兎の少年ラルスの物語

30話

 ラルスの村。畑仕事の手を止めて、神父は、空を眺めた。
「おじいちゃま、疲れたの?」
 少女が心配そうに、神父に声をかける。
「いえ…。そういうわけではありませんよ。」
 神父は曾孫に微笑みかけた。
「えー、お父さんはこれくらいで疲れたりしないよ。ね、お父さん。」
 少年が少女を睨む。
「これこれ、喧嘩をするものではありませんよ。」
 妖怪の寿命は、人間からすると永遠にも思えるくらい長いので、妖怪は、何回も子育てをする。そのせいで、子供よりも曾々孫が年上なんてこともありえるのだ。
 神父はため息をついた。子供達が二人とも心配そうにしたので、「何でもありませんよ。」と微笑んだ。
 『わたしも、2300と少しを過ぎました。それならラルス、お前は700を超えたでしょう。いつまでも何をしているのですか…?シースヴァスさんは確か、お前をギンライ様に会わせるというようなことを言っていました。でも、この辺鄙な村には一向に、兎がギンライ様へ息子だと名乗り出たという噂が聞こえてこないのですよ。どうしてなんでしょうね…。
それとも、とうにお前は死んでいるのですか?もしそうなら、どうしてお前は天国の住人として、わたしの前へ姿を現さないのですか…?』
 忘れようとしても忘れられないラルス。神父は、深いため息をついた。

 そのラルスは、
「町が見つからなかったら、どうすればいいのか、訊けば良かったなあ…。」
 ふふふ、へへへと笑っていた。父に死なれてから、400年がたった。そんなに長い間もったのに。「もう駄目だよ。へへへへ…。」
 周りに転がっている死体をラルスは無感動に眺めた。
 そう。あんなに恐れていたのに、父を殺した相手と同じ…壊れた人になりかけていた。2度、壊れかけたことがあった。その時は、ギンライの城が間近だというのに引き返して、町にこもった。でも、今回は、町を見つけることができなかった。そして、3度目の正直。ラルスは、とうとうこうなってしまったのだ…。
 バッグから、父の髪の毛と自分の耳を包んだ布を出した。その布は、町を見つけた時に、いいものと取り替えてあった。耳は自分でくっつけることができず、さりとて、父の腕のことですっかり町の医者に不信感を抱いていた為に、医者に頼むこともせずに、布の中に仕舞われたままだった。
「もう少ししたら、これ、いらない物になりそう…。」
 壊れたら感覚が変わると聞いた。それまで大切だった物がどうでも良くなったりと、普通の人とは違う感覚を持つようになるそうだ。それなら。「まだ大切と思えるうちに、埋めよう。」
 ラルスは、遺体が沢山転がっているこの場所は避け、違う場所に埋めることにした。

 穴を掘り終わると、布ごと、父の髪の毛と自分の耳を埋めた。今度の穴はそれ程深くなかった。父の遺体とは重要度が違うというのもあるが、既に大切な物だという感覚が薄れてきているのかもしれない。
「おーわったっと。」
 ラルスはその上に横になった。ここ何年かまともに寝ていないような気がする。壊れかけは、殺す以外のことはどうでも良くなるので、食べるのを忘れ、餓死する妖怪もいるくらいなのだ。ラルスは、神父に粗食を強いられていた過去があるせいなのか、彼にとって食べないということは死に等しいので、ちゃんと食べていた。しかし、それ以外は何かをした記憶がない。切りつけた時、返り血を浴びるのが気持ち良くなった、などの怖い記憶ならあるのに。

 目を覚ました。いつものように今日もいい天気だった。ラルスは空がとても明るい気がした。体を起こすと、自分の姿を見てみる。
 『うわ…、裸と一緒だよ、これ。どうりで、昨日襲った人が、僕が何も言わないうちから悲鳴を上げたはずだよ…。あの時、僕は剣すら見せてなかったのに。』
 恥ずかしくなってきたラルスは、急いで川を探し、飛び込んだ。『髪の毛が固まってる…。』
「うわっ。川の水が濁るよ!どんだけ汚いの、僕。」
 ラルスは、川で丁寧に頭と体を洗った。

 体が痛くなるくらい擦り、きれいさっぱりになって、ラルスは川を出た。体を乾かしてから、バッグの中に仕舞いっぱなしになっていた、新しい服を着た。
 はふ。息をついた。久しぶりにまともな服を着たせいなのか、ちょっと変な感覚だ。
「僕、とうとう完全に壊れちゃったね。」
 自分の汚れや服装に気を配れるということは、壊れかけという時期を過ぎたのを示す。「きっと、昨日、耳と髪の毛を埋めた時に、最後に残ってた心も捨てたんだね。ふふ。」
 悲しくなかった。そういう気持ちは消えたから。むしろ、厄介なものが消えて嬉しい気分だ。だから、空が明るく見えたのだろう。
 『さあって、沢山、遊ばなきゃね。』
 昨日までは気づいていなかったが、酷く汚れ、裸同然の姿で、しかも悪臭を放っていたラルスは、なかなか獲物を見つけられなかった。昨日の人達は、旅慣れていなくて、変な人が近づいてきても、身の危険を感じられなかったのだろう。でも、今は綺麗になった。これからは楽しめるだろう。
 ラルスは楽しくなって笑い声を立てた。今の彼の脳裏には、神父様も、父も、ギンライも存在しなかった。壊れてしまった彼には、必要のない記憶になってしまったのだ…。
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