兎の少年ラルスの物語

18話

 ラルスが育った村。夕方から降りそうな空だと思われていたが、夜になって、とうとう雨が降り出した。
「恵みの雨ですね。最近水不足気味でしたから、明日一日ずっと降ってくれると、大変助かるのですが…。どうでしょうね。」
 神父が言うと、
「お父さん。神様にお願いしたら?」
 息子が返事をする。神父は幼い息子を抱き上げた。
「神様は、一個人の願いを叶えて下さったりはしないのですよ。」
「神様って冷たいね。」
「一人一人の願いを叶えていたら、時間がいくらあっても足りませんよ。」
 神父は息子に微笑みかけた。
「あ、そっかあ。」
「ずるいよー。お兄ちゃんばっかり。パパー、あたしもだっこ。」
「はい、はい。」
 神父は娘も抱き上げ、膝に座らせた。そこへ、
「父さん。」
 長男がやってきた。「俺の仕事を見て欲しいんだけど…。」
「わたしはお前の仕事を見たりしませんよ。」
 父の素っ気無い言葉に、息子は動揺する。下二人も不安げな表情になった。
「な・なんで…?」
「お前はもう一人前です。いちいち見てやらずとも、もう立派な仕事をこなせているでしょう?それに、わたしの監視の目がなくても、お前は手を抜いたりするような怠け者ではないと、わたしは信じています。」
「父さん…。」
 長男は顔を赤くした。彼は、父の言葉の意味が分からず、まだ不安げな弟達へ、安心させるように微笑みかけた。
「お前のことで心配事があるとしたらそれは、可愛い娘さんとの浮いた噂が一つもないことくらいですよ。伴侶は必要です。」
「わ・分かってるよ。…今すぐってわけにはいかないけど、もう少し仕事に慣れたら…。」
 焦る長男へ、神父は厳しい表情で言った。
「仕事は関係ありません!むしろ、妻と一緒に作り上げていきなさい。それが、村の夫婦のあるべき姿です。」
「はい…。」
 困っている息子を笑いながら、神父は、ラルスのことを思い浮かべた。
 『お前が立派な義兄になる筈の、わたしの子供の一人は成人してしまいましたよ…。もう帰ってきても良いでしょう?いつまでわたしを待たせるつもりですか…。』
 神父の脳裏に、幼いラルスの惨たらしい死体が浮かび上がった。もう顔も忘れたシースヴァスがその側に横たわっている。『そんなことありませんよね…?お前は無事に、ギンライ様の元へでも向かっているんでしょう…?そうですよね…?』
 神父は恐ろしい想像を振り払った。生きているのかどうか、分からないのが不安だった。せめて、ラルスがギンライへ会っていれば良いのに。そうすれば、テレビで放送されて、この村へも風の噂で届くだろうに。せめて…。
 神父の大荒れの心とは大違いに、雨はしとしとと静かに降っている。

「眠いなあ…。あふ…。」
 神父が、不安と戦いながら自分の帰りを待っているなんて思いもしないラルスは、大欠伸をした。
 彼がいるこの場所には、雨が降っていなかった。今、ラルスは頭の一部を起こしたまま、寝るという訓練の真っ最中。彼が寝ていると、時々シースヴァスが襲ってくる。防いだり、逃げたりなんて芸当はまだ出来る筈もないのは仕方ないが、気づいて目を覚まさなければならない。出来ないと、お仕置き。そういった訓練が連日続き、ラルスは寝不足だった。
 今の彼は、シースヴァスが、訓練に疲れたから俺は完全に寝るからなと宣言して眠ってしまったので、不寝番をしていた。
「駄目…寝そう。」
 ラルスは眠気覚ましに川で顔を洗おうと、近くの小川へ向かった。一週間くらい前にも、同じ状況で眠りこけて朝が来てしまい、シースヴァスに鞭で散々お尻を打たれた。今もまだ跡が残っている上に、座ると痛い。となれば、同じ轍を踏まないように、ラルスが努力するのも無理はない。
 顔を洗って少しさっぱりした。何とか起きていられそうだ。それでも不安なので、軽く運動をした。朝まではまだ長い。でも、お尻の痛みを思うと、寝る気は全くなかった。

 ラルスが成人してから、本人の意思は聞かれずに、シースヴァスの訓練が始まった。嫌ということは全然ないのだが、形だけでも聞いて欲しかったとラルスは思っている。ラルスが子供の頃と違って、シースヴァスはやたら厳しかった。神父様の方が優しい気がすると思うこともしばしばで、ラルスは、シースヴァスが怖くて仕方ない。どうしてなのかは聞かずとも分かっている。そう、生き残るためだ。ラルスが大人になって、子供の頃より危険度が減ったかといえばそうではない。だから、シースヴァスはラルスに厳しいのだ。しかし、頭では分かっていても、シースヴァスが怒鳴ったり、手を振り上げたりする度に、ラルスはもうちょっと優しくしてくれても良いのにと思ってしまう。

 待ちかねた朝が来た。父がテントから出てきたのを見たラルスは、安心して、そのまま目を閉じた。しかし、やっと寝られると思うよりも先に、耳を掴まれて往復びんたが飛んできた。
「お前が寝るのは夜だ。甘ったれてねえで、朝飯用の薪を拾って来い!」
「はい…。」
 強烈だったので頭がくらくらしたが、ラルスは何とか返事をして、ふらふらと森の奥へと歩いていく。
 その後は眠気と戦いながら、朝ご飯の支度をする父を手伝ったり、体を鍛えたりした。寝そうになると、父が怠けるなとばかり鞭で打つので、全然休まる暇がなかった。父の言葉通り、寝られたのは夜だった。

 テントの中で縮こまって寝ているラルスを眺めながら、シースヴァスは焚き火の前にいた。
「よくやってるな…。」
 反抗することも、逃げ出そうとすることもなく、ラルスはへこたれずについてくる。時々、自分は締め付けすぎているのかもしれないと思うこともあるが、最近の盗賊はやたら凶暴で、昔よりもさらに命の危険にさらされていた。ラルスに早く使えるようになってもらわないと、この先が心配でならない。数ヶ月前、久しぶりに盗賊に会ったが、シースヴァスはもう少しで殺されるところだった。彼は自分の力に限界を感じ、もし、自分に何かあったとしても、ラルスが一人で生きて行けるようにしなければならないと感じていた。ラルスもなんとなくそれが分かるから、大人しく従うのだろう。

 本当なら、ずっと可愛がっていたかった。自慢の息子として、今よりももっと優しく丁寧に鍛えてやりたい。ぐんぐん強くなっていくラルスを、誇りに思っていると伝えたい。でも、そんな暇はなかった。
「ギンライ…。」
 数年前、神が地上に降りてきた。神父とシースヴァスが話したように、神が光臨する時期がやってきたのだ。今回は鎮めてもらいたいような大災害もなかったので、神が何をするのか、妖魔界の民は様々な想像や憶測で盛り上がった。しかし、実際は何が起きたのかは分からずじまいだった。何もしないということはないので、何かはしたのだろうが、それを知る者は、シースヴァスが訊いた中には一人もいなかった。
 ただ、神が第一者の居城に向けて一線の光を放ったというのは、大勢の言葉とテレビで明らかになった。しかし、第一者も、メイドや下働きを含めた城の者達も一切何も語らなかったので、誰も何が起きたのかは知らないのだった。
 それから、ギンライが声以外は、公の前には全く出なくなったので、大方の予想通りにギンライが神からの天罰を受けたのだろうということで、この件は終わった。そして、ギンライがもう少しで死ぬとの噂が広がり、盗賊が凶暴化した。本来なら、あまりに酷い盗賊は第一者達が粛清に来るのだが、もう少しで死ぬとなれば、第二者ザンは一人になって忙しいようだし、好き勝手できると思ったらしい。
「妖魔界はどうなっちまうんだろうな…。」
 ギンライが死ぬという噂が本当なら、ラルスを急いで彼に会わせたいところだ。しかし、第一者の地位を狙った強い者達が、城の周りにうようよいるようになった今、腕に自信のない自分がまだ戦えないラルスを連れて、のこのこと第一者の城へ行くのは、自殺行為に等しい。それに、息子が第一者を継ぐことも出来るので、なおさらラルスの命が危ない。本人にその気がなくても、出る前の芽を摘もうとする輩が出てくるのを想像するのは、少しもおかしくない。

 シースヴァスは、丸まってるラルスが不憫でならなかった。
Copyright 2008 All rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-