8 トゥーリナとターラン8
第一者になってからのトゥーリナは、家族を構うようになった。ターランにとっては、今まで以上に穏やかではない日が始まったが、前よりトゥーリナが優しくしてくれるようになったので、そんなに不満はなかった。
「本を買ってきた。」
トゥーリナが言った。第一者になった初日はターランのお尻を叩いてまで嫌がったジャラジャラした飾りを鳴らしている。ターランがつけるという条件付きで諦めた彼だった。
「なんの本なの?」
トゥーリナの態度が変わってきたのに戸惑いを覚えながらも、嬉しい百合恵は、普通の言葉で夫に話せるようになっていた。トゥーリナもやたら怒らなくなり、それを望むようになったからだ。
「“お尻の叩き方”ってのと、“妻の躾の仕方”ってのと、“20から50くらいまでの子供との接し方”ってのだ。」
「子供との接し方っていうのは分かるけど、何よ、それ。」
「妖魔界は、教育熱心な男性が多くてね。躾関係の本は、とても売れているんだ。」
ターランが口を挟んだ。
「それって、トゥーリナが腰に鞭をぶら下げる様になったのとも関係してるの?」
「この城やザンの城の部下達もそうしてるけど、妖魔界の父親は、鞭を腰に下げるのが常識だそうだ。」
トゥーリナが言った。トゥーリナ達は、新しいお城を建てずに、ギンライのお城に住んでいる。ザンのせいで酷い男になったと分かったトゥーリナが、父親の側にいると決めたからだった。
「トゥーリナがリトゥナを躾ようとしないから、かわりにとフェルさんがやったけど、鞭で時々ぶったわ。」
「鞭はうんと悪い子の時に、お前はこれで打つくらいの悪いことをしたって、教える為に使うんだってさ。」
ターランが言う。
「フェルさんも言ってたわ。でも、それは小さい子の場合で、大きい子は痛みを強くする為だって。」
「そうみたいだな。」
トゥーリナは本を読みながら言う。百合恵は妖魔界語が読めないけれど、興味が沸いてきて、“お尻の叩き方”を手に取った。リトゥナが側に寄って来て、恐る恐る手元を覗いてきた。
最初のページは目次で、膝の上でお尻を叩かれている子供のイラストと、同じようにされている女性のイラストがあった。次は、色々な姿勢が載っていた。ページをめくっていくと、赤く塗られたお尻のイラストや、様々な鞭の写真があった。泣いている相手を抱きしめている写真や、普通の日本人だった百合恵は知らないけれど、コーナータイムのイラストもある。それに疑問を持った百合恵は、夫に訊く。
「この濃い色になったお尻を出したまま立っているのは、どういう意味なのかしら?」
そのイラストの妖怪の肌は肌色ではなく、お尻は違う色に塗られていた。
「……。…うーんと、…叩かれて興奮している気持ちを落ち着けたり、叩かれた尻を晒すという羞恥心を感じさせる罰だと書いてある。」
トゥーリナは暫く字を見つめてから、読んだ。
「へーっ、羞恥心の罰だなんてなんだか厳しすぎるわね。」
「それは、やった悪さの内容にもよるだろ。」
「そうねえー。うんと心配させたり、危険なことをしたら、うんと叱らなきゃね。」
百合恵は納得した後、夫の顔を見た。「ところで、トゥーリナ。貴方、字を読むのにとても時間がかかっているみたいなんだけど、妖魔界語って難しいの?」
「俺は、奴隷みたいな生活をしていて、教会にあまり行けなかったから、そんなに字を読めないんだ。」
難しい顔をして言うトゥーリナ。ターランは、意味が分かっていない百合恵に言葉を足す。
「妖魔界の学校はお金持ちの子しか行けないから、普通の家の子は教会で勉強するんだ。」
「そうなの。」
「字が読めないと仕事が出来ないから、少しは勉強したんだ。でも、仕事用の難しい言葉は分かるようになったけど、簡単な言葉は分かりにくいんだ。」
「なんとなく分かるわ。日本でもあったのよ。政治家…えっと、妖魔界の第一者みたいな人達や裁判官…うーん、悪事をした人達を裁く…あ、お仕置きする…違うわ、そうね、与える罰を決める人達…これが近いかしらね、…そういう人達が話す言葉は難しくて、良く分からないの。つまりトゥーリナは、専門用語の読み方を覚えたけど、それ以外の言葉はまだ勉強中なのね。」
「…うん、まあ、そんなもんだ。…たぶん。」
説明してくれたとはいえ、妖魔界語にない日本語を連発されたトゥーリナは、困惑しながら答えた。
百合恵は、リトゥナを膝に乗せて撫でているトゥーリナを幸せに浸りながら、眺めていた。リトゥナは急にお父さんが優しくなってしまったので、怯えながらもいつまた怖くなってしまうか分からないと、しっかり甘えていた。本当は、そんなことは決してないのに。
躾の本は3冊ともしっかり読んだ。なんだか妙に親切なターランが読んでくれたので、妖魔界の躾も分かってきた。20歳のリトゥナがやたら子供っぽい理由だけは、何度説明されても分からなかったけれど。
「トゥー…。僕、今まで生きてきて、こんなに幸せになれるなんて、一度も思ったことがなかったよ。」
「そうか。俺もだ。(お前とこんなことしなきゃならないなんてな。)」
数日後のターランの部屋。彼は微笑んだ。人間の女に変身していないのに、トゥーリナは彼を満足するまで、充分に愛してくれた。
「僕、もう死んでもいいや。」
「何馬鹿なこと言ってるんだ。お前がいなきゃ、俺は第一者なんてやっていられないぜ。(お前は一番面倒な仕事をやってるのに。)」
「…嬉しいよ。そんなに必要とされていたなんて。今日は、僕にとって最大にいい日だ…。」
ターランはトゥーリナが言外に匂わせている冷たい言葉には気が付かずに、感無量の表情だ。トゥーリナは少し罪悪感を感じたが、無視して言った。
「そんなに喜んでいるんなら、俺にも少し分けてくれてもいいよな?運動したから、喉が乾いたんだ。」
「どうぞ、好きなだけ。」
ターランが頭を傾けた。トゥーリナがターランの首に噛み付いて、血を吸った。
こきこき。首を回転させながら、トゥーリナは廊下を歩いた。道具を思い通りに動かすために必要な行為だとはいえ、燃料代は高いような気がした。それに、なんだかまだ渇きが癒えていないような気がする。
百合恵の部屋へ入る。
「喉が乾いたんだ。」
百合恵を押し倒し、驚いてもがく彼女を押さえつけて、血を吸う。百合恵がいたっと悲鳴を上げた。
「鳥になったら味が変わったなあ…。人間の時の方が美味かった。ま、皺だらけになってからは不味かったけど。」
充分に吸った後に、妻に言うと、びたんっとびんたの返事が返ってきた。
「痛いから嫌だって言ってるじゃないっ。貧血にはなるし、血が有り余ってそうなターランさんから貰えばいいじゃない。さっきはリトゥナにもあげたのよっ。」
「何すんだっ。男に手を上げるなんて女のすることかっ。それに、ターランにはもう貰ってきた。」
痛くはなかったけれど、つい頬を撫ぜながら、トゥーリナは百合恵を睨む。
「わたしは生まれも育ちも日本ですからねっ。妖怪の女性とは違うのっ。」
「でも、今は妖怪だ。それを教えてやるぜっ。」
トゥーリナは、先日買った本の通りに、百合恵を抱き寄せ、膝の上に寝かせると、スカートの上から、お尻を叩き出した。ぱんっ、ぱんっ。
「いやあっ、何するのよっ。痛いったら。わたしは子供じゃないのよっ。それに貴方が悪いんじゃないっ。」
暴れている百合恵を押さえつけながら、本の内容を思い出す。
「えっと、同じ所を続けて叩くと痛いので、厳しく罰したい時以外は、色んな場所を叩く様にする…と。」
ぱんっ、ぱんっ。トゥーリナは色んな場所を打つと決めた。ぱんっ、ぱんっ。
「何よ、わたしをお尻を叩く実験台にしたいの?」
「それから…男性の力は強いので、力を入れ過ぎないように…尻の常態を見ながら…。…あれっ?」
百合恵の言葉を聞いていないトゥーリナは叩く手を止める。「尻が出てない…。下着を下ろすのを忘れた。」
「もうっ。わたしをお仕置きしたいんじゃなくて、叩き方を覚えたいの?」
スカートを捲くられながら、百合恵は呆れて言った。
「両方だ。…ん?膝に乗せたまま、下着を下ろせるみたいに書いてたけど…。うーん、初心者には無理か…?…ほら、立てっ。」
ぴしっ。嫌がる百合恵のお尻を鋭く叩くと、トゥーリナは彼女を立たせた。暴れて逃げようとするのをなんとか押さえて、パンツを下ろす。
「もう嫌よっ、お尻叩きはリトゥナで覚えればいいじゃない。痛い、痛いってば。」
百合恵はまた膝の上にうつ伏せにされながら言う。しかし、お構いなしに、ぱんっ、ぱんっとまた手が飛んでくる。百合恵は必死に痛みを堪える。
「“妻の躾の仕方”には、尻叩きが出てたぞ。妖魔界の男は、妻を躾る時に尻を叩くんだそうだ。前の俺みたいに、顔を叩いたり殴ったりする男は、暴力男だと軽蔑されるとさ。」
ぱんっ、ぱんっ。トゥーリナは、百合恵のお尻の赤みが少ない部分を優先して手を振り下ろす。ぱんっ、ぱんっ。
「お尻を叩かれるよりは、前の方がましよっ。」
「第一者様が暴力男…なんて訳にはいかねーよ。親父より評判が悪くなっちまう。」
もう止めた方がいいか?と思いつつ、トゥーリナは続ける。どれくらい叩けばいいのか分からない。「それに、尻が一番丈夫だって言うし、尻叩きの方がやりやすい。」
「何がどうやりやすいのよっ。」
「手加減が。…俺はほんの軽く力を入れただけで、お前をばらばらに引き裂けるんだぜ?」
トゥーリナは、百合恵の首筋を体を押さえていた方の手の長い爪でなぞる。痛みで喚いていた彼女はぞっとして黙る。「…顔だと攻撃みたいだけど、尻をこうやって剥き出しにして、引っぱたく戦い方ってないからな。」
静かになった妻を撫でながら、一旦手を止めて、彼女のお尻の状態を眺めた。大分赤くなっている。もういいかと思った。これ以上叩きたいとは思わない。許すと決めた。百合恵を抱き上げて、膝に座らせる。そっと抱き寄せて、背中を撫でた。
「リトゥナも血を吸ったと言っていたな。…何か考えないとなあ…。俺達は血を吸わないと生きていけないし…。…百合恵?どうした?」
「何でもないの…。」
顔色の悪い百合恵は静かに答える。
「叩いといて、どうしたもないか。あー、あんまり吸われすぎて血が足りねえのかもな。今、尻を叩かれて興奮したし。あんまり体に良くなさそうだもんなあ…。」
トゥーリナは、百合恵をベッドまで運んだ。「大人しく寝ていた方がいいな。リトゥナの相手は、俺とターランでしておくから、ゆっくりしてろ。」
「ええ。」
「…ん、そうだ、これだけは言っておくが、これからお前が悪かったら、また今日みたいに尻を叩くからな。前みたいに俺の勝手な理由で手を上げたりはしないけど。」
トゥーリナは、百合恵の頭を撫でる。「俺は、第一者になって、やっと家族を大切にできる余裕が持てた。ガキの頃欲しくてたまらなかった暖かい場所だ。これからはもう前みたいな俺にはならないから。俺に目指すものはもうないし、やっと手に入れた必要なものだもんな。…愛してる。……なんか改めて言うと照れくさいもんだな。」
照れ隠しに頭をぼりぼり掻いているトゥーリナを見た百合恵の顔に笑顔が戻る。
「わたしもよ、トゥーリナ。でも、お尻叩きは嫌。子供じゃないもの。」
トゥーリナの顔が迫ってきた。百合恵は唇に柔らかいものが当たるのを感じた。
ギンライの部屋。
「親父、生きてるか?」
トゥーリナはギンライに呼びかける。ギンライがベッドから身を起こす。
「夢を見ていた。キシーユが元気で笑ってた。」
「そうか。今は天国で待ってるさ。」
「あいつは地獄から出られないんだ。」
「そんなことないだろ。どんな悪い奴でも、罪を償えば天国に戻れる。そいつはもう天国さ。」
「あいつは地獄で苦しんでる。俺を待ってるんだ。」
「…分かった。でも、今すぐ逝かなくてもいいだろ?俺だって、あんたと一緒に居たいんだ。」
「…お前は誰だ?キシーユを何処にやった?」
「…。」
「キシーユ。キシーユ…。」
ギンライの瞳は、もうトゥーリナを見ていなかった。トゥーリナは淋しくなった。
医者は、病気が心も蝕むのだと言っていた。ザンとのことを知らないから…とも思ったが、同じ病気に罹った者を見たら、似たようなものだった。しかもその病気は、極悪人と言われる者しか罹らないと聞いた。この病気は神が魔の生き物である妖怪を押さえつける為に作りだし、選んで与えていると言う者も居た。どこまで正確かは分からない。妖魔界は、高度な文明と迷信が入り混じった世界だから。
「キシーユって誰か、お前知ってるか?俺はそいつが死んで、今はもう居ないってことくらいしか知らねえけど、ギンライの奴が良く言うんだ。」
仕事の後、ザンに聞いてみた。
「ギンライが面倒を見ていた雪女の子供だ。預かっていたらしい。そいつはとんでもない悪ガキで、ギンライをたきつけて、タルートリーを襲わせた。」
「ガキが第一者を襲えと言っただと?」
「詳しくは知らないんだ。ギンライは、無理矢理ついて来たそいつと一緒にタルートリーの城に来た。しかし、部下達の誰かがその子供を殺してしまった。賊の一人だから仕方ないが、寒くなる程度の吹雪しか起こせない雪女の子供を殺したそいつもおかしいよな。」
「あんなに想うってことは、面倒で五月蝿いだけのガキじゃなかったんだな。」
「ギンライは第一者になった後、キシーユを殺したそいつをかなり残酷なやり方で殺した。…ううっ、思い出しちまった。」
ザンは顔を歪める。彼女は戦っている最中、相手がどんな酷い死に方をしても平気だが、何ともない時にそういうのを見ると気を失ってしまう。そういう所は女性である。
「見てたのか。」
「具体的には言いたくねえけど、拷問が済んだ後、目立つ様に晒してたんだ。生きていた時も死んだ後も、骨すら残らなくなるまでずっと。」
「あんまり想像したくねえな。…俺も百合恵達を殺されたら、そうなるんだろうか…。」
トゥーリナはそう思った。父の心に思いを馳せた。本当はおかしくなってしまったのは、子供とは言え大事な女を失ったからなのじゃないかと…。