兎の少年ラルスの物語
33話
目の前を歩く弟の背を、ラルスは寂しげに眺めた。
『弟がいるって分かっていたら、僕、もう少し頑張ったのに…。』
そうしたら、壊れることもなく、実の父と弟に会えたのに。『ほんと、僕って馬鹿だったね…。』
「どうした、兄貴?隣に並んで歩いてもいいんだぞ。」
心配そうな顔で、弟が訊いてきた。ちょっと前までは、ラルスが兄だなんて嫌そうだったのに、今はもう弟の顔になっている。
第一者は家族を大事にする男。そんな噂をここに来るまでの間に、耳にしていた。それは正しかったらしい。…まあ、そんな噂を聞く余裕があったのなら、ギンライのことを訊けば良かったのだけど。でも、自分には時間が…。
「何でもないよ。弟って可愛いなあと思っただけ。」
「可愛い…。」
「そうだよ。僕、弟か妹が欲しかったの。」
「あ、そういう意味か…。」
「他にどんな意味があるの?…男が可愛かったら、怖いじゃない。」
ラルスが言うと、トゥーリナは顔をしかめた。
「だから、俺は兄貴に話し方を直して欲しいんだよ。」
「…うっ。そ・それはそれ、これはこれってことで…。」
へへへへ…。ラルスは笑って誤魔化した。
少し大きな扉の前で、トゥーリナは立ち止まった。それを見たラルスは、自分も立ち止まって呟いた。
「このおっきい扉が、本当のお父さんの部屋の入り口なんだね。」
「ああ、そうだ。」
答えながら、トゥーリナが扉に耳を当てたので、ラルスはぽかんとした。
「何してるの?」
「発作中なら、親父の呻き声が…。わっ!」
扉が開いて、トゥーリナがこけた。
「いい加減に慣れろよな…。俺はそう簡単に死なない。」
部屋の中から出てきたのは…。車椅子に乗ったギンライだった。
ラルスの記憶にあるギンライは、げっそりと痩せこけ、今にも死にそうな様子だった。その後で、見た目とは裏腹に、発作中には暴れまわる力が残っていると分かったが、それでも、自力で何かをする力などなさそうだった。
しかし、今のギンライは、電動式車椅子に自分で座る力くらいはあるようだ。それに、骨と皮一歩手前だった顔が、普通の人の痩せ気味程度に丸くなっている。
「いきなり開けるなよな。」
トゥーリナがむくれている。
「俺の部屋に来る度に、親父が死んでるかもなんて、気配を探ろうとするのが悪い。毎回やられると、不愉快だ。」
『わ、普通に喋ってる。あんなに喋るのが大変そうだったのに…。』
「死んでるかもなんて、思ってねーよ。発作で叫んでいるのが、嫌なんだ。」
「親父が発作で苦しんでるよぉ、どうしようって泣きたくないからか。」
「誰がだ、ふざけんな!」
トゥーリナは怒鳴った。
『わー、すんごく楽しそうだなあ…。羨ましい…。…あーあ、あの時もうちょっと頑張っていれば、ここでこんなに楽しそうにしていたのは、僕だったのに…。』
壊れる前、たった10年でこの城へ着く場所に居たのだ。父が死なず、自分が壊れさえしなければ…。軽口を叩きあうトゥーリナとギンライを見て、ラルスは、胸に後悔と嫉妬と大きな寂しさが満ちていくのを感じた。
俯いているラルスへ、トゥーリナが声をかける。
「あ、悪いな。俺ばかりが親父と話したりして…。」
トゥーリナはギンライの方を向くと、「親父、聞いて驚け。なんと…。」
「ラルス…。」
トゥーリナが皆まで言う前に、ギンライが呆然とした顔で呟いた。「お前…どうして…?」
「初めまして、本当のお父さん。」
「何だよ、俺の顔はアルバムで見るまで分からなかったのに、兄貴はひと目で分かるのかよ。…なんか、ずるいぞ。」
トゥーリナはむくれてしまったが、ラルスもギンライも聞いていなかった。
「一体どうやって、ここまで来たんだ?」
「運とか、色々と助けがあって。…ねえ、本当のお父さん。僕がテレビで見た時、あなたは死にそうだったんだけど、今はどうしてそんなに元気なの?」
ギンライはトゥーリナを指差した。
「こいつに手がかかるから、死ぬわけにはいかなくなった。本当なら、早く地獄へ行って、罪を償ってしまいたいんだけどな。地獄には、俺のいい女も待ってるんだが…。まあ、仕方ないさ。あいつは理解ある女だから、ゆっくり待っていてくれるさ。」
「へーえ。」
「また、俺をガキ扱いしやがって。」
トゥーリナが憤慨している。
「お前にも、手をかけてやりたかった。多分、トゥーリナのいい兄貴になったろうに。」
「有難う、本当のお父さん。」
「何だよ、それ。これで今生の別れみたいじゃないか。折角こうして親父の息子が増えたんだ。兄貴もこの城で暮らせばいい。ここは親父の城だ、遠慮なんかしなくていいぞ。妻や子供とか恋人なんかが居るなら、連れてこいよ。歓迎するぞ。」
トゥーリナは笑った。「親父に本当のお父さんなんて言ってるってことは、育ての親も居るんだろ。そいつらも一緒に住めばいい。家族が増えれば、百合恵やリトゥナも喜ぶ。あ、今のは俺の妻と息子の名前なんだ。後で会わせるな。」
「ごめんね、トゥーリナ。それってとっても素敵なことなんだけど、無理なんだ…。」
「何でだよ?遠慮すんな。」
トゥーリナが不思議そうな顔をする。それを見たラルスは、さっきトゥーリナに嫉妬したのが恥ずかしくなった。
「君を見てると……、ごめん、何でもない。」
ラルスは胸が一杯になり、涙が溢れた。「僕…どうして…、たった10年だったのに…。」
「兄貴!?」
「トゥーリナ、ラルスは…。」
「駄目っ!!絶対に言わないでっ!!」
ラルスは叫んだ。
「何を?…なあ、親父と兄貴、何を隠してんだよ。」
「たいした事じゃないよ。それに、どうせ、もう少ししたら分かることだから。」
ラルスは涙を拭うと、にっこり笑って見せた。トゥーリナはそれがあまりにも痛々しい顔だったので、何も言えなくなった。「ねえ、トゥーリナ。」
「何だ…?」
「僕、君にお願いがあるの。」
「何だよ?俺に出来ることなら、何でもするけど…。」
「僕って、会ったばかりの君に、変な所ばかり見せてるのに…。優しいね。有難う、トゥーリナ。あのね、僕、ここに来るまでの間に、それなりに必死で鍛えたの。」
「それで?」
ラルスが黙ってしまったので、トゥーリナは続きを促した。
「…それでね、第一者様にこんなことを言うのは、図々しいんだけど…。」
「あー、分かった。俺と戦いたいって言うんだろ。腕試ししたいんだな。」
「察しが良いんだね。うん、そうなんだ。あのね、僕が君の足元にも及ばないのは、重々承知のつもりなんだけど…。でも、折角、一所懸命鍛えたからさ。…いいかな?」
「いいぜ。この城には闘技場といって、それは素晴らしい物があるんだ。そこへ行こう。」
トゥーリナが先にたって歩き出した。ラルスはギンライの方を向くと、ぺこっと頭を下げ、弟の後についていった。
「…ラルス…。」
ギンライは呟くと、俯いた。
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