電話を買ってもらったらしい。発信は自宅のみの制限がかかっているらしいが、着信は拒否設定をしない限り、どこからでも可能だ。仲直りしたその日にステラは『わたし、強い味方を手に入れたのよ』と、二つ折りの白い携帯電話を見せてくれ、番号を教えてくれたのだった。
「そうだね。毎日電話するよ。着信拒否にしないでいてくれたら」
「するわけないでしょう! パパやママには、絶対触らせないから。パパやママも機械のことには詳しくないから、家政婦のトレリック夫人に頼んでやってもらっているのだけれど。家の電話もそうなのよ。わたしも機械操作は苦手だから、変えられたら戻せないわ。夫人はやってくれないと思うし。パパやママの命令は絶対なのよ。だからずっと持っていて、決して置きっぱなしにはしないようにしているの。充電している間は傍を離れないし、眠る時もパジャマのポケットに入れているし、シャワーの時もビニール袋に入れて、持ち込んでいるの」
「そうなんだ。大変だね。でも、ありがとう」
「わたしにとっても、必要ですもの。去年みたいに、何ヶ月も声を聞くことが出来ないって、本当に寂しいのよ。だからよけいにこらえきれなくなって、やっと会えた時に、わたしが一方的にしゃべってしまったり、あなたにわがままを言ったりしてしまったのだと思うわ。だから、離れていても、時々声を聞けるのが嬉しいの」
「僕もそうだよ。仕事の合間に君の声が聞けると思うと、疲れが吹き飛びそうな気がする」
「ありがとう」ステラは頬を染めて笑った。
「お仕事が一段落して、お部屋で一人になってわたしを思い出したら、電話をしてね、ジャスティン。電源はずっと切らないでおくから。一日のお仕事が終わるのは、何時ごろになるの。十一時くらい?」
「いや、十二時すぎるだろうね。一時二時もざらだし。ミュージシャンの生活って、夜が遅いんだよ」
「夜中の方が、むしろ都合がいいわ。パパやママにいろいろ言われなくてすむもの」
「君のご両親には、まだ僕とつき合っていることは内緒なのかい?」
「いいえ、昨日はっきり言ってしまったわ。わたし、もう一度ジャスティンとつきあい始めた。やっぱりわたしは、他の人を愛することはできないって。もう秘密にしておきたくなかったの。悪いことをしているわけでは、ないのですもの」
「ええ! それじゃ、さぞかし大変だったろうね!」
「ええ。二人とも、ものすごく怒ったわ。アーマンドのプロポーズを断ったと言った時にもかなり怒られたけれど、それ以上に。『トラヴァース君と交際してくれた時には、本当に嬉しかったのに、そのトラヴァース君を捨てて、よりによって、またあの男と付き合うだと?! そんなことは許さん!! 絶対許さんぞ!!』って、パパは卒倒しそうな勢いで、顔を真っ赤にして怒鳴っていたわ。『なぜあなたは、そんなになってしまったの? あなたをそんな風に育てた覚えはないわ!』って、ママは泣き出したし。おなじみの台詞ね。そんな風に育てた覚えはないって。二人とも、わたしの幸せを考えてくれているのでしょうけれど、ちょっと違うのよ。本当に、パパやママが、あれほどわからずやだとは思わなかったわ」
 彼女は少し眉をひそめてみせた。
「それからも、大変なの。あれからパパはわたしとろくに口をきかないし、ママはヒステリーを起こして寝込んでしまったくらい。わたしの携帯電話も、もう少しで取り上げられるところだったのよ。だから用心して、ずっと手放さないようにしているくらいなの。今日だってね、わたしが出かけるしたくをしていたら、玄関ホールのところで、パパは座り込みをはじめたのよ。わたしを行かせないようにしているのね。だから、台所の裏口から、こっそり出てきてしまったの。誰もいない時を見計らって。それで少し遅れてしまって、ごめんなさいね」
「そんなことはないよ。そこまでして出てきてくれて、嬉しいな。でも君が裏口から出たことがわかったら、もっと見張りを強化されてしまうかな」
「そうね。でも、外へ出られるチャンスはあるわ。学校がお休みの日は難しいけれど」
「僕も助っ人に行こうか。よけい嫌われるかな?」
 僕は微笑がこみ上げてくるのを押さえきれなかった。
「じゃあ、出ようか。もう八時半だ。送るよ。でも内緒で出てきたんじゃ、きっと怒られるだろうね」
「そうでしょうね。でも、大丈夫よ。それに……ねえ、もし家を追い出されたら、あなたのところへ行ってもいい? そうしたら、もう少しあなたと一緒に居られるわ」
「え?」
「あ……だって、わたし、もしそうなったら……他に行くところはないんですもの。モリーも、こんなに夜いきなりだと、迷惑だと思うし……」
 ステラは耳まで赤くなっていた。
「それに……たぶん大丈夫よ。パパやママは怒っても、わたしを追い出さないと思うわ」
「ステラ……」
 僕は衝動に駆られ、思わず手を伸ばして、彼女の手首を握った。
「ご両親に追い出されなくても……僕も君と一緒に、もっと過ごしたいよ。明日から二ヶ月も君に会えないんだからね。これから……僕の部屋に来ないか。家には帰らないで。今夜は一緒に過ごしたいんだ」
 ステラは驚いたように僕を見た。顔の紅潮は首まで広がり、一瞬小さく震えた。そしてしばらく沈黙したあと、消え入りそうな声で、微かに頷く。
「ええ……」
 僕たちはその晩、初めて一緒に過ごした。彼女にとって、初めての外泊。その貴重な記憶を、無粋な言葉に置き換えるのは耐えられない。ただ、これだけは書いておきたい。次の日の朝、恋人に見送られて集中練習に出発した僕は、世界中で一番幸福な男だったと。





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