兎の少年ラルスの物語
21話
数週間後。父が宿屋の庭で剣を振っているのを、ラルスは眺めていた。父は利き手である左手が使えなくなってしまったので、日常生活すら困難のようだった。日本人なら、左利きは直される場合が多いので、左利きの人は両手使いになれる。しかし妖魔界では、利き手が左でも右でも問題ではなく、直されるということもない。それ故、父は右手を殆ど使えない。だから、リハビリは主に右手を使う練習だそうだ。リハビリが順調に進んでいる父は、それだけでは物足りなくなったらしく、医師の許可を得た上で、こうして少しだけ剣を扱う練習をしていた。
左手だけが駄目になったわけではなく、歩く時、少しだけ足を引きずるようになっていた。ぱっと見ただけでは気づかないかもしれないくらいなので、日常生活をする分には殆ど問題はない。しかし、戦いに生きるとなると、いずれは慣れるであろう右手を使うことよりも、そっちの方が問題だった。
ラルスは、自分は顔に少し傷が残っただけなのに、父はこんなにも重い障碍持ちになってしまったことに、責任を感じていた。自分が実の父に会おうなどと思わなければ、父はこんな荒くれ盗賊どものいる危険な地域ではなく、自分が住んでいた村の近くで弱い盗賊だけを相手に、消えない傷を増やしながらも今でも五体満足に生きていたかもしれないのだ。そう思うと、神父様の言う通りにしながら、大人しく生きていれば良かったと後悔の念が沸いてくる。
「どうした、ラルス。そんな重苦しい顔なんかしやがって。」
父は剣を何回も取り落としながらも、それがなんでもないことのようにしている。そんな明るい父の顔を見ていると、自分に心配させまいとしているのだと思えて、今度は悲しくなってきた。「こら、ラルスっ。親父の質問に答えろ。」
「僕…。僕は、どうして旅になんて出たんだろう…?」
「何だ、今回のことで怖くなっちまったのか?臆病者め。顔の傷なんて、女にもてるかも知れねーんだから、気にするな。戦士様、かっこいいなんてキャーキャー言ってくれるぞ、たぶん。…むー、俺も顔に傷があればよかったなー。俺のは見えないとこばっかりだ…。」
父はそれから悩むような表情になった。「その前に、右手を上手く使えるようにならねえと、女遊びも出来やしねえな。…そういや、ラルス、お前はどうだ?俺が入院している間に、少しは遊んだのか?最近、戦いばっかでご無沙汰だから、辛かっただろ。」
「少しでも稼ごうと思って、日雇いの仕事を探していたよ。」
ラルスは、僕が言いたいのは、そんなんじゃないと言いかけたが、父は顔をしかめた。
「お前は真面目すぎるなあ。駄目だぞ。ある程度は息抜きしておかねえと、無垢な娘さんを襲う羽目になる。金なら俺がなんとかするから、売春宿に行って来い。そして、その陰気な面を何とかしろ。」
ラルスは頭にきた。
「僕がそんな見境ないわけないでしょ!そういうことでそんな顔をしてたんじゃないよっ。」
「親に怒鳴るな。」
「…ごめんなさい。」
「じゃあ、何なんだ?」
「…僕のせいで、お父さんが障碍者になっちゃったからだよ。僕が今でも神父様と暮らしていたら、お父さんは…。…痛いっ。」
ラルスは腕を押さえた。父が鞭を振るったのだ。本当は、いつものようにお尻に当てるつもりだったらしく、父はラルスではなく鞭を不思議そうに眺めている。「なんでぶつの?」
「お前が居なきゃ、俺は死んでた。」
狙った所に当たらなかったのは鞭のせいではなく、右手で打ったからだと気づいたのか、父は鞭を元に戻した。
「…。」
「お前が、村で俺に気づいてくれなければ、俺は死んでいたかも知れねえ。それに、今回だって、あの男は、何故かはしらねえがお前を気に入ったから、俺を殺さなかった。お前と俺の怪我の違いで分かるだろ?あいつは俺一人だったら、何のためらいもなく俺を殺していた筈だ。その前にも、お前が居たから助かったことは沢山ある。お前が居なかったら、俺は壊れていたかも知れねえんだ。」
父は疲れたのか、剣を地面に置いて、自身は座った。
「そんなこと…。」
「お前にはまだその兆候が出ていねえから、教えてなかったが、壊れそうになるのは、なにも一回きりじゃねえんだ。戦っている限り、何回でもそういう時期が来る。と言っても、一生それにつきまとわれるわけじゃねえけどな。数え切れないほど殺した暁には、動物を食うために殺す時のように、何にも感じなくなるそうだ。
ほら、あの猫、あいつなんて名前だっけ?俺を誘拐魔と勘違いしたあいつは、お前を俺から助けようとして、俺を殺そうとしたろ?」
「シーネラルさんのことだよね。うん、悪い奴だから殺すって言ってた。僕が止めなきゃ、お父さんは死んでたかも…。」
「かもじゃなくて、確実に殺されてたな。あいつ、その時どうだった?嬉しそうでもなく、嫌々ながらでもなく、済まなそうでもなかった。何ともなさそうだったろ。」
「う・うん…。」
確かにあの時のシーネラルは、少し怒っているようではあったが、それは父が悪い奴だと思っていたからであって、殺すことそのものには何の感情も抱いていないようであった。
「そういう風に、慣れちまうのさ。これは、前にも教えたような気もするな…。ま、話がずれちまったが、ともかく、俺はまだそこまで達観していないから、何回か壊れそうになった。お前が居なきゃ、駄目になってた可能性もあったのさ。」
父は息をついた。「だから、二度と馬鹿なことを言うな。俺はお前といられることに感謝してる。こんな体になったのは、俺が弱かったからで、お前のせいじゃねえんだ。俺が何処にいたとしてもこうなった可能性は充分にある。そりゃ、逆も言えるさ。でも、俺は何も後悔してねえし、お前が責任を感じる必要は全くねえ。分かったか?」
父に睨まれて、ラルスは俯いた。
「分かったよ。お父さん。」
「それならいい。…よし、訓練を続けるか。…そうだラルス。」
「何?」
「気が済んだろ。早く、売春宿に行って来い。」
「……分かった。」
本当はそういう気分ではないのだが、父が五月蝿いので、仕方なく出掛けるラルスであった。
町の中をぶらぶらしていて、ふと気づくと、売春宿の前に立っていた。
「ここまでお父さんの良い子じゃなくても…。」
別に父の言う通りにしなくたって、叱られる類のことではないのに。
『…でも、お父さんの言う通り、暫くこういうとこには来てないし…。…言葉に甘えちゃえ。』
来る前に父が投げてくれた銅貨を握ると、ラルスは中へ入っていく。
売春宿は、実はすんごい技術が使われている場所である。妖魔界は基本的に人間界よりも進んだ技術を擁しているが、それを利用しているのは、一部の特権階級のみで、民は、文明とは遠い生活をしている。テレビを知らなかったラルスが良い例だ。ただ、それは特権階級の人がそういった物を面白がっているから知っているのであって、民に隠しているわけではない。大半の妖魔界の人達は、昔ながらの生活を変わりなく続けていくのが好ましいと思っているのである。
で、その技術とは…。
ラルスは、日本の銀行や郵便局にあるATMを横に長くしたような機械の前に立った。部屋にはその機械と、扉が一つあるのみで、店員などはいない。
機械には、宿にいる女性達の映像がずらりと並んでいる。ATMにあるタッチパネルのように、映像はクリックすることが出来る。クリックすると、対応した女性の全裸の立体映像が浮かび上がる仕組みだ。それはゆっくりと回転するので、尻尾や羽の有無なども確認できる。気に入った女性がいたら、呼び出しボタンを押して、開いた扉から中に入っていけば良いのだ。
訓練を終えたシースヴァスは、宿屋の部屋に戻った。汗をかいたので、備え付けのタオルを持って、浴場へ向かう。
長く泊まっているので、宿屋は朝食だけでなく、夕食もつけてくれるようになった。その分、料金は少し高くなったが、夕食を食堂で摂るよりはずっと安く上がるので、ラルスが喜んでいた。日雇いの仕事で彼が稼いでくるお金では、シースヴァスの病院代と、この宿代、そして食事代で殆ど消えてしまう。宿屋の厚意で、少し財布に余裕が出来るようになったそうだ。
ラルスがずいぶんと生活感あふれるようになってしまったので、シースヴァスは、済まなく思っていた。安月給の夫を持つ妻のように、毎日貰う給料に一喜一憂したり、やりくりの大変さに溜息をついている姿は、とても第一者様の息子とは思えない。しかし、今はどうしようもなかった。日雇いの仕事は、毎日が給料日の変わりに、きつい、汚い、危険といわゆる3Kで、障碍者になってしまった自分では、とてもこなせないのだ。
風呂で汗を流しながら、シースヴァスは、深い溜息をついた。
『ラルス、お前は俺がこうなったことに責任を感じていると言っていたが、俺は、未来ある若者にこんなことをさせている自分に腹が立ってるぞ…。』
外に出ると、太陽が昇ってきているのが見えた。
「えー?夕ご飯、さげられちゃったかも…。」
久し振りだから、燃えてしまった。追加料金を払うお金があったら、もうちょっと遊んでいたかもしれない。「ま、健全で良いや。」
父の重苦しい気持ちを知らず、ラルスはのほほんと歩き出した。
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