“脳死”は人間の死ではない!

現代医学における脳死判定の功罪

コラムNo.17

唯物主義に立脚する近代科学は、心を「脳という物質の産物」と定義します。心とは、脳内にある数百兆もの神経の電気回路から生じる随伴現象であると考えます。

心は脳の機能・産物にすぎないとする考え方は、現在では臓器移植の際の“脳死判定”をめぐって複雑な問題を引き起こしています。唯物科学は究極的には、「人間性や自我は脳によってつくり出される」という考えにまで至ります。脳によって理性ある人格が形成され、脳が働いている間だけ人間らしくいられるとの主張につながっていきます。そうした考え方は、“脳死”という脳の機能が止まった時をもって、人格や人間の尊厳性そのものが消滅することを意味します。死後の生命の存続を認めない以上、脳の死(機能停止)は、人間性と人格の終焉ということになるのです。

“ホリスティック医学”の1つの分野である「ホリスティック精神学」では、たとえ脳の機能が停止しても、それは人間の物質次元の構成要素の1つが不全になったにすぎないと考えます。霊的次元では、知的生命活動が変わりなく続けられています。脳の機能が停止したとしても、人間を構成する霊的部分には何の変化もなく、しかもその霊的部分は依然として肉体部分と一体関係を継続しています。霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れて、すべての肉体機能が完全に停止しないかぎり、人間としての霊肉の一体性は失われません。脳死状態になったとしても、人間としての尊厳性・価値は消滅しないのです。

こうした「ホリスティック精神学」の見解によれば、“脳死”を人間の終わりとする考え方は間違っていることになります。現在では、脳死状態に陥りながら、その後、長期間にわたって生き続けた事例が明らかにされています。こうした事実から見ても、脳死を人間の死と認定することは間違っています。脳死を人間の死と決めつけ、生きた肉体から臓器を取り出して死に至らしめる行為は、殺人と同じことになります。脳死を一律に“死”と認めるならば、植物人間・重度脳障害者にもそうした認識が及んでいく危険性をはらんでいます。

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