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2014
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◎昨年中は皆様方に大変お世話になりました。
 年末には辺野古の埋め立て承認が突然出たりと本当に一年間がドタバタと慌ただしく過ぎ去ったように感じた一年でした。
今年は午(うま)年。「午」の語源は「忤」(ご:「つきあたる」「さからう」の意味)で、草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために動物の馬が割り当てられた。(web Wikipedia参照)・・・ということです。“血気盛ん”より“ほどほど”がいいのかもしれませんね。いずれにせよ、国内外の平安を願いたいものです。今年もよろしくお願い致します。

◎朝5時半過ぎに家を出発、船橋三番瀬干潟に着いた6時半頃には空も随分と明るくなり、干潟には続々と人が集まっていました。
 思ったより寒くもなく、皆おしゃべりをしたり、カメラの調子を試したりして日の出を待っているようでした。日の出の時間(6時49分)が近づいてくると東の空が茜色に輝いてきました。6時50分過ぎだと思いますが、船橋市高瀬町にある工場群の建物の上に太陽が現れました。日の出を待っていた人の群れからは「ああっ」というため息のような声が流れ、拍手が起こりました。
 去年、一昨年とはっきりしない日の出でしたが今年は明快な出現でした。
・しばらく写真を撮ったり、双眼鏡で眺めたりしていました。1000人位いた人たちも30分もするとほとんど帰ってしまい、干潟に静寂が戻ってきました。
 今度は鳥たちの出番でした。満潮の三番瀬をハマシギの群れが行ったり来たりしていました。堤防を歩き海面に浮かぶスズガモなどを観察し私達も引き上げることにしました。
 今年はいい年になって欲しいものです。賀状に代えて日の出の写真(2014年1月1日撮影)をHPに貼り付けます。

三番瀬(さんばんぜ)…ふなばし三番瀬海浜公園南側に位置する東京湾最奥部の約1600ヘクタールにわたる浅い海域(水深5メートル未満)のことで、古くからスズキ、カレイ、アサリ、バカガイ、ノリなどの漁場になっています。渡り鳥の休息の場所や越冬の場所にもなっています。(海浜公園パンフ参照)

◇戸神川防災調節池白鳥情報…オオハクチョウ4羽(成鳥3 幼鳥1)1月1日 Uさん情報


     三番瀬の初日の出
   
    ハマシギの乱舞
   

2014
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◎明日1月7日は、七種(ななくさ)。春の七種を刻んで入れた七種粥を食べる習慣のある日です。万病を除くおまじないと言われております。おせち等で胃が重くなった方には持って来いですね。
寒の入り、寒さますます厳しくなります。お体ご自愛ください。

 『旧佐倉牧、8番目の開墾地(八街)』
◎八街市に所用があり二日ほど通いました。ここは明治初期に始まった小金・佐倉牧の八番目の開墾地です。
 今まで「谷津田だより」で話題になっていた野馬土手は、ほとんど小金牧でしたが、ここ八街にも野馬土手があちこちに残っています。
 八街は、佐倉7牧の内の「柳沢牧」の中にあります。将軍家の牧は、小金牧、佐倉牧、嶺岡牧の3牧ありました。 小金牧は幕府直轄でしたが、佐倉牧は佐倉藩が管理していました。 牧にかかわるシンボルとして、八街駅前に鎌ヶ谷の貝柄山公園にある野馬のオブジェと同じようなものがありました。 全部で6(含む子馬2)体あり、傍に解説プレートも設置されていました。
・八街の入植は明治3(1870)年4月開始されたが、その開墾は原野を開くという過酷で困難なものだったといいます。多くの脱落者を出し、開墾会社は明治5年に解散してしまい、開墾地は一部の入植者と旧開墾会社役員に払い下げられました。その後、近隣農家の二男三男など農業経験者により開墾は続けられたといいます。
 ちなみに私の父方の家はこの八街の地(現在八街市文違)に明治初期に入植し、現在まで続く数少ない家のひとつです。
 参考文献 続「野馬土手は泣いている」
           青木更吉 崙書房

◆開墾地の地名…明治新政府の手により、小金牧(千葉県北西部)および佐倉牧(同県北部)の開墾が行われ、開墾地には開墾順序に合わせて地名が付与された。初富は最初で、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三の順。
 (この部分は、web wikipedia参照)


   文中にある馬のオブジェ
   


   


◇戸神川防災調整池白鳥情報…
  1月5日 オオハクチョウ4羽

2014
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◎以前「便り」で大相撲の力士「里山」を取り上げたことがありました。鹿児島出身の力士ですが、四股名(本名だという)が「里山(さとやま)」で、里山散策を主催する私としてはなんとなく応援するようになりました。
 しかし、新入幕の年(2007年5月)2場所負け越し十両に陥落。その後怪我をし、幕下まで落ちてしまいました。そのうち新聞の番付にも載らず、忘れられた存在になっていましたが、なんと今場所38場所ぶりに再入幕しました。
 今日まで2連勝、史上1位のスロー復帰となった里山をまた応援しようかと思っています。
 皆さんもテレビで相撲観戦をする機会がありましたら見て下さい。西前頭16枚目ですので、早い時間でないと見られません。

 『戸神川防災調節池の白鳥がいなくなりました』
◎5羽あるいは4羽で年越しをした戸神池の白鳥がいなくなりました。昼間見えないことが何日かあったようですが、それでも1月5日、7日には成鳥3羽、幼鳥1羽の4羽が確認されていました。

・そのオオハクチョウの家族が、1月8日から1羽も見えなくなりました。その後、ちょっと思うところがあり、同じ鉄道沿線の近くにあるN池に行ってきました。
 ここもオオハクチョウが毎年少数が越冬している場所です。
 行った時には11羽がのんびり池の水面で休んでいました。さっそく、双眼鏡で覗いてみましたら戸神池にいた個体と似ているものが数羽見られました。池に表示してある個体数の変化の表と戸神池の数を比べても行き来していることが納得ができました。


 特に11羽いる中の幼鳥を含め5羽の首から頭部分が赤褐色に染まっている個体が戸神池にいた個体かと推測できます。
  それは、戸神池の水質にあります。かなり強い鉄分を含んだ水で首まで水中に突っ込み水草を食べる白鳥の頭と首は赤茶になってしまうということです。
 また、戻ってくる可能性もありますがそのまま居座って、そのまま北帰行という可能性もあります。戸神池を離れた理由はまだわかりません。
   
     T池で撮影した白鳥の写真

※戸神池の個体と推測されるのは、右端の2羽。中央の奥、左端の奥と一番手前の5

オオハクチョウ…カモ科の水鳥。大型で全長約1.4メートル。体は純白で、脚と嘴は黒い。ユーラシア北部に広く分布し、日本には冬鳥として渡来。

◇戸神川防災調節池の白鳥情報…1月8日から0羽。
2014
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◎1月20日は二十四節気の一つ、大寒。言葉の通り寒い日が続きます。インフルエンザやノロウイルスが気になります。お体ご自愛ください。

『身近な自然も楽しい』
◎先日1月18日の散策会のテーマは「身近な自然探し」でした。雪が降りそうという予報にも関わらず(スタッフを入れて)55人という大集団で千葉ニュータウン中央駅付近の調整池、公園を散策しました。
 年越しをしたオオハクチョウの家族は移動してしまいましたが、1羽が戻っていました。白鳥は減ってしまったのですが、代わりにたくさんのオシドリが池の花形になっていました。オレンジ色に輝く雄のイチョウ羽が川岸に沢山見え隠れして見事でした。おしどり夫婦の名があるように雄のそばには、一寸小さめで褐色で目の周りの白さが目立つ雌が見られました。そのほかにもマガモやホシハジロなどたくさんのカモ達が見られました。

・調整池の岸沿いを越冬昆虫や昆虫の卵などを見つけながら歩くと木々にまだ残っている木の実や新芽、カマキリの卵などを狙ってやって来た小鳥たちに会えました。定番のシジュウカラ、メジロ、エナガなどに混ざり、ヤマガラやコゲラなども見られました。数はまだ少ないですが大陸から渡って来たツグミやジョウビタキの姿もありました。
このように寒さが厳しくなるこの時期には、無理して遠くに出かけなくても駅から1キロ圏内で十分に自然を堪能することも可能なのです。

・今日20日は調整池を覗いた後、近くの団地を巡ってきました。近くの団地内でモニュメントを撮影したり、家々の庭木や街路樹にやってきている小鳥の声や姿を見つけながら歩くのも、この時季の楽しみです。皆さん、あったかい恰好で街中の公園や水辺を歩いてみませんか。案外すぐそばに色々な自然が見つかると思います。

ジョウビタキ…スズメ目ヒタキ科の小鳥。尉鶲と書く。小形でスズメぐらい。冬、野原・田・畑などに多く、美しい。黒い翼に大きな白斑があるので俗にモンツキドリともいい、また、人を恐れないのでバカビタキなどと呼ぶ。馬鹿鳥。参考文献 広辞苑

◇戸神川防災調節池白鳥情報…
 1月18日 オオハクチョウ1羽
   20日  0羽



   
   文中に出ている小鳥ジョウビタキの姿

 団地内のモニュメント
 (考える人もどき…私が勝手に名づけました)

   

2014
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◎1月28日、2月散策会の下見で船橋大神宮に行ってきました。境内には、数台の消防車が止まっていて消防士もたくさんいました。聞いてみると県有形文化財「灯明台」の消防訓練の準備中ということでした。
 訓練は枯れ草や立ち木から出火、延焼の恐れありとの想定だそうです。午後の一斉放水の後、灯明台に入れると消防士の方が言っておりましたが、時間がとれませんので神社を退出しました。

 『この鳥、なあに?』
◎先日横浜にある舞岡公園に行ってきました。横須賀線戸塚駅から江ノ電バスに乗って終点の京急ニュータウンで下車。
こんもりとした森や谷津を生かして公園が作られていました。公園内にはいくつかのお勧め散策コースがあり、あちこちにコースマップの案内板も立っていました。
 園内に点在する池と水田を巡るコースを木々や林縁に見られる野鳥を探しながら1時間半ほど歩きました。そのあと谷津の奥にある瓜久保の家で弁当を食べていた時、林のなからら野鳥の声(?)が聞こえてきました。
 一緒にいた人が「アカゲラ?」とつぶやきました。
確かにキツツキ科のアカゲラの鳴き声に聞こえました。しかし、ちょっと経ってから「リスじゃないか?」と先ほどつぶやいた人が言いました。
 「キョッ、キョッ」のアカゲラそっくりの鳴き声に「ブオー」という吠え声が聞こえてきました。
 鳴き声のする先に目を向けると何頭ものリス(タイワンリス)が激しく動き回っている姿が見えました。鳴き声はこのリスの群れから発せられていました。

・その後、瓜久保池のほとりに設置されていた河童像を見てから、明治学院大学側に下り、水田沿いに地下鉄舞岡駅に向かいました。すると駅手前の十字路付近に立っている電柱の上に黒っぽい鳥の姿が見られました。
 さっそく写真を撮りましたが何の鳥か分からず、帰宅してから図鑑で調べましたら「ハッカチョウ」という鳥でした。
 本州にいないはずの鳥がなぜかこの辺りで見られるようです。
 飼い鳥のかご脱けなのでしょうか。ご存知の方教えて下さい。


   電柱に止まっていたハッカチョウ
   

  樹上を動くタイワンリス
   

ハッカチョウ…ムクドリ科の冬鳥または旅鳥。台湾に生息しているので、沖縄県に渡来する可能性はあるが、関東地方などでの記録はかご抜け鳥である可能性が強い。体全体が黒く、額の前方に冠羽がある。全長22センチ (山渓ハンディ図鑑 日本の野鳥参照)

◇戸神川防災調節池白鳥情報…その後、オオハクチョウ1羽(成鳥)が確認されている。


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◎今日2月3日は節分、明日は立春、暦の上では春ですが、まだまだ寒さ厳しい季節です。巷ではインフルエンザ、ノロウイルスが騒がれています。くれぐれもお体に気をつけて下さい。

 『石尊様(せきそんさま)』
◎一年ぶりに訪れたS地区の様子は大きく様変わりしていました。特にこの数年市内あちこちの谷津や雑木林が開発の波にのまれていますが、この地もまた同様でした。
 地元の人が石尊様と呼んでいるA神社は、田んぼを埋め立てた造成地と産廃か何かのゴミが積み上げられたた山に囲まれているように見えました。ブルドーザーの轟音が鳴り響き、まるで開発という嵐の波間に漂う島のようでした。

・街道沿いに立つ高さ7メートルの鳥居をくぐり800メートルほど歩くと神社に着きました。急な石段を上った境内には、拝殿と幣殿、鞘殿などが建ち並んでいました。また、拝殿の左側からさらに石段を上ると奥殿に着きます。ここ奥殿には、「世直し石尊」という奇怪な青石が御神体として祀られているといいます。(A神社の由来書きより)また、鬱蒼とした森に囲まれた境内には、銀杏、サワラ、イヌシデやムクなどの巨木が並び立っていました。どの樹も何百年もの間、鎮守として親しまれていたこの地を見守ってきたことでしょう。これらの木々たちは、周囲の開発により裸同然になってしまった鎮守の森の様子に憤りを感じているのではないでしょうか。小山の中段にある石碑群を一通り見てから石段を下りました。

・石段下の窪地には古井戸と池がありました。池は湧水とみられ、以前はこの水を利用し稲作がおこなわれていたと思われました。今では用無しになってしまった湧水池や荒涼とした造成地(埋め立て地)を眺め、むなしさと怒りを感じるのは私だけでしょうか。ふと見ると池と反対側の場所に木造のお堂が建っていました。間口が4~5間、板の間のオープンスペース中央には木造(?)不動明王が安置されていました。きっとこの不動明王も私同様に怒っているのかもしれません。
 写真右は、奥殿、及び奥殿の瓦の神紋、石段下の湧水池の写真です。
奥殿の瓦の紋…ネットの家紋の由来及び家紋図鑑で検索した結果、棕櫚紋又は羽団扇紋と思われます。どちらも似ているが発生は別とありました(web家紋図鑑)。
 使用神社の例などを見ると羽団扇紋かと思われますが決め手になりません。どなたか教えて下さい。

◇戸神川防災調節池白鳥情報…特に変化ないと思われます。オオハクチョウ成鳥1羽




   

   

   

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2 10

◎16年とも20年ぶりとも言われる大雪が降りました。2月8日夜半から強風を伴った積雪のため、9日朝はどこもかしこも真っ白の銀世界でした。見た目はいいのですが、交通網が遮断されたり停電(私の所は大丈夫でしたが)になったりと大変だったと思います。そんなわけで私は9日の午前中はずっと雪掻きをし、午後は疲れて寝てしまいました。皆さんのところの状況はいかがでしたか。

 『大雪!』
◎関東を襲った低気圧の影響で2月8日から、深夜にかけて記録的な大雪になりました。自宅の団地の建物の通路(6階)も場所によっては30センチくらいも雪が積もっていました。まず、建物内の通路の雪掻きをしてから、管理組合の理事さんと相談し、各階の皆さんを誘って団地内の通路や駐車場、駐輪場、エントランスなどの雪掻きをしました。暮れに配布されていた雪掻きシャベルや個人持ちのシャベルなどをフル活用、およそ3時間近く作業をして、どうやら人や車が通れるようになりました。それでも団地の外の道路は雪でいっぱいです。車も時速5キロ位で走っていました。何より次の朝の凍結が心配ですね。

・今日(10日)、千葉市にある実家から屋根の雪下ろしのヘルプコールがあり、駆け付けられないため、ネットで便利屋さんを見つけて依頼しました。色々と大変ですね。

☆戸神川防災調整池白鳥情報…2月10日 オオハクチョウ10羽(成鳥)になる Uさん情報


 本日雪の影響か戸神川防災調整池に白鳥が沢山いますといつも白鳥を見守っていただいているUさんから連絡が来ました。なんと10羽になったとのことでした。もしかしたら北帰行が近いのかもしれません。
※写真下は、Uさん撮影の雪の中の白鳥(2月9日)と10羽になった白鳥(10日)の写真です。
   

◆45年ぶりの大雪…東京都心は、8日深夜に27センチに達し30センチを記録した1969年以来45年ぶりの大雪という。千葉市でも9日未明に33センチに達した。雪に慣れない首都圏では、転倒事故などが相次いで千葉県内でも死者2人、負傷者154人という。皆さん外出の際には慌てずに時間のゆとりを持ちましょう。外出時は滑りにくいゴム靴で転倒に備えて手袋や帽子を身に着け、歩幅を小さく体の重心を前にして歩く。(朝日新聞2月9日紙面より)



 
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 『悶々日記』
◎2月の2回目の散策会は船橋市の市街地にある大神宮と太宰治の居住地跡を巡りました。雪が歩道にまだ残っている中、総勢37人まず訪れたのは大神宮でした。正式には意冨日神社(おふひのじんじゃ)といわれる船橋大神宮は江戸期の重要な道である行徳道(ぎょうとくみち)、上総道(かづさみち・千葉街道)、成田道(なりたみち)のスタート地点に位置しています。ずっと昔から交通の要衝として栄えていた船橋宿に位置してきた神社も江戸末期の戊辰戦争では官軍の戦火を浴び本殿社殿等すべてが焼失し、現在の建物はその後の再建といいます。境内にある奉納相撲の土俵(漁民らが家康に子ども相撲を見せたことから始まったという)や弾傷けやき(官軍の砲火に耐えたというケヤキの木)を見学して、その後やはり明治になって建設した灯明台を見学しました。高さ14メートル、3階建て1、2階は和風、3階は洋風作り。光源は石油ランプ3個、錫製の反射鏡をつけているといいます。

・大神宮を見学した後、旧幕軍兵士の墓のあるJ寺に寄ってから、もう一つの見どころである太宰の居住地跡に行きました。この地に建っていた新築借家に太宰は昭和10年7月に転居、次年度10月まで1年3カ月間滞在したのでした。ここから太宰が歩いたという道を通って少し進むと海老川に架かる九重橋に着きました。この橋は(太宰橋)とも呼ばれているようで、橋げたに太宰の小説の作品(イメージ絵)が幾つも銅版レリーフで取り付けられていました。特に橋中央の左右に代表作「走れメロス」の一文と太宰の顔のレリーフが設置してありました。ここでスタッフSさんによる船橋時代の太宰の解説があり、参加者皆、太宰の過ごした昭和初期の船橋の地に思いを巡らせることができました。特に今回の解説では太宰の「悶々日記」の紹介があり、皆さん興味深げに聞き入っておりました。

悶々日記…太宰治(明治42年6月19日、青森県金木村に生まれる。昭和23年6月13日、山﨑富栄と玉川上水に入水、19日遺体発見)は、日記をつけなかったといわれているが、借金とモルヒネ中毒で苦しんでいた船橋時代に、十五日間だけ書いています。日付は書き込まれていません。参考文献 インターネットの図書館青空文庫・文中に出ているSさん作成の資料


・午後はオプションで市内中央公民館広場前に設置されている太宰文学記念碑と太宰が手植えしたといわれるキョウチクトウとアオギリ(どちらも居住地から移植)を見ました。

   太宰文学記念碑
   


  九重橋の上で解説に耳を傾ける参加者
   

◇戸神川防災調整池白鳥情報…
 2月9日 10羽、2月10日 0羽、
 2月14日 2羽 2月15日~0羽 
      (すべてUさん情報)
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『脱走様』
◎江戸城無血開城が決定、それに不服を抱いた恭順反対派は江戸城を脱出しました。福田八郎右衛門率いる撒兵隊1500~2000人は、船に乗って木更津に本陣を置き、徳川義軍府と称しました。木更津から北上した江原鋳三郎(素六)率いる撒兵隊第一大隊が市川法華経寺に、堀岩太郎の第二大隊は船橋大神宮に本陣を置いたのです。慶応4年閏4月3日早朝より八幡から戦闘が始まり、馬込沢、船橋と広がっていきました。午前中は旧幕軍優勢で始まった戦闘も午後には圧倒的兵力を持つ新政府軍の攻撃で撒兵隊は散り散りになって敗走しました。この戦闘で船橋大神宮の全て及び船橋宿のほとんどが炎上壊滅してしまったのです。

・戦闘後、政府軍は官軍の戦死者の遺体はすぐに引き取って供養埋葬したのですが、旧幕軍(脱走軍)の遺体は、見せしめのため埋葬供養を禁止、野ざらしにせよとの命令を出したといいます。しかし、船橋ではこの命令にも関わらず、戦死した旧幕軍兵士(脱走兵)に対し「脱走様(だっそさま)」と敬称をつけ、戒名をつけたり、墓石を立てたりしました。(今でも供養を続けているところもあります。)しかし、これらの例はやはりごく少数で、よほどの覚悟で行ったものと思われます。それは、船橋が将軍家直轄の地であったこと、江戸にかかわり(経済的にも文化的にも交通の面でも)の深いこと、そして死者は敵味方の区別なく供養し浄土に送るという仏教思想(怨親平等)に基づくものと思われます。
※参考資料 千葉県歴史教育研究会地域実践資料「幕末の戊辰戦争」

・現在、脱走様の墓は船橋に8基確認されています。(内、1基は復元された墓。1基は民間の墓石に幕臣の戒名が刻まれている墓)大神宮の近隣に3基が確認されており、今回はT寺とR寺にある脱走様の墓を見てきました。T寺の墓は墓地の奥にひっそりと半分以上地中に埋もれ忘れ去られているように立っておりました。R寺の墓は立派な鐘楼の石垣の階段下に立っていました。こちらは墓石の文字もはっきりしていました。当時の船橋宿の人々の脱走様のに対する思いを考えつつ寺を後にしました。


   R寺の脱走様の墓石の写真
   
        墓石の右面に徳川家臣の字が見える

戊辰戦争…・1868年慶応4年1月3~4日 鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争開始)で幕府軍敗北。徳川慶喜江戸に戻る。 ・4月11日、新政府軍江戸入城 ・閏4月3日、市川・船橋戦争 ・閏4月7日、五井・姉ヶ崎戦争 ・5月3日、上野彰義隊の戦 ・8月23日、会津藩戦争 ・1869年明治2年5月18日 榎本武揚ら降伏(戊辰戦争終結)


☆戸神川防災調節池白鳥情報…
 2月15日 ≪北帰行≫ Uさん、Sさんを初めとして、今季白鳥を見守ってくれた方々ありがとうございました。


  ◇◆  俳 句   ◆◇
   船橋市在住  Iさん
 ・草木瓜の 蕾ひとつや 雪の中
※大雪でも季節は確実に進んでいるようで
 ・まほろばを求めて一歩いぬふぐり 
     ( 川 柳 )
 ・立春のあとの大雪やつねのこと
※受験生に気の毒何とかすればと思います。

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◎昨日3月3日ひな祭りの日は、耳の日でもありました。3(み)3(み)の語呂合わせですね。この日はヘレンケラーがサリバン女史から三重苦(見えない・聞こえない・話せない)を克服するための指導を初めて受けた日だそうです。五感の大切さをしみじみ思います。

 『結縁寺 けちえんじ or けつえんじ?』
◎結縁寺谷津散策コースの下見に行ってきました。NT中央駅からぶらぶらと歩き、多々羅田公園を過ぎるといわゆる里山エリアとなります。道も狭く曲がりくねって、昔からの道ということがすぐわかります。道端には庚申塔や道祖神が幾つもあり、墓地やお堂も見られました。

 冬枯れの畑を越えると斜面林が広がっています。先日の大雪で樹木の枝が折れたり、竹が途中から裂け大きく曲がっているものなど沢山見られました。ふと気が付くとスギの木は一斉に赤茶に変わっています。スギ花粉が飛び始めている証拠です。マスクをしてもくしゃみに鼻水、おまけに目が痛痒く花粉の時期到来を感じました。

・お寺につくと境内に見事な満開の梅の花が見られました。このお寺は奈良時代初期、行基によって創建されたという「結縁寺」です。

 本堂には国重要文化財指定の「銅造不動明王立像」が安置されている名刹です。真言宗の本寺の名は、晴天山西光院結縁寺(けちえんじ)といいます。名の由来は、平安時代春秋二度「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」という仏縁を結ばせる儀式を行ったことからだといいます。

 寺の名は「けちえんじ」、しかし現在の地図の地名表記は「けつえんじ」。地元の人は地区名も「けちえんじ」と呼ぶようです。最近日本の里地100選に載ったことから訪れる人が増えたといいます。ところで皆さんは、「けちえんじ」・「けつえんじ」どちらで呼びますか?

◆結縁寺の不動明王…鎌倉時代後期の造像とされ、大正3年に国重要文化財に指定。国指定文化財の中にはこのような銅造の不動明王は全国で3体しかないという。他の2像は、京都と福島だそうです。



   
   安政2年発行の利根川図志の挿絵にも載っている銀杏

   

   コンクリート張りの川 以前は素掘りの素敵な小川だった・・・


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