5月9日 P.M 9:01―――――――――――――――――――――――
めずらしい場所で、めずらしい人物を見かけ、思わず斉藤の足が立ち止まる。
(あれは…?)
千単位の人間がせわしく働く警察庁内であっても、金色の長髪を持つ人間はたった1人しかいない。
しかも、その人物を見つけた場所が、今ではほとんど使われていない、使うのはそこの管理人である山口とその山口の手伝いを良くしている斉藤、あとは定年の2文字がかなり近づいてきている老年刑事しか足を踏み入れないという資料室のとある一角ときたものだ。
不審、というよりなぜその人物がそこにいるのか不思議に思って、斉藤は能役者のようなまったく足音を立てない歩き方で、その人物の方へと近づいていった。
「滝沢さん、何をしているんですか?」
そう、その人物とは同じ職場で働く仲の滝沢。
普通の人間なら、足音もなく突然現れた斉藤に驚愕の2文字を顔なり身体全身で表現するに違いない。
だが、滝沢はあらゆる意味で普通ではなかった。
「えぇ、ちょっと過去の事件を見直してみようと思いまして」
斉藤が近づいてきた事は承知済みだと言うように、実に冷静な彼女の声が資料室の圧迫感を強く感じる空間に幾重にも反射していく。
「過去の事件ですか? でもここにある調書類はすべてデータベース化されていますから、PCを使って見直した方が早くないですか?」
斉藤が「ここ」と言ったのは、一般的に「ミヤ」と呼ばれるスチール棚の並び。
この棚にはいわゆる未解決で「迷宮入り」した事件の各種調書・捜査資料等が年代順に綺麗に整理されているのであった。
本来事件を迷宮入りさせるのは警察にとって屈辱にも等しい事なのだが、だからと言って未解決事件をそのまま放り投げる事はできるはずもない。現に警視庁にはそういった迷宮入りした事件を専門に扱う部署まであるほどだ。
ここにある資料のデータベース化が決まった時も、真っ先にデータベース化されたのが、この「ミヤ」に並べられた事件からである。1人でも多くの刑事の目に触れられることによって、僅かでも迷宮入りした証拠を集め、事件解決まで持っていこうと考えている上層部の思惑が容易に想像できてしまう。
ちなみにこの「ミヤ」と言うのは、迷宮入りの別称である「お宮入り」の「宮」から取ったものである。
このように、滝沢が今見ている事件の詳しい資料等は、警察庁の専用データベースにアクセスすればPCから容易に見られるものであった。
決して滝沢がPC操作に慣れてない、というわけではない。ハイテク犯罪捜査チームにいた同僚の秋原程ではないが、彼女も普通の刑事以上にPCの扱いには長けている。
それなのにどうして彼女はわざわざ資料室にまで来て、紙媒体の資料を見ているのだろうか。
斉藤が自らの周囲にいくつもの「?」を浮かべていると、硬質の美しさを誇る滝沢の紅唇がゆっくりと動き始めた。
「こんな事を言うといつの時代の刑事だ、と言われちゃうかもしれませんが、刑事達が直接その手で書いた調書とか資料の方が、より事件の背景とか事件に関わった刑事達の考え、気持ちとかがわかるような気がして」
確かにこの滝沢の考えは、今時の刑事であったならば「何古臭い事言ってるんだ?」と風船で作られたボールよりも軽く一蹴されるに違いない。
しかし、そういったことに関するアナログ度であるならば、斉藤の方も負けていない。
「いや、わかりますよ、その考え」
斉藤も滝沢につられたように、「ミヤ」の棚のとある捜査資料の束に手を伸ばしてくる。
それは8年ほど前に起こった多摩市一家放火殺人事件で、生後半年の赤ん坊を含む一家5人が生きながらに焼かれたという、事件発生当初は新聞の社会面のかなりの面積を占有した事件である。
事件が起こった当初は、それこそ連日のように新たな証拠と新たな情報、そしてマスコミの方も事件の続報が報道され続けてきたが、その回数が連日から1日おき、1週間おき、1カ月おきとだんだん減っていき、今では迷宮入り事件専門部署が細々と捜査を続けているのみにまで捜査規模が縮小されてしまった。
しかし、事件当時の、紙媒体による生々しいまでの記録は決して色褪せる事がない。その事件を担当した刑事が直接書いたと思われる調書類からは、ある種の執念すら感じさせるような錯覚に陥る。
斉藤は、その捜査資料に引き込まれないうちに元の場所に戻すと、
「で、滝沢さんは一体何の事件を調べていらっしゃるのですか?」
滝沢がこのような資料室に来てまで調べる事件が気になったのか、彼女が意識を集中させている捜査資料を聞いてきた。
「これですよ」
滝沢は捜査資料のページを広げたまま、その背の部分が斉藤に見えるように向きと方向を変えてくる。
そこには、
『神戸警察官殺人事件』
の9文字が、誰が書いたかわからないが非常に力強く書かれていた。
「あぁ、その事件ですか。確か西部署で働いている立花刑事のお父上が殺された事件ですよね」
そうさらりと立花の存在を認めてくる斉藤に、流石の滝沢も今度ばかりは驚いて、アーモンド型の整った目を大きく見開いて斉藤を見つめ返していく。
「斉藤さん、ご存知だったんですか?」
「まぁ、一応は。ここにある事件の大体の内容と関係者、それから都内の刑事の顔と名前はほぼ全員覚えていますので」
まるで英単語を少し暗記した程度だと言うようなごくごく軽い口調で、滝沢の少々裏返り気味の声に答えてくる。
斉藤は自分の記憶力の良さを実に簡単に言ってのけたが、それが普通の人間にとってどれだけ不可能な事であるかは説明しなくてもわかるだろう。
これは偏に斉藤の生まれもった才能の1つによるところが非常に大きい。
斉藤は「瞬間記憶能力」という一度見たモノは絶対に忘れない、受験生がこの能力をお金で手にする事ができるなら大枚をはたいてでも欲しがる能力を有しており、実際この能力のおかげでいくつかの難事件がこの棚に並ばずに済んでいる事を、捜査一課時代からの付き合いである滝沢は身をもって経験している。
滝沢は斉藤のその能力に対してか、その能力を完全に使いこなしている斉藤に対してか、どちらにかわからないがとにかく降参とでも身体が言うように軽く肩をすくめてきた。
ならば、斉藤は既に知っているだろう。滝沢と立花の境遇が多少の違いがあれども、それなりに似通った点がある事を。
「ねぇ、斉藤さん。もし斉藤さんが私なり立花刑事の立場になったら、刑事になろうと思います?」
ある意味直球ストレートな滝沢の質問。
その質問に今度は斉藤が驚いた番だが、さっきの滝沢の驚き具合に比べたらその度合いがだいぶ軽いのは否めない。
斉藤はほんの少しだけ考える素振りを見せてくるが、あくまで見せただけのようですぐに返答を紡ぎ出してくる。
「さぁ、どうでしょうか? 実際にその状況になってみないとわからない、ですね」
非常に斉藤らしい、試験の模範解答のような隙のまったくない答えに、やっぱり、と言う意味を大量に含ませた溜息を1つ、資料室のやや黴臭さを感じる空気に紛れ込ませていった。
そんな滝沢に、いつも無口無愛想無表情野郎と相棒からいつも茶化されている斉藤にしては、実にめずらしく唇の端に実に小さな笑みを浮かべながら、
「ですが、少なくとも滝沢さんは今こうしてここにいる事を後悔されてないでしょう?」
と。
微妙に滝沢の質問から外れているような気がするが、それが逆に滝沢がもっとも求めていた返事でもあるように思えてくる。
その事に滝沢も気付いたのか、
「まっ、ね」
と、軽く答えて、手にした資料を元の棚のスペースへと戻していく。
必要なのは過去に縋る手ではない、現在を歩く足。
大切なのは後悔をする事ではない。今を生きる力。
滝沢は戻した資料がちゃんと順番どおりになっているのを確認してから、両手を後ろで組んで、くるりとリズム良く斉藤の方へと向き直っていった。
「ね、じゃあ斉藤さんは何で刑事になったんですか?」
滝沢からの突然の質問に、今度は本当に頭を使って考えたようで、斉藤から答えが返ってくるまで秒針が5回ほど移動するだけの時間を要した。
「前に話しませんでしたか? 母親が推理作家ですので、その影響だと」
「それは表向きでしょ? まさかそんな見え透いた表向きの理由が通用すると思います?」
そう言った滝沢の顔は笑っているが、その眸は尋問する刑事そのものだ。この眸もそうなのだが、滝沢の尋問自体によって大勢の犯人が落とされていることを、斉藤は知りすぎているぐらいに知っている。
「さて、ではそろそろ帰りましょうか」
風向きが本格的に危なくなる前に避難しようという魂胆なのか、滝沢の尋問にある種の黙秘権を実行させて、斉藤はいつもの無表情の仮面を被ると彼女に背を向けて少し足の動きを早めにして資料室を後にしようとしている。
「あ、ずるい! 斉藤さん、教えてくださいよ〜。減るもんじゃないからいいじゃないですか」
背中に投げつけられた滝沢の抗議に、減る減らないの問題じゃないですよ、と心の中でだけ小さな叫び声を上げて、表面上は滝沢を無視する形を決め込んだ。
足早に去っていく斉藤を追いかけようと、滝沢も小走りで彼の背中に目標をロック・オンさせていく。
が、資料室を出る最後に一度だけ振り返って、とある1点、彼女の兄がひき逃げにあった事件の捜査資料に視線を集中させて、誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。
「私、後悔してないからね。今の道を選んだ事、絶対、絶対に後悔だけはしないから。だから―――――…」
―Fin―
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