ふわふわ君
5 両親のはじまり
「ラークさん、わたしとお付き合いして頂けますか?」
ふわ。漫画だったら、背景に花が描かれているような少し照れた笑顔。クリュケの言葉を聞いた瞬間、時が凍りついた。
父は自分を農耕用の機械だと思っている。普段の父の言動に、ラークはそう感じていた。ある日、「お前みたいな役立たずは出て行け!」といつもみたいに怒鳴られて、「ああ、出て行ってやるよ!」と怒鳴り返した。
そのまま本当に家と村を飛び出し、荒んだ生活を送っていた。ある町で、荒野に咲く一輪の花のような人と会うまでは。
再び時が動き出した時、自分が何て答えたのか、覚えていない。ただ、クリュケの柔らかい体が、いつのまにか自分の腕の中にあり、いい香りが鼻をくすぐった記憶ならある。
それから、灰色だった自分の人生に色がついた。世界が薔薇色に変わるって、こういう意味だったのだと分かった。幸せだった。夢のような日が過ぎた。途中、少しだけ悲しみがあった。ただの旅人との結婚なんて許さないとクリュケの父に言われたから。
「ラークしか見えないの。」
不安だった。後悔するんじゃないかと。でも。「愛しているわ、ラーク。何処へでも連れて行って。」
何処かで聞いたような台詞を言われて、町を出た。
「何処で暮らす?」
「わたし、村で生活してみたい。わたしと二人なら、きっと上手く行くわ。ね?」
村で幸せだった記憶はない。でも、結婚した以上、今までみたいにふらふら出来ない。だから。
「分かった。行こう、クリュケ。」
彼女の言葉を信じた。好きな人と一緒なら、何でも我慢出来ると思った。
とてもとても遠い村に二人で暮らし始めた。村人達は優しく、二人は畑仕事も楽しめた。ラークは勘を取り戻し、クリュケは全てが新しく、楽しく思えて、働くというより、遊んでいた。
「ラーク。見て、見て、これ。綺麗でしょ。」
クリュケはちょっとおふざけが過ぎた。ラークが慎重に世話していた大切な野菜の花で、花輪を作った。
「馬鹿っ、何てことをしてるんだ!!」
今までも叱ったことはあったけど、怒鳴ったのはそれが初めてだった。その野菜は、育てるのが難しく、しかも、一つ駄目にすると、連動して全部駄目になる。慌てて対応したけれど、多分、今回は枯れるだろう。
「ごめんなさい…。」
大変なことをしてしまったと気付いたクリュケの手から、花輪が落ちた。
お仕置きにクリュケのお尻を叩いた。この世界では、夫が妻のお尻を叩いて叱るのが、普通だったから。あんまり手加減しなかった。自分がどれだけのことをしてしまったか、彼女に知って欲しかったから。ケルラと違って、クリュケのお尻は毛に覆われていない。だから、お尻がどんどん染まっていくのが分かった。クリュケの泣き声は聞こえない振りをした。痛みの所為で、思い切り暴れていたけど、押さえつけて叩いた。
うんと叩いた後、手を止めた。涙でぐちゃぐちゃの顔を舐め、クリュケを抱いた。
「もう2度としないわ…。あなた、ごめんなさい。」
初めて“あなた”と呼ばれた。結婚してから、それなりに時間が過ぎていたけど、その時、初めて夫婦になった気がした。クリュケは、可愛い女から、妻になった。
「男の子だと思うの。そんな気がする。」
ある日の午後、クリュケが言った。優しくお腹を撫でていた。「名前、何て付ける?」
「“ケルラ”がいい。」
「素敵な名前だわ。確か…“勇ましく立つ”よね?」
「ああ。俺と違って、しっかり地に足をつけて立って欲しい。逞しく、立派に育って欲しい。」
「あら。あなたは充分にそうしているわよ。わたしが保証する。」
「そうかな?」
「そうよ。お父さん。」
「気が早いぜ。」
「そうね。」
二人で笑った。
もうすぐ、待望の息子が産まれる…。
「あなた、手を握っていてね…。」
「ああ。」
何も出来なくて、おろおろしていたら、クリュケが言った。細い手をしっかり握った。そして…。疲れ切って消え入りそうに微笑む妻に、夫は、我が子を見せた。
「俺達の子だ。ケルラだ。」
「ええ、初めまして、ケルラちゃん。」
赤ちゃんは、大きな泣き声で返事をした。
それまでは、色々クリュケに教えていたけど、それからは、教えられるようになったラーク。
「何だ、乳吸うなんて。そういうエッチなことは、大人になってからにしろ、ケル。」
「ラークったら、何を言ってるの?この子はご飯を食べてるのよ。」
「え?そ・そうなのか…。俺はてっきり…。」
ぽかんとした後、かあっと赤くなるラーク。クリュケがくすくす笑う。
そして、こんなことも。
「便所に行け。いいか、あっちにあるから、自分でズボンを脱いで…。」
「無理よ。まだオムツじゃなきゃ…。」
「飯も食えないし、赤ん坊って何も出来ないな!」
「そうよ。わたし達が教えるんだから…。」
クリュケは微笑む。「親がいて、子供は大人になるのよ。」
「…。」
父を思い出したラーク。黙りこくった彼を見て、クリュケは優しく言う。
「わたし達は、いい親になりましょうね、ラーク?」
「…ああ。」
「ケルラを名前に恥じない子にしなきゃ。ね?」
「そうだな。」
彼は力強く、微笑んだ。
そう言っていたのに。クリュケは、ある日、倒れ、そして、2度と目を開けなかった。
立ち尽くすラークの耳に、村人の声が聞こえた。
「あんなに辛そうにしていたのに。」「あれだけ顔色が悪かったら、心配するだろう。」「冷酷な男だね。」
不安になって、何度も訊いた。大丈夫よとしか言わないクリュケ。でも、ある日、不安に耐えられなくなって、医者に連れて行った。
「どうしてもっと早く連れて来なかったんですか?もう手遅れですよ。」
平然と言い放つ医者。薬さえ貰えなかった。
意味がが分からなくて、足元にじゃれ付くケルラ。
「お前は母親の死すら、分からないって言うのか!!」
怒鳴りつけて放り投げた。周りの村人の声を聞きたくなくて、家に飛び込んだ。
長い長い夢から覚めた。夢の余韻が辺りに漂っていた。頬が濡れていた。数年前までの悲しい夢。クリュケが生きていた頃の夢…。
「お父にゃん。お腹、ぺこぺこ。」
ケルラが、大きな目でこっちを見ていた。二人の愛の結晶だった子。二人で育てて行く筈だった子。母親を覚えていない子…。笑顔がクリュケに似ていて、彼女を思い出して辛くなるから、少ししかケルラを愛せなかった。
今は、元・偉い人のおかげで幸せになれたラークとケルラ。
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