真のホリスティック医学の「死生観」
- 真のホリスティック医学思想の最大の特色は「死生観」
- 「死生観」を含めた医学思想の必要性
- 医学が宗教上のテーマを扱うことの正当性
- “死”とは、霊体と肉体の分離現象のこと
- 人間は“死”によって消滅することはない――「霊体」による新しい人生の出発
- 死は、祝福と救いが与えられる“喜びの時”――死んで幸福になる他界者
- 死別を悲しんでいるのは地上の遺族だけ
真のホリスティック医学思想の最大の特色は「死生観」
真のホリスティック医学思想には、これまで見てきたように、さまざまな画期的な内容が含まれています。「人間観・身体観」「健康観・病気観」「病因観・治療観」――これらのどれをとっても、驚異的な霊的知識から構成されています。それは従来の医学の常識を根底から覆し、全く新しい医学的見解を示すことになりました。真のホリスティック医学思想は、まさに人類にとって医学上のバイブルであり、遠い将来には間違いなく、全世界における医学の常識になっていきます。
しかし、真のホリスティック医学思想の画期性は、今述べた医学の領域にとどまるものではありません。これまで純粋な宗教的テーマとされてきた“死”に関する問題――「死生観」についても当てはまります。実はこの「死生観」こそが、真のホリスティック医学思想における最大の特色と言えるのです。
「死生観」を含めた医学思想の必要性
死は、人間にとって避けることができない宿命であり、人生における最大の出来事です。それは人間が単なる物体ではないために発生する不可避の現象です。死を前にして人間は、恐れ、悲しみ、何とかしてその不幸を先延ばしにしたいともがいてきました。現代西洋医学もまた、それと同じ立場に立って、少しでも寿命を延ばそうと努力してきました。しかし“唯物主義”に立脚し、死後の世界はないとする現代医学が、死と関わることができるのはそこまでです。死後については、全く関与できません。
真のホリスティック医学は、人間を分析的ではなくホリスティック(トータル的)に扱う医学です。したがって真のホリスティック医学は、人間の人生にとって不可欠な要素である「生と死の問題」と、しっかり向き合わなければなりません。人間を“生”の部分からだけでなく、“死”と“死後”の部分からも見ていかなければならないのです。
医学が宗教上のテーマを扱うことの正当性
人間にとって“死”は、避けることができない重要なテーマです。私たち人間の前には、常に“生”と“死”という根源的なテーマが横たわっています。人間について正しく理解するためには生と死の両方を理解することが不可欠なのですが、これまでの医学は、人間の“生”の部分だけに目を向けることで良しとしてきました。死や死後に言及することを避け、意識的に無視してきました。
医師たちは、もし遺族から「人間は死んでも霊魂として生き続けるのでしょうか?」「死後の世界はあるのでしょうか?」などと聞かれると本当に困ってしまいます。そこで「そうしたことは、お坊さんか牧師さんに聞いてください」と返事をすることになります。
ホリスティック医学は、人間を丸ごと見て、丸ごと対処することを目指します。それは必然的に“生”と“死”の両方の問題を扱うことになります。ホリスティック医学が「死の問題」を取り上げるということは、従来の医学の領域を逸脱して、宗教と医学を同次元において扱うという前代未聞の領域に参入することを意味しています。これまでタブー視されてきた領域に足を踏み入れる、ということなのです。
真のホリスティック医学では、医学が「死の問題」を正面から取り上げたとき初めて、本来の医学の立場に立つことができると考えます。死の問題は宗教に任せっきりにしてよいものではなく、医学でも取り組まなければなりません。正しい医学思想とは――「死生観」を含むものでなければならないのです。
“死”とは、霊体と肉体の分離現象のこと
大半の人間にとって死は、悲劇であり、不幸であり、悲しみです。人々は死を恐れ、何とかして死を避けたいと願ってきました。
すでに本書の「人間観・身体観」の箇所で見てきたように、人間は「霊」と「霊の心(魂)」と「霊体」という3つの霊的要素と、「肉の心(肉体本能)」と「肉体」という2つの物質的要素から形成されています。死とは、その霊的構成要素と物質的構成要素が分離する現象に他なりません。
人間が地上人生を送っている間は、霊体と肉体は“シルバーコード”と呼ばれる半物質のヒモのようなものでつながっています。このシルバーコードが切れることで霊体と肉体は永遠に分離し、肉体は単なる物体となって分解し、消滅することになります。これが、真のホリスティック医学が明らかにした“死の真相”です。
人間は“死”によって消滅することはない
「霊体」による新しい人生の出発
死によって肉体を脱ぎ捨て、「霊体」だけになった人間は、死後の世界である霊界で永遠の生活を始めるようになります。死はすべての終わりではなく、新しい人生の出発点なのです。肉体から分離した霊体の中には「霊の心(魂)」があり、それによって人間は死後も活発な意識活動を続けることになります。肉体が死んで“脳”がなくなっても、人間は依然として高度な精神活動を営むことになります。死によって意識が消滅するどころか、死後にはいっそう活発な精神活動・思考活動を展開することになるのです。
こうした状況を他界した人間サイドに立って眺めると、「自分は死んでも、まだ生きている」ということになります。生前、死によってすべてが消滅すると信じてきた人間は、死の直後、自分の死体を見たり、自分の死に立ち会っている医師や家族の姿を見て、混乱するようになります(*これと同じような内容を、しばしば“臨死体験者”が語ることがあります)。死んだ当人は、「自分は幻を見ているのではないか? 頭がおかしくなってしまったのではないか?」と不安を抱くようになります。
実は唯物論者ばかりでなく大半の人間が、死後の混乱状態を体験することになります。今は、作り話か空想だと頭から決めつけ否定している人も、死んだときには自分自身でその事実を確認することになるのです。多くの人々がこうした当たり前の霊的事実を知らず、死後の世界の存在を迷信として否定しますが、間違っているのは否定する人のほうなのです。
死は、祝福と救いが与えられる“喜びの時”
死んで幸福になる他界者
真のホリスティック医学が明らかにした“死”についての真実は、人間は肉体の死によって消滅することはないということだけにとどまりません。死後、霊体だけになって生き続ける人間の内面の様子・考え方までも明らかにしています。
人間は死後も依然として生前と同じ個性を持ち、同じような考え方をし、意識活動を続けます。それは、死が新しい人生の出発点であることを示しています。肉体の死は、単なる自然現象の1つにすぎず、使い古した衣類を脱ぎ捨てるようなものなのです。新しい世界(霊界)への誕生は、チョウがサナギから脱皮して、自由を満喫するようになるのと同じことなのです。
他界した人間にとって自分の“死”は、悲劇でも不幸でも悲しみでもありません。それどころか大半の人間は、死によって肉体がなくなると、身体全体が軽やかになり、清々しさを感じるようになります。生前は病気で苦しみ、痛みに耐える辛い時を過ごしていた人も、死によって状況が一変するようになります。身体の苦痛は消え、健康体になるのです。まさに“死”は、悲劇ではなく救いであり、“喜びの時”なのです。地上時代に考えていた死に対する常識は、死後、根底から変化するようになります。恐れは安心に、苦しみと不幸は喜びと幸福になるのです。
他界者は、地上で自分の死を悲しんでいる家族や知人の姿を見ると、自分が元気で生きていること・幸福に過ごしていることを何とかして伝えたいと思うようになります。それが地上の霊的に敏感な人間(霊的能力者)に、霊からのメッセージやインスピレーションとして届くことになります。
死別を悲しんでいるのは地上の遺族だけ
霊界にいる他界者からすれば、死別を悲しんでいるのは地上の遺族だけ、ということになります。死んだ本人は、自分の死を少しも悲しんではいません。それどころか地上時代に苦しんできた肉体の病気や障害から解放され、爽快感・幸福感に浸っています。元気で生き生きと過ごしているのです。そうした状況を客観的に眺めると、死別を悲しむのは滑稽ということになります。
死の真相が分かると、死は決して悲劇でも不幸でもなく、肉体の苦しみや痛みから解放される“ありがたい出来事・祝福すべき時”となります。死についての真実が分かれば、愛する人との死別を悲しむことはなくなり、死を新しい人生の門出として祝福するようになります。死は、辛い地上人生を歩み終えたことに対する“ご褒美”となるのです。
地上人類はあまりにも「霊的事実」について無知であるため、単なる自然現象にすぎない死を大げさに捉えて悲劇と勘違いし、不要な悲しみを抱いてきました。死を歓迎すべきものと捉えることができれば、わずかばかり寿命を延ばそうとする無駄な“延命治療”などしなくなります。医学的処置によって苦痛を取り除くことは、間違ってはいません。肉体の苦痛をできるだけ取り除き、安らかに死を迎えられるようにしてあげればよいのです。
※死の直後の様子や死後の世界(霊界)での生活の実態については、「スピリチュアリズム普及会」のホームページや出版物で詳しく取り上げています。特に『500に及ぶあの世からの現地報告』は、死の直後の様子と死後の生活を知るうえで必須の書物と言えます。こうした書物については、「スピリチュアリズム普及会」の第2公式サイトで無料公開しています。