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2015
4  5

◎今日、4月5日は二十四節気の一つ「清明(せいめい)」です。この頃は万物が若返り、清々しく明るく美しい季節といわれています。
 確かに木々の枝先には若葉が開き、野の草たちの背丈も一気に伸び蕾や花をつけ出しています。この所雨模様ですが雨があがったら爽やかな気候の中での散策はきっと最高でしょう。

『登戸神社』
◎登戸(のぶと)神社とは通称名で正式名は「登渡(とわたり)神社」だそうです。登渡神社は千葉市中央区にあり千葉氏の末裔登戸権介平定胤が先祖を供養するために、千葉妙見宮(現千葉神社)末寺を勧請し造った白蛇山真光院定胤寺を縁起とする神社としています。慶応3(1867)年12月26日に名前を登渡神社に改めたとのことです。

・3月末にこの近くで所用を済ませた後、本神社を訪ねてみました。
 N小学校の西側(裏手)にある神社は通りから階段を数段上った所に大鳥居がありました。鳥居をくぐり境内に入ると平成2(1990)年造営されたという入母屋造り銅板葺の屋根を持つ立派な拝殿が建っていました。参拝した後には境内を一周し幣殿や本殿をゆっくり見学しました。

・葛飾北斎作の傑作「富嶽三十六景の『登戸浦』」は、この登戸神社を描いたものと伝えられています。
ネットで「登戸浦」図を見ると海の中に鳥居が2基描かれていて、神社が海辺の直近の崖上にあったことが分かります。
   
 
  北斎の富嶽三十六景「登戸浦」の絵
    (wikipedia登渡神社についていた絵のコピー)


 しかし、現在は住宅地の真ん中に位置していて、近辺のほとんどの住民は海の直近だったという昔の様子を知らずに暮らしているのではないか…。そんなことを考えながら帰路につきました。


   

   

◆登戸神社…正式名は登渡神社
  所在地:千葉市中央区登戸3丁目 
 祭神は天御中主命、高皇産霊命、神皇産霊命 社格は旧村社 創建は正保元(1644)年 本殿の様式は、入母屋造銅版板瓦葦 例祭は9月4日~6日 主な神事は神輿渡御9月5日(wkipedia登渡神社参照)


◇友人から届いた葉書に書かれていた短歌を掲載させて頂きます。
     ☆☆☆― 短 歌 ―☆☆☆
「風光り 桃黄緑の 筆持ちて 空に描きし心のパレット」
※三浦半島に河津桜を見に行った折、詠んだ一首。雨上がりで素敵だったという。

「花曇り 安房路へ向かう 岩山に 凛とひらきし白山桜」
※お彼岸に安房の家へ帰る時に詠んだ一首。
 (作者:八千代市在住 Fさん)

2015
4  15

◎ “日本での越冬を終え、シベリアなどの繁殖地へ向かう途中のハクチョウの群れが北海道当別町の水田に集まってきている”と新聞に出ていました。私たちの観察していた個体群も行っているのかもしれません。ハクチョウ達の旅の無事を祈りたいと思います。

『名木 無残!』
◎環境省が出している巨樹・巨木の定義によると、“巨樹・巨木とは地上から約1.3メートルの位置での幹周りが3メートル以上の木”となっています。
 私達は里山を歩く際、巨樹・巨木にも関心を持つようにしています。特に地元に愛されている樹木や種類の珍しい樹木は「名木」として記録するように心がけています。

・先日、市内のk地区でのでき事です。お寺の近くの辻に聳えているはずのチャンチン(センダン科)の巨木を皆で見に行きました。
 その木は形も美しく凛として神々しさも感じられ、毎回見るのが楽しみな木でした。今日初めてこのチャンチンの木を見るという仲間に「幹は何人もで抱えるほど太く、見上げると首が痛くなるほど高いのです。特に春は葉が薄紅色で美しいですよ」と歩きながら話し「ほら、あすこに・・・」と指した先には、ただ空間があるだけでした。皆一瞬ぽか~んとしてしまいました。
 「名木」のチャンチンの木がありませんでした。
 近寄ってみると、道から一段高くこんもりと盛り上がった塚の上にはチャンチンの大きな切り株がありました。
   

隣りに立っていたこれも立派なヤブツバキの木も根元からバッサリと切られていました。塚の上には細い数本の木と注連縄を2本の細木にかけ祀られた石の祠が明るい日差しの中にあるだけでした。
・“名木、無残!”皆無言でした。
 ちょうど通りかかった中年のご夫妻が私たちの説明を聞き、切り株を覗きこんだり塚の上に立って空を見上げたりし、「残念ですね」と話して離れて行きました。
・おそらく市内は勿論近辺地区でこれほどの巨樹・巨木のチャンチンは無いように思います。なんで切られたのか疑問です。もしかしたら辻に立っていたので道が暗いとか、枝が道に出ているとか、雪などの被害で倒れると危険などという理由で切られたのかもしれません。いずれにしてもこの価値のある木を切らなければいけない理由が何かあったのでしょう。残念無念!


 皆、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちでその先の里山を歩きました。ちなみにこのチャンチンの切り株の年輪をざっと数えてみたら、100年は確実に越していることが分かりました。幹周りは残念ながら測っていませんので不明です。

   
   3年前に撮影した在りし日のチャンチンの木

   
   チャンチンの実

チャンチン…香椿と書く。
センダン科の落葉高木。中国原産、高さ10メートル。
枝葉ともに臭気がある。7月頃、白色の花が咲き長楕円形の実を結ぶ。春の若葉が赤く大変美しく目立つ。材は家具等に利用される。

2015
4  20

◎昨日も今日もしとしと雨が降っています。今日4月20日は二十四節気の穀雨(こくう)です。
 “雨が降って百穀を潤す”の意だそうですので、昨日小雨の中で行われた中根八幡神社の獅子舞はまさに“百穀の恵みの雨”だったのでしょう。

『“お菊さん”舞い飛ぶ!』
◎HP「谷津田だより」で何度か取り上げたことのある蝶“ジャコウアゲハ”の話です。4月20日の午前10時頃、外出のため団地6Fの階段を下り始めた時、目の前に真っ黒いチョウが突然飛んできました。が、私に気づいたのか素早くきびすを返し飛び去って行きました。向きを変える瞬間、後ろ翅(うしろばね)の赤斑がはっきりと見えたのでジャコウアゲハと思いました。
・実は昨夕、団地脇の公園を通りかかった際、花壇に植えてあるサツキの枝先に止まる羽化したてのジャコウアゲハを見たばかりでした。
 ひと冬ずっと見守ってきた蛹の一つが羽化したのです。春型のため体はかなり小さめ、前翅は真っ黒でビロード状の光沢があり後翅には鮮やかな赤い斑紋がありました。羽化後間もないようでじっとしていました。その日はストレスを与えないようにそっと撮影し、その場を離れました。
   

・今日見たチョウは、飛び去って行った方向が公園の花壇方面だったこともあり昨夕撮影した個体だったのかもしれません。このチョウを見た時間はたったの10秒ほどでしたが、冬の厳しい寒さを蛹で乗り切って遂に羽化したのだと思うと感慨深いものがありました。なお、本種の蛹は「番町皿屋敷」に登場するお菊の亡霊の姿を連想することから、昔“お菊虫”と呼ばれていたそうですが、チョウになって舞う姿はまるで「黒い妖精」のようでした。


・ジャコウアゲハは幼虫時にウマノスズクサ科のウマノスズクサ類を食草としています。近年この野草の減少とともに本種が少なくなったといわれています。
 この食草は有毒成分を持つため、毒のある蝶として鳥に襲われることが少なく、優雅にゆったり飛ぶといわれています。
・まだ蛹はいくつか残っているのでこれからも羽化してくることでしょう。元気に飛び回り世代を引き継いでいくことを期待します。

       蛹(お菊虫)
   

      抜け殻の蛹(お菊虫)
   

ジャコウアゲハ…アゲハチョウ科のチョウ。
 漢字では麝香揚羽。
 捕まえると麝香のような香気を出すことから名がついたという。食草はウマノスズクサ類。
 草原や道端をゆるやかに低く飛ぶので黒いアゲハ類の中では一番捕まえやすい。「山女郎」の異名もある。
 (参照「チョウ・ガ」松本克臣著 山と渓谷社)


2015
4 29

◎みおつくし(澪標)とは、古地図の印(しるし)と新聞に出ていました。解説として「川を運行する船が浅瀬に乗り上げて座礁しないよう、昔の水路には川底の深さを示す標識があった。 (中略)
 ものごとの表面の様子に惑わされず、ほんとうに大事なものを知り、それを守るという志を表わす。「身を尽くす」という語にも通じる」とも載っていました。いい言葉ですね。

『てんなんしょう(天南星)』
◎“てんなんしょう(天南星)”心地よい響きをもつ言葉ですが、これは生薬の名前でサトイモ科テンナンショウ属の植物の根茎を指すそうです。東アジアを中心に約150種が分布。地下に球茎を有し、特徴のある大きな花(じつは花を囲む仏炎苞)をつけます。初めて見た時はびっくりしましたが慣れてくると結構味わいのある植物です。
ウラシマソウとマムシグサ、この2種はサトイモ科のテンナンショウ属の植物です。ここH公園内の池のある生態園から坂を上る途中に両種とも沢山生えていました。
ウラシマソウ(浦島草)】の名前の由来は仏炎苞に囲まれた花穂の先の付属体が糸状に長く伸び、釣り糸のように垂れて浦島太郎の釣り糸を連想することから名がついたようです。高さは40~50センチ位、葉は1枚で上部が掌状に分かれています。
マムシグサ(蝮草)】は、名前の通り不気味な感じのする草です。名の由来は茎(偽茎)に紫褐色の斑点があり、これがあたかも毒蛇のマムシの容態に似ているからだといわれています。確かに茎の模様はマムシの銭形模様に似ています。
 最近は両種とも数が減っています。特にマムシグサは見られる場所が限られているようです。ここはウラシマソウよりもマムシグサの方が断然多いので貴重なエリアだと思いました。

・「気をつけよう!毒草100種」(金園社)には、“身近にあって知られていない有毒植物”としてマムシグサが載っています。本によると“夏から秋にかけて、ひときわよく目立つ赤いトウモロコシ状の果実ができるが小鳥も有毒と知ってか雪が降る頃になっても林の中に残っている”と。 しかし毒草は「両刃の剣」“カラスビシャク同様痰きりの鎮痙薬として根茎を生薬として利用でき、食用としても食糧難の折りにはかなり利用されていた”(多量のデンプン質を有するので利用可)とのことです。“エグミが強いのはサポニン系で、充分水さらしや煮こぼして食べる”と出ています。
 テンナンショウ属の他の種も有毒で、もちろん前述のウラシマソウも同じです。 現在、まさか食べようとする人はいないと思いますが本種や曼珠沙華で知られるヒガンバナなどの救荒植物(飢饉の際食べる植物)は、当時の食料難という凄まじい生活の中から生まれた食べ物で、人々の暮らしぶりと共に食の歴史として決して忘れてはいけないことだと思います。


         ウラシマソウ
   

         マムシグサ
   

マムシグサ…サトイモ科テンナンショウ属の多年草。
 花期は4~6月、花(仏炎苞)は花茎の先につく。
雌雄異株だが、その年の栄養状態によって性を変える。
茎は偽茎で葉の鞘に相当し斑模様があり、その斑模様がマムシ模様に似ていることからマムシグサの名がついたという。

2015
5  3

◎「憲法は国民を縛るものではなく、公権力を縛る法である」議論するならばこの大原則をもっと前面に出すことが必要だと思います。
今日5月3日は“憲法記念日”施行から68年目を迎えました。

『これも桜です』
◎公園や街路に咲くソメイヨシノが終わると里山の斜面林に自生している山桜が咲きます。そして、これらの桜が終わったころに咲き出すのが今回の話題の2種の桜です。
ただ、この桜は花の形も色も桜とは全く異なり桜の種類と思う人は少ないかもしれません。どちらの桜も花がブラシ状に見えるのが特徴で秋には小さな実が沢山できます。

【その1】…ウワミズザクラ 花期は4~5月で花穂(かすい)は長さ10センチほどで、白いブラシのような花が木全体を覆うほど咲く。花穂の下には葉が数個つく。花の一つ一つは直径7ミリほど。つぼみや若い実は山菜として利用されるという。
【その2】…イヌザクラ 花期は4月。白い小さな花が長さ5~10センチの穂になってつく。ウワミズザクラほどブラシ状にはならないが花全体の形は似ている。花は直径5~6ミリで雄しべが長く突き出ている。
よく似たウワミズザクラとは、花穂(かすい)の下に葉がつかないことで見分けられる。

・斜面林で今花をつけている樹木は、このほかにバラ科のカマツカの白い小さな花、遠くからも良く目立つ淡い紫色のフジの花、ニワトコやイヌシデの花、ニシキギやガマズミの花も見られます。それにちょっと見逃しがちですがハナイカダも葉の上に小さくてチョコンとした花をつけているのが見られました。卯の花(ウツギ)もつぼみがふくらんでいるのでそろそろ咲くことでしょう。
これからの里山の自然は、虫たちも多く現れ、変化に富んだ面白い時期を迎えます。あまり暑くない日に里山に出かけてみませんか。


   
   斜面林に咲くウワミズザクラ
    (撮影者:i氏 
4/19撮影)

   
   イヌザクラ(5/2撮影)

◆ウワミズザクラ…漢字で上溝桜と書く。サクラの仲間の原種といわれている。
 若い実やつぼみを塩漬けにして食べる地方がある。
黒く熟した実はクマたちの大好物という。
(参考:「野山の樹木」姉崎一馬著 山と渓谷社)
2015
5  12

◎鳥の鳴き声を分かりやすく人の言葉に置き換えたものを“ききなし”といいます。“ききなし”でよく知られているのがウグイスの「ホーホケキョ」です。これは、さえずりを「法、法華経」に置き換えたものです。新聞に「ホーホケキョ」というさえずりが、競争相手のいない環境にいると数十代世代で「ホーホピッ」など単純な節回しに変化してしまうと出ていました。ウグイスがこんな簡単な鳴き声だったら、わざわざ“ききなし”にする必要もありませんね。

『アカボシゴマダラ発見』
◎先日、近くの自治会主催の自然観察会の案内をしている時に、瀕死の蝶に遭遇し参加者皆で観察しました。この蝶は「アカボシゴマダラ」というこの地域では珍しい種で観察後死んでしまいました。環境省要注意外来生物に指定されている本種ですが、在来種のゴマダラチョウの幼虫と同じエサ(エノキの葉)を食べるので本種の繁殖は環境によ
くないと言われています。そのようなことを考えるからでしょうか、美しい姿を見ていると悲哀のようなものを感じてしまいました。

・アカボシゴマダラは、近縁のゴマダラチョウによく似ていますが、名前の通り翅の縁(ふち)に赤い斑紋が並ぶ素敵な蝶です。現在は限られた都府県では特に珍しい蝶ではありませんが、どこにでもいるという訳ではありません。ですから古い図鑑にはまず載っていません。
 というのは20年位前までは、国内では奄美諸島のみに分布し、本州で見られることはなかったのです。それが1995年突如として埼玉県秋ヶ瀬公園などで確認され、その後神奈川県、東京都、埼玉県そして千葉県などでも見られるようになったのです。(本来は中国大陸から朝鮮半島に分布)しかし、自然分布域から離れた地域に突如出現したことなどから蝶マニアによる人為的な放蝶の可能性が高いといわれています。


 今後生息域が拡大していくと類似環境に生息しているゴマダラチョウと生態的に競合する恐れもあるようで問題視されています。そうはいっても、本家本元のゴマダラチョウでさえ減少している訳ですから問題は根深いものがあるようです。

・なお、本種を私の居住地i市で見たのは昨年の初見の個体に次いで2頭目です。皆さんのお近くでアカボシゴマダラを見かけたらご連絡下さい。
※写真下は、今回見つけた瀕死のアカボシゴマダラの写真
   
    (撮影:S.A)

アカボシゴマダラ…タテハチョウ科のチョウ。
 漢字では赤星胡麻斑と書く。食樹は奄美諸島ではニレ科のクワノハエノキ、関東地方ではニレ科のエノキである。
 成虫はアオキなどの花で吸蜜、樹液や腐敗した果実などで吸汁。

2015
5  17

◎最近、急に暑くなってきました。今頃はまだ体が暑さに慣れていないので、熱中症には、特に気をつける必要があるとのことです。
十分な休養と水分補給、そして何よりも無理をせず自分の体調を気遣うことが大事です。

 『泉新田大木戸野馬堀(のまぼり)遺跡に行って来ました』
◎小金牧は、江戸幕府が軍馬の育成のため北総台地に設置した放牧場です。その小金牧の一つ“印西牧”の野馬堀遺跡がi市の史跡に指定されています。
しかし、ニュータウンの開発(造成)に伴い数年間遺跡の周りは立ち入り禁止で近づくことができませんでした。この地の造成が一段落し遺跡の公開が始められたという市の広報記事を見て見学に行って来ました。

・市の学芸員の方2人が現地におられ案内解説をしてくれました。
県道千葉竜ヶ崎線からほんの少し入った場所に看板が1枚立っていて、その奥にフェンスで仕切られた場所がありました。遺跡は2本の土手とそれらの土手の間に設けられた堀で構成されていました。
 堀もあまり深くなく、初めて見る方は野馬堀と気が付かないかと思いました。説明と資料によると現存する土手と堀の長さは約100メートル、幅は10~20メートルで南北方向に残っているといいます。
 遺跡自体は、延宝期(1673~1681)の新田開発によって設けられたもので野馬除け(のまよけ)と同時に牧と新田の境界を構成しているということです。説明資料によると遺跡の大木戸の名前は、木下街道に接していたため、街道が横切る部分に木戸が設けられていたところから付いたと出ていました。

・暑い日でしたが、数百年前、自在に走り回っていた野馬を思いめぐらせちょっとだけですが爽やかな気持ちになることができました。
文化財としては寺院や仏像と異なり地味ですが、市の歴史を知るには欠かせないものです。是非多くの人が訪れることを期待したいものです。

・それから残念なこともありました。それは、野馬堀遺跡の近くにあった榎(エノキ)が伐採されたことです。おそらく立っていた場所から考えると牧の中を通っていた木下道(街道)の道端に立って、旅人に木陰を提供していた木だったと思われます。なぜ、この木が切られたのか分かりませんが歴史の重みを考えると残念でなりません。この榎について小金牧について詳しい青木更吉氏の著書「野馬土手は泣いている」の印西牧の章に“自然愛好家のHさんの奥さんは開発であの榎が切り倒されるかどうか心配している”と出ていました。このHさんの奥さんの心配が現実になってしまったのですね。少し複雑な思いも重なっての遺跡見学を終え帰路に着きました。


   公開中の野馬堀遺跡の野馬土手
   

   印西牧絵図(明治2年)のコピー
   

   榎の版画(青木氏の著書の扉版画)の
   一枚のコピー
   

…小金牧は高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧で構成。
 幕府直轄牧は、小金牧のほか、佐倉牧(下総)、嶺岡牧(安房)、愛鷹牧(駿河)の4か所に設置されていた。(説明資料より)


2015
5  25

◎印西市にある小倉台図書館で「印西市と環境保護」をテーマにした展示が行われます。市民活動や里山に関する資料展示ということで展示の依頼があったので少し資料を提供しました。期間は5月26日(火)~6月28日(日)です。立ち寄ってみて下さい。(小倉台図書館:千葉ニュータウン中央駅より徒歩10分、月曜休館)館内一般展示コーナー。

『恋の時期の激しい戦い!』
◎住宅街のk地区から坂道を下りると谷津田が広がっています。この時期、林の木々の緑と青々とした水田の苗が風になびいたりすると、はっとするほどの美しさを見せます。ただ、川沿いや斜面林沿いの道端の雑草がきれいに刈られているせいなのか、チョウやトンボ、甲虫など虫たちの姿は以前と比べると減っている気がします。

・斜面林脇の道を進むと左前方に10メートル四方くらいの池が見えてきます。池水面には、睡蓮の葉が重なるように広がり所々に真っ白な花が立ち上がるように咲いていました。
 デジカメの撮影ズームを最大にして睡蓮の花を撮影していると何かが動きました。水面で激しくぶつかり合い水しぶきが30センチ位大きく上がりました。何かいる!双眼鏡で覗いてみると、かなり大きな2匹のカエルがまさに“くんずほぐれつ”のバトルの最中でした。
   


 皆さんも池のほとりでブォォォォォーブォォーと低く牛のような声が響いているのを聞いたことがあると思いますが、鳴き声が牛の声に似ていることから名がついた大形のカエル「ウシガエル」でした。
 見ていると二匹のウシガエルが相撲の仕切りのように睨み合ったり、激しくぶつかり合ったり、相手の体の上に乗り上がり相手を水中に沈めたりと目まぐるしく動き回っていました。時々足指の大きなひれが空を舞っているのも見えました。

 しばらくすると片方のカエルがその場所を離れバトルは終了したようでした。これはメスをめぐってのオス同士の闘いだそうです。

   

ウシガエル…アカガエル科の大形のカエル。
大きさは115~180ミリだが、それより大きな個体もある。
アメリカ東部原産で大正時代に輸入され食用ガエルとして養殖された。
 現在見られるものは養殖していたものが野生化したものである。繁殖は5~9月で繁殖期の間上記のようにオス同士の激しい闘争がよく見られる。
 オタマジャクシで越冬し、翌年カエルになる。
 (参考書籍「日本のカエル」山と渓谷社)


2015
6  2

◎5月29日には屋久島町口永良部(くちのえらぶ)島の新岳(しんだけ)で爆発的噴火、30日には小笠原諸島でM8.5の強い地震、と列島で自然災害が連続しています。幸いにも死者は出ていないようですが日ごろからの防災意識を高めておく必要があります。

『平賀(ひらか)宗像神社』
◎i市内には、鳥見(とりみ)神社と宗像(むなかた)神社がいくつも集中してあります。なぜ集まっているのかはどうもはっきりしないようです。その宗像神社の一つである平賀宗像神社に先日行って来ました。

・平賀の集落を抜けて畑道を進むと前方にこんもりとした森が見えてきました。
 道路から石段を7、8段上るとスダジイの大木の先に石の鳥居が遠くに見え、そこを目ざして石段を上がるとすぐ右手に石造物がありました。そこには“村社宗像神社”の文字が刻まれていました。
   

   
 村社(そんしゃ)とは、旧制度の神社の格式の一つであり、本神社がおそらく旧平賀村の鎮守の社(やしろ)であったと思われます。



・鳥居をくぐると鬱蒼とした木々に挟まれた長い参道が続いていました。参道の木々が途切れる奥の広場に社殿が建っていました。
   

   
 社殿正面には、太い注連縄が吊るされていました。森の中に佇む厳かで落ち着いた雰囲気を醸し出している社にいると、暫し世俗の諸々の事を忘れ癒され感を持つ事が出来ました。耳を澄ますとホトトギスやウグイス、シジュウカラなどの野鳥たちの声が響き、目には木々の緑が優しく映り、森林浴たっぷりの空間がそこにあったのです。幾つもある宗像神社の中でも印象に残る一つであることには間違いありません。ほんのひと時でしたが良い時間を持つ事ができました。

◆平賀宗像神社…由緒不明。応神天皇12年詔により印旛の地に印旛国造伊都許利命を置く。
 先ず印東を鎮め公津の地に居す。公津は神津なり。命印西に渡りまず平賀地を開く。平賀は開くの意にして印西の地をこれより開かんとの旨にて村名になる。この地は四面湖水に望み北端の一角僅かに山田村に接す。年々水難蒙ること夥しく(おびただしく)南端に水神水波女神を祭り土民を安堵せしめる。命治水の巧を積みここに宗像神社を鎮める。後略(印旛郡誌より WEBを参照)


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