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2014
3  11

◎新聞の投稿欄に「ワンワンさんち・・・」忘れない という投稿がありました。東日本大震災の日時と規模を「(20)11年3月11日午後2時46分 マグニュチード9」を「(11)ワンワン(3)さんちの(11)ワンワン(2)に(46)よろめ(9)く」と、ごろ合わせで表したものです。苦しい語呂合わせですが、その人その人が心に留めておくことが大切ですので、これもありかなと思いました。
 今日3月11日で震災から丸3年となります。復興は掛け声ばかりで本当に困っている被災地の為になっているのか、はなはだ疑問が残ります。まして原発事故に関しては、収束宣言を出して久しいですが、誰も収束しているなどと思っている人はいないのではないでしょうか。

『市民の立ち上げた放射線測定室「T」オープンから2年4か月』
◎印西ウエットランドガイドでは、震災直後から被災者支援を行ってきました。初めは私の住むi市に被災地から避難してきた方々への支援をしました。主に食料や生活雑貨を集めて届けました。その後は、宮城県Y町などの避難所に暮らす方々への生活雑貨と義捐金を2年半に渡り行いました。そのほかに同じく宮城県O町の2団体に義捐金を送ってきました。
・その団体の一つを紹介します。団体名は「T(略称)」という市民と農家の為の民間の放射線測定室です。消費者の食品に対する不安、生産者の風評被害などの不安、それらを公的機関だけに任せられないと市民がお金を出し合い立ち上げた施設です。立ち上げて2年と4か月になる施設ですが地元ではなくてはならないものとなっております。
 この「T(略称)」は、年に2回(春と秋に)活動報告を出版しています。今回出版の春編には、Y町などに支援を続けた際に取りまとめや配布をボランティアでずっと関わっていただいたH女史の特集記事も載っています。価格500円は活動費として活用するということです。
手元に何冊かありますので関心のある方いましたらお分けいたしますのでご連絡ください。

 ◇へいわのかたち(詩)◇
ひとりで てとてを 合わせたら おいのりのかたち
 ひとりで てとてを こぶしにしたら おこったかたち
  ひとりで てとてを あわせたら ねがいをつつむ
 つぼみのかたち ―後略-
  活動報告 「T(略称)春2014」より


 ※写真下は、2011・3・12 (震災の翌日の新聞)の朝刊の一面です。
   

   

◆東日本大震災…2011年3月11日に発生した東北地方太平洋大震災とそれに伴って発生した津波、及びその後の余震によって引き起こされた大規模地震災害である。Web Wikipediaより

2014
3  21

◎暑さ寒さも彼岸までと言われておりますが、このところ気温が安定しません。

『赤松宗旦展』
◎茨城県北相馬郡利根町の歴史民俗資料館で行われている『赤松宗旦と利根川図志展』に行ってきました。雨の中fさんの車に載せて頂き栄橋を超えると早や利根町に入りました。早いはずです。私の住んでいる印西市と利根町は利根川を挟んでいますが隣町なのです。

・資料館では、企画展示の責任者のHさんに丁寧なギャラリートークをしていただきました。利根川図志に出ている挿絵の絵師がテーマとなっていました。 詳細は省きますが、作者の絵師が特定されていない画が幾つもあるそうです。その中でもトークの話題になっていたのは、葛飾北斎、葛飾為齊、玉峨などでした。なお、利根町の古刹徳満寺で見つかった屏風「竹林七賢人図」の絵師が話題の玉峨だそうです。

・資料館には宗旦に関する資料が沢山展示されていて1時間余りじっくりと話を聞きながら展示を見て回りました。展示の中に利根川図志の原本もありました。Hさんにお礼を述べ退出してから、竜ヶ崎方面で昼食を済ませ先述の徳満寺を訪れました。俳人の一茶も訪れたという寺には、玉峨作の屏風絵が座敷正面に置いてありました。画風は静かで緻密、素敵な絵でしたが、撮影お断りの為写真はありません。本堂の廊下に歴代の住職用(?)か、立派な籠が天井から下がっていました。その籠には九曜紋(相馬藩?)の紋がついていました。また、間引きの絵馬が鴨居に掛けてありました。
画には母親が赤児の口をふさいでいる様子が描かれ、当時、この一帯の農村の貧困さを物語っていました。少年時代この絵馬を見たことが、民俗学に進んだ柳田國男の素地になったのではと解説文に書いてありました。本堂にいらしゃった女性の方と30分ほどお話してから帰路に着きました。



※写真下は、少年期の柳田國男に影響を与えたという、文中にある絵馬「間引図」を貼ります。

   

◆利根川図志…江戸時代の地誌。6巻。下総布川(ふかわ)の赤松義知(宗旦)著。1855年の自序がある。
挿画は2世葛飾北斎ほか。
利根川水源から銚子の河口に至る沿岸の名所、産物、旧跡などを記したもの。
      (百科事典マイペディアより)
 宗旦は少年期から青年期にかけて印西市吉高の医師前田宗珉(母の実家)宅で過ごした。

◇◆俳諧◆◇
 徳満寺・小林一茶句碑
   ~ 段々に 朧よ月よ こもり堂 ~


2014
3  29

◎「自由な朝」新聞のトップ記事袴田事件で死刑が確定していた袴田巌さんの再審決定の記事のタイトルです。強要された自白が唯一の証拠、他の証拠は捜査機関によるねつ造の疑いが強いと出ていました。不当な判決により心も体もぼろぼろになってしまった袴田さんのご健康をお祈りいたします。

 『モンシロチョウの羽化』
◎成田三里塚で無農薬野菜を栽培しているグループが週一回の契約で野菜を届けてくれる。いつもコンテナ(黄色いプラスチックの四角い籠)に入れて運んでくれるのですが、野菜が多い時は山盛り、端境期には底にほんの少しとその時によって量は大きく異なります。
・昨年末、そのコンテナの野菜に蛹が1個ついていました。それを飼育ケースに入れてベランダや窓下の通路において3月27日の朝、羽化したのです。育てた(見守ってきた)のは家内ですので、家内の観察記録メールの一部を記します。
 ≪12月18・19日≫ 
・夕ご飯にサニーレタスを食べようと洗っていたら、じぇじぇじぇ葉裏に蛹がついていた。明日は雪が降りそうだけどベランダで育ててみようかな。割り箸に葉毎つけてケースを外へ…。・蛹はこんな”シースルールック”で冬を過ごすなんて大した生き物!
 ≪1月6日≫ 
・大きさは19ミリ、何蝶が生まれるのか早く知りたいなあ。
 ≪1月30日≫
・久しぶりに蛹を見たらふつうに元気そうで安心。
 ≪2月26日≫
・最近あまりに暖かいので飼育ケースを北側の窓下に移した。色は葉と全く同じごく薄い肌色に…。これも擬態かな?
 ≪3月27日≫
・今朝方8:00頃ついにモンシロチョウが羽化!朝寝坊しちゃったので、蛹からもこもこ出てくる瞬間を見れなくて頭ゴツン!だったが、ちゃんと羽化してくれてうれしい。
「おめでとう!生まれたね!と心の中で言った。黄色っぽい裏羽がマットな感じで美しい。でも思わず「小さいなあ!」と口走ってしまった。春型の蝶はアゲハなども一回り小さいから当たり前だけどね。
(我が家へ来てから羽化までの日数:101日)



 現在モンシロチョウはベランダの飼育ケースの中にいる。地球(てら)子屋ファーム(我が家の自然農の家庭菜園)に持っていこうと思ったけどこの雨なのでやめた。気温朝9度・昼12度

≪3月28日≫
・ファームにて放蝶。モンシロチョウの雌だった。畑で雄に見つけられ、只今野原で命の営み中。畑に連れてきて本当に良かったなあ。気温朝11度。きのうの朝よりも2度も高かった。

   写真下は、羽化したモンシロチョウ
   

モンシロチョウ…シロチョウ科春のイメージキャラクターとして愛される。
 春型は小形で黒っぽい。
 大昔に大陸からやってきた外来種といわれ、集団で海を渡るという。


2014
4  1

◎今日4月1日はエイプリルフールです。万愚節とも呼ばれ、罪のない嘘をついて良いといわれる日で「4月馬鹿」ともいわれています。
私の子ども時代には、この日兄妹や友にどんな嘘をつこうかワクワクしておりました。しかし、最近ではエイプリルフールの話題があまり出ません。きっと「嘘」が横行しているからでしょうか。生命科学や公共放送、司法の場まで何の制限もなく罪のないという頭文字を忘れた「嘘or詭弁」が蔓延しているようです。「嘘」はエイプリルフール限定にしたいものです。

 『里山の勲章?』
◎3、4日前から少し体調が優れず家に籠っておりました。微熱に鼻水、咳…と風邪の症状のようでした。熱が高くないためインフルエンザではないだろうと市販の風邪薬を服用していましたが一向に改善しません。咳き込むとなかなか止まらず仕方なく近くの医院に行ってきました。この医院には1年半前インフルエンザに罹った際にお世話になって以来でした。
・女医さんは診察後、私の症状について「里山の勲章ね」と話していました。実は前回お世話になった際花粉症の検査をしてもらっていたので、その結果と本日の症状を合わせた診断だったようでした。
 スギやヒノキもハンノキ、雑草、ハウスダストと検査項目の全てが陽性、6段階の内3~4イネ科の植物などは最悪の6でした。このところ行事が続き疲れ風邪気味であったことに加え、大量の花粉を吸いこんでしまったのではないかという診断に妙に納得した次第でした。
 持って行った印西ウエットランド里山ガイドのパンフを手に「花粉の中に飛び込むような活動なんだからしょうがないわね」の女医さんの言葉に頷き、診察を終えました。薬局で何種かの薬を貰い帰りました。吸入薬と抗生物質が効いたのか随分楽になりましたので、あと2、3日休養してからまた動き出そうと思っています。

◇◆≪俳句≫◆◇  船橋市在住 iさん作
 ・宙にむけ 天使のラッパ 辛夷さく
 ・こぶし咲く 桜待たるる ななようか
              (七八日)

花粉症…ある種の花粉を吸入するためにおきるアレルギー性炎症。 鼻水・くしゃみ・喘息・結膜炎などを伴う。原因として春のスギ・ヒノキ、秋のブタクサ・ヨモギなどの花粉が知られている。広辞苑より


◎花粉カレンダー(○○製薬株式会社作成)の複写とクヌギの雄花(この花粉も花粉症の原因という)の写真
   

   

2014
4  5

◎桜が散り始めていますが、入学式(i市は8日中学、9日小学校)まで桜が持つといいですね。

『泥面子(どろめんこ)』
◎以前から船橋市の畑で「どろめんこ」なるものが出土することは聞いていました。しかし、泥面子の本物はまだ見たことがありませんでした。
 江戸幕末に流行、子ども達の間で遊ばれてきた泥面子が、船橋から千葉市にかけての畑などから採集されたと聞きます。泥面子がなぜ畑から出るのかは、いくつかの説がありそれは、(1)畑に虫や病気が出ないように祈願して撒いた。(2)江戸(東京)から船で積んできた生ごみ(肥料)の中に混じっていた泥面子を肥料と一緒に撒いた。また、地域によっては船で運んだ下肥の中に混じっていた。(3)農作物の五穀豊穣を祈願して畑の四方に撒いた。
(4)子供が死亡し埋葬するときに副葬品の一部として入れた。(webサイトより)というものです。文様も動物、家紋、歌舞伎役者、12支、力士、将棋の駒などいろいろあるといいます。

・本日、体調も戻って来たので体慣らしに木下駅前で毎月1回行われている「木下骨董市」に行ってきました。南口の商店街の道路を歩行者天国にし、およそ30前後の骨董の露店が並んでいました。店は壺、皿や掛け軸、古銭、農機具、大工道具、古道具、人形、刀剣、十手、書籍、古地図それに(骨董ではないが)盆栽や
野菜、乾物、焼き鳥などもあり、かなりの人出でした。

 主に地図や古書などを見ながらひとまわりして帰ろうと思った時に小さな紙箱に入っているおはじきくらいで面のようなものを見つけました。


それが前述の泥面子でした。店主に泥面子であることを確認し全部で5個購入しました。
 文様は翁面2とキツネ(?)面1、不明1でした。手にとると思っていたよりずっと小さくて軽く、現代の子らの遊ぶゲームなどと比べて質素そのものでした。泥面子を手に取ると当時の子ども達の素朴な顔が一瞬浮かんだ気がしました。

   写真は、この時購入した泥面子の写真
   

泥面子(どろめんこ)…土を素材に作られためんこ。直径3センチ、厚さ3,4ミリほどの面型に粘土を詰め、素焼きにして製造。江戸、享保年間に登場、発祥は大阪であり、そこから各地に普及し、幕末に流行した。Webフリー百科事典wikipediaより

2014
4  14

◎熊本県で国内3年ぶりの鳥インフルエンザが発生しました。熊本県多良木町の農場で多数の鶏が死に、県の検査で死んだ鶏2羽から高病原性のH5亜型鳥インフルエンザウイルスが検出されたそうです。拡大が心配されます。

『大日塚の開墾記念碑』
◎先日散策会でi市のSの森に行ってきました。森の中央部に江戸期に開墾のため請負人たちが集まり、開墾の誓いを立てたという場所がありました。
 周囲より1メートルほど盛り上がった塚の真ん中に小さな石碑が建っていました。
 石碑には寛文10年(1670)5月の年号と惣深(そうふけ)新田開発請負人12人の名が刻まれていました。
 この碑は大日塚と呼ばれひっそりとした森の中に苔むして建っていました。刻まれた氏名も判読が難しくなっていました。

・他の文献を参考に刻まれた文字を読んでみました。文字は以下の通りです。
 寛文十年 大日如来 戌五月  惣深新田開発人 鰭崎組  清十郎 弥五兵衛 茂右門 伝兵衛  千足組 金兵衛 源之丞 杢右門 長左門 三村組 平左門 新五左門 新兵衛 久右門

・惣深新田の開発には、以上の12人のほかに、金主請負人が3名加わって15名が新田開発の請け方と考えられているといいます。

 散策会当日の朝、雑草や低木で入りづらかった塚が、地元の方の好意できれいになっていました。聞くと私たちが訪れることを知って草刈り機と軽トラを出して作業していただいたとのことでした。ありがとうございました。



   

◆草深野(そうふけの)の開墾…徳川幕府の直轄の牧、小金牧の一つ「印西牧」は、開墾のため18世紀前半になると段々に縮小されました。
 牧の一部である草深野の開墾は延宝元年(1673)に幕府の許可が下り、4年目の延宝4年に検地が行われました。 その際、検地役人が記述した「惣深新田」の文字がその後の名称「惣深(そうふけ)」の元になったといいます。明治44年にまた元の「草深(そうふけ)」に変更になりました。

2014
4  22

◎某新聞に100年ぶりという連載小説が掲載されました。小説の日付は大正三年四月二十日(掲載は右からの文字ですが)とありました。漱石の「心」です。
 タイトルやカットも100年前の連載当時のものを再現しているといいます。「心」は、昔読んだように記憶していますがよく覚えていません。朝、新聞を開く楽しみが一つ増えた気がします。

『辺田前の獅子舞』
◎4月20日の散策会の後半、市内に残る4か所の獅子舞のうち、地元で辺田前の獅子舞(へたまえのししまい)と呼ばれる舞を見学しました。境内には地元の人を初め近隣から集まった人々が思っていたより沢山いました。ビデオカメラやデジカメを構えている人も多かったです。

・到着した時、すでに3獅子(おやじ、かか、せな)は定位置にスタンバイし保存会の会長(区長)の挨拶の寸前でした。700年も前から続く獅子舞は、一奉納が約50分で当コミセンで2回、八幡神社と鳥見神社で各1回、全部で4回舞われるということでした。区長さんに舞手は途中で代わるのか聞きましたところ、代わらずに最後まで舞うとのことでかなりの重労働だそうです。
 舞は春の農作業の始まりの神事の行事として行われ、「悪魔退散」「家内安全」「五穀豊穣」を祈願する「春きとう」として定着、毎年春の種まき時期に奉納するということです。

・市内にある4か所の獅子舞はそれぞれの特色があります。ここの舞はオコドと呼ばれ農事(稲作)の事始めに行うこと、獅子頭の目(目玉)がとても大きいこと、頭(当時のままの頭という)には鳥の羽だけでなく麻で作った地面に届くほどの髪の毛が目立つことなどが特色といえます。
このほか小さな子供を獅子(せな)が抱いて四方の中心に横に置かれたブルーの板(?)を飛び越えていましたが、これは子供さんの無病息災を願う神事でしょうか。はっきりしませんがこれもここの舞の大きな特徴でしょう。
 なお、見学時にお握りのサービスがあり嬉しかったです。また、子どもたちには駄菓子の入った袋が配られました。



   

   

辺田前の獅子舞…毎年4月の第3日曜日に当コミセンで2回、鳥見神社と八幡神社で1回ずつ計4回奉納。起源は古く後醍醐天皇の南北朝時代に遡るという。
獅子舞関係の参考文献 千葉県下総郷土芸能と民族行事(web)より

2014
4  27

◎富岡製糸場が世界文化遺産に登録される見通しになったといいます。何年か前に友人Aさんの車で行ったことがありますが、建物も立派で価値ある場所と思いました。

 『六軒(ろっけん)厳島神社の力石』
◎木下駅の北側にある公民館は、手賀沼からの排水路手賀川の下流六軒川と弁天川に挟まれた島のような地に建っています。このうちの弁天川に沿って上流側へ300メートルほど歩くと和風太鼓橋型の六軒水神橋に着きました。この橋のたもとにあるのが六軒厳島神社です。

・道路沿いに庚申塔が並び、大きな鳥居が建っていました。鳥居を入ると、左手に子ども相撲の土俵が設置してありました。ここで毎年8月に近隣の子どもたちによる相撲大会がいまでも行われているそうです。また、鳥居右奥には、大きな石碑がありました。碑の表には、力士の姿が線彫りされていました。大正期活躍した第24代横綱鳳谷五郎(おおとりたにごろう)の全身像です。碑はこの地出身鳳谷五郎の歿後50年を記念して2006年11月に建てられたそうです。
 なお、碑に彫られている「不撓不屈」の文字は、鳳の兄の孫である俳優滝田栄さんの手によるそうです。

・また、石碑の右前下に大きな石が置いてありました。「力石(ちからいし)」でした。力石は円形の石の台座にセメントで固定してあり、台座に「水神社の力石」と彫ってありました。なお、水神社とはこの厳島神社と合祀されている神社です。メジャーで力石のサイズを測ってみると、縦 55㎝、横 46㎝、厚さ 31㎝、重さ 不明、刻字 なし 石の種類 不明でした。測り終わって再度、境内を一回りしましたら社殿の右手前に鳥居か石塔か何かの台座にセメントで固定した小さめですが、もう一つ力石を見つけました。二つの力石を観察し、往時の若者たちの力比べの様子を思い浮かべつつ神社を退出致しました。

力石…力試しに抱え上げる石。神社の境内などに置かれる。広辞苑より


   

   

2014
5 4

◎新聞の土曜版に雑草のカタバミの記事(エッセイ)が載っていました。記事の中に興味深い部分がありましたので抜き出してみました。
『葉の裏をひっくり返してみると、何やら白いものがついている。(略)それは、カタバミコナジラミという1ミリにも満たない小さな昆虫とその卵だ…。(略)人間が暮らしている世界と違い、地上10センチほどの彼らの世界は、温度や風の吹き方も異なる全く別のミクロコスモス(小宇宙)だ。地球は、私たちに関係がないと思っている生物たちが一生懸命生きている、多様性に満ちた乗合船なのだ。(略)』

 『赤報隊(せきほうたい)澁谷總司(しぶやそうじ)資料館』
◎東武アーバンパークライン(旧東武野田線)六実駅の「六実」とは、明治政府の下総牧の開墾で6番目に入植が始まったことから付けられた地名です。この六実駅から東へ500メートル位歩いたところに幕末に結成されその後偽官軍との汚名をきせられ処刑されたこの地佐津間出身の赤報隊幹部(使番)渋谷総司資料室がありました。(佐津間自治会館内)

・幕末に結成された赤報隊は、浪士・郷士・豪農・豪商・農民などの若者が自分たちで立ち上げたもので、草莽(そうもう)隊の一つ。官軍の先鋒ととして「年貢半減」を宣伝し先発していました。慶応4年2月新政府は密かに年貢半減を取り消し、偽官軍の烙印を押したのです。そして3月3日隊長相楽総三らと共に捕えられ刑死(斬罪梟首)したのです。近くの寺院の境内にこの渋谷総司の碑が建っていました。この碑は刑死してから何と60年後の昭和3年にやっと復権し従五位を授けられ、昭和4年に建てられたものです。そばに総司の生家もありました。今回は許可をとっていませんでしたので門の所まで行って帰りました。

・赤報隊というと1987年5月3日の朝日新聞阪神支局襲撃事件を思い浮かべる方があると思います。この事件は名前を語っただけで渋谷総司たちの赤報隊とは全く関係がありませんことを付け足します。なお、私が渋谷総司資料室を訪れたのは、折しもこの襲撃事件から27年目の5月3日でした。渋谷総司の冥福を祈るとともに阪神支局襲撃で亡くなられた記者の冥福を祈ります。

◆赤報隊…草莽隊の一つ。隊長は相楽総三で、公卿綾小路俊実らをいただき、同志300人とともに組織。新政府東山道軍の先鋒をつとめ、旧幕領に対して年貢半減を宣伝するが、新政府により偽官軍とされ、信州下諏訪で壊滅した。 参考 百科事典マイペディア


   渋谷総司の生家と顕彰碑の写真
   


   
2014
5 12

◎今日5月12日は、ザリガニの日です。1927年鎌倉の食用蛙養殖場に餌としてアメリカからアメリカザリガニが持ち込まれた。持ち込まれたのは、わずか20匹であったが、逃げだした個体が爆発的に広まり、1960年代には、九州でも確認されるほどになった。(web Wikipediaより)

『山椒は小粒で・・・』
◎故事ことわざ辞典に、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」が出ていました。その意味は、「体は小さくとも才能や力量が優れていて、侮れないことのたとえ」と載っていました。が、今回の話題は植物の「山椒」ではなく、野鳥のサンショウクイです。

・先日久しぶりに信州の高原に行ってきました。高原ではキビタキの大きな声があちこちに響き渡り、ブルーの体のオオルリや樹をつつくアカゲラ・アオゲラの姿など野鳥の姿が沢山見られました。
 どの鳥達も子育ての準備か梢で忙しく鳴いたり、ペアで飛び回ったり、巣材を探したりする姿があちらこちらで見られました。それに昼間にも関わらず、梟(ふくろう)の大きな声も聞こえていました。

・高原にある小さな池の周辺を巡っていた時、池の上空を白と黒が目立つスマートなモズ位の鳥が飛び去るのが見られました。2,3羽いましたが何鳥か不明でした。
 しばらくすると運のいいことに戻ってきて50から80メートルほど離れた白樺の梢に止まりました。
 ピリリ、ピリリ…の声とスマートな体形で鳥種はすぐに分かりました。サンショウクイ科のサンショウクイでした。飛びながらピリリリイ、ピリリリイ。
独特な鳴き声が特徴な鳥、
 漢字では「山椒喰」と書きます。
ことわざの意とは、異なりますが本鳥の鳴き声がぴりりと聞こえるので、山椒はぴりりと辛いことに掛けて作られた名前と思われます。名付けた人の奇知に頭が下がる思いです。


・サンショウクイの美しい姿をしばし見とれたあと、池からカラマツ林を巡り散策を終了しました。
高原で見られた鳥は以下の通りです。
・フクロウ(声)、シジュウカラ、カワラヒワ、メジロ、ウグイス、アオジ、ホオジロ、ハクセキレイ、コガラ、ハシブトガラス、ヒヨドリ、トビ、ヒガラ、ゴジュウカラ、エナガ、キビタキ、オオルリ、サンショウクイ、コムクドリ、クロツグミ、アカゲラ、アオゲラ、ヤマガラ、アカハラ、モズ、カケス、タカsp、ハヤブサ、キジバト(順不同)

   この時撮影しましたサンショウクイの写真
   

◆サンショウクイ…サンショウクイ科の鳥。スズメよりずっと大きくスマートな体つきの灰色の鳥。全長20㎝夏鳥。名前の由来は本文に出ている通りです。【参考文献:野鳥の図鑑 保育社】



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