壊れたラルスが生きている世界
25話
「有難う御座いましたー。お世話になりましたー。」
いつものように明るく元気に挨拶すると、ラルスは病室を出た。「ううー。やっと退院できたよ。まさか、2ヶ月も入院してる羽目になるなんて……。えおの攻撃、恐るべしだね。」
廊下を歩くトゥーリナの部下やメイド達を眺めながら、ラルスはぼんやりとしていた。病室にいる限りは病院みたいなのに、病室を出たら、もうここは第一者の城の中だなんて、なんだか異世界にでも移動した気分になる。
染み付いてしまった怪我人の感覚を早く捨てなければと思う。風邪の治りかけのようにふわふわしながら、ラルスは居住区へ続く廊下を歩いた。
ふうふうと息を吐きながら階段を上る。8階も上るのは中々きつい。でも、入院で落ちてしまった体力を取り戻すためには、エレベーターなどという代物を使うわけにはいかない。時々体を休めながらも階段を上りきり、ラルスはやっと自分の部屋に辿りついた。
扉を開けたラルスは、しばし無言で立ち尽くした。
「……。」
彼は一人でにっこりした。“退院、おめでとう”と書かれた垂れ幕が、部屋の中央に飾られていたのだ。「トゥーリナの字だ。」
シーネラルがなんと言おうとも、トゥーリナは自分を受け入れたままでいてくれるのかもしれない。壊れた自分が嫌だから、トゥーリナが殺してくれればいいなと思っていたが、このまま彼や彼の家族たちと暮らしていくのも幸せかもしれないとラルスは思った。
「第一者。」
退院した兄へ会うため急いでいたトゥーリナは、シーネラルに呼び止められた。
「何だ?」
振り返りながら答える。シーネラルの顔を見た彼は、その表情から、いい話ではないと察した。「また兄貴のことか。」
「よく分かったすね。」
「兄貴が退院したし、あんたはそんな顔してるから。あんたの不満は、ガキ相手の仕事と兄貴の存在くらいのもんだろう。」
「……そうっす。第一者は賢くて。」
「嫌味か、それは。」
トゥーリナは顔をしかめた。
「彼を生かしておいたら、何人が犠牲になると思うっすか? 辛いでしょうが、お兄さんを処分するべきっすよ。」
「出て行けばいいんじゃなかったのか。」
「ここが気に入ってしまったんだから、追い出しても帰ってくるっすよ。もう出て行かせるだけでは……。」
垂れ幕のお礼を言いに行こうと歩くラルスの前に、トゥーリナが現れた。
「退院、おめでとう。」
「有難う。こっちから行こうと思っていたんだけど、来てくれたんだね。」
ラルスは微笑んでから、トゥーリナの顔を無言で眺めた。「浮かない顔をしているけれど、どうしたの?」
「ああ。シーネラルが……。」
「僕を殺せって言ったんだね。」
「……。」
「入院中にシーネラルさんが来てさ、言ってたんだ。退院したら、第一者に言うからって。」
「俺は……。……なあ、兄貴。殺しを止めるって言うのは無理なんだよな……?」
無理に決まってるよなという顔でトゥーリナが言う。
「あははー。無理。」
ラルスは陽気に笑って見せた。「無茶言わないの。それが出来たら壊れてるなんて言わないんだよ。」
「だよな。」
トゥーリナは溜め息をついた。「じゃ、俺は忙しいから行くな。」
「うん、バイバイ。」
兄に背を向けて歩きながら、トゥーリナは唸った。
『殺すしか、ないのかよ…。』
「トゥーちゃん、あうす、ろろすの(訳=ラルスを殺すの)?」
「うーん…。嫌なんだけどな…。…ところで、えお。変な所を引っ張んな。それに、お前どこから沸いてきた?」
「…りゅ。」
武夫は笑って誤魔化した。「トゥーちゃん、にと、いっぱ(訳=人は一杯)、いるよ。」
「笑顔でこえーことを言うなよなー。兄貴にトラウマ映像は見せるし、最近のえおは黒すぎるぞ。」
武夫がラルスの言葉をそのまま話していると知らないトゥーリナの額から冷や汗が流れる。
「えお、あうす、うきよ(訳=好きだよ)。にと、ろーでもに(訳=他人はどうでもいい)。」
「俺だって、第一者じゃなきゃ同じことを考えてる。でもな、今の俺は人の上に立つ身だ。だから、兄貴をほうっておくわけにはいかないんだ。」
トゥーリナは溜め息をついた。「じゃ、俺は忙しいから行くぞ。」
「あい。」
トゥーリナは武夫を置いて歩き出した。
『人は沢山いる、か……。自分はいつ死んでもいいと思っているような奴に、どうやって命の大切さを説いたらいいんだろうな。えおは人間だからそれを教えなきゃならないんだが……。シーネラルは役に立たないだろうなー。』
瞬間移動で戻ってきた武夫が居間に入ると、ペテルが飛びついてきた。トゥーリナの側へ行く時もその力を使ったのだが、武夫の語彙では説明できないので、笑って誤魔化したのだった。
「いきなり消えたから吃驚したよー。どこへ行っていたの?」
「トゥーちゃんろこよ。あうす、ろろさなーで、うった(訳=殺さないでと言ってきたよ)。」
「なんの話よ、それ。」
ザンが口を挟む。
「ちぃーね、あうす、にとろろちらかあ、りらないって(訳=人殺しだから、いらないって)。」
皆がシーネラルを見た。
「俺はラルスを処分すべきだとは言ったが、それでは意味が違う。壊れた者が第一者の城に出入りしていると噂になれば、若い第一者には不利だろうと考えたんだ。」
シーネラルが息をつく。「ラルスが第一者に影響を及ぼさない所で、殺すんならいい。殺したいだけ殺せばいい。ここは妖魔界。人間界のような面倒な決まりはない。殺される方が悪いんだ。死にたくなかったら強くなるしかない。」
「怖いこと、言うわね。」
ザンが顔をしかめた。それから彼女はペテルを見た。いつもならそういう話を聞くと怖がって震えるはずだが、今日の彼は少し切なげな顔をしただけだった。
『所詮、こいつも妖怪か。』
「皆は若い第一者をなんとなくだが、不安に思っている。今までは頼りがいのある奴ばかりが第一者になってきたのに、今の第一者はまだ800歳代で、言動にも若さが目立つ。いくら力の強い者が第一者だと言っても、そこには暗黙の了解みたいなものがある。彼はそれに反しているから……。」
沢山話して疲れたのか、シーネラルが口をつぐむ。
「要するに、ただでさえトゥーリナは皆に認められていないのに、ラルスみたいな危ない奴が兄貴だと……うーん、知り合いってだけでも、第一者様を続けられなくなるってわけね?」
「そこまではたぶんいかない。だって、普通の人にとって第一者は神にも等しい存在だから。」
ペテルが言った。「でも、やりにくくはなると思う。」
「だから、シーネラルはラルスを殺せと進言したってわけか。ラルスはここを気に入っちゃってるから、出て行ってくれないかと言っても、たぶん無理だから。」
ザンは頷く。「でも、当然、武夫ちゃんはそんなの認められない。それで、トゥーリナへラルスを殺さないでと言って来たのね。」
「りゅ。」
武夫の返事に頷くと、ザンは頭をかしげる。
「トゥーリナはなんて言ったのよ?」
「ろろちたない、れも、みな、だーじ(訳=殺したくない、でも、皆が大事)。」
「困ってるのね。ラルスとの付き合いが短いから、第一者の地位を投げ出してまで、ラルスとはいられないのか。」
ザンは息をついた。「だからって、トゥーリナに薄情だとは言えないよ。奴は、今の地位に立つまで、家族を省みることもなく努力をしてきた。大切なものを切り捨ててまで手に入れたんだから、そう簡単に投げ出せないわよね。」
ペテルが呟く。
「ラルスはここに来なければ良かったのに。」
「ラルス“が”じゃなくてラルス“は”なの?」
「だって、どっちにとっても良いことがない。」
「あ、そっか。兄を殺す羽目になりそうなトゥーリナに同情してたけど、ラルスにとっても……。」
ザンは深い溜め息をついた。「ペテルじゃないけど、ラルスはここに来なければ良かったのよ。」
08年10月14日
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