兎の少年ラルスの物語

9話

 2ヶ月が過ぎた。世話になった期間プラス2週間が過ぎていた。そろそろ頃合いだと思ったシースヴァスは旅を再開することにした。金はないままだが、畑仕事の合間に保存食を作っていたので、当分は食べ物に困る心配もない。準備は整ったのだ。

「わたしのことはもう愛していないって言うんですか…。」
 涙が女性の頬を転がる。
「何を言っているのですか。愛していますとも…。ただ…今はまだその時期ではないと…。」
「いつになったらその時期が来るんですか?わたしはもう待てません…。貴方に弄ばれているのには耐えられないです…。貴方など愛さなければ良かったのに…。」
 女性は両手で顔を覆うと、激しく泣き出した。
「弄ぶだなんて…。わたしにそんなつもりはありませんよ!」
 神父は、女性を抱きしめた。「ラルスが大人になるまで待って下さいと言っているんですよ…。」
「あの子はまだ40なんですよ。あと60年も待てと仰るんですか?そんなにわたしを信用できませんか?わたしは、あの子の母親になる自信があるって、何回も言っているのに…。それなのに、神父様はわたしに待てと仰ってばかり。わたしを愛していたら、わたしを信じてくれる筈です…。」
「産んでもいない子を愛すのは大変だと思って…。あなたを信じていないわけではありませんよ!」
 神父は、長く息を吐き出した。伏せていた目を上げ、女性の顔をしっかりと見た。「分かりました。あなたの愛を失うのは辛いです。いいでしょう。」
「では…。わたしと結婚して下さるのですね?」
「ええ。幸せになりましょう。」
 神父は微笑んだ。「そうですよね。愛があれば、どんな障害でも乗り越えられる…。わたしとあなたで、ラルスを育てていきましょう。」
「ええ。わたし、いい母親になりますわ。」
 彼女もにっこり微笑んだ。

「ええーっ!?神父様、結婚するんですか?」
 ラルスは仰天した。神父様に好きな人がいるのすら知らなかったので、彼にとっては青天のへきれきだったのだ。
「そうです。わたしとしては、お前が大人になるまで待ちたかったんですけどね。後60年も待てないというんですよ…。」
 神父の返事にシースヴァスが口を挟む。
「ラルスって40になってたんすか。てっきり20になったばかりだと…。」
「僕、42歳だよ。僕は兎だから小さいの!」
 ラルスはむくれた。半分の年齢に見えるほど、自分は子供っぽいなんて思われたくなかった。
「兎にもでかいのはいる。お前が小さいのは、種族の問題じゃなく…。」
 そこまで言ってから、シースヴァスはまたも神父を責めることになるので、口を閉ざした。本当はこう続けるつもりだった。『神父様は、神の僕は清貧を尊ぶとか言って、お前にろくに飯を食わせないから発育不良なだけだ。』と。
「じゃなく何?続きは?」
「あー、いや。…んと、仕事ばかりしてて、遊ばなかったからって言いたかったのさ。これからはどんどんでかくなるって。」
「そうだよ。神父様より大きくなるもん。」
 ラルスは胸を張ったが、神父は結構な長身なので、無理じゃないかとシースヴァスは思った。なんせ、彼よりもこの村の誰よりも大きい。『ま、夢はでかい方がいいよな。』

 この世界では100歳で成人となる。といっても、猫が1年、犬が2年で大人になるのと同じ感覚で、人間の100歳と妖怪の100歳は同じではない。100歳で日本の成人20歳と同じだ。
 ラルスの40歳は、人間で言うと11歳くらいだろう。それにしても幼いと感じるなら、彼が閉じこもってばかりいて人と接触する機会が少なく、精神的に成長できなかったせいだろう。

 神父の結婚式は、1週間後ということになった。シースヴァスは、久しぶりの結婚式に沸き立つ村で、はしゃぎながらも手伝いに忙しく駆け回るラルスを眺めていた。
 ラルスは旅に興味を示していた。シースヴァスが旅立つと知って悲しんでいた。彼はラルスを可愛いと思い始めていた。神父は結婚する。ラルスは新婚家庭に、邪魔な存在になるかもしれない。そして、ラルスは第一者ギンライの息子。シースヴァスは悩んでいた。でも、ラルスはちゃんと可愛がられるかもしれないし、むしろ母親が出来たことが彼にとっていい方向に働くかもしれない。それに、第一者の息子だからといって、ラルスが強くなるとは限らない。さらに、村から出たがるほど旅に憧れていないかもしれない。何より、神父と自分を選べと言われたら、ラルスは神父を選ぶに決まっていると思えた…。
 シースヴァスがだんだん落ち込み始めていると、ラルスが駆け寄ってきた。
「シースヴァスさんは、結婚式を見てから行くんだよね?見る前に行っちゃったりしないよね?」
「見てから旅立つつもりだ。終わったらすぐに出て行くけどな。新婚家庭に居座っちゃまずいだろ。」
「…そうだよね。邪魔になっちゃうよね。」
 ラルスの言い方に、シースヴァスは希望の光が差し込んできた気がした。
「なあ、ラルス。」
「ねえ、シースヴァスさん。」
 二人は同時に話し出し、同時に黙った。
「シースヴァスさんが喋って。」
「いや、ラルスから。」
「シースヴァスさんからでいいよ。僕は後でいいの。」
「そうか。じゃ、俺から。」
 シースヴァスは意を決した。「ラルス、俺と一緒に旅に出よう。お前は第一者様の子供だ。すんげー強くなれると思うんだ。それに、旅に出ればギンライ様と会える可能性も出てくる。…それと…。俺はお前が気に入ったんだ。息子にしたいと考えている。」
 ラルスの反応が怖くて、シースヴァスは急いで続ける。
「な、お前の用事は何なんだ?式場の準備の手伝いが欲しいのか?」
 ラルスは俯いていた。シースヴァスは馬鹿なことを言ってしまった気がした。黙って結婚式を見て、何も言わずに旅立てば良かったと強く思った。
 しかし。
「シースヴァスさんが、僕と同じことを考えていたと思わなかった。僕ね、ついていきたいなと思ってたの。シースヴァスさんは優しいし、神父様は僕がいない方が幸せになると思うの。可愛い赤ちゃんが見たいって思うけど、赤ちゃんが生まれたら、神父様は赤ちゃんが大事になると思うから。」
 ラルスはにっこり微笑んだ。「僕ね、旅に出て、色んなとこが見たい。シースヴァスさんみたいに、物知りになりたい。そして、神父様の赤ちゃんに色々教えてあげるの。お兄ちゃんはこんなに何でも知ってるんだよって、自慢するの。いいでしょ。」
「そうだな。」
 シースヴァスは、ラルスを抱きしめた。「かっこいいお兄ちゃんになれるな。」
「うん。」
 ラルスは返事をした。「そうだよ。僕は素敵なお兄ちゃんになるよ。」

 ラルスはシースヴァスと旅立つ決心を話す為に、こちらも準備で忙しい神父を呼び止めた。
「どうしたんですか?忙しいのは分かっているでしょうに。ああ、そうです。シースヴァスさんへ、手伝って貰うようにお願いしてきて下さい。」
 神父は、ラルスの言葉は全く聞かずにそれだけ言うと、さっさと作業に戻ってしまった。ラルスは、今話そうとしたのが間違いだと気づき、夜に話すことにして、シースヴァスの元へ向かった。
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