兎の少年ラルスの物語

10話

 夜。皆くたくただった。結婚式の準備の他に、前に神父が言ったように、元から収穫で忙しいのだ。収穫した野菜は出荷して、そのお金で一年を暮らすのだから、手は抜けない。しかし、久し振りな上に、村の大切な人である神父の結婚式は盛大にしたい。となれば、目の回るような忙しさになるのは必須だったのだ…。
 ラルスはご飯中に寝てしまいそうになり、神父叱りつけられた。
「いくら疲れているからって、スープに顔を突っ込みそうになる人なんていません!」
「ごめんなさいっ、神父様ぁ!」
 いつもなら、神父がラルスを叱ると何か言いたそうにするシースヴァスも、今日は疲れているからなのか、黙々と食べ物を口に運んでいるだけだ。
 沢山ぶたれるかと思ったけれど、神父自身も疲れているからなのか、数発叩かれただけで済んだ。
「ほら、さっさと食べてしまいなさい。」
「はい。」
 ラルスはお尻をなでながら、席に戻った。
 結局その日は何も言わないまま、終わってしまった。

「ラルス、今日は神父様に伝えるんだろうな。」
 次の日。朝ご飯が済んで、歯を磨きに行こうとしているラルスへ、シースヴァスが声をかけた。
「お早う、シースヴァスさん。…んと、何だっけ?」
 ラルスはちょっとの間考えてみたが、思い出せなくて、シースヴァスを見た。
「お前が俺と一緒に旅に…。」
 シースヴァスがみなまで言わないうちに、ラルスが思い出した。
「そうだったね。神父様が、朝の礼拝を始める前に言わなくちゃ。」
 ラルスは急いで礼拝堂へ向かう。

 ラルスが礼拝堂へ入ると、神父はすでにお祈りを開始していた。彼はどうしようと思ったが、とりあえず先にお祈りだけすることにして、神父の隣にひざまずいた。
「顔も洗わず、歯も磨かずに神様の前に出るなんて、どういうつもりなのですか!」
「いたっ。」
 強烈な一撃がお尻に飛んできて、ラルスは飛び上がった。「ごめんなさい…。神父様、あの僕…。」
「言い訳は聞きませんよ。お尻を出しなさい。罰を与えます。」
 どうしてこうなっちゃうの?ラルスは泣きたくなってきた。

 神父が畑仕事に行く前に、なんとかやっと旅の話を持ち出せた。
「わたしをからかうつもりなら、何回でもお仕置きですよ。」
 神父は怒り出した。ラルスは小脇に抱えられそうになって、慌てて逃げ出した。ちょっと前に真っ赤になるまでぶたれたのに、またなんて冗談じゃない。「待ちなさいっ、ラルスッ。素直に罰を受けなさいっ。」
「僕、からかってないですっ。本当に、シースヴァスさんと…。」
 ラルスは本気で走っていた。捕まったら、久し振りに鞭かもしれない。頭の上にある長い耳を掴まれたらお仕舞いとばかり、ラルスは、耳を倒してがむしゃらに走った。後ろが気になって、ろくに前を見ないでいたら、誰かに思い切りぶつかった。子供とはいえ、思いっきりぶつかったのに、相手は微動だにせず、ラルスだけが吹っ飛んだ。
「いったーいっ。」
 壁にぶつかったかと思うくらいに痛かった。おまけに尻餅をついたので、ラルスは飛び上がった。走るだけでもお仕置きされたお尻が下着と擦れて痛かったと言うのに…。彼はうずくまった。
「何やってんだ、ラルス。」
「シースヴァスさん…。」
 シースヴァスが抱き起こしてくれた。「朝から痛い思いばかりして、もう嫌…。シースヴァスさんのせいだ…。」
「はぁ?俺が何したって言うんだよ?…あー、泣くなっての。おすは泣くな。よくわかんねーけど、俺が悪かったから泣くな、な?」
 シースヴァスはラルスを撫でながら慰めていると、神父が走ってきた。
「シースヴァスさんっ、そのままラルスを捕まえていて下さいね。」
「何だ?ラルス、悪さしたのか?」
「違うよっ!何にもしていないのに、シースヴァスさんのせいで、神父様に何回もぶたれるんだ。うわあーん!!」
「何で俺のせいで、お前がケツ叩かれるんだ…?でかい声で泣いてないで説明してくれ…。」
 混乱しているシースヴァスの元へ、神父がやってきた。
「はあっ、はあっ、はあっ…。最近すっかり逃げ足が速くなって…。」
 神父は荒い息を吐く。「…ふぅっ。有難う御座います。シースヴァスさん。…さあ、ラルス、わたしと一緒に懺悔室へ行くんですよ。さっきあんなに叱ったのに、懲りずに嘘をついてわたしをからかうような悪い子には、鞭が必要ですからね。」
 神父は泣き喚いているラルスの手を引いて連れて行こうとする。ラルスは、泣きながら首を振って抵抗した。
「いい加減にしなさいっ。」
 神父は手を振り上げた。が、振り下ろす前に止められた。
「神父様、手ぇ上げすぎっすよ。確かに、たまにはケツ叩くくらいは必要ですけど、あんたはやりすぎ。」
「子供もいない人に偉そうに言われたくないですね。わたしには、ラルスを成人させる義務があるんです!」
 神父は噛み付いた。
「確かに今の俺にはいませんね。」
「何か、引っかかる言い方ですね。何が言いたいのですか?」
 神父はシースヴァスを見つめた。
「そのことで、神父様に話があるんすよ。」

 皆で家へ戻った。居間に座ると、ラルスはシースヴァスにくっついて丸くなった。
「何ですか、その態度は。」
 神父は気に入らないようだったが、ラルスを無理に自分の側へ寄せようとはしなかった。「で、話しとは何なのですか?知っての通り、今日も忙しいので、手短にお願いします。」
 シースヴァスは、ラルスの頭を撫でた。神父が顔をしかめるのが見えた。
「本当は、ラルスの口から言わせたかったんすけどね。なんかうまくいかないみたいだし…。」
「まさか…。」
 神父が不安げな表情を浮かべるのを見て、シースヴァスは、ラルスがシースヴァスさんのせいだと言った理由と、神父がラルスに怒っていたことが何なのか分かった。
「多分、そのまさか、すよ。」
「じゃあ、本当にラルスがあなたと一緒に旅に出ると…?」
「ええ。ラルスが言ったんです。旅に出て、物知りになりたいと。そうすれば、いずれ生まれてくる神父様の子供に色々教えてあげられるような、いいお兄ちゃんになれるって。神父様、あんたはラルスを義務感だけで育ててきたんでしょうが、ラルス自身はあんたに愛されたくて、必死なんすよ。」
 シースヴァスは神父を睨んだ。「俺は、そんな必死なラルスが不憫で、見てられない。俺だったら、可愛がってやれる。……まあ、正直言いますとね、もちろんそれだけじゃないっす。ラルスは、第一者ギンライ様の息子。鍛えれば、どれだけ強くなるか分からねえ代物だ。俺には第一者なんて、土台無理な話。でも、ラルスはもしかしたら…。そういう気持ちもあります。」
 シースヴァスがラルスを撫でているのを、神父はじっと眺めた。
 『なんて愛しそうなんでしょうね…。わたしはあんな風に出来ない。…でも、でもわたしだって、わたしなりにラルスを愛してきたつもりです…。』
「確かにあなたの方が、ラルスを上手く育てられるのかもしれませんね。例え、その幼い手が朱に染まり、瞳には荒くれた者達の死だけが映ろうとも。」
「ここに生きる以上、避けては通れない道の筈です。神父様、まさか、あんただって、この村へ神父としてやって来るまでの道中で、一度も手を汚してないだなんて言うつもりじゃあないでしょう。」
「言いませんよ、そんな嘘。でも、わたしは襲ってきた者しか殺していません。自ら獲物を求めて彷徨ったわけではありません。身にかかる火の粉は振り払わねば…というでしょう。やむを得ずです。あなた達とは違うんですよ。」
 神父の言い方にむっとしたシースヴァスは、語気が鋭くなる。
「盗賊風情と俺達を一緒にしないでほしいっすね。第一者や第二者を目指す者達だって、盗賊どもと違って無意味に殺しまわってるわけじゃない。あくまで求めているのは力です。戦わねば強くなれない。だから戦っているに過ぎません。」
 話が子供には相応しくなくなってきたので、シースヴァスは、ラルスをどこかにやった方がいいのかちょっとの間、考えた。しかし、ラルスが旅に出ると決めた以上、いずれは向き合う問題だと考え直し、何も言わないことにした。
「そうですか。ま、この話はもういいでしょう。」
 神父は息を吐き出した後、気分を変えるような顔をする。「さっきの話に戻ります。わたしは、ラルスを失いたくない。確かにあなたの言うようには、わたしはラルスを愛せていないのかもしれません。でも、わたしはその子を自分なりに愛して育ててきたつもりです。」
「神父様…。」
 ラルスの瞳が潤んだ。シースヴァスはラルスの頭を撫でた。
「ラルス。お前は、神父様のそんな言葉くらいで泣きそうになるほど、神父からの愛に飢えているんだな。」
「そういうことは、よく分からない。でも、今、すっごく幸せ。」
 ラルスはにっこり微笑んだ。
「ともかく、わたしはラルスを手放すつもりはありません。ラルス。」
「何ですか、神父様。」
「別にお前は物知りになる必要なんてありません。わたしは、お前にそんなことを求めてはいませんよ。」
 神父の言葉に、ラルスは俯いた。「分かったら、わたしの結婚式の準備を手伝って下さい。まだいない兄弟の為にお前がどこかへ行くよりも、その方がずっとわたしは嬉しいですよ。」
「でも、神父様。」
「わたしに逆らうのですか?」
 神父の言葉に、ラルスはビクッとした。
「あ…。…はい。」
「ラルス、その場合は、“いいえ”でしょう。今の返事では、逆らうことになりますよ。」
 神父がため息をついた。
「そうです。僕は神父様に逆らいます。」
 意を決した顔をして、ラルスは立ち上がった。神父が目を丸くする。
「何を言うのです?」
「僕は旅に出ると決めました。シースヴァスさんと一緒に行きます。もう決めました。」
 ラルスは手を握り締めた。その手が震える。「言うことをきかないって、神父様に鞭でぶたれても、僕は旅に出ます。大人になったら、ここへ帰ってきます。」
「ラルス…。」
 神父は呆然とした。
「今すぐ行くわけじゃないから、僕、お手伝いに行ってきます。」
 ラルスは外へと走り出した。
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